太田述正コラム#9692(2018.3.10)
<皆さんとディスカッション(続x3642)/江戸時代の選良教育–アジア復興の原点–前半>

<太田>(ツイッターより)

 「…佐川氏は「本当に一生懸命答弁しているし、行政文書の管理もルールに従ってやっていた。ただ、ずいぶん国会で批判頂き、時間もずいぶん使った」と振り返った後、…「国会答弁は、ご質問いただいて誠実に答えたと思っている」…麻生太郎副総理兼財務相は…辞任理由として、理財局長時代の国会対応に丁寧さを欠き、混乱を招いたこと▽行政文書の管理状況について様々な指摘を受けたこと▽決裁文書書き換え疑惑に関して担当局長だったこと、の3点を挙げた。…<また、>国有財産の信頼を損ねたとして減給20%、3カ月の処分とした。「辞任後でも捜査当局の捜査や財務省の調査に協力させ、結果次第ではさらに重い懲戒処分になる可能性がある」と述べた。…」
https://www.asahi.com/articles/ASL395RSQL39UEHF00M.html?iref=comtop_8_01
 佐川氏は自分が辞任すべき理由などないと言ってるに等しいし、麻生大臣が事務方に言わされた辞任理由の最初と次のは、にもかかわらず、適材適所として昇任させたことと整合性がない。
 財務官僚達、狂乱状態?

<太田>

 それでは、その他の記事の紹介です。

 少額裁判の執行力をどう担保するか、むつかしい問題だね。↓

 「飲食店「ドタキャン」裁判・・・」
http://news.livedoor.com/article/detail/14410413/

 格闘技の達人達、喧嘩のやり方が下手クソな人が多いのはどういうこっちゃ。↓

 「貴乃花親方「粛々と淡々とやる」…協会対応を内閣府に告発・・・」
http://www.sankei.com/west/news/180310/wst1803100018-n1.html
http://www.yomiuri.co.jp/sports/sumo/20180310-OYT1T50003.html?from=ytop_main7
 「レスリング協会長、伊調パワハラ告発状に「当たっていること一つもない」・・・」
http://news.livedoor.com/article/detail/14410019/

 ワシントンポスト東京駐在女性記者路線のほんわか記事がまた出た。↓

 Japanese towns struggle to deal with an influx of new arrivals: wild boars・・・
https://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/japanese-towns-struggle-to-deal-with-an-influx-of-new-arrivals-wild-boars/2018/03/05/59af237e-1722-11e8-930c-45838ad0d77a_story.html?utm_term=.af5f62361b48

 遺憾ながら、このご時世に鑑み、藤本シェフを取り上げたNHタイムスの勝ち。↓

 He Had the Treasonous Uncle Killed, but He Forgave the Disloyal Chef・・・
https://www.nytimes.com/2018/03/09/world/asia/kim-jong-un-north-korea.html?rref=collection%2Fsectioncollection%2Fworld&action=click&contentCollection=world&region=stream&module=stream_unit&version=latest&contentPlacement=2&pgtype=sectionfront

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <定番。↓>
 「日本人が軽自動車を愛しているのは安いからなの?・・・」
http://news.searchina.net/id/1655032?page=1
 <ここからは今日頭条記事以外の引用。
 最後の取材不足部分がご愛敬。↓>
 「・・・中国メディアの海外網は・・・「日本での生活は本当に中国より良いのか」と疑問を投げかける記事を掲載した。
 記事によると、日本での生活は利点が多いという。1人暮らし用のアパートが多く、小さいながらも室内は収納が多くて住みやすく、管理人もいると紹介。また、環境は「比べ物にならないほど」良いとしたが、これは空気の質からよく分かるようだ。交通面では、都市部は公共交通機関が発達していて便利だが、遠くへ出かけるには自動車がないと不便だと指摘。しかし、自動車も中国に比べてずっと安く買えるのが良いとしている。
 また、治安に関しては、玄関を閉め忘れても心配ないほどと治安が良いと称賛。ポストにかぎをかけなくても中身を盗まれることはなく、悪天候の日に家の外に傘を置いていても誰も盗まないと伝えた。中国では家の外に置いておいたものは、傘でも花でも何でもすぐになくなってしまうので、きっと感動するに違いない。
 しかし、唯一外食に関しては残念だと評価した。最初こそいろいろな店があって目移りするが、日本はチェーン店ばかりで、どこで食べても1年中同じでそのうちに興味を失うとしている。」
http://news.searchina.net/id/1655008?page=1
 <定番の話題だが詳しい。↓>
 「・・・今日頭条はこのほど、日本で暮らす中国人の視点で、日本の治安について考察する記事を掲載し、日本はアジアはおろか世界的に見ても刑事事件の少ない国だと指摘した。
 記事は、日本人は自国について「非常に治安の良い、安全な国」だと胸を張ると紹介する一方、中国でも広く報じられるような猟奇殺人も時おり発生していると指摘。また、中国人留学生が日本で中国人を殺害するという事件が発生した際、中国では「日本に行くまで好青年だったはずの中国人が日本で同胞を殺したのは、日本社会に問題があったから」という見方も浮上したと紹介。こうした見方は果たして正しいのだろうか。
 これに対し、法務省が発表した犯罪白書を引用し、16年における日本の刑事事件の発生件数は99万6120件で、統計を取り始めて以来、初めて100万件を下回ったと紹介したほか、この刑事事件の7割以上は窃盗だったと紹介。16年の殺人事件の発生件数は895件と、第2次世界大戦以降としては最少となったことを指摘し、それなのになぜ日本では猟奇殺人が多発しているイメージがあるのだろうかと疑問を投げかけた。
 記事は、この疑問の答えとして「日本人は他人に迷惑をかけることすら嫌う国民性」であり、貧富の格差が小さいなど「多くの国民が平均的水準」にある国であるがゆえに、猟奇的な殺人事件が発生すると社会に大きなインパクトをもたらすうえに、日本では事件をいつまでも掘り下げて報じることが多いため、強く印象に残ってしまうのだと主張。実際には統計のように殺人事件は少ない国であり、治安の良い国であるのは間違いないと指摘した。
 記事には、日本在住と見られる中国人ネットユーザーから複数のコメントが寄せられており、「正直に言って、日本の治安はとても良い」、「日本はとても安全だ」という意見があった。」
http://news.searchina.net/id/1655034?page=1
 <困ったちゃんだねえ。↓>
 「・・・中国メディアの快資訊は4日、自動車のシートベルト着用について「日本から学ぶに値する」と論じる記事を掲載し、中国の現状と共に紹介している。

 車を運転する人であればシートベルトを着用して運転することは当たり前のことだ。最近の自動車はシートベルトの未装着を音と表示で警告する装置が付いているが、中国では一部の人たちがシートベルトを着用しないまま、タングプレート(T字型の金具)をバックル部分に差し込み、シートベルト着用と同じ状態にして警告を解除しているという。

 中国では何とベルトがついていないタングプレートだけが販売されており、このタングプレートをずっとシートベルトのバックルに部分に差し込んだままにしているドライバーも多いというが、記事は「これは安全ではないこと」と強調した。

 さらに記事は、日本で「ベルトがついていないタングプレート」が販売されていないことに気付いた中国人が、日本で販売したところ、警察に逮捕され、罰金を科された事例があることを紹介。中国人の多くは過去の出来事ゆえに日本を嫌っているとしながらも、シートベルトをめぐる対応について「日本から学べる点は多い」と論じた。」
http://news.searchina.net/id/1655033?page=1
 <ご心配戴きまことに恐縮。↓>
 「・・・中国メディアの新浪は・・・「日本のアニメ業界が衰退の危機に立たされている」とする記事を掲載し、日本のアニメ業界から中国や韓国に仕事を奪われないようにしないといけないという声が上がっていることを紹介した。
 記事はまず、漫画家やアニメーターといった職業は一見華やかで、多くの人から敬慕される職業に見えるが、現在の日本ではアニメ産業のブラック化が指摘されており、漫画家もアニメーターも人気がある一部の人しかお金を稼げないと指摘。

 日本のアニメは世界でも人気が高く、ビジネスチャンスも拡大しているが、欧米のアニメでは3次元コンピューターグラフィックス(3DCG)が主流になっているのに対して、日本のアニメは独自に発展した2次元の表現方法が主流であるゆえに、日本のアニメーターは閉じられた業界で疲弊していると紹介した。
 また、日本のアニメ業界はテレビ局の制作費削減などの影響を受け、人件費のかかる動画製作などの作業を中国や韓国に受注しているのが現状であることを紹介。結果、日本のアニメ業界が衰退し始めており、中国や韓国などに「お家芸」を奪われてしまう可能性が浮上していると強調した。」
http://news.searchina.net/id/1655031?page=1

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 一人題名のない音楽会です。
 交響曲の隠れた名曲シリーズの10回目です。
 今回はVasily Kalinnikov(注α)をお送りします。

(注α)「ヴァシーリー・セルゲイェーヴィチ・カリーンニコフ(Sergeyevich Kalinnikov。1866~1901年)。「オリョーリ県オリョーリ出身。イワン・ツルゲーネフと同郷である。貧しく倹しい警官の家庭に生まれる。・・・モスクワ音楽院に進むが、学費を納入できずに退学させられる。その後、奨学金を得て、モスクワ楽友協会付属学校でファゴットを学ぶかたわら、・・・作曲を<学び、>・・・劇場の楽団でファゴットやティンパニ、ヴァイオリンを演奏するかたわら、写譜家としても働いて生計を立てた。・・・結核に罹患したために、やむなく劇場での活動を断念し、・・・生涯の終わりをヤルタで過ごした。・・・
 作風は、おおむねチャイコフスキーに倣って西欧的な楽曲構成法を採っていながらも、旋律や和声法に民謡や民族音楽の影響が自明であるように、国民楽派(「五人組」)からの影響も無視できない。このようにカリンニコフは、モスクワ楽派とペテルブルク楽派のいずれかに与するのではなく、その両方の伝統の美点を折衷した作曲家であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%95

Symphony no. 1(1895年)(注β)
https://www.youtube.com/watch?v=TVakXOkE2G4 ←コメント欄の斜め読みを!

(注β)「日本初演は、1925年4月28日の日露交歓交響管弦楽演奏会で近衛秀麿指揮により行われたとされています。近衛氏は、前年のベルリン・フィルでのデビュー時にも交響曲第1番を振っています。
 その2年後の1927年6月12日、メッテル指揮の新交響楽団定期演奏会を聴いて感銘を受けた一人の若者がいました。彼は翌年、現在の京都大学に進学し、メッテル氏に指揮を学ぶようになります。その若者とは指揮者・朝比奈隆氏であり、そのときの演奏会のメインがこの曲でした。」
https://web.archive.org/web/20060505100942/http://www.sam.hi-ho.ne.jp:80/fromme/kali/essay.html

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       –江戸時代の選良教育–アジア復興の原点–前半

1 始めに

 本日の「講演」の演題は、お知らせしていた通りなのですが、実は頗る欲張った内容であって、江戸時代の選良教育の解明を通じて、対露抑止を掲げる横井小楠コンセンサス、及び、アジア復興を掲げる島津斉彬コンセンサス(仮称)、の成立の経緯、明治維新の必然性とその成功の理由、明治維新の担い手に薩長土肥がなった理由(=徳川幕府がなれなかった理由)、更には、帝国陸軍とは何だったのか、等を明らかにしよう、というものなのです。
 しかるに、そう思い立って準備をしてきたところ、一回で話すには時間が足らない分量になりつつあったことから、当初の予定を変更し、本日は、その前半だけを取り上げることにしました。
 前半、後半を通じて、話の中に登場するのは、基本的に、皆さんがよくご存知の諸事件や人物達ばかりです。
 しかし、僭越ながら皆さんの大部分もそうなのではないかと思うのですが、ほんの最近まで、私にとって、それらの諸事件や人物達は、バラバラなまま、記憶の中に点在するにとどまっていたのです。
 しかし、これらの諸事件や人物達に、全く新しい角度・・主要な部分において必ずしもそうではないことが判明して愕然とした、ということにも後で触れます・・から光を照射することによって、それらは太い実線で繋がれ、一繋がりの大きな物語を語り出す、ということを実感していただければ幸いです。
 さて、前にコラム#9561(未公開)で示唆したように、このような、全く新しい角度から光を照射する最初の手がかりを提供してくれたのは、堤克彦(注1)の『肥後藩の教育 藩校「時習館学」入門–寺子屋・私塾・藩校の実情–』(2014年)です。

 (注1)1944年~。同志社大文卒、熊本県立高校教諭(38年間)。2006年熊本大博士。

 実のところ、この本以外に、藩校の教育内容を具体的に取り上げた本がネット上ですぐには見当たらず、取敢えずこの本を買ったところ、それが、私にとっては、大当たりだったのです。
 そもそも、これが肥後藩の藩校の時習館についての本であって、幕末維新における雄藩群であった薩長土肥のいずれの藩校でもない・・この「肥」は肥前(佐賀)の「肥」であって肥後(熊本)の「肥」ではありません!・・、ということは、時習館を平均的な藩校の一つであったと見てよさそうであること、その一方で、私が私淑するあの横井小楠(注2)を生んだ肥後藩の藩校である以上、時習館が平均的な藩校中では優れた方であった可能性もまた大であること、から、若干の期待は最初からしていたのですがね・・。

