太田述正コラム#15202(2025.9.20)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その26)>(2025.12.15公開)

 「モンケの急逝ののち、1260年、対南宋作戦に当たっていた長江中流域の要衝鄂州(がくしゅう)(湖北省武漢)から開平府へと戻ったクビライ<(注63)>(世祖、在位1260~94)と、モンゴル本土で留守を預かっていた末弟のアリク=ブゲ<(注64)>(?~1266)の2人がそれぞれあいついで後継者を主張して即位し、2人のカーンが並び立つことになった。<(注65)>・・・」(192)

 (注63)1215~1294年。「チンギス・カンの四男のトルイの子として生まれた。母はケレイト部族出身のトルイの正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となったモンケ、弟にイルハン朝を開いたフレグ、クビライとモンゴル皇帝(カアン)位を争ったアリクブケがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%93%E3%83%A9%E3%82%A4
 (注64)アリクブケ(1219?~1266年)。「アリクブケの子孫であるイェスデルが天元10年(1388年)にクビライの子孫トグス・テムルを殺害してカアン位を奪うことで、100年目の復讐を果たしている。また、フレグの立てたイルハン朝において、アリクブケの次男メリク・テムルの曾孫のアルパ・ケウンが君主位に就いたことがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%96%E3%82%B1
 (注65)「モンゴル帝国帝位継承戦争(1260年 – 1264年)は、モンゴル帝国の第4代ハーンモンケの死後に、その兄弟クビライおよびアリクブケが共にハーン継承を宣言し、2人のハーンが並立する分裂状態となったことにより勃発した内戦。当初はアリクブケが優勢だったが、最終的にはクビライが勝利を収め、名実共に第5代ハーンとなった。
 古来「アリクブケの乱」と呼ばれてきたモンゴル帝国の内戦を、歴史理論学の立場から言い換えた現代的表現である。『集史』を始めとするペルシア方面で書かれた多くの史書がアリクブケをカアンの一人として扱っており、開戦当初はジョチ家・チャガタイ家などほとんどの帝国の構成員がアリクブケを支持する立場をとったことを示す資料が数多く残っている。「アリクブケの乱」という名称はあくまで勝者のクビライとその子孫らによる自己正当化のための呼称である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%B8%9D%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89

 1279年・・・モンゴルによっておよそ400年ぶりに中国統一、当時の漢語で「混一(こんいつ)」が成し遂げられた・・・。<(注66)>・・・」(192、198)

 (注66)襄陽・樊城(じょうよう・はんじょう)の戦い。「南宋にとって国土防衛の最重要拠点であり、40年近くにわたって行われたモンゴル・南宋戦争においてよくモンゴル軍の攻撃対象となった<。>・・・
 第3次モンゴル・南宋戦争において・・・長期戦の構えに慌てた南宋は、2度ほど救援部隊を送ったが、いずれも撃退され、ついに范文虎率いる軍を出動させ<たが、>・・・水軍部隊を揃え万全の準備を整えたモンゴル軍に完敗を喫し、これ以降南宋軍は一気に劣勢になってゆく。・・・
 クビライは、フレグ・ウルスにおいて改良・開発された新兵器「回回砲」・・・を使用することを決定、早速戦場に導入された。1273年、襄陽郊外に現れた回回砲は、まず樊城の城壁を破壊、張漢英率いる軍は降伏し、回回砲は樊城に据え付けられた。樊城から飛来する巨弾は軽々と漢水を越えて襄陽を攻撃し、全くなす術のなくなった呂文煥らは、同年2月に降伏した。・・・
 この後モンゴル軍は大して苦労せずに南宋を攻略していくこととなる。・・・
 <なお、降伏後、>呂文煥はモンゴル軍に寝返<るけれど>、後に賈似道がモンゴル軍と戦って無様な姿をさらしたこともあって、今日に至るまで呂文煥を売国奴として非難する評価はあまり見られない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%84%E9%99%BD%E3%83%BB%E6%A8%8A%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「回回砲(かいかいほう)、もしくは西域砲・巨石砲・襄陽砲とは、大型の投石機である。・・・
 至元八年(1271年)、元の世祖クビライはペルシアのイルハン朝王のアバカ(阿八哈)に使者を派遣し、砲匠<2人>・・・が徴発された。至元九年(1272年)十一月、<そのうちの1人が>回回砲を制作し、大都の午門(正門)での試射が成功した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%9B%9E%E7%A0%B2
 「アバカ<(1234~1282年)は、>・・・1265年2月に<クビライの弟であり、イルハン朝初代の>父フレグが没し<、そ>・・・の葬儀を済ませると、同年4月にクリルタイを開催し、6月15日に西征軍の王族・諸将に推戴されるかたちでフレグの王位と西征軍全軍を継承し即位した。・・・
 1270・・・年11月6日に・・・クビライからフレグの位を継ぎイラン地域の支配権を委ねてハンとなるようにとの旨を伝える使者が訪れ、勅令(ヤルリク)と王冠などがもたらされた。こうして同年11月26日、モンゴル皇帝クビライの承認の許に改めてイルハン朝のハンとして同地で第二の即位を行った。・・・
 父と婚約の予定であった東ローマ帝国皇帝ミカエル8世パレオロゴスの皇女・マリアと結婚した。また、自身もネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったため、ビザンツ帝国と結んでマムルーク朝などのイスラム教勢力と対立した。また、<イギリス>国王エドワード1世とも交渉を持った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%90%E3%82%AB

⇒アバカはキリスト教徒ですが、彼の次の第3代で叔父のテグデルはイスラム教徒、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%B0%E3%83%87%E3%83%AB
その次の第4代でアバカの息子のアルグンは仏教徒、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%B3
と、同朝の宗旨が決まっていない様子がうかがえます。
 ちなみに、「クビライはチベット仏教の僧のパクパ(パスパ)を国師として仏教を管理させ<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%93%E3%83%A9%E3%82%A4
けれど、本人が仏教徒になったかどうかは定かではありません。(太田)

(続く)