太田述正コラム#9489(2017.11.28)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その22)>(2018.3.14公開)

 「ソ連のフィンランド政治への介入は・・・1944年9月の・・・休戦直後から始まっていた。
 1944年10月末にソ連の指導した、これまで非合法化されていた共産党が、「フィンランド人民民主同盟」という名称で復活した。・・・
 1944年11月にパーシキヴィ<(注38)>が首相に選出されたが、この第二次パーシキヴィ内閣に共産党の元指導者が入閣していた。・・・

 (注38)ユホ・クスティ・パーシキヴィ(Juho Kusti Paasikivi。1870~1956年。首相:1918年5月~11月、1944年11月~1946年3月。大統領:1946年3月~1956年3月)。ヘルシンキ大卒(露語・露文学)、同大修士(法)、同大(法博)、、同大助教授、フィンランド大公国大蔵省長官、国立株式銀行(KOP)長官、等を歴任後、政治の世界へ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%9B%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%AD%E3%83%B4%E3%82%A3
https://en.wikipedia.org/wiki/Juho_Kusti_Paasikivi

 パーシキヴィは、1946年3月にマンネルヘイムが大統領を辞めると、大統領に選出され、1956年3月まで務めることになる。・・・
 冷戦が進展するなか、フィンランドはなぜ「東欧化」しなかったのか・・・要因は以下の2点による。
 一つは、・・・共産党の流れを汲むフィンランド人民民主同盟がめざした社会主義化に賛同する動き<が>少な・・・かった。

⇒石野はその理由を記していませんが、私には、単に、ソ連がごり押しをしなかっただけのように思えます。(太田)

 もう一つは、ナチス・ドイツに「与した」第二次世界大戦期の反省から、現実を直視した外交戦術を展開したことによる。

⇒独立後のフィンランドの歴代指導者達は、「現実を直視した外交戦術を展開した」ものの、それが結果として功を奏しなかった場合もある、ということでは?(太田)

 その一つが・・・ソ連との条約締結である。

⇒それがフィンランドに有利な内容であったとすれば、単に、ソ連がそうしたということですし、条約を守るも守らないも、ソ連次第だったところ、たまたま、この条約はソ連は守った、というだけのことでしょう。(太田)

 1947年2月、連合国21ヵ国と締結したパリ講和条約によって、フィンランドは主権を回復した。
 その直後、スターリンからソ連との相互援助条約が提案される。
 ソ連ははフィンランドが西側にとり込まれないために条約締結を求めたが、フィンランドは別の思惑から締結する。
 フィンランドは、二度にわたるソ連との戦いで小国が大国間の争いの外にいる必要性を痛感し、独立の尊重と内政不干渉の原則をこの条約に盛り込もうとしたのである。
 ・・・1948年4月6日に有効・協力・相互援助条約(通称FCMA条約。・・・)として正式にソ連とフィンランド間で締結される。・・・
 前文では、・・・「大国間の利害紛争の外に留まりたいというフィンランドの願望を考慮し」、かつ国際連合組織の目的と原則に従って、国際的な平和と安全の維持のために確固として努力する旨を表明するとされた。・・・
 この一文はその後のソ連の内政干渉に対抗する手段となった。・・・
 第1条ではソ連またはフィンランドの敵に対して協同して戦うことを約束するが、フィンランドはその義務に誠実な「独立国家」として侵略を撃退するために戦うとされた。
 第2条では軍事的脅威が証明された場合には、相互で協議を行うことが規定された。
 このような条項はソ連が締結した他の社会主義国との条約にはなく、フィンランドがチェコスロヴァキア、ポーランド、ルーマニア、ハンガリーなどの東欧諸国とは異なる関係をソ連と結んだ証左であった。
 結果的に、フィンランドは第1条、第2条と、「大国間の利害紛争の外に留まりたいフィンランドの願望を考慮し」という前文を盾に、その後の中立政策を打ち出していくことができたのである。
 つまり、この条約はフィンランドがソ連の衛星国とされずに踏みとどまる要因ともなった。

⇒石野の発想は転倒しています。(太田)

 FCMA条約の効力は10年間と規定されたが、その後は5年間の延長が可能であったため、更新が重ねられ、ソ連が崩壊する1991年まで続いた。・・・
 冷戦期のフィンランドを牽引した政治家ケッコネン<(注39)>は1950年から首相を5期5年間、1956年からはパーシキヴィに代わり大統領を4期26年間務め、1981年に病気で引退を表明するまでフィンランド政治の中心にいた人物である。・・・

 (注39)ウルホ・カレヴァ・ケッコネン( Urho Kaleva Kekkonen。1900~1986年。首相:1950年3月~1853年11月、1954年10月~1956年3月。大統領:1956年3月~1962年1月)。ジャーナリストを経て、警察で勤務しながらヘルシンキ大で学び同大博士(法)。スポーツマンでもあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%9B%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%8D%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Urho_Kekkonen

 戦後フィンランドの親ソ路線は外交政策の基本となったが、この路線は、最初はパーシキヴィによって、次にケッコネンによって踏襲されたため、のちに「パーシキヴィ・ケッコネン路線」とも言われる。・・・
 <それは、>「フィンランド化」<(注40)>と言われることがあった。

 (注40)「議会民主制と資本主義経済を維持しつつも共産主義国の勢力下におかれる状態を、フィンランドとソビエト連邦の関係になぞらえた語・・・旧西ドイツの保守勢力が、諸悪の根源とされる共産主義諸国との対話を重視した首相ブラントを批判する際に用いた造語に由来する。・・・
 フィンランドの元国連大使マックス・ヤコブソンは「もしフィンランド化という言葉が、超大国に国境を接する小さい中立国は、力の現実にその政策を適合させねばならない、という意味に使用されるならば、それに異論はない」としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%8C%96

 この言葉の起源は1950年代初頭のオーストリア国内での討論からとされる。
 1960年代に西ドイツの政治学者が、ドイツの外交について「フィンランド化」の語句を用いて論じたことで広まった。
 ソ連が外交的な圧力をかけることで他国の内政を操っているという意味としてである。・・・
 だが、そのイメージはフィンランドの現実とは乖離していた。」(187~188、190~194、199~200)

⇒言論の自主規制を強いられたこと(後出)、等、「現実と・・・乖離していた」とは、私は全く思いません。(太田)

(続く)