太田述正コラム#15096(2025.7.29)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その18)>(2025.10.24公開)
「要するに、唐朝の威光が衰え「一君万民原理を掲げる国づくりの論理」の箍が緩んだこの時期、士大夫や宦官、藩鎮、さらには反乱に身を投じたアウトローたちも、みな「幇の関係」を拡張し、それに依存することで、生き残りを図るようになったのである。
黄巣の乱を決着に導いた(884)のは、反乱軍の武将朱全忠<(コラム#13858)>の唐朝への帰順と、突厥系の沙陀族の首領李克用<(コラム#13712)>(856~908)率いる騎馬軍団の軍事力だった。
その軍功により、「船の世界」から身を起こした前者は汴州(べんしゅう)(開封(かいほう))の、「馬の世界」をけん引する後者は并州(へいしゅう)(太原)の節度使にそれぞれ任命され、その後の政局においてしのぎを削っていく。
政争は朱全忠の優位で進んだ。
彼は権力掌握の過程で宦官と門閥貴族の大虐殺を行い、唐代史の主役だった両勢力を政治の舞台から退場させた。
そして、907年、彼は唐の昭宣帝に迫り、ついに帝位を簒奪する(太祖。在位907~912)。
唐帝国の300年の命脈はここに尽き、梁(後梁)が建国されたのである。」(93~94)
⇒唐末期の諸皇帝を振り返ってみると、19代の宣宗(810~859年。皇帝:846~859年)は、「その治世に一定の成果を挙げたため、小太宗と呼ばれているが、・・・晩年になると道教に耽溺し、不老長寿を求めるようにな<り、>・・・丹薬による中毒症状で50歳にして崩御し」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%AE%97_(%E5%94%90)
この宣宗の長男で20代の懿宗(いそう。833~873年。皇帝:859~873年)は、「酒色に没頭したまま政務を放棄した。即位後は宦官に朝政を一任し、その在位中には藩鎮の割拠とあいまって農民反乱が多発した。・・・仏教を信奉した懿宗は咸通14年(873年)春、大臣の反対も聞かず、莫大な費用をかけて仏骨を迎える行事を強行した。・・・著墨、つまり朝廷の捺印も経ていない便法的な売官が懿宗の治世に盛んだった<し>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BF%E5%AE%97_(%E5%94%90)
この懿宗の五男で21代の僖宗(きそう。862~888年。皇帝:873~888年)は、「12歳で宦官たちに擁立されて即位した。在位期間中は宦官の田令孜に朝政を一任し、自らは享楽に耽った生活を送った。特に馬球を好<んだ。>・・・。在位中は連年自然災害が続き、民衆の生活が困窮していた。乾符元年(874年)、濮州で王仙芝が叛乱を起こした。また翌年には黄巣も冤句で決起、後に両者は合流し、大規模な農民叛乱(黄巣の乱)となる。・・・戦乱が収まった光啓4年(888年)2月、僖宗は長安に帰還したが、朝政の実権は宦官の楊復恭が掌握していた<し>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%96%E5%AE%97
懿宗の七男で、僖宗の弟にあたる22代の昭宗(867~904年。皇帝888~904年)は、「当時唐の実権を掌握していた宦官の楊復恭により擁立された。即位当初は藩鎮が農民反乱の平定に乗じ、勢力を拡大していた時代であった。昭宗は軍事力の増大による朝廷の支配権の再興を計画したが、藩鎮の猜疑心を生み、鳳翔節度使の李茂貞の叛乱を引き起こした。混乱の中、光化3年(900年)11月には劉季述ら一部の宦官勢力がクーデターを起こしたために昭宗は退位に追い込まれ、皇太子李裕が新皇帝に即位した<が>、天復元年(901年)正月には別勢力の宦官らが蜂起し、昭宗は皇帝に返り咲いた。反乱軍が長安に迫ると、宦官の韓全誨は鳳翔への逃亡を進言した。天復3年(903年)、李茂貞は韓全誨と張彦弘を殺害し、官軍の朱全忠と和議が結ばれ、叛乱は終結、昭宗は長安へと帰還した。その後、李茂貞は朱全忠により失脚させられ、朱全忠が最大藩鎮として勢力を振るうようになった。朱全忠は自らが皇帝に即位する準備として内廷の宦官5千人余りを殺害し、地方の監軍の任に当たっていた宦官も処分した。天祐元年(904年)正月、朱全忠は大臣らの反対を押し切って洛陽に遷都した。李克用・李茂貞・王建などが朱全忠に反旗を翻した。天祐元年(904年)8月11日夜、昭宗は朱全忠に派遣された・・・兵によって暗殺された<が、>宮中を逃げ回った末に殺されたといわれている<し>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%AE%97_(%E5%94%90)
この昭宗の九男の23代の昭宣帝(哀帝。892~908年。皇帝:904~907年)は、「朱全忠により擁立された<が、>、禅譲のためだけに即位させられたに過ぎず翌905年2月には・・・自身の兄弟9人が朱全忠の開いた偽りの宴会にて殺害されると、さらに6月には貴族層であった唐の朝臣も粛清された(白馬の禍)。こうして朝廷を完全に掌握した朱全忠により、907年に哀帝は朱全忠への禅譲を余儀なくされた。こうして唐王朝は滅亡した。禅譲後は朱全忠により後梁の済陰王に封じられたが、翌908年に後難を恐れた太祖朱晃(朱全忠より改名)によって曹州の済陰宮で毒殺された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%80%E5%B8%9D_(%E5%94%90)
という次第であり、19~21代の3名の諸皇帝の連続した体たらくのせいで唐の滅亡は確定したところ、22、23代は余計な存在でしかなかったといったところでしょうか。(太田)
(続く)