太田述正コラム#9465(2017.11.16)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その10)>(2018.3.1公開)

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[オスカー・メリカントについて]

 「オスカル・メリカント(1868~1924)は、日本ではあまり知られていないが、ピアノ曲「夏の夜のワルツ」や「ポホヤの乙女」などで知られ、当時フィンランドではシベリウス以上に人気があった作曲家であった」(98)、と、唐突な感じで、オスカー・メリカント(Oskar Merikanto)の紹介がなされていたので、少し調べてみた。
 「作曲家・音楽教師。両親ともにスウェーデン人であったが、父フランクの代からフィンランドらしい姓に改めた。音楽家として多芸多才で有名であり、フィンランド中でピアニストやオルガニスト、指揮者として、自作を演奏した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88
 改めて、スウェーデン系が、フィンランドの選良層の過半を占めていたことを分からせてくれる。
 さて、ユーチューブ上で、「夏の夜のワルツ」はすぐ見つかったが、「ポホヤの乙女」は見つからない。
 先入観なしに何曲も彼の作品を聴いて下掲の3つを選んだところ、後で、二番目の曲が「北国の」が誤訳で、「ポホヤの乙女」なのだろうという気がしてきた。

夏の夜のワルツ(Summer Evening Walzer Op.1
https://www.youtube.com/watch?v=c2aZvLQJl3w
北国の乙女(Pohjan neiti)
https://www.youtube.com/watch?v=NNj0uFLLp1A
海にて(Merellä)(注)
https://www.youtube.com/watch?v=3VXW1lJCIxk

(注)芬英辞典で調べた。at sea。
https://en.bab.la/dictionary/finnish-english/merell%C3%A4
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 「1880年代から1914年緒第一次世界大戦開戦までの時機は、「『ロシア化』政策の時代」と呼ばれる。・・・
 <それ>は国際情勢の変化によって始まった。
 ロシア帝国は1871年に統一したドイツを警戒し、地政学的な観点から防衛を見直し、それがフィンランドの自治の制限にもつながったのである。

⇒そうだとすると、ドイツ統一と「ロシア化」の間隔が開き過ぎており、説得力がありません。
 より説得力ある理由の解明は他日を期そうと思います。(太田)

 「ロシア化」はまず1890年に施行された郵便宣言に見られた。・・・ロシア帝国の郵便制度に統合された<のだ>。・・・
 「ロシア化」政策は、1894年に死去したアレクサンドル3世の跡を継いだニコライ2世の治世に本格化する。
 1898年にフィンランド総督に就任したニコライ・ボブリコフ<(注20)>(1839~1904)は、・・・フィンランドに関係する法律<の>ロシアで<の>制定<可能化※>・・・ロシア人の<フィンランドの>役人への登用・・・フィンランドの行政言語として<の>ロシア語<の>導入・・1878年に創設されたフィンランド独自の軍<の>廃止・・・<、それに伴う、>フィンランド人<の>ロシア帝国軍<への>徴兵<(注21)>・・・などフィンランドの自治を侵害する「ロシア化」政策を推し進めた。・・・

 (注20)「サンクトペテルブルク生まれ。1858年、ロシア帝国軍に入り将校となる。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%95
 (注21)1902年に最初の徴兵が行われたがこれに応じたのはわずか42%に留まったことから、フィンランド人は信用できないと、1905年にはフィンランドにおける徴兵は廃止された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nikolay_Bobrikov

 ニコライ2世が発布した・・・<※の>1899年2月・・・の宣言の撤回を求め、数週間で52万もの嘆願書名が集められた。・・・
 集められた署名は・・・嘆願書として提出されたが、ニコライ2世は・・・受け取りを拒否した。・・・
 フィンランド人青年エウゲン・シャウマン(1875~1904)は、・・・ボブリコフを<拳銃で>暗殺し、その場で自殺した。」(87~90)

⇒1909年10月に、その3か月前に韓国統監を辞任したばかりの伊藤博文をハルピンで拳銃で暗殺した安重根は、この前例の影響を間違いなく受けていたことでしょう。
 しかし、安重根の悲喜劇は、シャウマンが敵視したのはロシアであったのに、そのロシア抑止に全力を傾注してきた日本を彼が敵視したところにあります。
 ボブリコフがロシアのポチであったのに対し、伊藤が日本による朝鮮半島併合に反対していたことを想起するまでもありません。
 (伊藤、安に関しては、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87 による。)(太田)

(続く)

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