太田述正コラム#6373(2013.8.6)
<日支戦争をどう見るか(その16)>(2013.11.21公開)
三 奴隷
 奴隷問題については、何度も取り上げてきているところ、今回は、趣向を変えて、アレグラ・ディ・ボナヴェンチュラ(Allegra di Bonaventura)著『アダムのために(For Adam’s Sake)』というミクロヒストリー(微細歴史)の本から浮き彫りになってくるところの、18世紀のコネティカット北米英領植民地における奴隷問題を、(できのよいものだけを選んだ)書評類をもとにご紹介し、日支戦争をも念頭に置きつつ私なりの分析を加えることを試みたいと思います。
α:http://www.thedailybeast.com/articles/2013/05/07/was-slavery-as-harmful-in-the-north-as-it-was-in-the-south.html
(8月4日アクセス)
β:http://online.wsj.com/article/SB10001424127887324354704578638032360409600.html?mod=googlenews_wsj
γ:http://www.greenwichcitizen.com/news/article/New-book-shows-slaves-were-an-integrated-part-of-4698948.php
(著者のインタビュー)
 –北部における奴隷制–
 「読者は、我々が慣れているところの、大農園(plantation)についての繰り返し<の記述>とは非常に異なった奴隷制のヴァージョンを見出すだろう。
 より少なく暴力的で、より遍在的でなく、奴隷達が驚くほど多く自身の自由を獲得する機会を有しているという・・。」(α)
 「信じがたいことに、彼女<(著者)>は、<奴隷たる>ジャクソンの、祖母マリア・・<現在の米国の北部(東北部)に位置するコネティカットの>ニューロンドンへ、鎖につながれて、生誕地の西インド諸島から運ばれてきたつんぼの女性・・を見つける(identify)ことができた。
 この地で、同町の指導的家族の一つの家庭において、彼女は奴隷としての生活を始めた。
 1670年代末に、彼女はジャクソンの母親となるところの、娘であるジョーンを生んだ。
 その子は、混血児(mulatto)であって、父親は白人たるジョン・ロジャーズか、彼の6人の息子のうちの1人か、のどちらかだったろう。
 ジョーンは、ジャクソンの父親・・彼自身、恐らく西インド諸島からニューロンドンへ運ばれてきたと思われ、1680年代に同じ家庭に奴隷として入り、<やがて>自由を与えられた・・と結婚した。
 ジョーン自身も自由となった。
 しかし、この夫婦の間の2人の子供達・・そのうちの一人がアダムという名前だった・・は生涯自由にはならなかった。
 1727年にジョシュア・ヘムステッド(Joshua Hempstead)によって購入されるまで、27年間にわたって、アダム・ジャクソンはジョン・ロジャーズ家の財産であり続けた。
 しかし、アダムの、新しく解放された両親に関しては、生活はこのような安定性は持たなかった。
 彼女が自由を獲得してからすぐに、このアダム・ジャクソンの若い母親は、法的インチキのせいで、奴隷に戻らされてしまった。
 それから間もなく、彼女の夫が、ロジャーズの助力を得て(!)、夜陰に乗じて彼女を救出した。
 しかし、結局は捕まり、ジョーンは、ニューロンドンのもう一つの指導的家族に懲罰として売られた。」(β)
 「<妻を盗み出した廉で>ジャクソンは起訴され<たが、法廷で、彼は、>・・・「彼女は不当にも私から連れ去られた」と陪審員に訴えた。・・・
 <結局、>ジャクソンは敗訴した・・・。<これは1714年のことだった。>
 しかし、ジャクソンは亡くなる1737年までニューロンドンにとどまった。
 それは、彼の息子のアダム・・彼はロジャーズによってではなく、ジョーンの主人に所有されており、彼は27歳の時にジョシュア・ハムステッドに売られたところ、この船大工の親方は、<ジャクソンの>近傍に住んでいたからだ。・・・
 ハムステッドはアダムを買ったときは50歳近くであり、アダムは彼が生涯に持ったたった一人の奴隷だった。
 ハムステッドの富で奴隷労働に負っている部分は皆無だった。
 英領ニューイングランド植民地人達にとって、奴隷は<あくまでも>贅沢品だった。
 彼らは、調理し、洗濯し、多分、小農場を維持するのを助けたことだろう。
 しかし、誰も少人数の奴隷しか持っていなかった。
 対照的に、英領南部は奴隷に依存するようになっていた。
 18世紀央には、<南部の>ヴァージニアでは、奴隷は人口の40%近くを占めた。
 <他方、>革命前の当時の<北部の>ニューイングランドでは、奴隷はわずか3%に過ぎなかった。
 <すなわち、>・・・南部は、奴隷制が政治的、経済的、そして社会的秩序のあらゆる様相を規定(define)するところの、「奴隷社会(slave society)」になっていた。
 しかし、北部は、奴隷制が余り重要ではない場所であるところの、「奴隷のいる社会(society with slaves)」だったのだ。」(α)
→「奴隷」を「差別対象たる黒人」と読み替えれば、米国の北部は、当時も今も殆んど変わっていないことにお気づきではありませんか。
 他方、南部は、「奴隷社会」から「無奴隷社会」へと大きく変貌を遂げたわけです。
 前者が原理主義的キリスト教世界≒共和党の世界であり、後者・・そのこと自体は自律的変貌ではありませんでしたが・・が米国的リベラルの世界≒民主党の世界である、というイメージを持っていただければ、と思うのです。(太田)
(続く)