太田述正コラム#15373(2025.12.15)
<皆さんとディスカッション(続x6466)/映画評論517:28週後…>
<I0mYsGPM>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
プーチンに対する人物評価をお教えください。
⇒プーチンは、ロシアで、かねてより民主主義が十全に機能していることの象徴であって、大部分がモンゴルの軛症候群患者であるロシア国民の代表者に最もふさわしい人物ってことに尽きる。
プーチンとは対照的な人物がゴルバチョフであり、スターリン主義を投げ捨てるところまでは民意と乖離していなかったけれど、ロシアの東欧勢力圏を維持する算段を講じるどころかその意思が全くない(注a)ままそれをやらかした点に民意との乖離があった。
(注a)「1989年5月2日、既に民主化を進めていたハンガリーのネーメト首相が、オーストリアとの国境にある鉄のカーテンと呼ばれる国境の鉄条網を撤去すると、ハンガリー経由での国外出国に希望を持った東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪ね、そこに滞留する事態となった。
8月19日、汎ヨーロッパ・ピクニックが欧州議員オットー・フォン・ハプスブルクの主催でこれにハンガリー政府の改革派の後援により、ハンガリーとオーストリアの国境付近のショプロンで開催された。これは、秘密裡にハンガリーが東ドイツ市民をオーストリアに越境させることを企図したイベントであった。そしてこの集会のさなかに東ドイツ市民661人がオーストリアへの越境に成功した。その後もオーストリア経由で出国が出来ると考えた東ドイツ市民がオーストリアと国境を接するハンガリーとチェコ・スロバキアに殺到した。8月25日、ハンガリーのネーメト首相は密かに西ドイツを訪れてコール首相と会談し、東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させる決断をしたことを明らかにした。やがて西ドイツ側の受け入れ準備が整った9月11日にはハンガリー政府は正式に東ドイツとの協定を破棄して東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた。9月30日には、チェコスロバキアのプラハの西ドイツ大使館に集まっていた東ドイツ市民4000人の前に西ドイツのゲンシャー外相が現れて西ドイツへの出国が可能となったことを伝え、月末までに約3万人が出国した。
もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり、東ドイツ国内でもデモ活動が活発化していた。・・・
10月7日の東ドイツ建国40周年記念式典のために東ベルリンを訪問したミハイル・ゴルバチョフがその際行われたドイツ社会主義統一党幹部達との会合で自らの進めるペレストロイカについて演説をしたのに対し、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて党幹部達を見渡すと、舌打ちをし、ゴルバチョフが改革を行おうとしないホーネッカーを否定したことが他の党幹部達の目にも明らかになった。これを機にエゴン・クレンツ(政治局員・治安問題担当書記・国家評議会副議長)やギュンター・シャボフスキー(政治局員・社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記)ら党幹部達はホーネッカーの退陣工作に乗り出した。10月17日、政治局会議でシュトフ首相が提議したホーネッカーの書記長解任動議が可決し、ホーネッカーは失脚し、後継者となったのはクレンツであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81
こうして、東欧勢力圏が失われ、次いで、バルト諸国(注b)とウクライナ(注c)がロシア(ソ連)から離脱し、エリティンはやむなくその現実を受け入れ、結果、1991年にロシアは解体されたが、これは、民意と更にひどく乖離(注d)した成り行きだった。
(注b)「1980年代後半、ソビエト連邦内でグラスノスチとペレストロイカが進展すると独立回復運動が高まり、1988年にはバルト三国でそれぞれ人民戦線が結成された。1990年3月11日に独立を宣言したリトアニア共和国では1991年1月にソ連軍との衝突で死者が発生した(血の日曜日事件)。その後、ソ連8月クーデター後の8月20日にそろって再独立を実現させ、同年12月のソビエト連邦の崩壊へ大きな影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E4%B8%89%E5%9B%BD
