太田述正コラム#15374(2025.12.15)
<2025.12.13東京オフ会次第(続々)>(2026.3.11公開)
O:次回の「講演」のテーマについてなのだが、既に有料コラムの方でお示ししてきているように、関ケ原の直前において、家康と上杉景勝の間で、唐入りの再開の有無を巡って対立が生じていたこと、かつまた、毛利輝元の母や祖母が日蓮宗信徒であったことや、当時すでに存命ではなかったけれど、輝元のこの祖母をどちらも母とする輝元にとっては小早川と吉川の両叔父達の正室がどちらも日蓮宗信徒であったことから、関ケ原の戦いが、本来的には日蓮主義者達と家康との戦いであったことは恐らく間違いないわけだが、問題は、私が、どうして、石田三成が輝元らの西軍に加わる運びになったのかがまだ解明できていないことだ。
というのも、秀吉子飼いの日蓮主義の有力大名たる加藤清正や福島正則、らは、唐入りの際の三成のサボタージュに対して怒り心頭で、三成が加わったならば西軍に与するワケがなく、そうなれば、西軍の勝利の目はなくなる、ということを、家康はもちろん、西軍の総帥となった毛利輝元もその盟友の上杉景勝も毛利家の軍師の安国寺恵瓊も、そして三成の「親友」の大谷刑部も、みーんな熟知していたハズだからだ。
白紙的には、三成が佐和山に蟄居したまま世間に忘れ去られたまま死んでたまるか、と、華々しい拡大自殺を図った可能性、や、家康が謀略でもって三成を西軍に参加する気にさせ、しかもそれを誰も止められないように手配した可能性、といったものが考えられないわけではないが、傍証を探すまでもなく、どちらも、極め付きにありえなさそうだ。
とにかく、この問題を解決できなければ、次回の「講演」では、別の話題を取り上げざるを得なくなるだろう。
B:関ヶ原が(本来は)日蓮主義戦争の是非を巡ってのものだった、ということになれば、岸信介は日本のことなど考えずひたすら自分の家の存続に徹してきたところの、毛利元就以来の毛利家に倣って政治屋を家業とする岸/佐藤家を開いた、という、太田説が成り立たなくなってしまうのではないか?
O:関ヶ原の敗戦とその戦後処理でさんざんな目にあった毛利家が、少なくとも表見的には大変身を遂げざるを得なかった、というあたりでどうか。
B:苦しい説明だと思う。
E:太田さんは今後、海外で行ってみたいところはあるか?
O:皆無だ。ところで、アフリカ旅行はどうだった?
F:エチオピアもケニアも発展しているように思ったし、ソマリアも内戦は凍結状態で発展しているようだった。
O:旧仏領のアフリカがアカン、ということか。
F:そうだと思う。フランスは自らの統治もヘタクソだったのだから、植民地統治ができるはずがなかった。
3 ピクト人=ケルト文化に染まらなかったバスク人説
コラム#15373で紹介した表記の根拠について、簡単に紹介しておく。↓
「近年のDNA検査によって、ピクト人(Picts)がスペイン北部のバスク人(Basques)と密接な関係にあったことが証明されている。北<大>ブリテン<島>とケルト系スペインとの結びつきは、多くの神話や伝説によっても裏付けられている。イベリアの先史時代の人々が刻んだドルメン(dolmens)や立石(standing stones)、さらには「カップ・アンド・リング(cup and ring)」模様の痕跡は、スペインやポルトガル、さらには北フランスからアイルランド<島>やスコットランド<を含む大ブリテン島>へと伝わり、先史時代の人類がイベリアからブリテン<諸島>へ移動した最古の証拠を示している。
ピクト人は、<ケルト文化に染まり、ケルト語を採用したところの、ブリトン語やアイルランド人やスコット人のゲール語系ケルト語、を話してはいなかった。
したがって、この時代の<北>スコットランドで<、ピクト人の間で>は<、少なくとも、(太田)>非ケルト系言語<・・恐らくはバスク語に近い言葉(太田)・・>も使用されていたと推測されている。
<といったことからして、ピクト人にはケルト文化の影響は希薄だったと見てよかろう。(太田)>」
https://www.englishmonarchs.co.uk/picts.html