太田述正コラム#8953(2017.3.5)
<夏目漱石は縄文モード化の旗手だった?(その2)>(2017.6.19公開)
 漱石(本名、金之助)は幼い時、塩原昌之助の家に養子に出され戸籍は塩原になりますが、9歳の時、塩原の養父母の離婚に伴い、夏目家に戻されます。しかし戸籍は戻されず、名字は塩原のままで、自分は要らない奴だという意識を常に持ちながら思春期と青年期を送ります。その後、長兄と次兄が相次いで結核で亡くなり、残る兄も発病します。この事態に老父が金之助を夏目籍に戻そうとすると、塩原家から高額の養育費を請求されます。一括払いができなかったので、やむなく分割払いの証文を作成し、漱石が署名することになります。名字は塩原から夏目に代わるので、「金之助」とだけ署名しました。訓読みすると「金の助け」です。どれだけ屈辱的だったことか。おそらくこれが漱石のトラウマになったと思います。
⇒大事な箇所なので補足しておきます。
 「夏目家<は、>・・・何代目か前の先祖が武田家に仕え、八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したので、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、更に後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった。1702年・・・、名主に任じられた。
 現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。
 家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった。・・・
 父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった・・・
 当時は明治維新後の混乱期であり、生家は名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻した。
 その後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3#.E5.A4.8F.E7.9B.AE.E5.AE.B6
 こういうわけで、三島由紀夫について読者の皆さんと論じていた頃に、私は、漱石を日本の文学を担ってきた弥生系の人物の一人と紹介した(コラム#8858)ところ、そう判断してはいけなかったようです。
 彼は、実父こそ弥生系ですが、実母も養父母も縄文系であって、縄文人として育てられたのであり、彼の文学への志は、小森も示唆しているように、幼少年時代の家庭環境に起因するトラウマに苦しめられた結果、小説を書くことで自分の精神の平衡をとろうとして育まれた、と考えられるのです。
 しかし、書く小説のテーマを、トラウマ的なものにすると、最悪、自分のトラウマを増幅させかねないことから、(私の言葉で言えばですが、)縄文人(縄文化人)としての観点から、当時の弥生モードの日本の批判、日本の縄文モードへの回帰、を(秘匿しつつですが)テーマにすることにした、と。
 これは、『ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travels)』の作者として有名なスウィフトを思い起こさせるものがあります。
 「ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift 。1667-~1745年) は、一般に大変な人間嫌いのイギリス文学者と見なされている。・・・
 1667年にダブリンで生まれた直後から、彼は、イギリス人たる乳母に世話されることになり、彼女の<イギリスの>カンブリア(Cumbria)の親戚が瀕死状態になった時に、すぐ、家族の所へスウィフトを連れて戻った。
 スウィフトの母親は、(恐らくは不誠実に、)帰宅させる旅は危険すぎると見なした。
 そこで、彼は、イギリスに2~3年留めおかれた後にアイルランドに送り返され、叔父の所で面倒を見てもらうことになった・・・。
 (スウィフトは、父親を知らなかった。彼が生まれる9か月前に梅毒で死んでいたからだ。)」
https://www.washingtonpost.com/entertainment/books/jonathan-swift-not-entirely-the-misanthrope-you-thought-you-knew/2017/02/27/5b0554b0-fd00-11e6-8f41-ea6ed597e4ca_story.html?utm_term=.2dc2cf7493e1
(3月4日アクセス)
 ちなみにスウィフトは、イギリス系アイルランド人であって弥生系縄文人であった漱石同様両生類的な人間であり、かつまた、ダブリンのトリニティ・カレッジ卒であって東大文卒の漱石同様、高学歴です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%95%E3%83%88
 そして、彼の『ガリヴァー旅行記』(1726/1735年)は、「当時一般的だった旅行記の形式を模しながら、イギリス人の社会や慣習に批判的な視点を与え<たところ、>・・・スウィフトがイギリス人及びイギリス社会に対する批判を行った原因の一つに、当時のイギリスの対アイルランド経済政策により、イギリスが富を享受する一方で、アイルランドが極度の貧困にあえいでいたことが挙げられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E6%97%85%E8%A1%8C%E8%A8%98
という作品であったところです。
 案外、漱石は、社会も違うし時代も違うけれど、英文学者としての彼が良く知っていた、スウィフトの顰に倣おうとしたのかもしれませんね。
 ちなみに、漱石(1867~1916年)より一世代後の「芥川龍之介<(1892~1927年)は、>・・・東京<の>京橋・・・に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。・・・
 生後7ヵ月後頃に母フクが精神に異常をきたしたため、東京・・・本所<の>・・・母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育される。11歳の時に母が亡くなり、翌年に叔父芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗ることになった。旧家の士族芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家である。家中が芸術・演芸を愛好し江戸の文人的趣味が残っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B
というわけで、彼の精神面での問題性は遺伝性のものであった可能性が高い点で漱石のそれとは異なり、かつまた、漱石に比べればですが、はるかに平穏無事な幼少年時代を送り、その間、縄文系か弥生系か微妙な環境から弥生系の環境へという形の養育をされた文学者であったと言えそうです。(太田)
(続く)