(注c)「1990年・・・3月にはウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、・・・7月、最高会議は「主権宣言」を採択。国家の様々な権利をソ連から取り戻すことを宣言し、・・・<更に、>崩れ行くソ連を完全に見限り、1991年8月24日(後に独立記念日となる)に最高会議はウクライナの独立を宣言、・・・12月の国民投票によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、・・・初代大統領<が>選ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A
(注d)「1991年・・・3月17日の・・・ソビエト連邦国民投票では、ロシアの有権者の71.34%がソビエト連邦の維持・更新を支持した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3
このエリツィンの衣鉢を継いだプーチンは、歴史的経緯を踏まえ、ロシア解体の元凶であるウクライナ(注e)を目の敵にし、ロシア本体へのウクライナの懲罰的併合をライフワークとして現在に至っているが、そんなプーチンがロシア国民から拍手喝采を受け続けているのは当然だろう。(太田)
(注e)「2006年4月に著された意見書の中でゴルバチョフは、「20年前の今月、チェルノブイリで起きた原発事故は、私がペレストロイカを実行したこと以上に、おそらくソ連崩壊の真の原因となった」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E3%81%AE%E5%B4%A9%E5%A3%8A
この限りではゴルバチョフは間違ったことを言っているわけではないが、真の原因であるところの、ホロドモール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB
をもたらしたところの、中世以降の(ざっくり言えばだが)ウクライナのロシア本体とは異なった歴史、の直言を避けている。
<TSY>
・・・<一>昨日は楽しい時間をありがとうございました。
二つひっかかってることがあります。
● ブリトン人は弥生性が高い
ブリトン人(ケルト人)の縄文性の程度です。僕の感じでは、ゲルマン人と比べると、縄文性は高いが、日本の縄文人と比べると、弥生性が高い、と感じます。
フランスのGallimard(権威ある出版社)が出してる『ケルト人』という本が訳されています。
その中にこんな、骨骨骨のお墓が、また馬の骨や、青銅で作った戦車のミニチュアも出土しています。
(添付写真をみてください)<(省略)(太田)>
● ゲルマン人のブリトン人征服
よくある説明図のように、ゲルマン人の出発点や、征服年代が、詳しくわかったりするだろうか?
根拠を疑ってちょっと調べて見ました。
特定の年代に、どっと入ってきたというのには、僕は??? です。でも考古学資料から(墓)、侵入があり、その侵入者の出自が、Anglo-Saxon族らしいことは理解できました。
--ブリトン人のゲルマン人による征服--
そもそもゲルマン民族の大移動というのは、どんな文献的、考古学的資料に基づいての主張なのか、ちょっと調べて見たい。
■ 信用できる日本語資料
浜島書店の高校生用副読本。僕はこういう副読本は、大学院での編集者が、大学院での高校の先生を意識して書いていると思っている。なので、商売的配慮は少ない、比較的信用できる情報が入っていると考えています。
<表紙写真省略(太田)>
● ブリトン人の記載
ケルト人の一部として。ケルト人が今の英国領域に入り、ブリトン人と称されたのは、前5世紀。
<当該頁写真省略(太田)>
●ゲルマン人のブリトン人征服
<当該頁写真省略(太田)>
ジュート族、アングル族、サクソン族がブリトン人を征服した。代表的年代として449年が選んである。
⇒(私の言う)ヴァイキングはブリトン人を征服し、サクソン人はブリトン人の傭兵として移住した、というのが私の「講演」原稿での指摘です。(太田)
すると、ブリトン人の支配は 前5世紀から、449年までの約900年。ブリトン人の人口にもよるが、英国領域はケルト文化で染められていたのではないか。
⇒スコットランド東部(ピクト人がいた)以外のブリテン諸島・・アイルランド島を含む・・はケルト文化で染められていた、というのが私の「講演」原稿での指摘です。(太田)
{ただし、ローマ支配の時代を間にはさむ。44年のクラウディウスによるブリタニア侵入が始まり。ブリトン人の首長カラタクスがローマに拘束される。120年ローマ、ブリタニアに長城を建設。ローマ皇帝ハドリアヌスがこの長城を視察。}
■ ジュート族、アングル族、サクソン族の侵入資料は、どこに。
● perplexity(AI)に次の質問をする。
The Britons, who belonged to the Celtic peoples, are said to have been conquered by the Germanic Angles.
