太田述正コラム#15224(2025.10.1)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その4)>(2025.12.26公開)
「清朝はリアリズムに徹し、現状をあるがまま容認し、不都合のないかぎり、そこになるべく、統制も干渉も加えようとはしなかった。
・・・チベットはダライラマの政教一体の統治に委ねたし、ハルハ・モンゴルには盟旗制<(注5)>という一種の部族編成を布いている。
(注4)「1635年、北元のエジェイが後金に降伏し、皇帝の玉璽「制誥之宝」を太宗(愛新覚羅皇太極)に献上した。これによりハルハ部を除くモンゴル部族連合はすべて後金の支配下に入った。・・・
1655年には・・・計8名の領主が清朝からジャサク(旗長)に任命された。ハルハの領主たちは清の支配下に入ったわけでなく、朝貢部族(=同盟国)扱いだったため、清側から「外ジャサク」と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%8F
(注5)「清朝政府がモンゴル諸部を征服した後に、モンゴルの伝統的政治体制と所属関係を取り消して創立した行政制度。・・・
旗ごとに牧地が指定され、その地域を越えた遊牧は禁止されていた。いくつかの旗の上に一つの盟(Chuulgan)を設置する(盟を設置していない旗もある)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9F%E6%97%97%E5%88%B6%E5%BA%A6
いずれも従前の基層社会に、清朝が手をふれることはなかった。
いずれにも「大臣(アンバン)」<(注6)>を置いて、側から監視したのみである。
(注6)「最もよく知られているアンバンは清の皇帝の居住者(・・・中国語:<駐劄>大臣・・・)は、清・・・の領土であったチベット、青海、モンゴル、新疆にありましたが、通常の省としては統治されておらず、既存の制度の多くが残っていました。
清の帝国駐在官は、保護領(例えばイギリス領インド藩王国)のヨーロッパ人駐在官(駐在官としても知られる)に大まかに例えることができます。」
https://jmedia.wiki/Imperial+commissioners/Amban
そしてそうした事情は、中国本土の漢人の場合も、やはり同じである。
前代明朝の皇帝制度・行政機構をほぼそのまま踏襲し運用した一方で、やはり基層社会に立ち入ることはほとんどなかった。・・・
もっとも漢人の場合は、モンゴル・チベットのように、アンバンを要所に置いたばかりではない。・・・
たとえば、・・・「満漢併用制」<(注7)>などと呼ぶ中央政府の制度がある。
(注7)「清朝の中央官庁の六部(りくぶ)や都察院,通政司,大理寺などで,各官の定員を偶数とし満洲人と漢人を同数任命した制度。清朝は,明朝の官制をほぼそのまま引き継いだ。清初は主な官職は満洲人が独占したが,そののち併用の原則を立てた。当初は,漢人は名目のみで満洲人の専断を隠蔽する手段にすぎなかった。18世紀の乾隆年間頃から両者が牽制しあうようになり,政務の迅速な処理を妨げることも多かった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BA%80%E6%BC%A2%E4%BD%B5%E7%94%A8%E5%88%B6-2129601
これは・・・明代の制度をそのままにしながら、漢人官僚のそばに満州人をはりつけて監視、牽制させるシステムであった。・・・
だが清朝からする統治の姿勢・原理は、ほとんど変わりない。
いずれも在地在来を尊重した「因俗而治」であった。」(44)
⇒清の統治なるものは、良く言えば一国二制度の原型ですが、余りにも退嬰的であって、それ以上コメントする気力を萎えさせてしまいます。(太田)
(続く)