 (注2)「横井小楠<(コラム#は多過ぎるので省略)(1809~69年)は、>・・・8歳で藩校・時習館に入校。天保4年(1833年)に居寮生となったのち、天保7年(1836年)の<同校>講堂世話役を経て、天保8年(1837年)に時習館居寮長(塾長)となる。<他1名>とともに居寮新制度を建議、採用されるものの実施過程において頓挫する。・・・天保10年(1839年)、藩命により江戸に遊学、・・・また、江戸滞在中に幕臣の川路聖謨<(としあきら)>や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0

 この本を読み始めてみると、序文中の、
「現在の教育界は、学校教育をはじめ、すべての面で混迷と迷走を続けている。いったい日本の教育はこのままでよいのだろうか。永年高校教育にかかわってきた者として、その懸念は一層強い。明治以降の教育は、日本の近代化に不可欠なものであり、非常に大きな効果があったことも十分承知している。しかしどう見ても、現在の教育は、その制度・内容のいずれにしても、余りにもお粗末過ぎるのではないか。その原因はどこにあったのか。そんな思いから、近代教育の原点となった江戸期の教育実態を明らかにしたいと思い、具体的に肥後<藩(注3)と>人吉藩<(注4)両>藩内の寺子屋・私塾・藩校の各級教育制度と内容、その目的などを、あらためて見つめ直してまとめることにした。<(注3)>」(3)
というくだりで、著者は、日本の現在の選良教育における「武」教育の欠如を憂えている、という直感がし、期待が膨らみました。

 (注3)正しくは熊本藩。「1600年から1871年まで存在した藩。・・・1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。・・・藩庁は熊本城(<現在の>熊本市)に置かれた。・・・
 加藤<(清正)>家2代忠広は、寛永9年(1632年)駿河大納言事件に連座したとされる罪で改易され出羽国庄内に配流、加藤家は断絶した。代わって同年豊前国小倉藩より、細川忠利が54万石で入部し、以後廃藩置県まで細川家が藩主として存続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E8%97%A9
 (注4)「人吉藩は、肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市)に置かれた。藩主家の相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)、この地の地頭に任ぜられた。その後戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9
 (注5)この本は、3部構成で、1部が「<両>藩内の寺子屋・私塾・藩校」の概観、2部と3部が時習館を扱っているが、時習館についての本、と言ってよい。

 上記直感が正しかったと確信したのは、次のくだりです。

 「・明治2(1869)年段階の総藩276藩中255校(確実開校率92.4%)。慶応3(1867)年以前の創設藩校219校(85.9%)、宝暦~慶応まで(117年間)の開校は186校(<そのうちの>85%)
  ・開校理由–江戸後期の国内外的な緊迫情勢の下、諸般の富国強兵政策の推進のための人材育成。」(42)

 私は、これまで、各藩が藩校を設立したのは、幕府が1797年に昌平黌(昌平坂学問所)(コラム#9653)を設けたことに倣ったもの、と思い込んでいたのですが、宝暦(1751~64年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6
から・・後でこれも必ずしも正しくないことに触れる・・、となると、時代的には昌平黌設立より前からだ、ということになりますし、より驚き、かつ、膝を叩いたのは、このくだりで、堤が、藩校の設立目的が、「国内外的な緊迫情勢の下、諸般の富国強兵政策の推進のための人材育成」であった、と言い切っていることです。
 しかし、そのことを裏付ける典拠が付されていない・・それどころか、宝暦からの年別の藩校設置数の推移表すら載っていない・・だけでなく、「国内外的な緊迫情勢」で堤が念頭にあるものが何かも明らかにされていません。
 「国内」については、寛永の大飢饉(1640~43年)、や、島原の乱(1637~38年)、慶安の変(1651年)、承応の変(1952年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%AE%89%E3%81%AE%E5%A4%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%BF%9C%E3%81%AE%E5%A4%89
は武断政治が文治政治に変わる前の徳川幕府創世記の「緊迫情勢」であり、これらではないとすると、明暦3(1657)年の振袖火事や天和2(1683)年のお七火事(注6)といった江戸の大火や、かなり期間的には後のことになるけれど、享保17(1732)年の西日本における享保の大飢饉とそれが翌年江戸に波及した結果の享保の打ちこわし(注7)、等ではないかと思われますが、「外的」な「緊迫情勢」の方については、ロシアの東漸以外には考えられないでしょう。

 (注6)振袖火事=明暦の大火。「外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万人と記録されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
    お七火事=天和の大火。「死者は最大3500名余と推定される。・・・お七火事とも称されるが、八百屋お七はこの火事では被災者であり、のちに八百屋お七が放火したとされる火事とは異なる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
 (注7)餓死者12,000人~969,900人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89
 「米価の安定に尽力していた米商人の高間伝兵衛が米を買い占め、米価をつり上げようとしているという噂が立<ち、>・・・1733年(享保18年)正月に高間伝兵衛の自宅を1700人の庶民が襲い、家材道具や米俵等を川に投げ入れるなどした。これが江戸時代最初の打ちこわしとされている 。・・・その後、高間伝兵衛は自身が所持していた多量の米を放出して米価の安定に努めた。幕府は打ちこわしに関わった中心人物数人を流刑にした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97

 日本にロシアの公式使節が訪れたのは、宝暦年間より後の1792年であり、ラクスマン・・フィンランド人!・・によるものです。↓

 「アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(・・・Adam Laxman、1766年~1806年以降)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。ロシア最初の遣日使節。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマン・・・
 寛政4年(1792年)9月24日にエカテリーナ号でオホーツクを出発、10月20日、根室に到着した。藩士が根室に駐在していた松前藩は直ちに幕府に報告。幕府は、ラクスマンが江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉をおこなう意思が強いことを知らされた。しかし、老中松平定信らは、漂流民を受け取るとともに、総督ピールの信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを指示。そのための宣諭使として目付石川忠房、村上大学を派遣した。併せて幕府は使節を丁寧に処遇せよとの命令を出しており、冬が近づいたため、松前藩士は冬営のための建物建設に協力し、ともに越冬した。石川忠房は翌寛政5年(1793年)3月に松前に到着。幕府はラクスマン一行を陸路で松前に行かせ、そこで交渉する方針であったが、陸路をロシア側が拒否したので、日本側の船が同行して砂原まで船で行くこととした。しかしエカテリーナ号は濃霧で同行の貞祥丸とはぐれ、単独で6月8日、箱館に入港した。ラクスマン一行は箱館から陸路、松前に向かい、6月20日松前到着。石川忠房は長崎以外では国書を受理できないため退去するよう伝えるとともに、光太夫と磯吉の2人を引き取った。ラクスマンらが別れを告げに行った際、宣諭使両名の署名がある「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と題する長崎への入港許可証(信牌)を交付される。6月30日に松前を去り、7月16日に箱館を出港。長崎へは向かわずオホーツクに帰港した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3

 しかし、このラクスマン来航より前の時点において、幕臣の子で仙台藩士になった「江戸時代後期の経世論家」の林子平(1738~93年)は、既に、「ロシアの脅威を説き・・・海防の必要性を<訴える>軍事書であ<るところの、>・・・『海国兵談』<を、>寛政3年(1791年)、仙台で上梓」していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AD%90%E5%B9%B3
ところ、林は、自分自身でもって、ロシアの脅威を感じ取っていた、ということになります。
 振り返ってみれば、1639年にロシア人が陸路、初めてオホーツク海に到達しています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%B3
し、「ネルチンスク条約・・・<が>、1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84
ているところ、こういったことが、(オランダ等経由で)日本にも伝わっていたとすれば、ラクスマン来航より前から、林子平と同様の危機意識が、日本全国の心ある武士達の間で共有さつつあった可能性がある、と想像されるのです。
 (林子平については、後で改めて触れます。)
 ところで、これだけ、当時の、少なくとも心ある武士達が、安全保障に関わる国際情勢に鋭敏であったとすれば、
「天保年間(1830~44)<=幕末>以降、全国で・・・藩校制度の変革が実施された。・・・
 藩士子弟の入学強制(219藩中200藩(91.3%)・・・普通10歳以上であったが、幕末<に>は7・8歳に引き下げ<た>。・・・
 庶民子弟は・・文久年間(1861~64)以降は入学許可。但し、農兵・民兵の募集・確保のためでもあった。」(42~43)
というくだりについても、前段については、理由が定かではありませんが、後段については、理由に典拠が付されていないけれど、西欧諸国における徴兵制の普及(注8)が知られるようになったからではないか、という解釈だって成り立ちそうですね。

 (注8)「いわゆる国民皆兵による徴兵制はフランス革命から始まる。フランス革命以降、国家は王ではなく国民のものであるという建前になったため、戦争に関しても王や騎士など一握りの人間ではなく、主権者たる国民全員が行なう義務があるということになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E5%88%B6%E5%BA%A6

2 理想的武士像の成立–山鹿素行と大石良雄

 (1)序

 では、太平の世の中であったにもかかわらず、『海国兵談』を書いた林子平のような、優れた安全保障感覚を身に着けた武士達は、一体どうして出現したのでしょうか。

 (2)時習館における文と武

 一見迂遠な話だと思われるかもしれませんが、その手掛かりを、時習館の教員構成や蔵書構成に求めてみましょう。
 時習館の教員構成(宝暦年間・・1751~64年・・のもの)(76~77)は次の通りです。
 これには、思わず、目を大きく見開きましたね。
 イギリスの全寮制のパブリックスクール群で軍事教練が必修であったことを知った(拙著『防衛庁再生宣言』198頁。このことに、コラム#741、1437、2474、2932、2970、2974、3230、5056、5287、7444、7791、7796で触れている)時以来の、しかし、当時と全く同質の驚きでしたね。

[文]

教授(1名)助教(1名)・・・
訓導(6名)・・・句読師10名、習書師4名、孝経師、幼儀師、数学師、漢語師、古礼師3名、祭礼儀節師、音楽師、算学師7名、天文師 計39名

[武]

軍学師5名、射術師6名、槍術師5名、剣術師16名、居合師11名、砲術師9名、柔術師7名、捕手師、組打師4名、小具足師、長刀師3名、棍師、馬術師5名、木馬師、陣具太鼓師、遊泳師2名、犬追物、等 計79名+α

 「文」に比して「武」の教員数が2倍であることに注目してください。
 このことから、時習館は、というか、恐らくは、藩校というものの多くにおいて、武の教育が主で文の教育は従であったところの、教育を行った、また、武の教育には兵学(軍学)の教育も含まれていた、ということが推察できそうです。
 同じことが、蔵書構成からも言えます。
 「時習館」の「尊明閤」の「漢籍」の蔵書の内訳(118~119)は次の通りであり、やはり、「非軍事」に比して「軍事」が2倍です。

非兵書:28種(227点)
兵書:57種(407点)

 これは、時習館中の「尊明閣」の蔵書だけが対象ですが、「尊明閣」というのは、「訓導による全体教育の部屋。講堂。」
https://ameblo.jp/psi-distalengine/entry-11999591157.html
だったというのですから、全体の傾向がここに集約されている可能性が大ですし、ここだけにしか蔵書が置いてなかった可能性だってあります。
 繰り返しますが、他の多くの藩校群においても、概ね似たようなことであったのではないか、と推察できそうです。(注9)

 (注9)他の藩校群中、とりあえず、一例だけ。
 「長州藩の明倫館:「宣聖殿と呼ばれた聖廟を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた主として学問習得のための建物、・・・東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、後方には水連池、北方には約3千坪の練兵場が設けられ<てい>た。」
https://jpreki.com/meirinkan/
 「練兵場」がミソだ。

 (2)その直接的背景

 肥後藩等で、そのような教員構成や蔵書構成を持つ教育を行うところの、藩校が作られた、として、その直接的背景はなんだったのでしょうか。
 肥後藩について言えば、それは、時習館ができる前に、同藩の武士たる学者達が描いた理想的武士像(88~90)が、武を主とし、文を従とする、しかし、どちらにも通じた人物像であったからだ、と思われます。
 その中から、2人ご紹介しましょう。

 「井澤<△(虫偏に番)>龍(1668~1730)
・長秀、世禄250石・鉄砲頭・居合師役。「朱子学」(「崎門学派」)、垂加神道に詳しく、国学・儒学・歴史に精通。関口流居合術。・・・
 「およそ、士としては文武をまなぶこと、尤おこたるべからず。(中略)意は、文武は、鳥の二翼にひとしければ、かたかたかけては、飛ことあたはざるごとし。文あれども、武なければ、人あなどりておそれず。武あれども、文なければ、人おそれしたしまず。この故に、文と武とをかさねまなびて、身におこなふときは、威徳ともに備る故に、人のしたしみ、且おそれて、したがふといへり」(享保4[1719]年刊本『諸士男子訓』一巻「文武教」)」