Please list the historical sources and archaeological remains that are considered evidence for this.
答は
Main historical texts
・Gildas, De Excidio et Conquestu Britanniae (On the Ruin and Conquest of Britain), an early 6th-century Latin sermon describing the “ruin and conquest” of the Britons by Saxon forces invited as foederati and then turning against their hosts.
- Bede, Historia Ecclesiastica Gentis Anglorum (Ecclesiastical History of the English People, 731), which reworks Gildas and gives the classic narrative of the arrival of Angles, Saxons, and Jutes, including the date 449 for the coming of Hengest and Horsa.
Later narrative sources - The Anglo-Saxon Chronicle (compiled in the late 9th century from earlier materials), which gives annalistic entries for the landings and battles of Angles and Saxons against the Britons.
- Continental chronicles such as the Chronica Gallica of 452 and the Chronica Gallica of 511, which mention Saxon attacks and the transfer of British provinces to Saxon rule by the mid-5th century.
- Welsh and British traditions such as the Historia Brittonum and Annales Cambriae, which, though much later and semi-legendary, preserve memories of conflict between Britons and Anglo-Saxons (e.g., Mons Badonicus).
Archaeological evidence - Cemetery evidence: 5th–6th-century inhumation and cremation cemeteries in eastern and central Britain with burial customs, grave-goods (weapons, brooches, pottery), and body orientation closely paralleling those of northern Germany and southern Scandinavia, interpreted as Anglian/Saxon immigrant communities.
- Material culture: the spread of “Anglo-Saxon” artefact types—such as specific brooch styles, weapon types, and pottery fabrics—into former Roman-British regions, indicating a strong cultural and demographic shift.
- Settlement patterns: the appearance of new villages and farmsteads with timber-hall architecture characteristic of north-Germanic regions, often replacing or reoccupying former Roman-British sites in lowland Britain.
These textual and archaeological strands together underlie the common claim that Brittonic populations in what became England were subordinated or displaced by
incoming Germanic groups, including the Angles.
⇒貴AIが、ヴァイキングとサクソン人を「サクソン人」と一括りにして回答しているのは面白いですね。(太田)
■ Gildas,
De Excidio et Conquestu Britanniae 文献学的研究
The Ruin of Britain
大英博物館のWebsiteから。
<当該頁写真省略(太田)>
The ranter in question was Gildas, a Romano-British deacon and monk. Sometime between the late 5th century and the 6th century, he wrote The Ruin of Britain, which describes a time of dramatic change, when the Roman legions had left Britain and the Romano-British population was under attack from invaders:
{ アングル族他の侵入が起こったとき、英国には、Romano-British populationがいたことになっている}
In The Ruin of Britain, Gildas depicted the defeats and natural disasters suffered by the Britons as divine punishment for their sins. He claimed that Romano-British leaders had invited three ship-loads of Saxons to protect them from Pictish invaders, but these Saxons had turned on their hosts and become an even worse enemy. Gildas described vividly how whole settlements were put to the sword, ‘fragments of bodies covered with coagulated clots of red blood, in confusion as if in some kind of horrible wine press’(translated by Hugh Williams, Gildas (London, 1899)).
⇒ギルダスはヴァイキングをアングル人で代表させるとともに、サクソン人は傭兵になるためやってきた、と、書き分けていたんですね。
なお、ここにピクト人が登場していますが、「講演」原稿には書かなかったけれど、ピクトって、ケルト文化に染まらなかったバスク人じゃないか、という新説があります。(典拠省略)(太田)
{ Gildasがあげているのは、Saxon族であることがわかる。人数は船、三艘分。
また著者についての注意として
Although Gildas’s account is vivid, he was not an eyewitness: most of the events he described occurred before he was born.
