太田述正コラム#9485(2017.11.26)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その20)>(2018.3.12公開)

 「1941年6月22日、ドイツ軍はソ連侵攻を開始する。
 さらにドイツは、フィンランドと同盟を締結したことを公言する。
 それに対して、フィンランド政府はすぐに中立であることを表明し、独ソ戦に参加していないことを強調した。
 だがドイツ軍がフィンランド北部ラップランドに進駐し、そこからソ連を攻撃したことは明白だった。・・・
 6月25日、ソ連空軍はフィンランド各都市を空爆する。

⇒ここの記述はかなり不正確であって、ロシアを空爆したドイツ軍機が、フィンランドの飛行場で再給油したりしており、ソ連は、フィンランド内の19の飛行場のドイツ軍を空爆した、と、当時、表明しているところ、情報と爆撃の不正確さにより、都市や町も被害を受けた、
https://en.wikipedia.org/wiki/Continuation_War
というのが現実だったようです。(太田)

 これをきっかけにフィンランドは翌26日、ソ連に対して宣戦布告。
 フィンランド政府は、この戦争を冬戦争から続く防衛のための戦いであるとし、「継続戦争」と呼んだ。
 つまり、戦争はあくまでソ連の侵略戦争に対する防衛手段であり、独ソ戦争とは「別の戦い」であると主張したのだ。
 しかし、一方でリュティ<(注37)>大統領は、戦争開始後の最初のラジオ放送で、ドイツの軍事力が「我々の側で」戦っていると伝えていた。

 (注37)リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti。1889~1956年。首相:1940年3月~12月、大統領:1940年12月~1944年8月)は、「フィンランドの政治家、弁護士、銀行家[(中央銀行総裁)]。・・・戦後、リュティは戦時中ナチスに加担したとして戦争犯罪人として訴追され、1946年に禁錮10年の判決を受けた。しかし健康を害して1949年に釈放され、以後は政界に復帰することなく隠遁生活を送り、1956年に死去した。その死にはソ連の猛烈な反対にもかかわらず国葬が行われた。」ヘルシンキ大法学部卒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%86%E3%82%A3
https://en.wikipedia.org/wiki/Risto_Ryti (上下の[]内)

 ドイツとの軍事協力を認めていたのである。
 フィンランド軍はソ連に割譲した旧領土へと進軍し、8月にはカレリア地峡の主要都市ヴォーブリを占領。
 9月に入ると1940年のモスクワ条約で失ったすべての領土奪還に成功する。
 さらに、フィンランド軍は旧国境を越えて進軍を続け・・・ラドガ湖北部および北西側に位置する・・・ロシア・カレリア、通称「東カレリア」を占領した。
 ロシア・カレリアの占領は、和平交渉時に有利に立てるからでもあったが、それ以上に内戦期に手に入れることができなかったロシア・カレリア獲得によるフィンランド領の拡大、つまりは「大フィンランド」の実現が念頭にあった。・・・
 フィンランド軍は1941年・・・12月に・・・前進をやめ、塹壕を築き、占領地の防衛に重きを置く。
 この状況が1944年6月まで続くことになる。・・・
 この継続戦争におけるフィンランド軍のドイツ軍への協力は明らかだった。・・・
 1941年12月6日に<は>、イギリスから宣戦布告される。
 ただし、イギリスからの軍事行動は見られなかった。
 アメリカは<その直後に、真珠湾攻撃を受け、>・・・日独に宣戦布告したが、この時点ではフィンランドには宣戦布告していない。・・・
 <但し、>ドイツがフィンランド軍に要請したカレリア地峡からレニングラードへの攻撃をフィンランドは拒否し続けた。
 また、バレンツ海につながるムルマンスク道路の分断要請にも応じなかった。・・・
 1943年2月、戦局が大きく転換する。
 スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗を喫し、戦局が一気にソ連に有利に傾いたからである。・・・
 1944年・・・6月・・・9日、ソ連軍はカレリア地峡に26万の兵士を動員し、大規模な攻撃を始めた。・・・
 6月22日、フィンランドを訪れたドイツのフォン・リッベントロップ外相とリュティ大統領の間で・・・武器[/食糧援助]<の見返りに>・・・フィンランドが単独でソ連と講和しないとする旨の条約が締結される。・・・
 <しかし、>フィンランド議会はこの条約締結を否決。
 最終的にはリュティ大統領が政府の代表ではなく「個人的」に条約に署名することで決着をつけた。・・・

⇒英語ウィキペディア(上掲)では、リュティが議会承認に拘ったのに対し、マンネルヘイムは最初から「個人的」署名を求めており、結局、両者が妥協して、閣議了解を経てリュティが署名した、とあり、ここも、記述がやや不正確であると思われます。
 関係英語ウィキペディア群の記述は、いずれも詳細な(フィンランド人によると目される)典拠群が付けられており、全般的に信頼できそうです。
 石野が、関係英語ウィキペディア群を参照する程度の労を惜しんだらしいことは残念です。太田)

 条約締結から1か月後にリュティは辞任を表明し、8月4日にフィンランド軍総司令官であったマンネルヘイムが大統領選挙人によって<大統領に>選出された。・・・
 <彼は、>9月4日に停戦に漕ぎつけ、19日にはソ連との間で休戦条約が締結され、ようやく戦争は終わった。・・・
 継続戦争におけるフィンランドの犠牲者は、不明者を合わせると6万6000人で、負傷者は14万5000人に及んでいた。」164~169、171) 

(続く)

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