 この学者↑は、単純明快に、文武両道を説いています。

——————————————————————————–[「文武」の「文」について]

 以前、「<日本の熟語である>「文武両道」における「文」は、(詩歌や小説といった)文学を中心とする芸術なのであり、この和歌が示しているように、その核心には性交渉が存在している」(コラム#9077)と記したことがある。
 しかし、これは、支那における「文武」の文・・外交・・との違いを際立たせたいとの思いから、いささか筆が滑っていた、と、今では思う。
 少なくとも、江戸時代に使われた熟語であるところの、「文武」に関して言えば、「文」は、支那において「文人」が身に着けていてしかるべきとされた能力と嗜み、的なもの、を指している、と言うべきだろう。
 能力とは、「学問を修め、文章をよくする<こと>」であ<るところ、>・・・この「学問を修める」とは経書経学(儒学的知識)を中心に、史学・漢学など幅広い知識を有する読書人である<ことに加え、>・・・その教養をベースとした詩文の才が<あることであり、>「文章を能くする」とは優れた文章作成能力を差し、能文であるのみならず能筆であること」を指す。
 また、嗜みとは、「琴棋詩書画」を指す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%BA%BA
 これに、日本の場合、上出の時習館教員構成からして、算術・天文が加わっていた、と言えるのではないか。
——————————————————————————-

 もう少し踏み込んでいるのが下掲↓の学者です。

 「水足博泉(?~1732)
・安方、斯立、<禄や役職は記述されていない(太田)。>・・・近世菊池文教(古学派)の祖。・・・
 「今の学ぶ者は、身を文辞に委ねて、武を習はず、みな腐儒たるを免れず。・・・文の外に別に武有るに非ず、・・・而今腐儒至って多きも、武を習はざるが以(ゆえ)に非ずして、正に能く文に通ぜざるが以(ゆえ)のみ、云々」(「加々美鶴灘の問に答ふる書」)・・・
 文名高かったが、賊の侵入に父・・・ともに防戦し死負傷、文人軟弱の批判を受け、禄召し上げられて、菊池隈府に籠居。」

 彼は、「文」は、あくまでも、「武」の何たるかを理解するための手段である、と言い切っている、というのが私の解釈です。
 しかも、その「武」に通暁するとは、「武」の周辺的技術たる「武術」に優れていることではなく、「武」の中核たる「兵学」・・安全保障学・・の何たるかを理解していること、であることを、彼は、蟄居させられる契機となった事件を通じ、自身、「武術」に優れていないことを露見させてしまったことで、身をもって示してくれています。
 彼にとって、「武術」は、「兵学」の理解に資するものとして、齧っておくことが有効ではあるけれど、それ以上でも以下でもない、ということなのではないでしょうか。(注10)

 (注10)薩摩藩では、熊本藩とは違って、水足的な武士の理想像を当然視していたようだ。
 「西郷隆盛<は、>・・・天保10年(1839年)・・・喧嘩の仲裁に入るが、<喧嘩の一方>が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしま<い>・・・一命は取り留めるが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した 。・・・ペリーが浦賀に来航し<た翌年の> 安政元年(1854年)、上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、・・・江戸に赴いた。4月、「御庭方役」となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようにな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B 
 なお、「西郷・・・は軍学を修めたことはな<い>」
http://bizgate.nikkei.co.jp/article/153810715.html
との指摘があるが、藩校造士館での兵学教育だけでは軍学(兵学)を修めたとは言えない(後出)だろうが、私的にも学ばなかったという趣旨であれば、その裏付けを知りたいところだ。
 武術に関しては、大久保利通についても、同じことが言えそうだ。
 「大久保利道<は、>・・・武術は胃が弱かったため得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという。・・・斉彬<に認められ、そ>の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教(後の久光)に・・・接近する。・・・万延元年(1860年)3月11日、・・・忠教と初めて面会し、閏3月、勘定方小頭格となる。文久元年(1861年)10月23日、御小納戸役に抜擢され藩政に参与・・・、家格も一代新番となる。・・・文久2年(1862年)・・・5月20日、御小納戸頭取に昇進となる。・・・文久3年(1863年)2月10日には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する。・・・、「速なる昇進にて、人皆驚怖いたし物議甚しく候」と書かれるほどの異数の大抜擢だったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
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 (3)更にその淵源たる背景–山鹿素行と大石良雄

  ア 序

 私は、このような武士の理想像を全国的に普及させたのは、ほぼ同時代人であったところの、理論家たる山鹿素行とその愛弟子と言ってよい実践者たる大石良雄、の絶妙なタッグであった、と考えています。
 このことを、私は、既に、以前(コラム#5362で)、「山鹿素行こそ、・・・江戸時代の武士道、を提唱した最初の人物なのです。この素行の・・・武士道は、赤穂浪士事件を通じて江戸時代の全職分に大きな影響を及ぼすとともに、吉田松陰を通じて明治維新の原動力の一つになって行くわけです。」と指摘している(典拠は2人の外国人学者達)ところです・・実はそのことを全く忘れていて、今年に入ってから思い出して慌てたのなんのって・・が、この指摘を、この機会に、詳しく、かつ、踏み込んだ形で行いたいと思うのです。
 (しかし、この話、少なからぬ日本人にとって、常識であり続けたのかも、という気さえ、ちょっとしてきています。いかが?)
 「私<は>、戦国時代において、肥大化していた、主として軍事、従として行政、を行ってきたところの、武士達の中で、平時化に伴い、自発的或いは強制的に帰農等をした者達も相当数いたではあろうけれど、にもかかわらず、残った武士達は、やることが著しく減少してしまい、一体、何に生きがいを見出したらよいのか、という根源的課題に直面するに至ったのではないか、と推測<している。>」と少し前(コラム#9663)に申し上げたところですが、この、平時における理想的武士像いかん、という根源的課題に、最も真摯に向き合って、それぞれ、理論面、実践面における範例となったのが、素行と大石であった、と私は考えている、ということです。

  イ 山鹿素行(1622~85年)

 山鹿素行は次のような人物です。

 「陸奥国会津・・・にて浪人・・・の子として生まれる。寛永5年(1628年)に6歳で江戸に出る。寛永7年(1630年)、9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲、北条氏長の下で軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ<が、>朱子学を批判したことから<幕府の時の重臣であった保科正之によって(コラム#9663。未公開)>播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行う。・・・
 延宝3年(1675年)、許されて江戸へ戻り、その後の10年間は軍学を教えた。・・・
地球球体説を支持し儒教の宇宙観である天円地方説を否定している。・・・
 <「『中朝事実』は、山鹿素行が・・・寛文9年(1669年)に著わした・・・尊王思想の歴史書<だが、>・・・<支那>は勢力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。<支那>は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であると・・・主張<した。>・・・
 <宗旨は、墓所からして、曹洞宗か。(太田)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E4%BA%8B%E5%AE%9F 
 「『武家事紀』は、<延宝元年(1673年)?>に山鹿素行によって書かれた歴史書・武家故実書。全58巻。・・・古案(古文書)からの引用も多くなされている点も当時としては画期的であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E4%BA%8B%E7%B4%80 >
 「素行の兵学は近世のそれが軍法(戦技,戦術)から士法(武士のあり方)へと重点を移してきたのにそって,儒学を基礎として〈士〉としてのあり方を中心に説かれ,みずから武教と称した。35歳ごろにはこの兵学は完成し,《武教本論》《武教全書》が主著である。」
https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E6%AD%A6%E6%95%99%E5%85%A8%E6%9B%B8%E3%80%8B-1404249
「津軽藩主の津軽信政やその後見人である旗本(黒石藩)の津軽信英は素行に師事し、津軽藩は1万石をもって素行を招聘しようとしたが実現せず、代わりに素行の子の政実が登用されている。政実はのちに津軽姓を名乗ることを許され、家老職家となる。一方、信政の近臣の喜多村宗則に素行の娘が嫁ぎ、宗則もまた津軽姓を許されて津軽政広と名乗り江戸家老となるが、若くして死去した。政広の遺児は素行の娘である母の手により山鹿流兵学や儒学を教育され、長じて津軽藩家老喜多村政方となる。・・・
<また、>素行が平戸藩主松浦鎮信と親しかった縁で、一族の山鹿平馬は松浦家に召し抱えられ、後に家老となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C 

 素行の主著のタイトルが物語っているように、彼が唱えたのは武教論であったところ、それは、要するに、私の言う意味での文武両道論であった、と言えるでしょう。
 その素行が、実際に文(儒・国(神/歌)学)と武(軍学)を身に着けていたこと、論理と典拠に基づく科学的思考を行った人物であること、そして、天皇制をその中核と見たところの、日本文明、の至上性を主張したこと、を押さえておきましょう。
 重要なことは、この素行の思想が、以上からも推察できるように、当時の武士達の間で大人気を博したことです。
 どうしてか?
 武士達は、太平の世となった、江戸時代における、軍事のプロであった自分達の役割をどう再定義すべきか、よりぶっちゃけて言えば何に生きがいを見出したらよいのか、を模索しており、それに、明確な方向付けを与えてくれたのが山鹿素行その人だった、からです。
 何と言っても、津軽藩(正式には弘前藩)が、その表高が4万7,000石しかない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%89%8D%E8%97%A9
というのに、一介の素浪人に過ぎなかったところの素行を、大名並みの1万石も出して招聘しようとしたり、そんな素行の血筋であるというだけで、彼の係累達を、北に位置する同藩や南に位置する平戸藩が、それぞれ家老格で起用する、という破格の待遇をしたことの宣伝効果は抜群だったはずです。
 なお、当時、理想的な武士は必ずしも武術に長けている必要などない、と、武士達の多くが考えるに至っていたことが、(身体能力の点から武術の達人であったとは考えにくい)素行の娘が正統の後継者とみなされていたらしいことからも分かろうというものです。
 但し、この山鹿流は、幕末に至るまで、江戸時代において、大人気を保ち続けることができた(注11)ところ、それは、大石良雄の貢献なしにはありえなかったのではないでしょうか。

 (注11)山鹿流。
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E6%B5%81 >
 「山鹿素行を軸に甲州流軍学、越後流、長沼流を兼修した窪田清音<(すがね)>
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%AA%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9F%B3 >
の兵学門人は三千人。近代兵器が出現後も、清音は山鹿流の伝統的な武士道徳重視の講義をしたが、・・・清音が著した五十部の兵書のうち晩年の<何部か>は練兵主義を加え、山鹿流を幕末の情勢に対応させようとした大きな傾向がある・・・。
 この窪田兵学門人の英才である若山勿堂<(ぶつどう)>
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%B1%B1%E5%8B%BF%E5%A0%82 >
の山鹿流門下から、勝海舟、板垣退助<(以下、全て土佐藩(太田))>、土方久元、佐々木高行、谷干城ら幕末、明治に活躍した逸材が輩出された。
 日米修好通商条約の遣米使節団として訪米後、横須賀製鉄所の建設を推進した小栗上野介 も窪田清音から山鹿流を学んでいた。小栗の「幕府の命運に限りがあるとも、日本の命運に限りはない。」との発言は、皇統を尊重する思想と武士道精神を土台とする山鹿流兵学の思想そのもので小栗に与えた影響は大きい・・・。
 同じ幕末に長州藩では、吉田松陰が相続した吉田家が代々、藩学である山鹿流師範家となっており、吉田松陰は藩主毛利敬親の前で<素行の>「武教全書」戦法偏三の講義を行っている。
 松陰は叔父にあたる玉木文之進から山鹿流を授している。
 江戸に出た松陰は肥後の<熊本藩士の>山鹿流兵学者・宮部鼎蔵と交流を深めた。
 吉田松陰と宮部鼎蔵は1851年(嘉永4年)、<改めて>山鹿素水に学んでいる。
 明治維新で活躍した高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、山田顕義ら長州藩の松陰門下生は、藩校・明倫館、松下村塾で山鹿流を習得している。
 <また、>玉木文之進から山鹿流を講授された<のが、>長州藩出身の 乃木希典<である。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E6%B5%81

  ウ 大石良雄(1659~1703年)

 今度は、大石良雄についてです。
 「赤穂藩国家老の大石良雄も<山鹿流の>門弟の一人<(注12)>であ<るところ>、大石が活躍した赤穂事件以後、山鹿流に…「実戦的な軍学」という評判が立つことにな<った>」(上掲)ことは、極めつきに重要である、と私は考えています。

