太田述正コラム#15012(2025.6.17)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その45)>(2025.9.12公開)
「・・・前202年・・・の2月、・・・劉邦は皇帝位に即<き>・・・異姓の功臣や同姓親族をあらためて王国・侯国に封建した。
前196年、高祖は、・・・各王国・侯国については、毎年年頭の10月、皇帝に朝見して貢献物を貢納すること、直轄郡についてはその人口数に63銭を乗じた銭額を賦として中央政府に貢納することを命じた。・・・
この支配体制を郡国制とよぶ。・・・
高祖は、・・・前195年3月の詔勅で、・・・天子<(注37)>を自称した。
(注37)「王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。
周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば[易姓革命<によって>]新たな家系が天命により定まる」という天人相関説が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。
[天子は,天の息子として天を祭る権利と義務とをもち,他の者は直接に天を祭ることが許されない。]
秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された「皇帝」へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代に至り儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%90
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E5%AD%90-102318 ([]内)
高祖は、始皇帝が排除した天子号を正式に復活させたのである。
これ以後、清朝にいたるまで、歴代皇帝は、天下を支配する王権の称号として、皇帝とともに天子号を併用するようになる。・・・
⇒始皇帝は、何物にも制約されない、徹底した皇帝独裁制を追求したのに対し、劉邦は、早くも儒教に対するリップサービスを開始したわけです。(太田)
匈奴<の>・・・前3世紀末の冒頓単于<を>・・・討つために・・・前200年、高祖は・・・親征したが、白登山(山西省大同市東北)で大敗し、屈辱的な和議を結んだ。
文帝の時代にいたるまで、漢は、毎年黄金や高級織物を匈奴に貢納して臣従を示していた。
文帝の末子梁王劉勝の太傅(守り役)であった賈誼<(注38)>(前201~前169年)は、この状態を「倒懸(逆さ吊り)」とよ<んでいるが、同時に、>・・・「いま漢は・・・厚き徳によって四方の夷狄を懐柔するほうがよい」・・・と述べている。」(82~85)
(注38)かぎ。河南郡雒陽県[・・<現在は、>河南省洛陽市に位置する市轄区。・・]の人<で、>・・・18歳にして『詩経』・『書経』を論じ、文章が優れて<おり、>・・・漢の制度に関して、儒学と五行説にもとづいて「正朔を改め、服色をかえ、法度を制し、礼楽を興す」べきことを主張した。そうした賈誼を、文帝はさらに公卿にしようとしたが、紀元前176年、それを嫉んだ丞相・・・らの讒言により、長沙靖王呉著の太傅として左遷させられてしまう。
任地に赴く途中、屈原を弔った賦が『文選』にも収録されている「弔屈原文」である。3年余りにもわたる左遷生活であったが、紀元前174年、文帝は賈誼のことを思い出し、長安に召して鬼神のことを問う。その答えが上意にかなうものだったため、ふたたび信任され、もっともかわいがっていた末子の梁懐王劉揖の太傅となった。
ちょうどこのころ、漢朝にとって諸侯王国は大きな脅威となり、匈奴も辺境を侵略しつつあった。そうした多様な社会問題に対し、賈誼も対策を上奏している。今日「治安策」と呼ばれているのが、それである。・・・
紀元前169年、梁懐王劉揖が落馬して亡くなったことを悼み、翌紀元前168年に賈誼自身も憂死した。享年33。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%88%E8%AA%BC
⇒周の都であった洛陽
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD%E5%B8%82
出身の賈誼は、漢の歴代皇帝が当然反秦であること、とりわけ、仁とは無縁で儒者を弾圧した始皇帝を嫌悪していること、に付け込み、彼らに対し、見せ金としての仁、ひいては儒教を売り込んだ諸人物の一人なのであって、軍事重視など当たり前であったところの、春秋時代の人間であった孔子が軍事に関することなどわざわざ語ろうとしなかったことから孔子を誤解し、軍事を軽視し、「夷狄<は>懐柔するほうがよい」などという寝言を唱えることで、墨家の思想の漢における堅持に、ということは倒懸的なことの永続にも、貢献してしまった諸人物の一人でもあるわけです。(太田)
(続く)