太田述正コラム#15188(2025.9.13)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その19)>(2025.12.8公開)

 「ところが、・・・1140年、金は再び南侵する。
 ところが、南宋軍から予想以上の抵抗を受け、金軍は退却を余儀なくされる。・・・
<結局、>1142年、・・・金と南宋の第二次和議<(注48)が>成立<する。>・・・

 (注48)南宋では紹興の和議(しょうこうのわぎ)、金では皇統の和議(こうとうのわぎ)。「両国の国境線が定められ、南宋は淮河以北の旧領(かつての首都開封を含む)を放棄することとなった(西側は大散関を境とした)。・・・南宋は金の臣となり南宋皇帝は金から冊封される地位とされ、毎年、銀25万両と絹25万疋を金に歳貢として献じることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B9%E8%88%88%E3%81%AE%E5%92%8C%E8%AD%B0

 契丹・北宋間の対等な名分関係とは異なり、金と南宋・高麗・西夏とのあいだはいずれも君臣関係であり、明確な上下関係があったことに・・・注意を要する。・・・
 いずれにせよ、・・・11世紀ユーラシア東方の多国体制は、若干の変動をともないながら、12世紀にも再現したのである。」(163~165)

⇒丸橋は、朝鮮半島について刺身の褄的にしか言及してくれませんが、新羅は、漢人文明を、「景徳王(在位:742年-前765年)時代に・・・唐の制度・文化の積極的な移入<を>試み・・・、全国の地名を唐式に改め、官庁・官名も唐式に改名<する>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
という形で継受し(コラム#省略)、次いで、渤海に対する安全保障上の要請から唐の冊封国になっています。↓

 「新羅第37代の王宣徳王は、782年閏正月、唐に対して朝貢を行った。勢力を強めている渤海に備え・・・785年正月になってようやく唐の徳宗から<検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王>に冊封されたが、病に倒れてそのまま正月13日に死去した。
 第38代の王元聖王は、・・・786年に唐へ朝貢し、徳宗からは新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書をもらっている。805年、新羅は唐に朝貢及び、冊命の謝恩使の派遣を行い、次の憲徳王も唐に対しては810年10月に王子金憲章を送って金銀製の仏像などを献上したほか、定期的に朝貢を行った。819年7月には唐の鄆州(山東省済寧市)で李師道が反乱を起こすと、兵馬を徴発する憲宗の詔勅に応えて将軍金雄元ら万の援軍兵を派遣している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82

 ここまでは、国として、一つの行き方ではあります。
 しかし、高麗になってから、「<支那>の五代[・・唐の滅亡後に中原を支配した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つ・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3 ]の各王朝から冊封を受け・・・[960年に五代最後の王朝、後周を滅ぼして成立した(上掲)]宋に<も>朝貢・・・した」
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-002.html
ところまでは、新羅の時の唐との関係と同様だったけれど、993年に漢人文明国とは言い難い契丹の属国たる朝貢国にさせられて宋との関係を切らされた時に 高麗としては不本意であったので、1016年に機会を捉えて宋の冊封国へと戻ったものの、1020年に契丹によって再びその属国へと引き戻された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
後は、その後の李氏朝鮮時代を含め、例外的には明のような漢人文明王朝の属国時代もあったけれど、基本的には、支那における、漢人文明王朝とは言い難い、金、元、(やや微妙ながら)清、の各王朝、の属国であり続けることになってしまい、そのために、自らの健全かつ十全な発展を阻害されただけでなく、日本をして東アジアで孤立させてしまうことにもなった、と言えそうです。(太田)

(続く)