太田述正コラム#15152(2025.8.26)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その46)/古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その1)>(2025.11.20公開)
「他方、中間団体に当たる村やギルドは法共同体として自律・完結していないため、人びとはこれらに我が身を任せきってしまうことができない・・・。
とりわけ宋代以降になると社会的流動性には、垂直方向(官僚身分の非世襲化、家産均分慣行による零細化圧力)と水平方向(居処・生業の選択規制が弱く、移動が頻繁)がそれぞれあるが・・・、「垂直方向の不安定さを、水平方向のリスク分散でカバーする」という戦略が有力視された・・・。
そして中間団体が危機管理を担えない状況下にあって、人びとを支えたのが「幇の関係」だった。
人びとは、朋党・郷党・任意団体や秘密結社など、それぞれが置かれた境遇に応じて信頼の置ける仲間をたどり、我が身の保全を図った・・・。
<この4点>は、いずれも日本や西欧の歴史展開との対称性が際立つものばかりであ<る>・・・。」(179~180)
⇒対称性が際立つ点を指摘しているだけで、丸橋が列挙する対称性の原因であるところの、軍事軽視、等、に触れられていない以上、こんなものは落第答案でしかありません。(太田)
(完)
–古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その1)–
1 始めに
引き続き、同じ「シリーズ」の4巻目に相当する表記をシリーズで取り上げます。
著者の古松崇志(ふるまつたかし。1972年~)は、京大文(史学)卒、同大学院修士、同大院博士後期課程を退学、同大助手、同大博士(文学)、岡山大准教授、京大人文科学研究所准教授、教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%9D%BE%E5%B4%87%E5%BF%97
という人物です。
上記ウィキペディアを読み、京大の支那史学者達によるこの「シリーズ」の漢語版が中共で出版されていることを知り、私より一世代後の日本人の支那史学者達が、彼らの中でそういうことを支那でしてもらえる最後かもしれない、と、思ったりしました。
2 『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む
「西アジア起源の麦の農耕と羊の牧畜は、紀元前六千年紀には中央アジア一帯へ伝わったが、最初は定住生活が一般的であった。
このころ地球の気候は現在よりも温暖・湿潤で、中央ユーラシア北部には広葉樹林が茂っていた。
それが進展し、現在のような草原・半砂漠へと変貌し<(注1)>、ユーラシア東西をつなぐ草原地帯が形成された。」(5)
(注1)「水循環システム研究の第一人者である東京大学生産技術研究所教授の沖大幹氏によれば、世界の四大文明はむしろ大河の河口付近の比較的乾燥した地域に生まれたの<です。>・・・<また、>エジプト文明、インダス文明、メソポタミア文明、黄河文明、これらの古代文明が発生したのは、いずれも地球規模で見れば必ずしもトップクラスの「大河川」<流域>とは言えないと、沖氏は語ります。・・・
さらに意外なのは、これらの古代文明発祥の地は決して雨量は多くないということです。沖氏の調べでは、川の上流では雨がよく降りますが、河口付近はそうではなく、上流からの水を利用するために灌漑設備を整えなければならず、そのために灌漑農業が発展したということです。これが四大文明に共通して見られるパターンなのだそうです。最初から居ながらにして豊かな水に恵まれていたのではなく、手に入れた水資源を工夫して使うことで、独自の文明を発展させてきたということです。・・・<つまり、>水が豊富なところ、降水量の多いところと人口密集地域は必ずしも一致していないということです。大量の雨が降れば、むしろ病害虫やそれらが引き起こす伝染病が心配されます。また、舗装された道路などない時代ですから、降水量が多いことは交通経路という観点で考えれば、決して有利な条件ではなかったのです。
昔は大量の荷物は船で運ぶ以外に手段はなく、水路がすなわち交通機関でした。ですから、日々の生活に直結する水路を維持できるところに人々は集まったのです。こうして、豊富な雨は水路という形で活用されてはじめて文明に貢献したと言えます。やはり、水の恵みをあるがまま受け取るのではなく、水を使いこなす技術の追求が文明を発展させたわけです。」
https://10mtv.jp/pc/column/article.php?column_article_id=1105
⇒文明(都市文明)の誕生と草原、ひいては遊牧文化、の誕生、とが双生児だったというのは啓発的ですね。
なお、ここには戦争は直接関わっていませんが、戦争同様、この双生児的な動きもまた、人類が実存的危機に対処せざるを得なくなった産物である点では共通しています。(太田)
(続く)