 (注12)「承応元(1652)年12月から万治3(1660)年9月まで赤穂浅野藩祖の浅野長直・・・が千石で当代一の大学者山鹿素行・・・を江戸藩邸に招聘し・・・た。
 <また、彼は、>承応2(1653)年9月から7ヶ月間赤穂に滞在し、赤穂城の縄張りに貢献し・・・た。
 <ところが、彼が、>[朱子学を批判したことから、]寛文6(1666)年11月から延宝3(1675)年6月まで赤穂に流罪とな<っ>た。
 <その間、すなわち、>大石内蔵助・・・の8歳から18歳までの間、素行<は、>内蔵助・・・の大叔父頼母助良重・・・の屋敷に居・・・た。」
http://shono.blog.so-net.ne.jp/2010-08-07-3 (中の引用文)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C 前掲
 その、素行の謦咳に大石が接しなかったはずがない。
 (大石良重は、素行直系の筆頭弟子だであるところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E6%B5%81
 素行が赤穂を去った後だが、1677年から、当時19歳の大石良雄の後見人になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E9%87%8D )
 にもかかわらず、大石良雄のウィキペディアには、単に「元禄5年(1692年)より奥村重舊に入門し、東軍流剣術を学んでいる。また元禄6年(1693年)には京都で伊藤仁斎に入門して儒学を学んだという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E9%9B%84
とあって、かかる趣旨の記述はない。片手落ちも甚だしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C 前掲

 それは、単に、彼が、山鹿流を学び身に着けたということにはとどまらないのではないでしょうか。
 私は、大石は、幕府によって罪人として流罪に処せられた素行の境遇に深く同情し、幕府に対して含むところがあったはずだ、と見ています。
 彼が中心となって引き起こした赤穂事件(1701年)は、皆さんよくご承知でしょうが、私の視点でざっと振り返っておきましょう。
 (なお、私が、赤穂事件をかつて取り上げたことがある(コラム#29)ところ、それが異なった視点での取り上げ方であったことを、機会あらば、振り返っておいてください。)

 「江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀のあいさつをしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わせていた。こうした朝廷とのやり取りを担当していたのが高家であった。吉良上野介は事件のあった元禄14年<(1701年)>に高家筆頭の立場にあったため、朝廷へのあいさつと朝廷からの使者の接待とを受け持っていた。一方の浅野内匠頭は同年、吉良の補佐役に任命されていた。・・・事件のあった元禄14年における勅使の接待役(勅使饗応役)が浅野内匠頭だったのである。朝廷からの使者達は3月11日<(旧暦。以下同じ)>に江戸に到着し、彼等の接待を受けていた。事件は、この大事な接待の最後の日である3月14日に起こった。・・・
 刃傷事件が起こると、将軍の綱吉<(注13)>は浅野内匠頭の即日切腹を命じた。 当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのに、まして幕府の権威づけの為に綱吉が重視していた朝廷との儀式の最中に刃傷に及んだのであるから即日切腹は当然であった。・・・

 (注13)綱吉(1646~1709年。将軍:1680~1709年)は、「戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだこと<が>影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。・・・歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家たちの所領についてもおおむね綱吉時代に倍増している。
 ・・・赤穂藩主浅野長矩<(ながのり)>を大名としては異例の即日切腹に処したのも、朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようである。綱吉の・・・儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳洲・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代に儒学<は>隆盛を極めた。綱吉の治世の前半は、基本的には善政として天和の治と称えられている。
 しかし貞享元年(1684年)、堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母・桂昌院に従一位という前例のない高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をした。桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったともいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89

 浅野内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた。本来、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破ってまで庭先での切腹を行うよう老中から指示があったという。おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたのだろう。・・・

⇒綱吉は、松之大廊下刃傷への対処の仕方で、将軍が天皇の一部下に過ぎないことを、日本の辻浦々まで周知徹底してしまった、と言えそうですね。(太田)

 赤穂浪士達は討ち入りの日を<元禄15年>12月14日・・・(1703年・・・1月30日)・・・に決めた。というのも、吉良がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止、めたからである。・・・
 四十七士<は>・・・吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたのだが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした。吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる。
 隣の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、・・・仇討ちを行っている旨を伝えた・・・
 <吉良上野介の首級を上げる>までわずか二時間程度。吉良側<は、>死者は15人負傷者は23人<も出>た。
 一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は二人で、・・・表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し<た者と>庭で・・・戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっ<た者が出ただけである>。・・・

⇒大石は、事前に周到な情報収集を行った上で、数的に倍以上の敵が待ち受ける「要塞」を夜襲し、近隣等からの介入を回避しつつ、浪士達から一人の死者も出さずに「戦争」に完全勝利を果たしたことで、山鹿流の「武」の側面の卓越性を広く世間に印象付けることに成功した、と言えるでしょう。(注14)(太田)

 (注14)「歌舞伎・人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』のなかで、<大石内蔵助ならぬ>大星由良助が合図に叩いた「山鹿流陣太鼓」<は>有名だが、実際には山鹿流の陣太鼓というものは存在せず、物語の中の創作である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E6%B5%81#%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E6%B5%81%E9%99%A3%E5%A4%AA%E9%BC%93 前掲
ところ、『仮名手本忠臣蔵』は、時代設定が南北朝時代なのだから、山鹿素行も、従って、山鹿流も存在しているわけがないところ、いずれにせよ、こういう形で、一般庶民の間にさえ、山鹿流の令名は轟いたわけだ。
 ちなみに、(素行の配流は大石の幼少時だから、これもありえないのだが、)赤穂への素行の護送を大石が担当した、という浪曲(注15)まで存在している。
 (注15)(初代)桃中軒雲右エ門 浪曲「大石山鹿護送」。↓
https://www.youtube.com/watch?v=svIQYLyEMgQ
 これは、「武士道を鼓吹し赤穂義士伝を得意とした」桃中軒雲右衛門(1873~1916年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80 
の十八番ネタだった
http://www.hmv.co.jp/artist_%E5%9B%BD%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%98%A5_000000000008797/item_%E5%9B%BD%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%98%A5-%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%B5%AA%E6%9B%B2%E5%82%91%E4%BD%9C%E6%92%B0-%E4%BA%8C-%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5%E3%80%9C%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E8%AD%B7%E9%80%81-%E7%B4%BA%E5%B1%8B%E9%AB%98%E5%B0%BE_2671867
というが、彼の完全創作ネタであったのかどうかまでは解明できなかった。
 
 幕府は赤穂浪士を、細川越中守綱利、松平隠岐守定直、毛利甲斐守綱元、水野監物忠之の 4大名家に御預けとした。赤穂浪士達は預け先にて罪人扱いではなく、武士としての英雄として扱われた・・・。

⇒冒頭の細川家は大石以下17名の浪士を預かるのですが、綱利の突出した「凄まじい義士への熱狂ぶり」は江戸の町民達から喝采を受けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%88%A9 (下の[]内も)
ところ、言うまでもなく、この細川家は、やがて、(もう皆さんの馴染みになっているはずの、)時習館を設けることになる肥後藩の細川家です。
 (毛利綱元の毛利家は、本藩ではなく、支藩(長府藩)の方
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%B6%B1%E5%85%83
ですが・・。)(太田)

 赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は・・・彼らを切腹にする事を決めた<(注16)>。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたから<、と・・>。

 (注16)「幕府評定所(大目付4人・・・寺社奉行3人・・・町奉行3人・・・勘定奉行4人・・・で構成)において赤穂浪士の処分について議論されたが、・・・ほとんどの評定所参加者が浅野(赤穂藩浪人衆)寄りであったため、・・・老中へ提出された評定所の最終的意見書は「吉良義周<(よしちか)>は切腹、吉良家の家臣で戦わなかった者は侍ではないので全員斬罪、吉良の実子上杉綱憲は父の危機に何もしなかったため領地召し上げ。浅野遺臣たちは真の忠義の者たちであるので、このままお預かりにしておいて最終的には赦免するべき」という浅野方に贔屓な内容となった。しかしこの評定所の意見は将軍徳川綱吉ら幕閣には受け入れられず、赤穂浪士は・・・切腹と決定され・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E4%B9%85%E5%B0%9A

 ここで重要なのは幕府が「主人の仇を報じ候と申し立て」という言い回しをしている事である。 あくまで赤穂浪士達自身が「主人の仇を報じる」と「申し立てて」いるだけであって、幕府としては討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めないという立場なのである。
 <もっとも、>通常、このような罪には斬首が言い渡されるが、・・・武士の体面を重んじた切腹という処断になっている。・・・
 元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた。・・・
 細川綱利は切腹跡についた血を清掃しようとする[幕府の使者や]藩士に対して赤穂浪士は吾藩のよき守り神であるとして清掃する必要なしと指示している。・・・
 <また、>赤穂浪士の切腹と同日、吉良家を継いだ<吉良義央の子である上杉綱憲の子にして養子の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%91%A8 >
吉良左兵衛義周<(よしちか)>を信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとされた。
 幕府が吉良左兵衛の処分を命じた理由は、義父・吉良上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁れ難く」あるからだとしている。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時のふるまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6# 

 つまり、幕臣達は(自力救済/私戦容認、また、あらゆる機会をとらえての外様大名の改易の追求、という)時代錯誤とも言える(矮小化された)「武」一辺倒、将軍は非現実的な(儒教と尊王だけの)「文」一辺倒(注17)であったところ、その両者の折衷的な裁定を赤穂浪士達に下さざるをえなかった、と見ている次第です。

 (注17)綱吉個人に関し、「武」めいた話は、およそ聞いたことがない。
 「井沢元彦<による、>『逆説の日本史』中で<の、>「<綱吉は、>戦国の気風を残した世相を、生命を大事にする太平の世へと変革した」との評価
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89
は、(井沢とは違って、強い負の意味でだが、)私は当たっている、と思う。

 その(予期せぬ皮肉な)結果として、文武両道という武士の理想像、すなわち、山鹿・大石的理想的武士像、が日本において確立した、と私は考えるに至っているわけです。
 将軍(幕府)よりも上位の権威・・天皇・・を敬う、という認識こそ、儒教の「忠」を重視する綱吉も山鹿流の大石も共有していたものの、大石は、より上位の権威が体現しているはずであるところの、道理に基づき、最高権力者たる綱吉による、その部下であるところの、彼らの主君たる浅野内匠頭に対する不当な処断を・・喧嘩両成敗という江戸時代を通じた法理(注18)、さもなくば、当時においてのみ認められていたところの、乱心による犯罪は減軽しうるとの法理(注19)、を援用して、綱吉に改め、幕府の権威に打撃を与えることに成功した、というのが言い過ぎであれば、幕府の権威を相対化することに成功した、ことによって・・。

 (注18)「喧嘩両成敗<は、>・・・は江戸時代前期まで慣習法として継続されるが、文治政治への転換の中で儒学者達からの批判を受けることとなった。もっともあくまで批判は「双方それぞれにどんな非があったかを吟味せずに、同罪として処断する」という乱暴な運用についてであ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%A7%E5%98%A9%E4%B8%A1%E6%88%90%E6%95%97
 但し、大石がこの法理を援用したとの直接的典拠はなさそうだ。
 (注19)「「浅野内匠頭 乱心」文書発見・・・」
https://mainichi.jp/articles/20161203/k00/00m/040/141000c
 「元禄10年の書付から享保2年の書付による方針転換まで、<すなわち、赤穂事件の当時、>「乱心者」は「本性」に返るまで牢舎あるいは永牢、「本性」に返った場合は遠島とされ<ていた。>」
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/41789/1/62_55-72.pdf 

 これが、単なる憶測である、とは、私は、全く思っていません。

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[赤穂事件と儒者達]

 「赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡<(注20)>をはじめ室鳩巣<(コラム#9667(未公開))>・浅見絅斎<(注21)(コラム#1632)>などが賛美助命論を展開したのに対し、徂徠は義士切腹論を主張した。「徂徠擬律書」と呼ばれる文書において、「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也。礼を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0

 (注20)はやしほうこう(1645~1732年)。「林<羅山>家を継いだ。・・・元禄4年(1691年)、それまで上野不忍池の池畔にあった家塾が、湯島に移され湯島聖堂として竣工したのにあわせて大学頭に任じられた。このときまで儒者は仏僧の風にしたがい、士籍に入ることもできなかったが、鳳岡は強くこれに反対の意を表明した。これにより、同年、束髪改服を命じられ、従五位下に叙せられた。以後、鳳岡は聖堂学問所(のちに昌平坂学問所)を管掌し、大学頭の官職も林家が世襲することとなり、また、それまで僧形で勤めていた儒官の制度も終わりを告げて、儒学者は一般に士として扱われるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B3%B3%E5%B2%A1
 「儒学者は一般に士として扱われるようになった」に過ぎないことに注意。
 (注21)あさみけいさい(1652~1712年)。「近江国(現滋賀県高島市)に生まれる。はじめ医者を職業としたがやがて山崎闇斎に師事し、・・・<そ>の垂加神道の説に従い・・・徹底<した>・・・尊王斥覇論<をと>・・・り、足、関東の地を踏まず、終生、処士として諸侯の招聘を拒<んだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%A6%8B%E7%B5%85%E6%96%8E

