太田述正コラム#9519(2017.12.13)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その10)>(2018.3.29公開)

 「1697年、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世はポーランド国王に選ばれ、アウグスト2世<(注20)(コラム#8796)>と名乗った(在位1697~1733)。・・・

 (注20)「ポーランド・リトアニア共和国の国王選挙に出る資格を得るため、アウグストはカトリックに改宗した。ザクセンの選帝侯たちは伝統的に「宗教改革の擁護者」と呼ばれ<てい>・・・たため、アウグストの改宗は世間を驚かすものであった・・・ザクセン選帝侯は、帝国議会における新教徒派の指導者の地位をブランデンブルク=プロイセンに奪われることにな<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%882%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

⇒いくら頁数が限られているとはいえ、「アウグスト2世・・・は、「驚異的な怪力の持ち主であったことから「強健王(Mocny)」「ザクセンのヘラクレス」「鉄腕王」などの異称で呼ばれ、またその異称の所以を証明するために素手で蹄鉄をへし折るのを好んだ。先祖であるポーランド人のツィンバルカ・マゾヴィエツカもまた怪力で有名だった。」(本人のウィキ・・・)」(コラム#8796)ということくらいには触れて欲しかったところです。
 ちなみに、ツィンバルカは、ポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(前出)の妹の娘であり、オーストリア公エルンスト鉄公の妻となり、その後のハプスブルク家全員がツィンバルカの血を引くことになった、という人物です。
 彼女は、ハプスブルク一族の遺伝的特徴に突出した下唇を持ち込む一方、彼女の娘が結婚したザクセン選帝侯フリードリヒ2世を通じ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BE%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%84%E3%82%AB
ザクセン選定侯家に、ずっと後の時代ですが、怪力の持ち主であるフリードリヒ・アウグストをもたらした、ということになります。(太田)

 <彼>は無謀にもポーランドを北方戦争(ロシア・スウェーデン間の戦争。1700~21年)に介入させた。
 シュラフタの一部は王位はく奪を画策し、ポズナン県知事スタニスワフ・レシュチンスキ<(注21)>を国王に選んだ(在位1704~09)。

 (注21)Stanisław I Leszczyński(1677~1766年。ポーランド・リトアニア共和国国王(1704~09年、1733年)およびロレーヌ公(1737~1766年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%AD

⇒それは形式論であり、実態は、「1704年、<スウェーデンの>カール12世はスタニスワフ・レシチニスキをポーランド王位につけ、王位を否認されたアウグストは・・・ロシアと共同でポーランドに出兵したが、1706年2月13日のフラウシュタットの戦いで敗北してザクセンにも攻め入られ、9月1日、アルトランシュテット条約で無理やりスタニスワフにポーランド王位を譲ることを承認させられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%882%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B) 前掲
ということでした。(太田)

 しかしレシュチンスキの支持基盤は弱く、最終的には国外に逃れた。
 復位したアウグスト2世は王権を強化するため、1713年、ザクセン軍をポーランドに駐留させた。
 シュラフタはこれに反対し、1715年、王の退位を求めて・・・連盟を組織した。
 内戦状態となると、ロシアが仲介に乗り出し、1717年2月1日に1日限りの議会が開かれ、ザクセン軍の撤退などが決められた。
 議会が中断することを恐れ議員には発言が一切認められなかった。
 この議会が「無言議会」<(注22)>と言われる所以である。

 (注22)「<ロシアの>ピョートル1世<によって、>・・・アウグストと<シュラフタ>は無言議会(Sejm Niemy)で、ロシアの国益に合致した内容の調停文書にサインさせられた。」(上掲)

 ともあれ、ロシアはこうしてポーランドに対する影響力を強めた。
 1733年にアウグスト2世が死去すると、シュラフタの多くは再度レシュチンスキを国王に選んだ(在位1733~36)。
 しかし、レシュチンスキに敵対する勢力は、前王アウグスト2世の息子を国王に選んだ(アウグスト3世。在位1733~63)<(コラム#8796)>。
 この内紛は諸外国も巻き込み、国際戦争にまでなった(ポーランド継承戦争。1733~35年)<(注23)>。

 (注23)Polnischer Thronfolgekrieg=War of the Polish Succession。レシュチンスキ側に仏・西・サルデーニャ王国、アウグスト側に露・ハプスブルク君主国・ザクセン選帝侯・プロイセン王国。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
https://en.wikipedia.org/wiki/War_of_the_Polish_Succession

 結局、レシュチンスキは王位を諦め、1736年、アウグスト3世の即位が正式に認められた。・・・
 アウグスト3世・・・が逝去すると、ロシアを後ろ盾とするチャルトリスキ一門<(注24)>(リトアニア出身の有力貴族)が王位継承をめぐって介入してきた。

 (注24)「チャルトリスキ家はリトアニア大公国の統治者の血を引いて<いる。>・・・スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ<(後出)は、>・・・ミハウ・フリデリク・チャルトリスキ、アウグスト・アレクサンデル・チャルトリスキ・・・兄弟<の>義弟」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AD%E5%AE%B6

 ロシアの女帝エカチェリーナ2世の寵臣であるスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ<(注25)>(在位1764~95)が国王選挙で選出された。

 (注25)Stanisław August Poniatowski(1732~98年)。「エカチェリーナとの間には娘のアンナまで生まれた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD

 スタニスワフ・アウグストはポーランド最後の王となる。
 王はなんとかポーランドを立て直そうと諸改革に取り組んだが、状況は極めて悪く、できることはそう多くなかった。
 結局、王が心血を注いで取り組んだのは文化・芸術だった。」(30~31、38)

(続く)

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