■考古学的研究
Early Anglo-Saxon Resource Assessment – East of England Research Framework, Catherine Hills<より。>
The chronology of the earliest Anglo-Saxon settlement in the eastern region has been clarified through the analysis of the cemetery at Spong Hill, North Elmham, Norfolk (Hills and Lucy 2013). This demonstrates that most of the cremations at Spong Hill were buried during the fifth century AD, with the cemetery in use from the early decades of that century. The main use of Spong Hill was earlier than most furnished Anglo-Saxon inhumations in England, and partly contemporary with continental sites such as Issendorf and Schmalstede, rather than being later. This contradicts the traditional start date for substantial Anglo-Saxon presence in England, ultimately derived from Bede, of the mid fifth century. Regional variation within England is very clear. Early to mid fifth century pottery and artefacts are found in small numbers across southern and eastern England, especially in Kent and the Upper Thames, and some key coastal sites such as Rendlesham (Scull et al 2016) and Mucking (Lucy and Evans 2016). However, the main focus is in eastern England around the Wash.
<地図省略(太田)>
<Spong Hill Part VIII The Cremations の表紙写真省略(太田)>
https://dn720902.ca.archive.org/0/items/anglosaxoncemete0000unse/anglosaxoncemete0000unse.pdf
発掘記録をみると、こういう記述が<。>
{ 初期サクソン式の土器が散乱。}p.70
<当該頁写真省略(太田)>
https://dn720902.ca.archive.org/0/items/anglosaxoncemete0000unse/anglosaxoncemete0000unse.pdf
⇒ヴァイキングの侵攻は5世紀中央からじゃなく実は初頭からだった、という話には気付きませんでした。(太田)
Gildasの記録だけでは、ン10年前にこんなことがあったそうな、という史実にヒントを得た時代小説程度の信憑性しかなかったかもしれない、しかし、墓のブツはそれほど嘘をつかない。
Anglo族、Saxon族がヨーロッパ大陸のどのあたりに居住していたかは、僕には不明ながら、とりあえず、 Anglo族、Saxon族の侵入によってBriton族の暮らしは激変した可能性が高い。
発掘調査の年代が1990年代だったり、2000年だったりすることからも、こういった調査が現在進行形なことがわかる。
デンマーク近辺の5~6世紀の墓の資料がみられると、その比較ができるのですが、今回は時間切れ。
あと、こんなことも考えました。
● 縄文性保持の条件
ブリトン人の縄文性が弱いとします。すると、英国と日本だけが、「民のことを考える王」を理想にできた理由は、縄文性だけでなく別に理由があった可能性は考えられないでしょうか。
⇒人間なんてみんな同じようなものであって、縄文性だの弥生性だのってのは、程度の差の話だとお考え下さい。
ヴァイキングの縄文性度<欧州人の平均的縄文性度<ブリトン人の縄文性度<日本人の縄文人の縄文性度、って違いが重要なんですよ。(太田)
たとえば、英国と日本はともに島国で、新しく渡ってきた支配民族は、相対的に数が少なく、前の住民との妥協を強いられた。また、両国とも生産力が高かったので、豊か、で「金持ちケンカせず」原理が働いて、比較的共同体的一体感が醸成されやすかった。
⇒こういった要素もあったことも、むろん、否定しませんが・・。(太田)
● 欧州文明の狂気の原因
キリスト教と、権力者による法治の悪用が、権力腐敗の雛形になった。キリスト教のとこに、民主主義だの、社会主義だの、無政府主義だのが、入った。
ちょっと前までは地球環境でした。
狂信者を集団でうむのが欧州文明の宿痾な気が、僕にはしています。
⇒基本的に同感ですが、欧州における、自然宗教的なものを含む人間主義の(例えば、イギリスに比しての)弱さが根本原因だと考えています。(太田)
寒くなってきました。
風邪に気を付けて、ご自愛ください。
<太田>
おかげさまで、この前風邪をひいたのはいつだったか思い出せないくらい、風邪とはご無沙汰していますが、お気遣いありがとうございます。
<太田>
安倍問題/防衛費増。↓
<兵庫県知事選の時も今回も民主主義は残念ながら機能した。↓>
