太田述正コラム#15016(2025.6.19)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その47)>(2025.9.14公開)
「・・・前121年から前105年ごろを頂点とする対外拡張戦争が連年にわたると、腐るほどあった歴代の蓄積財物が底をつき、漢の中央財政は破綻した。
武帝は、財政破綻に対応するため、斉の塩商人である東郭咸陽<(注41)>や洛陽の商人の子桑弘羊<(そうくよう)(コラム#13798)>などを官僚に登用し、前119年に塩と鉄器の専売制を実施した。
(注41)?~?年。BC118年に任官し塩鉄専売制実施。BC111免官。
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E4%B8%9C%E9%83%AD%E5%92%B8%E9%98%B3
⇒「文帝2(前178)年と同 15年に賢良,方正の士の推挙が始められたが,文学についても同じ頃始められたようである。これは諸侯王や中央,地方の長官に対して,賢良,方正,文学に該当する有能者を推薦させる制度<だった。>」(コラム#13810)ところ、東郭咸陽や桑弘羊は、この制度により、登用されたと考えられることから、九品官人法のはしりは、前漢の文帝の時にまで遡ることになります。(太田)
また貨幣の改鋳や各種の増税をおこなって、貨幣の盗鋳者や脱税者を民衆に告発させた(告緡令<(注42)>)。
(注42)「算緡<(さんびん)は、>・・・前漢の武帝時代の財産税の一種。武帝は財政の不足を補うために,元狩4 (前 119) 年商工業者に対する申告制の特別財産税を課した。これは一般の財産税が1万銭につき 120銭 (1算) であったのに対して,商人は 2000銭に1算,製造業者は 4000銭に1算,しかも隠して申告しなかったり,申告漏れがあれば,1年間辺境に屯戍させ,申告漏れの財産を没収するというものであった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AE%97%E7%B7%A1-71358
「しかしこのきびしい規定にもかかわらず徴税の実が上がらなかったため,元鼎3(前 114)年揚可の建議によって・・・告緡<制、すなわち、>・・・密告制を奨励し,密告者には没収財産の半分を与えることにした。このため多くの人が密告され,破産したと伝えられる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%91%8A%E7%B7%A1-64177
これらの専売・増税政策と密告制度によって、中産層以上の農民・商人が没落し、外征と刑罰適用の拡大によって人口は半減したという・・・。」(91)
⇒武帝は、現代語訳すると、「秋の風が吹いて、空には白い雲が流れていく。木々の葉は黄色く色づき、やがて散っていき、雁たちは南へ帰っていく。蘭は美しく咲き、菊は芳香を放っている。私は、そんな蘭や菊のようにすぐれた者を思い出して忘れられない。私は楼船を浮かべて汾河を渡る。川の真ん中を横切って、白い波を立てながら進む。笛や太鼓が鳴り響き、舟歌が船上に響く。だが、楽しみが頂点に達すると、ふと悲しみがこみ上げてくる。若さはいつまで続くというのか。老いにどう向き合えばよいのか──。」という「秋風辞」という詩を詠んだとされている
https://chinesepoem.tensuisen.com/butei-shuhuji/
人物なので、始皇帝のような人格破綻者(普通人)ではなかったけれど、国家統治思想は始皇帝のそれを完全に継受しており、財政を無視した対外拡張戦争を連年にわたって行うという、軍弱ぶりをいかんなく発揮し、人口・・正しくは登録人口ということだろうが・・を半減させるという超のつく苛政・・これも緩治の範疇に属する・・をやってのけたわけです。
しかも、武帝の先帝で父親の景帝は、「前漢では初めて自身の側近を丞相に任じた<が、>このことは<漢では>従来、皇帝の政策にも制約を加えるだけの権力を与えられていた元勲たちとその一族からのみ任命されることが不文律化していた丞相の権力が、景帝の時代に大きく低下し、逆に皇帝権力が飛躍的に強化されたことを示している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
という次第で、これまた始皇帝的皇帝独裁制が再復活していたこともあり、上記失政を丞相等、部下の責任にするわけにいかず、皇帝一人の責任であることが明々白々であった以上、既に、この時点において、漢王朝の命運は、事実上尽きてしまったのです。(太田)
(続く)