太田述正コラム#15022(2025.6.22)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その50)>(2025.9.17公開)

 「・・・王莽の世紀に現出した古典国制は、天下観念のもとに展開する生民論と承天論<(注48)>を根底的世界観・政治的秩序原理とする国制である。・・・

 (注48)この渡辺本に言及した下掲二例くらいしか、「生民論」や「承天論」はヒットしない。↓
https://note.com/okitsumasanobu/n/n9590eeaaebd9
https://note.com/okitsumasanobu/n/n9590eeaaebd9

⇒「生民論」や「承天論」は、渡辺の造語のようであるところ、その旨、読者に断るべきでしょう。(太田)

 生民論とは、天子=官僚制統治による生民・百姓の秩序化の言説である。
 この考えは、前漢の元帝・成帝・・・(在位33~前7)二代の治世期に顕在化した。
 前12年、成帝に提出した谷永<(注49)>の上疏は、最も簡潔にこの考えを表現している。

 (注49)こくえい(?~BC8年)。「経学の中でも天文,易学に精通し,災異を論ずることを得意とした。前30年に方正直言に推挙され,日食や地震から成帝の失政をいさめたが,他方当時の権力者である大将軍王鳳の執政を弁護して彼の気をひき,光禄大夫となった。太守から大司農を歴任し,その間に40余たび上書して意見を具申したが,成帝からは外戚王氏の与党とみなされ,あまり信任されなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B0%B7%E6%B0%B8-1165704

 それがしの聞くところ、天は民衆を生んだが、民衆は自ら統治することができなかった。

⇒そんなことは漢人社会だからこそであり、漢人の大部分が非人間主義者である以上は和の精神が欠如しているために底辺において近親者/近所同士での自治すら根付かず、また、頂点においても非弥生人であることから皇帝選出等に係る民主制が欠如しており、この限定的な民主制から出発して、その「議題」と「議員の選出員」とを次第に拡大していくことも不可能だった、ということなのです。(太田)

 ために天は王者を立て、かれらを統治させたのである。
 あまねく海内(天下)を統治するのは天子のためではなく、領土を設けて奉献するのは諸侯のためではない。
 みな民衆のためである。
 人統・地統・天統の循環する暦法を設け、それに対応する夏殷周三王朝を交替させ、無道の天子を除き有徳の天子に委ねて、天下を一姓の私有物としなかったのは、天下はすなわち天下の天下であって、一人の天下ではないことを明らかにするものである、と。(漢書』谷永伝)。・・・
 この生民論の前提にあるのが「承天」の世界観である。
 それは、天命をうけた天子・皇帝が北極星・太極を中心に整然と回転する天の秩序をわがものとし、宗廟・郊祀の祭儀体系を中核とする礼楽制度と三公九卿を中心とする官僚制によって、地上に天下秩序を実現することをいう。・・・
 <ちなみに、>漢代の皇帝は、後世の皇帝とは異なり、みずから詔勅を書いた。・・・

⇒これは、いささか驚きです。
 というのも、漢の高祖の劉邦は、「中年期まで・・・まともな読み書きも身につけないままであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%82%A6
というのですから、ほぼ、皇帝になってから、死にも狂いで勉強して「まとも」に「読み書き」を「身につけ」、詔勅を書けるようになった、ということになりそうだからです。(太田)

 <この>承天の思惟は、前漢武帝期以後、天地自然と人間社会とが相互に深く関連するという、天人相関説<(コラム#13804)>を説く董仲舒<(コラム#1380)>らによって言及されはじめ、元帝・成帝期には多くの官僚が言及するようになった。」(110~112)

⇒天人相関説など単なる迷信であるところ、いずれにせよ、それが、皇帝の独裁権力に実質的に制約を加えるものとはいかなる意味においても言えなかった、というのが私の見方です。(太田)

(続く)