「「きょうは行きたくない」 落選の田久保眞紀 前市長が”取材拒否” 約束の場所に姿を現さず 最後まで誠実さを欠く 捜査の行方に注目集まる 伊東市長選・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/0d61dab8dfb22fa9b49192bdb087769fd8d522f4
ウクライナ問題/ガザ戦争。↓
<ゼレンスキー、エライエラい。↓>
Ukraine willing to drop ambitions to join Nato, Zelenskyy says–Move marks big shift for Ukraine, which has fought to join Nato as safeguard against Russian attacks・・・
https://www.theguardian.com/world/2025/dec/14/ukraine-willing-to-drop-ambitions-to-join-nato-zelenskyy-says
<殺戮をやらかしたのも体を張って負傷しつつも止めたのも(多分だけど)イスラム教徒。
だけど、前者が必ず出てくるからイスラム教は危険。
イスラム教は、オウム真理教や旧統一教会の7世紀版・・と書いた私が殺しかねないのがイスラム教徒。↓>
「シドニー銃撃、容疑者2人は親子 父親は射殺、拘束の息子は重体・・・」
https://mainichi.jp/articles/20251215/k00/00m/030/023000c
One of the men allegedly involved in Sunday’s terrorist attack at the famous Bondi Beach in Australia has been tentatively identified by investigators as Naveed Akram.
Akram is in the hospital in critical condition, and the other suspect, identified by officials as his father, 50, was killed at the scene.・・・
https://www.newsweek.com/naveed-akram-alleged-bondi-beach-shooter-11210104
Bystander tackles and wrestles gun from alleged gunman during Bondi beach mass shooting–Video shows the man rushing one of the alleged gunmen who shot dozens of people on Sunday evening in Australia・・・
・・・the man was a 43-year-old fruit shop owner from the Sutherland Shire named Ahmed al-Ahmed.・・・
https://www.theguardian.com/australia-news/2025/dec/14/bystander-tackles-and-wrestles-gun-from-alleged-gunmen-during-bondi-beach-mass-shooting
妄想瘋癲老人米国。↓
なし。
それでは、その他の国内記事の紹介です。↓
裸の個人主義/資本主義の米国が異常なだけだよ。↓
「・・・山本のWBC参戦表明が米国で驚きをもって受け止められた理由は、単に「疲労困憊のエースが、なぜ出るのか」という表層的な疑問にとどまらない。そこにはメジャーリーグにおいて、この四半世紀で築き上げられてきた合理主義と効率至上主義の価値体系そのものを揺さぶる“違和感”が確かに存在している。
・・・現在のMLBは、投手を「部品」「消耗品」として扱う世界である。イニングは細かく管理され、連投は極力避けられ、先発投手であっても5回、6回で役割を終えることが珍しくない。そこにあるのは冷酷なまでの最適化思想だ。球団は選手を「勝利装置の部品」として捉え、長期的な資産価値を最大化するために、リスクを徹底的に排除する。
その文脈において、ポストシーズンで限界まで腕を振り、世界一の原動力となった投手が、さらに国を背負って投げるという選択は合理性の枠からはみ出している。だからこそ米国では、山本の行動が「理解不能」であると同時に「強烈な違和感」として受け止められた。・・・」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/92257?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link
<移民受け入れは基本的にいいことなのだ。↓>
「【卓球】張本智和「アイラブユー!」“4度目の正直”で日本勢初の快挙…4-2撃破で年間王者に・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/158c67b3527395103f915a7c0446e53e1a8cf0c1
日・文カルト問題。↓
<まことにおこがましいことながら、日韓両国民を代表して、この二カ国もの歴史を動かしつつある、我らの山上サマに、改めて心から敬意を表したい。↓>
「「王子の乱」、そして「安倍元首相銃撃」…危機の統一教・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342162
「李大統領支持率 小幅下落の54.3%=旧統一教会と閣僚の癒着疑惑響く・・・」https://jp.yna.co.kr/view/AJP20251215000600882?section=politics/index
<ご愛顧に感謝。↓>