 ということに一般的にはされているが、これらの儒者が、(事件から1か月半後の)裁定より前に、実際に幕府から諮問されたかどうかは不明だ。
 (そもそも、浅見絅斎は「民間人」である上、江戸にいなかったはずだ。(上掲)
 理論的には、早飛脚を使えば、諮問することは時間的には不可能ではないが・・。)
 それどころか、林鳳岡と浅見絅斎は、事後的に赤穂事件について見解を表明したことがあるのかすら疑わしい。
 それぞれの、ウィキペディア等では、赤穂事件に関する記述が全くない。
 他方、室鳩巣と荻生徂徠が見解を表明したことはほぼ間違いない。
 室鳩巣については、赤穂浪士擁護論が残されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E9%B3%A9%E5%B7%A3
し、荻生徂徠が、幕府による赤穂浪士処断を是としていたこともほぼ確かだ。
 その最大の根拠とされる、徂徠の「徂徠擬律書」(上出)こそ、細川家にしか伝わっておらず、偽書説が有力
https://wheatbaku.exblog.jp/20798034/
だが、後述する、落語の「徂徠豆腐」の生誕・・徂徠がそれに「クレーム」を付けたとは聞かない・・が、有力な根拠と言えるのではないか。
 この徂徠だけが、他の3名・・彼らは武士かどうかさえ微妙だった(室鳩巣については後出)・・と違って、幕臣で浪人となった父を持つ、れっきとした武士であった上に、「兵法にも詳しく、・・・卓越した『孫子』の注釈書と言われている・・・『孫子国字解』<も>残し<ている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0 前掲
こと、つまり、徂徠が、山鹿素行と相通じるところの多い人物であったこと、を銘記して欲しい。
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  エ 山鹿・大石的理想的武士像確立の諸状況証拠

 で、表記についてですが、まず、世論です。
 室鳩巣(上出)は、金沢藩出仕を経て幕府儒官になった人物ですが、医者の息子なので、武士出身ではないようです(コラム#9667(未公開))から、非武士インテリ達の多く、すなわち、世論は、その上澄みの人々の多くを含め、綱吉を「逆臣」足利尊氏に見立てた、とさえ言えそうです。
 そして、赤穂浪士の子供だと騙る人々まで現れたというのですから、大石以下の赤穂浪士達は、アイドル的な存在になったということです。↓ 

 「討ち入り後には大石を太平記の忠臣・楠木正成の再来とみなす落首が出た・・・し、室鳩巣も大石を楠木正成に例えている。・・・
 <しかも、>赤穂浪士が切腹した後、浪士の娘だと騙る女が何人か登場し・・・妙海尼は堀部安兵衛の娘だと騙り、清円尼は大石内蔵助の娘だと騙り、長国寺の尼は武林唯七の娘だと騙った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6# 前掲

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[赤穂事件に係る世論の展開]

 「赤穂事件がはじめて舞台に取り上げられたのは、討ち入り決行の翌年である元禄16年の正月、江戸山村座の『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の五番目(大詰)である。曾我兄弟の仇討ちという建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せた。

⇒曽我兄弟に仮託したのは、もちろん、幕府に憚って、大石を、正成に準えるわけにはいかなかったからだ。(太田)

 以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、討入りから4年後の宝永3年(1706年)には、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されている。そしてその集大成が寛延元年(1748年)8月に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。初演のときには「古今の大入り」、すなわち類を見ないといわれるほどの大入りとなり、同じ年に歌舞伎の演目としても取り入れられている。
 『仮名手本忠臣蔵』はのちに独参湯(薬の名前)とも呼ばれ、客が不入りの時でもこれを出せば当たるといわれるほどであった。さらに歌舞伎、浄瑠璃、講談で数多くの作品がつくられ、「忠臣蔵物」と呼ばれるジャンルを形成する。そのような作品のひとつに『仮名手本忠臣蔵』と怪談を組み合わせた鶴屋南北作『東海道四谷怪談』がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5

⇒『仮名手本忠臣蔵』は、大石を正成に準えたかったホンネに少しでも近づけつつ、下掲のような、幕府からお咎めを受けないであろうギリギリのラインの設定にした、ということだ。(太田)

 「高師直・・・鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利尊氏時代に執事をつとめた<人物>。・・・
 古典『太平記』には、師直は神仏を畏れない現実主義的な人物であるとの逸話が幾つか記されている。特に天皇家の権威に対しても、「王(天皇)だの、院(治天の君)だのは必要なら木彫りや金の像で作り、生きているそれは流してしまえ」と発言したことが記されている(ただし、この発言については師直本人の言葉として直接記録されたものではなく、反師直である上杉重能・畠山直宗に協力した僧の妙吉による直義への発言中にあるもので、これも讒言である可能性がある)。ただし、このような態度は師直に限られたことではなく、他の幕府高官にも天皇家の権威をさほど重んじない人間は少なくなかった。・・・
 また、師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、恋文を『徒然草』の作者である吉田兼好に書かせ、これを送ったが拒絶され、怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され終焉を迎えるまで<が>描<かれ>ている。「新名将言行録」ではこれは事実としている。
 『仮名手本忠臣蔵』は、元禄時代にあった赤穂事件を『太平記』の設定に仮託したもので、浅野長矩を塩谷判官高貞、吉良義央を師直とし塩谷判官の妻への横恋慕を発端として描いている。塩冶の「塩」は長矩の領地赤穂の特産品、高師直の「高」は義央の役職「高家」に通じる。師直と義央とは領地の三河でも繋がっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E7%9B%B4

 但し、赤穂事件の処断は、幕府の権威の失墜には直ちには繋がらなかった。
 徂徠の考え方に合致したところの、幕府のこの処断が、若干の時間を置いて、世論に是認されるに至ったからだ。↓

 「落語や講談・浪曲の演目で知られる「徂徠豆腐」・・・では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」と法の道理を説いた。さらに、「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0 前掲
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 より重要なのは、武士達の間でも、赤穂浪士達のアイドル化が起こり、赤穂浪士やその子孫達の厚遇がみられたことです。
 浪士の一人だった寺坂吉右衛門に至っては、足軽だったのに、士分に取り立てられる、という立身出世を果たしています。
 それは、武士達の多くが、大石以下の赤穂浪士達が、かねてより自分達が追求していたところの、理想的武士像を体現している、と思ったからこそでしょう。↓

 「正徳3(1713)年に広島の浅野本家<は、大石の遺児の>大三郎を召抱え、内蔵助が得ていた1500石の知行を与え、大石家を継がせた」
http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/kansanyoroku/200712121330-9183098.html
 「討ち入り後・・・足軽<の>・・・寺坂信行<(寺坂吉右衛門)>には、大目付仙石久尚の決定により一切の追手はかからなかった。・・・その後、仙石久尚の元に出頭したと言われるが、久尚は一切罪を問わず、逆に金子を与えて送り出した。
 ・・・享保8年(1723年)6月頃には・・・土佐藩主山内家の分家麻布山内家の第3代山内豊清(主膳)に仕えて士籍を得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%9D%82%E4%BF%A1%E8%A1%8C

 下掲は、山鹿・大石的武士像の承継的体現者達が王政復古・明治維新を実現した、ということを明治天皇が認めた、象徴的な出来事である、と受け止めるべきでしょうね。↓

 「1868年(明治元年)11月、東京に移った明治天皇は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する宣旨と金幣を贈った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6# 前掲

 以上を踏まえ、私は、大石は、自分達が死んだ後に、以上記してきたような、インパクトを後世に与えるためにこそ、赤穂事件を起こした、とすら、考えるに至っています。
 大石は、将軍による決定に異を唱え、自力でそれを正させたくらいなのですから、自分の主君の浅野内匠頭に忠義を尽くさなければならない、などと考えていたはずがないでしょう。
 そもそも、吉良への刃傷に関して内匠頭を弁護する余地などなさそうなことは、彼ほどの人物であれば、分かっていたはずですからね。
 そして、自分が思い描いたようなインパクトを、自分が起こす赤穂事件が後世に与え続けるためには、フェイクニュースの発生を抑止しなければならないわけであり、寺坂信行(通称吉右衛門)を討ち入り後、逃した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%9D%82%E4%BF%A1%E8%A1%8C
のは、それを抑止するための生き証人としてであり、これも当初からの計画通りだったのであろう、と思うのです。
 「討ち入り後の寺坂には、大目付仙石久尚の決定により一切の追手はかからなかった」とされています(上掲)が、これも、大石が、内匠頭の浅野家の遠縁であった仙石
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E4%B9%85%E5%B0%9A 前掲
の、赤穂事件生起の際の存念を、浅野家ゆかりの者を通じて事前に掴んでいて、そのことを予想していた可能性すらある、と私は思い巡らせています。

 (4)赤穂事件/忠臣蔵が生んだ最初の偉人–林子平

 このように赤穂事件によって確立したところの、山鹿・大石的理想的武士像の、最初の偉大な体現者が、前出の林子平(1738~93年)である、とも私は考えるに至っています。
 彼もまた、ご存知の方ばかりでしょうが、3歳の時に(幕府の御書物奉行(注20)(620石)であった)父親が浪人になってしまったので、町医(注21)をしていた叔父の所に預けられ、姉が仙台藩6代藩主となる伊達宗村の側室になった縁で仙台藩士になるも、「みずからの教育政策や経済政策を進言するが聞き入れられず、禄を返上し・・・北は松前から南は長崎まで全国を行脚<し、>長崎や江戸で学び、大槻玄沢、・・・工藤平助らと交友<し、>ロシアの脅威を説<いた>・・・『海国兵談』などの著作を著し<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AD%90%E5%B9%B3
、という人物です。

 (注20)書物奉行(しょもつぶぎょう)は、「江戸幕府の職名の一つ。寛永10年(1633年)に設置。・・・職務は、江戸城の紅葉山文庫の管理、図書の収集、分類、整理、保存、調査である。著名な奉行に、青木昆陽、高橋景保、近藤重蔵、渋川敬直らがいる。
書物奉行の配下に同心がおり、持高勤めで、元禄6年(1694年)に4人、以降増員され江戸後期には21人いた。古参の同心は世話役を務めた。また塗師・蒔絵師がいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E7%89%A9%E5%A5%89%E8%A1%8C
 紅葉山文庫は、「将軍のための政務・故実・教養の参考図書とすべく、江戸時代初期から設けられていたもので、その膨大な蔵書の蒐集・管理・補修・貸借および鑑定などは、若年寄配下の書物奉行が行った。将軍の利用を基本とするが、それだけでなく老中・若年寄はじめ幕府の諸奉行、学者、旗本、および一部の藩へも貸し出しを許可された(ただし書物奉行に申請する必要があった)。
 なお、「紅葉山文庫」の名称は明治時代以降に用いられたもので、江戸時代には単に「御文庫(ごぶんこ)」と呼ばれたり雅称として「楓山文庫」「楓山秘閣」等の語が用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%BA%AB
 (注21)「江戸時代の医者<は、>・・・西洋の医学書を除けば、医学書の多くが漢文で記されていることから漢文を学ぶ意味も込めて四書五経を修める。」
http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/isya.htm
 環境が、いかに人間形成に重要か、ということだ。

 ところで、仙台藩には、「元文元年(一七三六)に・・・設置された学問所<(注22)>・・・が<あっ>たものの、当初は設備・スタッフも発展途上であったこともあり、さほど積極的に活用されず、のち『海国兵談』を著す「奇人」林子平はその有様を憂い、一七六五年(明和二)、出席の奨励に始まり身分・家格を問わない就学の許可、天文台や医学所、水練場などの施設の設置などの諸案を献言した。その中で子平は特定の学派・分野に偏らない和漢の書物や通俗文学を揃え、「読書用長屋」も併設して自由な読書とフレキシブルな学修を可能とする環境を創る必要性を説いた。・・・

 (注22)学問所(養賢堂→明倫館)については下掲参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%80%AB%E9%A4%8A%E8%B3%A2%E5%A0%82
 この学問所の初代学頭の仙台藩儒官の高橋玉斎(1683~1760)
https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%8E%89%E6%96%8E-1087559
の師匠の仙台藩儒官の遊佐木斎(1659~1734年) は、山崎闇斎にも師事し、『四十七士論』を書いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E4%BD%90%E6%9C%A8%E6%96%8E
 赤穂事件が日本の津々浦々まで、いかに大きなインパクトを与えたかが分かる。

 この子平の献策は実現には時間を要したが、一八〇九年(文化六)より四十余年に渡り学頭を務めた儒者大槻平泉によって強力に推進される。・・・
 平泉が制定した教育内容は「学科は儒学を基本としたが、<(一八一0年)>文化八年書学・算法・礼法の三講座を置き、さらに兵学を増設し兵法・剣術・槍術の三科を置いた。」
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/16275/1/toshokankiyo_17_273.pdf
とされています。
 以上から、子平が、(忠臣蔵的な読み物も彼の念頭にあったと私は想像していますが、)リベラルアーツ教育や自学自習を推奨したこと、また、兵学教育も推奨したらしいことが分かります。
 子平は、現代日本に持ってきても、そのまま通用するような、超時代的知識人であった、と言えるでしょう。
 もう一つ、銘記すべきは、子平の『海国兵談』こそ、私の言う、横井小楠コンセンサスの濫觴である、ということです。

