太田述正コラム#8987(2017.3.22)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その7)>(2017.7.6公開)
 「日本初のエロ本が現れたのは平安時代中期の康平年間(1058年~1065年)である。作者は・・・藤原明衡<(注15)>(989年~1066年)で、タイトルは『鉄槌伝』といった。
 (注15)ふじわらのあきひろ。「<対策に>ようやく合格し左衛門尉に任命され・・・その後、後冷泉天皇朝にて式部少輔・文章博士・東宮学士・大学頭などを歴任し、従四位下に至った。・・・『本朝文粋』『本朝秀句』を編修し、『新猿楽記』『明衡往来』などを著している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%98%8E%E8%A1%A1
 「『本朝文粋』(ほんちょうもんずい)は平安時代中期の漢詩文集。・・・仏教関連の願文や、文章・和歌等もあり、・・・公文書<も>多数含まれている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E6%96%87%E7%B2%8B
 「『新猿楽記』(しんさるがくき)は・・・ある晩京の猿楽見物に訪れた家族の記事に仮託して当時の世相・職業・芸能・文物などを列挙していった物尽くし・職人尽くし風の書物である。その内容から往来物<(コラム#7852)>の祖ともいわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%8C%BF%E6%A5%BD%E8%A8%98
 明衡は・・・儒家の出身でないことから学閥の壁に阻まれて不遇をかこち、1004(寛弘元)年、大学<(注16)>(当時の官僚養成機関)に入学したものの、対策<(注17)>(官吏登用のための最高試験)に合格したのは28年後の1032(長元5)年だった。
 (注16)「大宝律令(701年)によ<って>・・・大学寮が中央(都)に一つ設けられた。式部省の所管で、明経道(経書)、算道(算術)および副教科の音道(<漢>語の発音)、書道(書き方)の四学科があり後に紀伝道(通称「文章道」、<支那>史・文章)と明法道(法律)が加わった。・・・平安時代後期から・・・官職の世襲化が進み、大学寮の教官も特定の氏族の世襲となって、教官たちは世襲の存続のために自己の子弟・一族や限られた門人に対してのみ限定して、大学寮外の自宅などで教授するという家学化が進んだ。更に1177年の大火で大学寮や文章院が焼失すると、再建されることなく放置され、公的教育機関としての大学寮は消滅することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99%E8%82%B2%E5%8F%B2
 (注17)「紀伝道・・・が盛んになると、文章博士(大学寮で詩文・歴史を教授した教官)が「策文」を出して文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に答えさせる試験が行われるようになり、この試験が「対策」といわれるようになった。この試験に合格すれば官吏に登用され、この試験は当時の最高国家試験であった。儒家でないために文章得業生になることができない文章生については、特に方略宣旨を申請して、「対策」を受験した。対策文は、<支那>の故事を引用した内容空疎なものであり、次第に形式化していったが、試験自体は室町時代まで行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E7%AD%96
⇒日本政府は、科挙制度については、最初から、まともな形で継受しようとしていなかった(注18)わけですが、明衡のような能力の高い人物が容易に合格できない、という、支那においてもそうですが日本にはもっとあてはまる、試験内容の馬鹿馬鹿しさからして、理解できるところです。
 (注18)「庶民から進士に合格し下級官人となり、最終的に貴族にまでなった人物として勇山文継が・・・いるが、日本独自の「蔭位の制」と呼ばれる例外規定が設けられ、高位の貴族の子弟には自動的に官位が与えられたため(世襲)、受験者の大半は下級貴族で、合格者が中級貴族に進める程度であった。このため、大貴族と呼ばれる上級貴族層には浸透せず、当時の貴族政治を突き崩すまでには至らなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99
 勇山文継(いさやまのふみつぐ。773~828年)は、「河内国出身。・・・当時白丁<(庶民)>の子弟でも入学が許されていた大学寮文章生出身であったとされている。・・・官位は従四位下・東宮学士。・・・漢詩人として、勅撰漢詩集三集(『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』)のいずれにも撰者を務めており、中でも『文華秀麗集』『経国集』には1首ずつ漢詩作品が採録されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%87%E5%B1%B1%E6%96%87%E7%B6%99
 しかし、試験内容の改善には向かわないまま、官職の世襲化が進展し、最終的にそれが廃止されてしまった背景には、前に記したことがある(コラム#省略)ところの、第一次縄文モード下で、官僚達の職務遂行意欲の低下に伴う統治の形骸化があった、というのが私の見立てです。
 その結果、地方では、フォーマルな統治機構に依存しない形で自力救済が図られるようになり、武士の台頭を招いた、と。(太田)
 その間、頭にきた彼は後輩に対策の答えをひそかに教え、2度にわたって罰せられたこともある。・・・
 不遇の時代が長かったせいもあって、世間の主流から離れた底辺の人々の生き方や考え方に共鳴するところが大きかった。・・・『新猿楽記』<は>・・・そういう彼の個性の表れであった。・・・
 『鉄槌伝』<(注19)は>・・・『本朝文粋』の1編として収載されている。・・・いかにもこの人物らしい屈折したところであった。
 (注19)その原文は、これ↓
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544431/55
で、書き下し文がこれだ。↓
http://d.hatena.ne.jp/encomienda/20050221
 ・・・700字余りの短文だが、鉄槌(ペニスのこと)を擬人化したもので、これまでの日本文化では考えられないような作品である。漢文で書かれている」(107~108)
⇒日本初のポルノもまた、当時の最高の知性によって書かれたのですねえ。(太田)
(続く)