「「used in Japan」が世界的人気…中古品取引市場に注目する日本・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342164
<サナエ女史、相変わらずの人気ねえ。↓>
「中国爆撃機を出動させた“台湾発言”…高市氏の“アドリブ”だった・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342136
<健闘を称える。↓>
「[韓流]東京・国立競技場で初のK-POP公演 チケット完売・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20251214001000882?section=entertainment-sports/index
<日韓交流人士モノ。↓>
「韓日が観光振興めぐり協議へ 交流拡大・地域性化策など議論・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20251215000700882?section=politics/index
中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓
<人民網より。
カリョー引き続き日本人協力者達と蠢く。↓>
「東京で南京大虐殺東京証言集会が開催・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2025/1215/c94474-20402384.html
<こちらは、カリョー単独で蠢く。↓>
「中国軍、南京大虐殺追悼日に「日本軍の骸骨を切り裂くポスター」公開–「汚らわしい頭を切り取れ」–強硬な雰囲気に中日対立はさらに激化・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2025/12/15/2025121580033.html
<ここからは、レコードチャイナより。
私は言うけどなあ。↓>
「「日本人は『半時間』って言わないの?」中国人留学生の投稿が議論呼ぶ・・・中国のSNS・小紅書(RED)・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b966104-s25-c30-d0052.html
<日中交流人士モノ。↓>
「<卓球>張本智和がファイナルズ初優勝!中国ネットも祝福「君がチャンピオン」「トロフィーに値する」・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b966202-s25-c50-d0052.html
「<卓球>「張本智和が醜態連発」が中国でトレンドに、ネット民は猛批判「恥ずかしくないのか」・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b966203-s25-c50-d0052.html
<まあ、そういうこと。↓>
「複数の国際機関、中国経済の見通しを楽観視・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b966228-s12-c20-d0189.html
<常に、辛口批評はつきもの。↓>
「・・・<英>エコノミスト記事は、中国の巨大な貿易黒字は国内での支出の弱さをも反映していると指摘した。中国の同時期の経済状態については、輸入は前年同期より縮小し、投資支出は弱く、新築住宅販売は21年のピーク時から半減した。一方で、輸出は前年同期の3分の1成長した。
中国では住宅価格の下落が家計の資産を弱め、消費者の信頼感に打撃を与えた。・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b966186-s25-c20-d0198.html
<太田>
一 日本の官僚の過労問題
今朝の5チャンネルの情報番組で表記の小特集を組んでいたが、誰一人として、官僚へのなり手がいなくなりつつあるという、より根本的な問題に言及する人がいなかったのにはいささか呆れた。
更にその根本的原因にまで議論が深まることは全く期待していないが、それにしてもねえ。
二 映画
素晴らしい後日譚。↓
「ニュー・シネマ・パラダイス「トト少年」熱演の陰で抱えた不安、眼鏡をかけても台本の字が読めない…13年引きこもりも・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20251213-GYT1T00280/
–映画評論517:28週後…–
今回の「『28週後…』(・・・28 Weeks Later)は、2007年公開の<英感染>ホラー映画<で、>2002年に公開された映画『28日後…』の続編であ<り、>・・・2025年6月20日に・・・<三作目の>『28年後…』が公開された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/28%E9%80%B1%E5%BE%8C…
ものであり、まあ、面白い。
主演のロバート・カーライル(Robert Carlyle。1961年~)は、Royal Scottish Academy of Music and Drama (RSAMD)卒のスコットランドの男優。
https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Carlyle
助演のジェレミー・レナー(Jeremy Lee Renner。1971年~)(コラム#15305)は、モデスト短期大卒の米男優・ミュージシャン。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%83%BC
三番目の主要人物役のローズ・バーンについては既紹介(コラム#14735)だ。
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太田述正コラム#15374(2025.12.15)
<2025.12.13東京オフ会次第(続々)>
→非公開