 (5)幕府

 綱吉や時の幕閣達は、これまで紹介してきたものとは180度異った教訓を赤穂事件から得た、と私は見るに至っています。
 すなわち、綱吉の前の家綱の時代から文治政治が始まっていたところ、幕臣達の大部分が、武断政治(注23)の時代の意識のままであることに、綱吉らは衝撃を受け、爾後、歴代将軍や幕閣は、儒教、就中、朱子学教育、という形での幕臣たる武士達の文民化(去勢化!)を模索することになった、と。
 
 (注23)「武断政治<時代には、>・・・幕府に逆らう大名、或いは武家諸法度の法令に違反する大名は親藩、譜代大名、外様大名の区別なく容赦なく改易、減封の処置を行った為、失業した浪人が発生し、治安が悪化し戦乱を待望した。また、征夷大将軍としての武威を強調するために行われた、大名による参勤交代や手伝普請などは、大名にとって多額の出費になり、そのしわ寄せは百姓の生活苦につなが<り、>・・・寛永<には、>大飢饉の被害が全国規模に及んだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%B2%BB%E6%94%BF%E6%B2%BB

 (現在進行形のコラム・シリーズ、『眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む』(未公開)参照。)

3 理想的武士の養成

 (1)藩学と藩校群

 以上、赤穂事件という、山鹿・大石ショックとでも形容すべき大きな出来事が、(恐らく)林子平という一人の天才と、(間違いなく)幕府の後ろ向き政策、を生み出した、という話をしてきたわけですが、この出来事が生み出したものが(間違いなく)もう一つあります。
 それは、全国の各藩における藩校群の設立であり、これこそが、日本の近代史を規定することになった、と私は考えるに至っています。
 まず、藩校とはなんだ、ということから始めましょう。
 本日の「講演」の最初のあたりで、堤克彦が、藩校群の設立は宝暦(1751~64年)から、と考えているらしい、と述べたところ、それは、1669年に設立された岡山藩藩学等を、彼は藩校の範疇には入れていないらしいことを意味します。
 (もっとも、これは、堤に限らないようだ。↓
 「琉球に儒学の学校、明倫堂が創立されたのは1718年であり、日本における藩校設立に先んじるものであった。」
https://books.google.co.jp/books?id=KSNIDAAAQBAJ&pg=PA85&lpg=PA85&dq=%E7%90%89%E7%90%83%EF%BC%9B%E5%84%92%E5%AD%A6&source=bl&ots=D9OZTzBVNG&sig=qmAzquQLOeSoHVrI2peDQtHFeh8&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi-jdeao9XZAhXMjLwKHZGjBKsQ6AEIPDAD#v=onepage&q=%E7%90%89%E7%90%83%EF%BC%9B%E5%84%92%E5%AD%A6&f=false という記述を見つけた。)

 (2)藩学

 では、その岡山藩藩学とはどんなものだったのでしょうか。↓

 「寛文9年(1669年)岡山藩主池田光政によって開設された。これは江戸幕府が開いた湯島聖堂よりも21年早い。
 これより前の寛永18年(1641年)熊沢蕃山の主宰により藩校の前身となる花畠会が創設され、花畠(現在の岡山市中区網浜)に「花畠教場」が開かれた。寛文6年(1666年)花畠教場が廃止され、<別の場所に>・・・仮学館が設置された。
 寛文9年(1669年)生徒が増加し仮学館が手狭となったため、光政は・・・藩学を建造するよう命じた。・・・岡山藩を致仕し播磨国明石に居た熊沢蕃山を招き、同年7月25日に開校式を行った。・・・
 光政は陽明学徒であったが、この藩校では幕府が正学としていた朱子学を中心に教えた。授業の内容は、専任の講師および授読師により主に小学・四書・五経などの誦読と講習、合間に武技の演習が行われた。・・・
 ・・・藩士の子弟の教育が目的ではあったが、光政は“農民の子弟で篤志の者は名字帯刀を許し学費を給付する”という特典を付与し、庶民にも就学の門戸を開いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E8%97%A9%E8%97%A9%E5%AD%A6 ※

 要するに、これは儒教講釈所であって、対象が武士の子弟・・武士扱いされるに至った非武士たる子弟を含む・・ならいずれにせよ必須であった武術の訓練も行ってはいるけれど、兵学教育がなされていないことからしても、それは、(頭の疲労の回復と健康維持も兼ね(?)、)便宜上併せ行った、という性格のものであった、と考えられるのです。
 こういった性格の教育機関を、我々は、藩学と呼ぶことにしましょう。
 藩学を念頭に置いて、幕府は、いわば、幕府の藩学的なものであるところの、但し、半官半民(林家)の、湯島聖堂、を1691年に設立した、ということではないでしょうか。
 但し、林家がれっきとした武士の家とは言い難いこともあり(前述、コラム#9667(未公開)も参照)、岡山藩藩学とは違って、武術の訓練すら行われませんでした。(直接的典拠なし)
 そんな、湯島聖堂は、「その後度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて再建も思うように出来ないままに荒廃していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B3%B6%E8%81%96%E5%A0%82
というのですから、「学生」数の変動こそあれ、絶えることなく継続された岡山藩藩学(※)を持ち出すまでもなく、幕府が、幕臣の子弟の教育に、余り熱心ではなかったことが分かります。
 幕府は、寛政異学の禁の後に、昌平坂学問所を設立しますが、同学問所は、湯島聖堂のレガシーを引き継ぎ、幕府の藩学的なものであり続けることになります。(詳しくは、ここでは立ち入りません。)

 では、江戸時代に、ほかには藩学的な教育機関はなかったのでしょうか。
 誰かが全ての藩校を調べてくれるといいのですが、譜代大名の藩の藩校の多くはそうだったと想像しています。
 例えば、(井伊直弼や昨年のNHK大河で有名な)彦根藩の稽古館(→弘道館)
http://www.hikone-150th.jp/special/naosuke22/001337.php
は、断定はできませんが、藩学的であった感があります。
 また、数日前に「発見」したのですが、初代の保科正之や幕末の松平容保で有名な会津藩の日新館・・なんと岡山藩藩学よりも古い1664年に創立されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%96%B0%E9%A4%A8
ので、最古の藩学か・・もそんな感じです。

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[譜代中の例外たる越前藩]

 稽古館や日新館とは違って、下掲から分かるように、越前藩の藩校明道館は、紛れもなく、藩学ではない、れっきとした藩校だったが、いかんせん、設立時期が遅すぎた。

 「安政2年(1855)に<藩主松平慶永(春嶽)によって、>藩校明道館が設立され、「文武は御政道之御基本」として藩士全員に文武修業が義務づけられたのである)。安政年間には・・・藩政改革が実施され、藩校には、経書科、兵書武技科、史科、歴史諸子科、典礼科、詠歌詩文科、習書算術暦学科、医学科、蘭学科の9科が設置された)。安政4年、橋本左内が学監心得に就くと「文武一致・政教不岐」の理念の下で改革が行われ)、物産科、洋学科、算科局、兵科局が新たに設置された)。・・・軍事教育においても、改革派の主張により西洋調練が採用された)。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2003bulletin/2003kumazawakiyou.pdf
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 他方、外様大名の藩の藩校では、藩学的藩校は例外だったのではないかと想像されるところ、米沢藩の藩校興譲館が、まさにその例外の一つです。
 赤穂事件で、大石らに大恥をかかされた米沢藩は、にもかかわらず、ついに覚醒しないまま(?)、幕末を迎えたようです。
 安永5年(1776年)に設立された藩校興譲館は、「正面に聖堂があり、聖堂左手に講堂、聖堂右手に文庫があった」だけ、つまり、武術の訓練を行う場所がなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E8%AD%B2%E9%A4%A8_(%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E8%97%A9)
わけですから、文字通りの幕府の(兵学抜きの)昌平坂学問所の縮小版といった趣ですからね。

 堤克彦が、著書で掲げる藩校群の数の中には、これらの藩学的藩校群も含まれている可能性が大であるところ、少なくとも、そこでの数の性格について、何らかの説明が必要でした。
 この点に限りませんが、彼、博士号取得者なのですから、著書の記述の細部にもう少しこだわって欲しかったな、と思います。

 (3)藩校

・序

 それでは、いよいよ、赤穂事件以降にできた、(私見では、)この事件によって確立したところの、山鹿・大石的理想的武士の育成を目指した、れっきとした藩校群をご紹介することにしましょう。
 (最初に設立された、藩学的でない藩校・・ミッシングリンク!・・がどこか、を誰かが突き止めてくれることを願っています。)
 熊本藩の時習館(1755年設立)と仙台藩の学問所/養賢堂/明倫館)(1736年設立。1809年頃に藩学的なものから藩校的なものに転換)については紹介済みですが、数多い藩校群の中から、明治維新の際に重要な役割を果たした、薩長土肥の藩校群に焦点をあてることにしましょう。

・土佐藩

 土佐藩の藩校の教授館は、藩学的藩校かれっきとした藩校かは調べがつきませんでした。↓

 「1759年には藩校・教授<(こうじゅ)>館が建設された。・・・8~14才は文のみで素読・習字、15~40才は文武兼修となり文は経書・史書、武は弓馬刀槍が中心であった。・・・1862年には<致道館が>設置され、武・・・は弓馬槍に加えて剣・居・軍貝・軍太鼓・砲など拡充された。」
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/8236/TosaHankou.htm
 (「明和(1764)元年には、八代藩主豊敷(とよのぶ)が、程朱の学を孔子・孟子の学統に接する正学とした。・・・
 文久二(1862)年、一六代藩主豊範は、教授館を廃し、・・・藩校致道館を建設し、・・・陽明学を公認した」
http://blog.livedoor.jp/lastrunner1999/archives/cat_175935.html )

 しかし、前述したように、山鹿流兵学者の若山勿堂の著名な弟子達として、幕臣の勝海舟以外には、土佐藩の板垣退助、土方久元、佐々木高行、谷干城、だけがウィキペディアにあげられている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%B1%B1%E5%8B%BF%E5%A0%82 前掲
ところ、ここから、土佐藩の江戸在勤藩士達の間で山鹿流兵学が大流行であったことが推察できるところ、谷は、「江戸<で>・・・若山勿堂(山鹿流軍学)・・・<に>学び、・・・藩校致道館で史学教授となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B9%B2%E5%9F%8E
というのですから、当時までの史学は、日本に限らず、主として政治軍事史学であったこともあり、致道館で、兵学が教授されていたのはほぼ間違いないことから、教授館においても、兵学が講義されていた可能性が大だと思いたいところです。
 ちなみに、板垣、土方のそれぞれのウィキペディアには、若山勿堂の弟子であったとは記されていないけれど、佐々木は、「山鹿流兵学を・・・若山勿堂から習得、・・・藩では文武調役、作事奉行、郡奉行、普請奉行、大目付などを歴任、山内豊信(容堂)の側近として藩政をリードし<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E9%AB%98%E8%A1%8C
とされているところです。

・長州藩

 長州藩に関しては、私塾であった松下村塾が余りにも有名ですが、その塾長であった吉田松陰自身、藩校の明倫館で学んでいます。
 その明倫館については、以下の通りです。↓

 「1718年(享保3年)、萩藩6代藩主毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建・・・
著名な出身者 桂小五郎 長井雅楽 吉田松陰 高杉晋作 井上馨・・・乃木希典・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%80%AB%E9%A4%A8
 「徂徠学,のち朱子学を中心とした教育を行…った。嘉永2(1849) 年学制改革で経学のほか兵学,制度,歴史,博学,文学などの6科をおいた」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E5%80%AB%E9%A4%A8-141183

 これらだけ読むと誤解するかもしれませんが、「松陰は天保9年(1838)に9歳で山鹿流兵学の家学教授見習として明倫館へ出勤、翌10年に家学の教授をした。しかし、免許はなく代講であった。」
https://books.google.co.jp/books?id=Y5FYCgAAQBAJ&pg=PT14&lpg=PT14&dq=%E6%AD%B3%E3%81%A7%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E6%B5%81%E5%85%B5%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%AE%B6%E5%AD%A6%E6%95%99%E6%8E%88%E8%A6%8B%E7%BF%92%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E6%98%8E%E5%80%AB%E9%A4%A8%E3%81%B8%E5%87%BA%E5%8B%A4&source=bl&ots=KSoBGKXKFi&sig=z-FKjzs6Kh_a2634ZNJKUizlphc&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiArYae2sjZAhVEx7wKHbM0ACYQ6AEIKzAB#v=onepage&q=%E6%AD%B3%E3%81%A7%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E6%B5%81%E5%85%B5%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%AE%B6%E5%AD%A6%E6%95%99%E6%8E%88%E8%A6%8B%E7%BF%92%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E6%98%8E%E5%80%AB%E9%A4%A8%E3%81%B8%E5%87%BA%E5%8B%A4&f=false
というのですから、それよりずっと以前から・・恐らくは、設立当時から・・、明倫館では兵学の講習が行われていた、と私は見ています。

