太田述正コラム#9525(2017.12.16)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その13)>(2018.4.1公開)

 「5月3日憲法の起草作業は、急ピッチかつ秘密裡に進められた。
 議会の反対派が改革案を挫折させるのではないかと懸念された。
 それゆえ、改革支持派の大多数が参加し、反対派が不在となる春の休暇時を狙って上程されたのであった。
 5月3日憲法に反対する・・・<者>らは、・・・ロシアに軍事介入を要請した。
 軍事衝突<(注32)>は1793年の第二次ポーランド分割へとつながった。

 (注32)ポーランドとロシア間の戦争は、全部で14回もあった(1558~83年のが第1回目、1939年のが第14回目)が、ポーランド・ロシア戦争(Polish-Russian War)と呼ばれるのはこの1792年の戦争だけだ。(なお、4回目の戦争はロシア・ポーランド戦争(Russo-Polish War)と呼ばれ、13回目の戦争は1919~21年のポーランド・ソ連戦争(Polish-Soviet War)と呼ばれている。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Polish%E2%80%93Russian_Wars

 1793年1月23日、ペテルブルクにおいてロシア・プロイセン間で第二次ポーランド分割の調印が行われた。
 オーストリアはバイエルン併合に関心を示しており、第二次分割には加わらなかった。・・・
 5月3日憲法を支持する活動家たちは亡命し、そこで武装蜂起の準備に取りかかった。
 ロシアがポーランド軍の縮小を決めたことから、蜂起決行が急がれた。
 蜂起は1794年3月24日に始まった。
 ・・・コシチュシュコは・・・<その>全権を掌握した。・・・
 蜂起の目的は、分割以前のポーランド領の回復であった。・・・
 5月7日、コシチュシュコは、・・・農民の法的権限を認める旨の布告を出した。
 同年10月10日、ポーランド側は・・・戦いで敗れ、コシュチュシュコはロシアの捕虜になった。<(注33)>

 (注33)1746~1817年。「先祖がジグムント1世の宮廷に仕えていたというベラルーシ系貴族の家庭に・・・生まれた。・・・
 1776年から1783年の間・・・<米>独立戦争に義勇兵として参加し、・・・帰国後の1791年、・・・「5月3日憲法」を制定した4年議会に議員として参加、中道左派の政治スタンスから、4年議会を主導した改革派政党「愛国党」内部の主流派である穏健改革派(「ファミリア」の流れを汲む派閥)と同党の急進改革派(ポーランドのジャコバン派)との間を取り持つ役割を担い、精力的に双方の仲立ちをして、国会対策における巧みな政治手腕を発揮した。
 この直後の1792年、新憲法めぐるロシア帝国の干渉と戦った(ポーランド・ロシア戦争 (1792年)<に>敗れ、・・・亡命生活を送った。
 1793年の第2回ポーランド分割後にポーランドに戻り、主にジャコバン派と農民たちを糾合してクラクフで蜂起(コシチュシュコの蜂起)。最大の戦闘「ラツワヴィツェの戦い」・・・でロシア軍に大勝し一時はワルシャワ、ヴィリニュスをおさえたが、やがて兵力を次々と補充してきたロシア・プロイセン連合軍に圧倒された。
 <亡命先のスイスで死去。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B3
 ラツワヴィツェの戦いは、兵力5,000人・砲11門のポーランド軍が3000人・砲12門のロシア軍に勝利した(死傷者数、200~250人、対、800人)
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Rac%C5%82awice
ものであり、さほど驚くべきことではないが、ポーランド側で農民兵が戦鎌(war scythes)と槍(pike)を用いて戦ったことで知られる。これは、戦鎌が使用された最後の戦闘。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%88%A6%E9%8E%8C

 蜂起は翌11月に終焉を迎え、これが第三次分割への引き金となった。
 翌1795年10月24日、ロシア・プロイセン・オーストリアはポーランド分割を決めた。
 スタニスワフ・アウグストは退位し、こうしてポーランドはヨーロッパの地図から消滅したのであった。」(44~46)

(続く)