太田述正コラム#15204(2025.9.21)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その27)>(2025.12.16公開)

 「「混一」が成ったとはいえ、モンゴル政権では、金国旧領の華北を契丹に由来する「キタイ~キタド」(漢語では「漢地」)、南宋旧領の江南を蛮子(ばんし)に由来する「マンジ」とそれぞれモンゴル語で呼び、別の地域として認識していたことも明らかなように、中国本土全体を一元的な支配体制のもとに置くことはなかった。・・・

⇒漢地/漢人地域、は、漢人文明地域、蛮子/南人地域、は、漢人地域、と、わたしは呼びたいと思っていますが、支那の南北を異なった人々が住む異なった地域として見る、このような認識を世界で最も早い時期に抱いたのはヤマト王権が成立した時の支配層であった、と、私は見るに至っています。(太田)

 モンゴルは、チンギス=カンの時代より、中央アジアから西アジアへと版図を広げていく過程で、すでにウイグル人やムスリムの御用商人と緊密な協力関係を結び、「オルトク」<(注67)>(テュルク語で「仲間」を意味する)と呼ばれる共同出資による会社組織をつくって商業活動をおこなわせていた。

 (注67)オルトク(Ortogh)、オルタック、または斡脱(あつだつ)。「オルトクの原型は、遊牧民と商人による安全保障の関係にあるとされる。遊牧民は道中の安全を保障し、商人は交易や情報収集を代行した。・・・
 徴税その他、農耕社会を統治する知識や経験に乏しいモンゴル帝国の支配層のもとでは、ムスリム商人が財務官僚として力をふるった。・・・
 元朝成立後の中国では、人々はモンゴル人、色目人、漢人、南人の4つに分類された。経済に明るい色目人、特にムスリム商人には財政部門を担当させた。ムスリム商人の他にオルトクに属した者としてはウイグル商人、そして少数ながら漢人やキリスト教徒もいた。
 クビライはこれらのオルトク(オルタック)に利権を与えて、元朝の公的な支配機構にとりこんでいった。しかし、商業税や専売税の徴税請負など、中国の伝統的な財政観、通貨観に馴染まない政策を採り、しばしば中国人を経済的に搾取したことは彼らの怨嗟の対象となることもあった。・・・
 <ちなみに、>文化や宗教の領域にはチベット人やネパール、カシミール、インドの人びと、科学・情報・技術関連領域にはヨーロッパ人も含んだ世界の諸地域の人びとを登用した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AF

 オゴデイやモンケの時代にはかれらを財務官僚に任じ、中国華北やトルキスタンといった定住農耕地帯で徴税を請け負わせた・・・。
 クビライは、モンゴル帝国のそれまでの政策をふまえ、イラン系のムスリム商業勢力を抜擢・重用して、大元ウルスの財政・経済政策の立案に当たらせた。
 その代表格が中央アジア出身のアフマド<(注68)>(?~1282)である。

 (注68)アフマド・ファナーカティー(阿合馬。?~1282年)。「中央アジアのスィル川(シルダリア川)上流の右岸付近の町のファナーカト(現在のウズベキスタンのバナーカト、タシュケントの西南)でイラン系の回教徒の家庭に生まれた。
 クビライの正夫人チャブイの宮廷(オルド)に仕えて信任を受け<た。>・・・
 1281年<に>・・・クビライの嫡子<の>・・・チンキムの母でもあるチャブイが死ぬとチンキム派とアフマド派の対立は決定的な局面に至り、チンキムの与党によるアフマド排斥の陰謀により、翌至元19年(1282年)にアフマドは暗殺された。その最期は、チンキム派の王著と高和尚らの画策によって東宮に誘い出され、大銅鎚で撃殺されるというものであった。
 その後、クビライはアフマド殺害のかどで王著と高和尚らの処刑を執行した、しかし、アフマドの生前の様々な専権行為による不正が次々と暴露されると、クビライは「王著と高和尚らは正しかった」と述べて、アフマドの一族は弾劾された。しかも、クビライはアフマドの墓を暴き出してその棺を剖いて、アフマドの屍をバラバラにした上で犬に食わせ大都の通玄門に晒した。その上にアフマドの一族も失脚し処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC

 アフマドは、クビライ時代初期に抜擢され、制国用使司(せいこくようしし)や尚書省といった財務・経済専門の官庁を設立して、20年ほどにわたり財務行政に辣腕をふるった。<(注69)>・・・」(198、201)

 (注69)「貴族や聖職者の脱税,免税を赦さず税を課したアフマドはモンゴル人貴族から不人気で、死後に姦臣として名を残し、元の歴史を記した正史『元史』でも伝は「姦臣伝」に入れられた。その内容は非常に辛辣で、これにしたがってアフマドは悪人として評価されることが多い。しかし、イル汗国で著された『集史』ではクビライを支えた名宰相として高く評価されている。後代の史家に於いて奸臣との評価はあまり見られない。」(上掲)

⇒元の時には、漢人文明地域の人々も、漢人地域の人々も、何の取柄もない人々である、という評価だったわけですが、私の言う、普通人、というのは、そういうものかもしれませんね。(太田)

(続く)