・肥前藩

 「1781年(天明元年)、佐賀藩第8代藩主鍋島治茂が・・・佐賀城に近い松原小路に藩校「弘道館」を設立した。
 設立にあたり、熊本藩の藩校「時習館」をモデルとした。・・・
 明治新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇などは皆弘道館の出身者であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E9%81%93%E9%A4%A8_(%E4%BD%90%E8%B3%80%E8%97%A9)

 このように、時習館をモデルとした、というのですから、もちろん、弘道館では兵学の講習が行われていたはずです。

 (4)特異な薩摩藩

 薩摩藩の場合、二人の、互いによく似た強烈な個性の藩主が、いわば率先して範例を示したことが決定的に大きい、と思うのです。
 薩摩藩の名君と言うと、島津斉彬ばかりが取り上げられますが、その斉彬を自ら手塩にかけて教育したのが、斉彬の曽祖父の重豪でした。
 この重豪なくして斉彬は存在しえなかったと言っていいでしょうね。
 (もとより、斉彬の母親の「弥姫はかなりの才女であり、和歌や漢文の作品を多く残している<ところ、>・・・子育ても乳母に任せず、自ら母乳を与え育て、自身が得意である「左伝」、「史記」、「四書五経」を子供たちに自ら説いて聞かせていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%A7%AB 
というのですから、後述するその血筋とあいまって、母親の薫陶も無視できませんが・・。)
 もちろん、それは生物学的な意味(だけ)ではありません。

 島津重豪(しげひで。1745~1833年。藩主:1760年~87年)は、「蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。
 ・・・安永元年(1771年)には藩校・造士館を設立し、・・・また、武芸稽古場として演武館を設立し、教育の普及に努めた。安永2年(1773年)には、明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行なっている。医療技術の養成にも尽力し、安永3年(1774年)に医学院を設立する。そして、これらの設立した学問所に通えるのは武士階級だけにとどめず、百姓町人などにも教育の機会を与えている。安永9年(1780年)外城衆中を郷士に改め、より近世的な支配秩序の形成を図った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA

 後でもう一度触れますが、重豪が創設した藩校造士館は、それを当初から、非武士にも開放していた、という点でこそ評価できるけれど、実は藩学的藩校であったのではないか、と私は見ています。

 重豪は、「天明7年(1787年)1月、家督を長男の斉宣<(なりのぶ)>に譲って隠居し・・・たが、なおも実権は握り続けた。
 文化6年(1809年)、近思録崩れ<(注24)>事件が起こった。これは子の斉宣が樺山主税、秩父太郎ら近思録派を登用して緊縮財政政策を行…おうとしたものだが、華美な生活を好む重豪は斉宣の政策に反対して彼を隠居させ、樺山らには死を命じた事件である。

 (注24)「近思録崩れ(きんしろくくずれ)は、江戸時代後期文化5年(1808年)から翌6年(1809年)にかけて薩摩藩(鹿児島藩)で勃発したお家騒動。文化朋党事件、秩父崩れとも言われる。処分者の数は有名なお由羅騒動より多い77名であり、薩摩藩の経済改革が遅れる原因となった。命名の由来は、処分された秩父季保らが『近思録』(朱子学の教本で、儒教の実践に重きを置く)の学習会によって同志を募ったことから。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%B2%E5%B4%A9%E3%82%8C

 そして重豪は斉宣を隠居させ、孫の島津斉興を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握ったのである。しかし、晩年に重豪は藩の財政改革にようやく取り組み、下級武士の調所広郷を重用した。調所の財政再建は島津斉興の親政時に成果を見ている。さらに、新田開発も行なっている。
 ・・・重豪は、曾孫の島津斉彬の才能を高く評価し、斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。なお重豪は斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。
 ちなみに重豪は、ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。会見したシーボルトは、「重豪公は80余歳と聞いていたが、どう見ても60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べている。」(上掲)

 要するに、重豪は、いい意味でも悪い意味でもロマンティストたる天才政治家であった、ということです。
 次に、島津斉彬(1809~58年。藩主:1851~58年)その人です。↓

 「青年期まで存命であった曽祖父第8代藩主・重豪の影響を受けて洋学に興味をもつ。・・・理化学に基づいた工業力こそが西洋列強の力の根源であることを見抜き、自身もアルファベットを学ぶなど高い世界認識をもっていた。・・・
 [「<とりわけ、>いちはやく「軍艦と大砲」の重要性に着目する。当時、日本が唯一門戸を開いていたのはオランダで、同国を通じての<支那>の情報は逐一日本に伝えられていたが、斉彬は早くも天保13年(1842)には、アヘン戦争についてのオランダ情報「清国阿片戦争始末に関する聞書」を入手している。当時、東洋最強国と思われていた清国が、<欧州>の島国イギリスに完膚なきまでに打ち破られた事実は、斉彬に<軍艦と大砲>近代化の必要性を痛感させた。・・・
 <なお、彼は、>十歳のころ「四書」「五経」の素読を終え、十八歳の頃には<支那>の正史「二十一史」をほとんど通読していた。武芸修練にも熱心で、馬術、砲術、槍術を学び、剣は薩摩の本流示現流を修行した。」
http://www.data-max.co.jp/2008/05/02/_5_11.html ]
 藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。嘉永4年(1851年)7月には、土佐藩の漂流民で<米国>から帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、安政元年(1854年)、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。<更に、>西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。昇平丸は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸とともに大きく役立った。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。・・・
 斉彬は黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
 「安政3年(1856年)・・・12月、第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚。この頃の斉彬の考え方は、・・・一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので、日中韓同盟をも視野にいれた壮大な計画であ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B 前掲

 この「計画」の典拠を探したものの、まだ見つけていませんが、仮に事実だとすると、公武合体とは、諸藩分立体制を維持しつつ、朝廷と幕府の事実上の一体化を図るという、中途半端な中央集権体制の追求だった・・しかも、その幕府に、国の指導者たりうる人材が乏しかった(「眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む」シリーズ(未公開)参照)・・上に、支那・朝鮮を覚醒させ、日本と提携させることなど、当時、文字通りの夢物語でしたし、何よりも、欧米勢力全体を一挙に敵に回そうとしたことなどは暴虎馮河ものだった、と言えるでしょう。
 いずれにせよ、斉彬は、曾祖父の重豪にそっくりな、ロマンティストたる天才政治家であってリアリストたる政治家ではなかった、と言えそうであり、薩摩藩士中、この斉彬の薫陶を最も受けたところの、西郷隆盛も大久保利通も、互いの考え方こそ異なるけれど、ロマンティストたる天才政治家になり、それぞれ、ズレていた西南戦争の頭目(上掲)、やはりズレていた有司専制の主、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
として悲劇的な死を迎えることになるわけです。
 なお、私は、斉彬は、維新後日本の中期戦略に係る小楠の横井小楠コンセンサスと対になっているところの、維新後日本の長期戦略に係る島津斉彬コンセンサス・・アジアの解放・復興を期する・・の提唱者であった、と考え始めるに至っています。(ここではこれくらいにとどめておきます。)

 「<斉彬は、>阿部正弘の内諾を受け、薩摩藩の支配下にあった琉球王国を介して、フランスとの兵器購入・交易を画策し<・・これ自体が幕府の国際情勢把握力の貧弱さを示している。幕府はついにリアリスト的指導者もロマンティスト的指導者も、ほぼ生み出せじまいだった(太田)・・>・・・したが、・・・斉彬の急死で頓挫している。・・・
 <以下、余談だが(太田)、斉彬の>母の弥姫(周子)は鳥取藩主池田治道と仙台藩主伊達重村の娘、生姫との子であり、織田信長、徳川家康、伊達政宗の血を引いている。 <というわけで、>斉彬は、江戸時代までの島津藩主家において唯一、家康の血を引く当主でもある・・・。
 <また、斉彬は、>養女・篤姫とともに静岡県富士宮市大石寺・遠信坊(日蓮正宗総本山)の檀越であった<(注25)>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC 前掲

 (注25)「浄土真宗禁制に乗り出したのは人吉藩(相良氏)の方が<薩摩藩よりも>早く、弘治元年(1555年)に遡る。この年、相良晴広は分国法「相良氏法度」に、一向宗(浄土真宗)の禁止を追加した。その要因はいまだ明確ではない・・・
 薩摩藩は慶長2年(1597年)である。加賀一向一揆や石山合戦の実情が伝えられ、一向宗が大名によって恐れられたのが原因と考えられる。 また、島津家による公式の禁止令は慶長2年の4年後にあたる慶長6年(1601年)に出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E5%BF%B5%E4%BB%8F

 こういったことも、覚えておきましょう。

 私は、この、重豪と斉彬が、幕末の薩摩「志士」達の思想と行動を形成した、と見ているのです。
 とはいえ、一応、薩摩藩の、私見では、対幕府「見せ金的」藩校であったと私が見ているところの、造士館についても、ここで改めて触れておきましょう。↓

 「薩摩藩には早くから藩校を作る計画があったが、予算不足などの理由で長らく放置されていた。8代藩主・島津重豪はこのような実状に危惧を抱き、安永2年(1773年)、鹿児島城二ノ丸御門前に約3400坪の敷地を確保し、儒教の聖堂である「宣成殿」、講堂・学寮・文庫などを建設した。これが「造士館」の始まりである。・・・モデルになったのは江戸幕府の湯島聖堂、昌平坂学問所である。

⇒重豪は、(下掲からして、)昌平坂学問所・・ちなみに、湯島聖堂を作ったのは綱吉です・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89 前掲 
をモデルに、造士館なる藩学的藩校を作った、と私は解しています。
 彼は、幕府に必ずしも覚えの目出度くない、公式非公式の諸政策を遂行していたことから、目くらましのために、あえて、当たり障りのない藩学的藩校を作ってみせた、ということではなかろうか、と。(太田)

 隣接する4139坪の敷地には弓道場・剣道や柔術などの道場が設けられ、こちらは初め「稽古所」、翌年「演武館」と命名された。・・・
 安永3年(1774年)、重豪は漢方を学習する「医学院」を増設する。同8年(1779年)には吉野村(現鹿児島市吉野町)に「吉野薬園」を建設。同年、鹿児島城の東南に「明時館」を建設し、天文学を研究させ、天文館の由来となった。
 ・・・<造士館では、>儒教に基づいた教育が行われていたが、次第に藩政の対立が儒教の教派の対立となって現れるようになり、文化4年には近思録党を「偽実学党」として非難した山本正誼が教授を免職される事態となり、造士館は大混乱に陥った。その後、緊縮財政の影響もあり、造士館での教育は停滞した。

⇒造士館の教育研究内容は儒教が中心であったこと、かつ、造士館が藩政の中で重視されていなかったこと、が、上掲からも、伺えるのではないでしょうか。(太田)

 嘉永4年(1851年)、11代藩主となった島津斉彬は停滞していた造士館の改革に乗り出した。従来の儒教と武芸教育にくわえて西洋の実学を学習の中心においたのである。
 教育方針は「修身・斉家・治国・平天下の道理を究め、日本国の本義を明らかにし、国威を海外に発揚すること」(安政4年(1857年)告諭)であった。緊迫する情勢に備えて、現実に対応できる素養のある人材の育成を急いだのである。桜島に造船所、仙巌園に西洋科学技術研究所及び製作所として集成館を建設、火薬、ガラス、塩酸などの試作を行い、電信線を開通させ、大砲・軍艦の建造など多大の成果を上げた。斉彬の死後、一時衰えたが、島津久光が藩政の実権を握ると、教育内容の充実が再開され、万延元年(1860年)には<漢>語研究のための「達士館」、元治元年(1864年)には西洋式軍学や技術を専門に学ぶ「開成所」が設けられ、大勢の軍事技術者や英学者の養成に貢献した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A0%E5%A3%AB%E9%A4%A8

 このように、斉彬によって、ようやく、造士館は、藩学的藩校かられっきとした藩校へと変貌したらしいものの、それは時期的には遅すぎた上に、そもそも、造士館自体は、藩士の教育研究機構のほんの一つでしかなかった、ということが分かります。

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[改めて横井小楠について]

 小楠にとって「文」は歴史と国語であったことが分かるのが下掲↓の彼の文章だ。
 肝心なのは、ここに儒教が登場しないことだ。

 「凡ソ學問ハ、古今治乱・興廃ヲを洞見シテ、己レノ智識ヲ達スルニアリ、須ラク博ク和漢ノ歴史ニ渉リ、近小局スヘカラズ、廿二史ノ書等一讀スヘシ、然ラサレハ、経國ノ用ニ乏シク、共ニ為ルニ足ラス。(中略)文章ヲ學フベシ、吾見ル所ヲ陳ベ、志ス所ヲ達スルハ、文章ニ在リ、而シテ藩ノ學者、文章ヲ善クセス、近世遊學スル者アリテ、漸ク八家ノ文ヲ學フコトヲ知ル、先儒ハ唯薮孤山ノミト」(102)

