太田述正コラム#9487(2017.11.27)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その21)>(2018.3.13公開)

 「1944年9月19日にソ連およびイギリスと休戦条約を締結したフィンランドは、敗戦国として復興に向かって歩み出すことになる。・・・
 フィンランドはソ連軍による占領は免れたものの、連合国管理委員会がヘルシンキに設置された。
 この管理委員会はソ連の主導で、ソ連、イギリスの二ヵ国で構成されたが、委員はほとんどロシア人で構成されていた。
 連合国管理委員会は、休戦条約が履行されるかの監視を目的とした。・・・

⇒ソ連が、ひどい目に遭わされたにもかかわらず、フィンランドを占領しなかったこと、休戦条約履行監視を形の上だけとはいえ、(実際にフィンランドと戦火を交えたわけではない)英国と共に行う体制にしたこと、については、ドイツと共に連合国と戦っていた他の諸国の戦争離脱を促す目的があった、と一応想像することは可能でしょうね。(太田)

 早急に対応を迫られたのは、フィンランド領内にいた20万人のドイツ軍への対応である。・・・
 フィンランドでは、1944年10月から始まったドイツ軍撤退に伴う破壊活動およびドイツ軍とフィンランド軍との戦闘を「ラップランド戦争」と呼ぶ。
 ラップランド戦争は、1945年4月末のドイツ敗北直前まで続いた。
 この戦争はフィンランド軍、ドイツ軍合わせて約4000人の犠牲者を出している。
 第二次世界大戦後、日独は連合国の戦犯裁判によって裁かれたが、フィンランドが日独と大きく異なる点は、自ら戦争責任裁判を行ったことであうr。
 ここでは国際関係学者の百瀬宏による研究(『小国外交のリアリズム』)に依拠しながら、裁判の流れを概説したい。

⇒石野は、再び、唐突に、典拠・・但し、今度は、先に既に登場していた人物の論文・・を開示していることに当惑しましたが、本書の後書に改めて目を通してみたところ、「特に、津田塾大学名誉教授の百瀬宏先生には草稿を読んでいただき、ご助言を賜った。」(269)とあったので謎が解けました。
 但し、謎は解けたけれど、だからと言って、本文中で、百瀬の著書のPRを行うということには、依然、違和感を覚えます。(太田)

 <省略。>
 1945年11月から始まった裁判は3ヵ月にわたり行われ、46年2月に判決が下された。・・・
 第二次世界大戦後、ドイツに占領されていたノルウェー、デンマークでも、自国で戦時の指導者らを国家反逆罪に問う裁判が行われた。
 その結果、ノルウェーでは25名、デンマークでは46名に死刑が宣告されたが、フィンランドは1人の死刑宣告も、処刑者も出さずにすんだ。
 冬戦争・継続戦争の総司令官であり、当時大統領であった国民的英雄マンネルヘイムはこの裁判にかけられることはなかった。
 ソ連はいまだ絶大な人気を誇るマンネルヘイムに刑を科すことで、フィンランド国内に悪い影響を及ぼすことを避けたからである。・・・

⇒石野のこの筆致からすると、ソ連には、(当然ながら)、裁判の帰趨に、誰を被告にするかを含め、事実上の決定権があったということになりそうですが、ソ連が、裁判の時点では第二次世界大戦が完全に終わっていたというのに、何故、フィンランドに対して、このように「寛大」な姿勢を貫いたのか、不思議です。
 このことの解明も他日を期すことにしますが、取りあえずの私の仮説は、前にも記したように、ソ連は、帝政ロシア時代のロシア領で第一次世界大戦後独立した諸国中、「ゲルマン系」のフィンランドに「スラブ系」諸国よりも敬意と親近感を抱いていたことに加えて、休戦時点でフィンランドの大統領であったマンネルヘイムについて、そのロシア帝国軍将校であった時のロシアヘの諸貢献に対して敬意を抱いていたから、というものです。(太田)

 百瀬は、戦争責任裁判を・・・占領を免れるために支払った代償・・・と言う。」(175~176、179~180、184、186)

⇒いずれにせよ、この裁判が茶番に等しいことは、ソ連自身、百も承知していたに相違ないのであって、百瀬の大袈裟な指摘には苦笑せざるをえません。(太田)

(続く)

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