太田述正コラム#15154(2025.8.27)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その2)>(2025.11.21公開)
「中央ユーラシアの草原地帯で、毎年かなりの距離の移動を必要とする遊牧が広がるのは、馬の騎乗技術の普及と密接な関係がある。
それは紀元前9世紀あたりまで待たねばならない。・・・
馬車は紀元前二千年紀前半に西アジアで普及し、兵士が乗る戦車としても用いられた。
戦車は家畜化した馬とともに、紀元前14世紀には中国まで伝播した。
馬と戦車の使用は、長距離にわたる軍事行動を可能にし、各地で王権の及ぶ空間規模の拡大をもたらした。
騎乗技術の普及は、戦車に比べるとかなり遅れる。
西アジアでは紀元前10世紀、中央ユーラシア草原地帯では紀元前9世紀以後になると、騎乗を示す考古資料が増えてくる。・・・
高度な技術に裏付けられた騎馬遊牧民の登場は、人類史の長いスパンでみると比較的新しい現象である。
それは、農耕が困難な草原での食糧生産を可能にし、人類の生活圏を拡大する意味を持っていた。
こうして、紀元前9世紀以後、中央ユーラシアでは、北方の草原地帯を中心とする遊牧民と南方のオアシス周辺を中心とする定住農耕民という、対象的な生業をいとなむ人間集団が並存するようになり、以後20世紀初頭までその状況がつづく。・・・
遊牧民は交易や掠奪などをつうじて、オアシスなどに居住する定住農耕民や都市商工民から物資を取得した。
つまり、遊牧という生業は単独では成り立たず、定住農耕民あるいは都市民という他者の存在をもとより必要としたのである。・・・
アジア史研究では、ここ20年あまりのあいだに、・・・「中央ユーラシア史」という歴史研究の枠組みが定着している。
中央ユーラシア<(注2)>は、もともと1960年代にデニス<・シノール(注3)>というヨーロッパ人研究者によって提唱された空間概念だが、中央ユーラシア史の歴史研究としての内実は、モンゴル帝国史研究をはじめ、おもに日本の研究者によって深められてきたものである。」(5~8)
(注2)「中央ユーラシアとは、ユーラシア大陸の中央部分に広がるウラル・アルタイ系の諸言語を用いる諸民族が居住する地域を広く指す、地理的というよりは文化的な地域概念である。・・・
これらの地域の特徴は歴史上、ツングース、モンゴル、テュルク、フィン・ウゴルなどのウラル・アルタイ系の諸言語を話す人々が歴史的に重要な役割を果たしてきたことである。古くは遊牧民、新しくは定住民としてウラル・アルタイ系の人々に様々な文化的影響を与えたイラン系の人々もこの地域の重要な構成員である。また、彼らはロシア人や漢民族などの周辺の大民族と密接に関わってきた。
文化的な概念ゆえに歴史の展開によって中央ユーラシアとして言及される範囲は柔軟に伸縮する。そのおおよその範囲は、東は東北アジアの極東ロシア、マンチュリア(満洲)から西は東ヨーロッパのカルパティア山脈まで、北はシベリア・北氷洋まで広がり、南は黄河、クンルン山脈、パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、イラン高原、カフカス山脈で区切られた広大な地域を指し、時にはチベット、イラン、南カフカス、トルコなども含められる。
国でいえば、旧ソビエト連邦からバルト海沿岸と北西ロシアを除いたものに、モンゴル国の全域と中華人民共和国の北部および西部を加え、アフガニスタンの北部まで視野に入れたものにほぼ一致する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2
「ウラル語族とアルタイ諸語に共通する特徴としては、膠着語であり、SOV語順(例外もある)、母音調和、人称代名詞の類似が挙げられる。・・・
・ウラル語族<:>サモエード語派<、>フィン・ウゴル語派(ユカギール語族)※ウラル語族との同系説がある
・アルタイ諸語<:>チュルク語族<、>モンゴル語族<、>ツングース語族<、>日本語族※アルタイ諸語に含めない説もある<、>朝鮮語族※アルタイ諸語に含めない説もある・・・
ドラヴィダ語族とウラル語族、アルタイ諸語の間には文法の著しい類似性が存在する。インド・ヨーロッパ語族とウラル語族、アルタイ諸語は一部の形態素が明らかに同源である。・・・
ウラル系民族を特徴づける遺伝子はY染色体ハプログループNである。このタイプは極北を中心に広く分布し、ほとんどのウラル系民族で高頻度に観察される。中国北部を起源とし、遼河文明時代人の人骨から約70%の高頻度で観察されていることから、ウラル語族の原郷は遠く遼河地域まで遡る可能性がある。
アルタイ系民族を特徴づける遺伝子はY染色体ハプログープC2であり、カザフ人、モンゴル人、エベンキ人などで高頻度に観察されるが、ハプログループNも中頻度に見られる集団が多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E8%AA%9E%E6%97%8F
(注3)Denis Sinor(1916~2011年)。「オーストリア=ハンガリー帝国コロジュヴァール(現ルーマニア、クルージュ=ナポカ)生まれ<で>、・・・インディアナ大学中央ユーラシア研究科の中央アジア研究の特別名誉教授であり、1948年から1962年までケンブリッジ大学の終身在職権を持つ講師で、中央アジアの歴史に関する世界有数の学者であった。・・・ハンガリーとスイスで育ち、ブダペストの大学に通った。第二次世界大戦中はフランス抵抗軍の一員としてフランス軍に従軍し、フランス国籍を取得した。」
https://jmedia.wiki/%25E3%2583%2587%25E3%2583%258B%25E3%2582%25B9%25E3%2583%25BB%25E3%2582%25B7%25E3%2583%258E%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25AB%25E3%2581%25AF/Denis_Sinor
⇒古松は、フランス国籍のデニス・シノールを、彼が英語圏で活躍したことから、「デニス=サイナー」と英語読みをしていたのを、邦語ウィキペディアに従って直しておいた。(太田)
(続く)