 また、小楠は、武、すなわち、兵学にも通暁していたはずである。
 さもなければ、時習館が掲げる期待される武士像からして、武術に長けていたとは思えない小楠が、少なくとも兵学には余程通暁していない限り、その時習館の「講堂世話役を経て、・・・時習館居寮長(塾長)となる」ようなことは、およそ考えにくいからだ。
 その後、旧態依然の、儒教(と恐らくは武術)を重視した「学校派」の連中との間での時習館の在り方を掲げて行われた権力争いに敗れた「実学派」の小楠を、(前にも触れたが、)藩主細川斉護は、江戸遊学をさせる、という形で事実上救済している。(105~108)
 その小楠が、「「孝悌」<(注26)>と「堯舜之道」(「堯舜<禹>三代の治教」)を分離させ<るに至った結果、>・・・<こうして>分離<され>た「堯舜之道」・・・が、小楠の「公」「私」判断の重要な基準となり、やがて<、彼の、>「公共の政」としての「公議政体論」<(コラム#1608)>の形成につながっていった」(112)わけだ。

 (注26)「「孝」はよく親に従うこと、「悌」は兄や年長者によく従うことであり、「孝悌」と併用されることも多い。春秋時代にあらわれた孔子の言行録である『論語』には「孝悌なるものは、それ仁の本なるか」とあり、儒教における最高の徳目である「仁」の根本とされる。
 戦国時代に現れた孟子においては、秩序ある社会を造っていくためには何よりも、親や年長者に対する崇敬の念、即ち「孝悌の心」を忘れないことが肝要であることを説<いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%82%8C 

 つまり、小楠は、「孝悌」を、孔子や孟子とは違って、「私」の領域に封じ込めるという、儒教の抜本的換骨奪胎を行い、儒教を、事実上、ゴミ箱に捨ててしまった、ということだ。
 ちなみに、小楠も、下掲のように、武術・・この場合は剣道・・は、時習館での最低限の修得にとどまっていたように思われる。
 (事実認定は、熊本藩によるものが正しい、と見るべきだろう。)↓

 「文久2年(1862年)・・・12月19日、熊本藩江戸留守居役の吉田平之助の別邸を訪れ、熊本藩士の都築四郎・谷内蔵允と酒宴をした。谷が帰った後、3人の刺客(熊本藩足軽黒瀬一郎助、安田喜助、堤松左衛門)の襲撃を受けた。不意の事であったため小楠は床の間に置いた大小を手に取れなかった。そのため、身をかわして宿舎の常盤橋の福井藩邸まで戻り、予備の大小を持って吉田の別邸まで戻ったが、既に刺客の姿は無く、吉田・都築ともに負傷していた(吉田は後に死亡した)。この事件後、文久3年(1863年)8月まで福井に滞在。熊本藩では、事件の際の「敵に立ち向かわずに友を残し、一人脱出した」という小楠の行動が武士にあるまじき振る舞い(士道忘却)であるとして非難され、小楠の処分が沙汰された。福井藩は、国家のために尽くしている小楠が襲われたのは、単に武士道を欠いた者と同一視するべきではなく、刀を取りに戻ったのは当然であると小楠を擁護した。同年12月16日、寛大な処置として切腹は免れたものの、小楠に対し知行(150石)召上・士席差放の処分が下され、小楠は浪人となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0

 ここからも、山鹿的武士理想像の何たるかがよく分かろうというものだ。
 越前藩はそれを是としたのに対し、肥後藩はそれを非としたわけであり、小楠が肥後藩と、折り合いが悪くなって行ったのは当然のことと言える。
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[忠と孝]

 「忠<(忠義)も>・・・儒教における重要な徳目の一つ<だが、>・・・<支那>や朝鮮では多くの場合、「忠」よりも「孝<(孝悌)>」が重要だと考えられた。
 一方で、近世日本においては朱子学伝来以後、逆に「孝」よりも「忠」の方が重要だと考えられ、武士道に影響を与える事になる。
 また、水戸学派<に至って>は、・・・<忠と孝について、>どちらか一方の中心に収瞼させて円にしようとするものではない<支那で考えられないことに、>・・・「忠と孝は一つのもの(忠孝一合)」として<しまった>。
 <その背景として、>日本<で>支配階級であった武家・・・は<、とりわけ、>家(血族ではなく組織としてのイエ)の意識が<支那>人より高く、忠が孝につながると<考える傾向があった(君に忠を尽くさず、家を断絶されることは、孝につながらないとした意識)ことがあげられる。
 この「忠孝一致」<を>、吉田松陰<も>・・・説いて<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0
 松陰は、小楠のように、儒教を事実上捨てるところまで至っていなかったため、この点では、考えが不徹底に終わってしまった、といったところか。
 ところで、忠(忠義)が儒教の重要な徳目である旨を記した儒家の典拠が、少し調べた限りでは分からなかった。
 ご存知の方はご教示いただきたい。
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[改めて吉田松陰について]

 「アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事する。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水にも学んでいる。・・・

⇒松陰が「山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感」などしたはずはない。
 というのも、彼は、元々山鹿流に通暁していたはずなのに、それでもなお、山鹿流宗家的存在であった「素水に<のところに、>・・・学」ぶために入門しているくらいだからだ。
 松陰が、西洋兵学を学んだのは、山鹿流を時代に即して更にアップデートしようとしただけだったはずだ。(太田)

 塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。・・・
 嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。・・・その後、師の薦めもあって外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、<欧州>で勃発したクリミア戦争に<英国>が参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航していた為に果たせなかった。
 嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には、・・・旗艦ポーハタン号に・・・乗船した。しかし、渡航は拒否され・・・伝馬町牢屋敷に投獄された。・・・

⇒これらは、松陰が、山鹿流兵学由来(と思われる)飛耳長目を自ら実践し、敵を視察しようとしたものだ。
 明治維新直後の政府首脳達による岩倉使節団(1871~73年)の副使は、長州2(木戸孝允・伊藤博文)薩摩1(大久保利通)肥前1(山口尚芳)だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3
が、この使節団は、旧長州主導で松陰の遺志を果たすためのものだった、と私は見ている。
 ちなみに、当時の世界で、科学技術が最も発達し、かつ、世界覇権国でもあったのは英国だが、長州藩は、早くも(下関戦争の前の)1863年に5名の留学生を英国に送っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E4%BA%94%E5%82%91
ところ、薩摩藩は、このことを知らないまま、2年遅れて(薩英戦争の後の)1865年に15名の留学生を英国に送っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E7%95%99%E5%AD%A6%E7%94%9F 
 他方、幕府は、1862年に、何と、オランダなんぞに9名の留学生を送っており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%AD%A6%E7%94%9F
1866年末にもなって、ようやく、14名の留学生を英国に送ったものの、1868年には幕府は瓦解してしまう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%AD%A6%E7%94%9F 
 (この薩摩藩と長州藩の両藩が、それぞれ、経緯こそ異なれども、幕府のせいで、(英留派遣前の)1863年の薩英戦争・・軍事的には薩摩の勝利・・、と、(英留派遣後の)1863年と64年の下関戦争・・軍事的には長州の敗北・・という形で、ほぼ、同じ時期に対欧米戦争を行っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89 
ことは、興味深いものがある。)(太田)

 「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張し<た。>・・・

⇒日本を完全な中央集権国家にしないと、欧米諸国による侵略の抑止などできない、という発想からだろう。公武合体論・・この系譜に、薩摩藩の斉彬、久光、西郷、大久保は連なる・・ではなく、この松陰の考えこそが明治維新をもたらしたわけだ。(太田)

 <また、>『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり〇(石偏に駁)略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・●<(こざと偏に奥)>都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、琉球(現在の沖縄。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満洲・台湾・フィリピンの領有を主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0 ※

⇒「嘉永6年(1853年)・・・10月、ロシア軍艦に乗ろうとして長崎に向かっていた吉田松陰<は、肥後の>小楠<の所>に立ち寄り、小楠と3日間話し合っ<て>」おり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0
この折に、小楠の対露抑止論・・後に、私の言う横井小楠コンセンサスとなった・・を伝授され、それを翌年・・『幽囚録』は1854年執筆・・
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B9%BD%E5%9B%9A%E9%8C%B2
で紹介した、ということだろう。
 これが、対支那侵略論と当時の清の漢人達が受け止めなかった証拠に、康有為や梁啓超が松陰の諸書を愛読したという事実(※)がある。(太田)
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3 中締め

 以上、日本に、明治維新をもたらし、富国強兵政策を推進させ、横井小楠コンセンサスを主(、島津斉彬コンセンサスを従(?)、)とする、対外戦略を展開させ、対露抑止とアジア復興という、世界史的大事業を完遂させたものは、江戸時代初期における、山鹿・大石的理想的武士像の確立であった、という話をさせていただきました。
 徳川幕府が維新の担い手たりえなかったのは、幕府が、幕臣達を文官官僚化しようとして、「儒教」教育だけ行い、「文武」教育を行わなかったから、という話も。
 (幕府が、「武」教育を開始したのは、御用学として(やっぱりなという感がありますが)山鹿流が採用されたところの、講武所を設置した1855年(安政2年)であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E6%B0%B4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E6%AD%A6%E6%89%80
もはや時機を完全に失していました。
 なお、講武所は、何と、明治維新を待たずして、慶応2(1866)年に廃止されている(上掲)ことも、記憶にとどめておいてください。)

 以下は、このことを踏まえた、諸問題提起です。
 では、どうして、薩長土肥等は維新に「成功」したのに、幕府は、維新を試みることにさえ「失敗」してしまったのでしょうか。
 それは、(アングロサクソン諸国及び(拡大欧州たるロシア)を含む欧州諸国の総称たる)欧米諸国に共通する最重要な属性は何か・・それは、「近代」とは何か、と言い換えてもいいでしょう・・に関わってきます。
 この、最重要属性に係る認識において、明治維新以降の日本の文系学者達の大半は根本的に勘違いしているのではないか、その典型例が丸山眞男ではないのか。
 この勘違いが、維新以降の、日本の文系の学問全体の理系の学問全体に対する相対的遜色をもたらしているのではないか。
 仮にそうだとして、一体、どうしてそんなことになってしまったのか。
 このこととも関連していますが、どうして、藩校の過半で行われていたと私が見ているところの「文武」教育的な選良教育が、維新後、継続されないことになってしまったのでしょうか。
 また、前述の世界史的大事業の明治維新後の主たる担い手となったのは帝国陸軍である、と私は考えているところ、仮にその通りだとして、帝国陸軍が主たる担い手になったのは、どうしてなのでしょうか、そして、一体どのような経緯でそうなったのでしょうか。
 それに対し、帝国海軍の、戦間期から先の大戦の終戦までの体たらくは何故なのでしょうか。
 更に、以上とはちょっと次元が異なりますが、島津斉彬コンセンサス、なんてことを、私が唐突に言い出した理由等、についても知りたいとは思いませんか。
 これらについては、本日の質疑応答の中でも、質問があれば、適宜触れたいと思いますが、基本的には、次のオフ会で予定している「講演」・・今回の演題の後半部・・で、(可能な限り、)きちんと取り上げたいと思っています。
 本日、及び、次回の私の話の中身を、検証したり、論駁したり、或いは、深めたりしていただける方々が現れることを希っています。

 なお、今回の演題につながる、基本的な問題意識を喚起してくれたのは、コラム読者で中学同級生の渡洋二郎君との間での、彼の曽祖父の渡正元(「渡正元『巴里籠城日誌』を読む」シリーズ(コラム#8755以下))を巡る雑談の中で、正元が、陸軍、行政、司法(法制局)、立法(貴族院議員)、と、軍と三権にまたがったキャリア・・現在の日本ではおよそ考えられない・・を送った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%AD%A3%E5%85%83
ところ、それを可能にした、いかなる教育を彼は受けたのだろうか、とふと思った時です。
 (正元は、広島藩の藩校(注27)で教育を受けたのですが、残念ながら、この藩校自体の教育内容はよく分かりませんでした。広島藩主の浅野家は赤穂の浅野家の本家であったこともあり、恐らくは、れっきとした藩校であったと信じていますが・・。)

 (注27)「広島藩の藩校創設は享保10年・1725年で、浅野藩5代藩主・浅野吉長により『講学所』として設置され・・・た。・・・1734年には『講学館』と改名され、さらに1782年には『学問所』と。そして明治3年に『修道館』とな<っ>た」
https://blogs.yahoo.co.jp/senda3/46129810.html

 『巴里籠城日誌』を提供してくれた渡君、そして、上記雑談の機会を与えてくれた渡君、に感謝しておきましょう。
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太田述正コラム#9693(2018.3.10)
<2018.3.10東京オフ会次第>

→非公開