太田述正コラム#9521(2017.12.14)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その11)>(2018.3.30/4.1公開)

 「王の庇護のもと、イタリア出身のベルナルド・ペッロット(通称はカナレット)<(注26)>は国民画家となった。・・・

 (注26)1720~1780年。[Canaletto Belotto や Canaletto the Youngerとも呼ばれた。]「ヴェネツィアの風景画家カナレットの甥」「母<が、本来の>カナレットの妹」[1747年から1767年まで、アウグスト2世の宮廷画家として基本的にドレスデンで過ごし、]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88
https://www.britannica.com/biography/Bernardo-Bellotto ([]内)
最後の16年間を、スタニスワフ・アウグストの宮廷画家として基本的にワルシャワで過ごした。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bernardo_Bellotto

 1765年、王の発案で、「騎士の学校」が創設された。
 これは、シュラフタ(中小貴族)出身の貧しい若者に軍事教養を学ばせ、一人前の軍人に育成することを目指した施設であった。

⇒欧州の他国・他地域との比較の観点が記されていないので、この学校の意義が今一つよく分かりません。(太田)

 卒業生には、独立運動で知られることになるタデウシュ・コシュチュシュコ<(コラム#5840、7794、7796)>もいる。
 1773年、議会決議により、啓蒙教育に従事する、ヨーロッパ初の文部省とも言われる「国民教育委員会」が設置された。・・・
 委員会は多くの重要な決定をしている。
 たとえば、ポーランド語を教授言語として認めている(それまではラテン語がその機能を果たしていた)。

⇒ポーランド語の教授言語化についても、上述したことと同様の所感です。(太田)

 ・・・ロシアは、・・・1767年、保守派マグナトのカロル・ラジヴィウ<(注27)>を議長とするラドム連盟を結成させ、国王・・・に圧力をかけた。

 (注27)1734~90年。「1767年には黄金の自由の保守を目論むラドム連盟で、翌1768年には反ロシア軍事活動を展開したバール<(バル)>連盟<(後出)>で、それぞれ総司令官(盟主)を務めた。バール連盟の敗退後の1772年には亡命を余儀なくされたが、1777年には政敵であった国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキに忠誠を誓い、全ての官職を取り戻した。しかし保守政治家としての立場を貫き、1788年から1792年まで開かれた4年議会では代議員として諸改革の反対者側に回り、国王およびファミリアと敵対し続けた。・・・
 サルマティズムの体現者、偉大な愛国者ともみなされていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A6_(1734-1790)
 黄金の自由(・・・ラテン語:Aurea Libertas アウレア・リベルタス・・・)、貴族共和国または貴族民主主義・・・、貴族支配による民主主義の政治システム。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1
 「1733年の空位期、ファミリアは新王にスタニスワフ・レシュチンスキを推したが、王位についたアウグスト3世・・・と和解して宮廷与党となった。しかし1744年から1750年にかけてのセイムにおいて、ポーランド・リトアニア共和国を改革する試みに失敗すると、ファミリアは下野する形で宮廷野党に転じた。外交問題に関しては、ファミリアは親ロシア派として活動していた。
 1763年から1764年にかけての空位期、ロシア軍の侵入はファミリアに敵対者を駆逐する機会を与えた。1764年の時点では、アダム・カジミェシュ・チャルトリスキは王座獲得に乗り気でなく、チャルトリスキ兄弟は甥<の>・・・スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが国王となることに同意した。ファミリアは一門から王を出したことにより宮廷与党に返り咲き、財務委員会や軍事委員会を創設することで財務長官やヘトマン(軍司令官)の権力を制限し、また自由拒否権を一時的に停止することに成功した。しかし、ロシアとプロイセンにさらなる改革を阻まれた。1767年には、ファミリアと国王に反対する、<国王の元愛人たる>エカチェリーナ2世に支援を受けた守旧派が、ラドム連盟を結成してレプニン議会を開催し、改革の一部を廃棄させた。
 1772年2月17日の第1次ポーランド分割の後、ファミリアは親ロシア的立場を貫く国王と常設評議会に敵対するマグナート派閥の中心となり、当初はオーストリアの支援を模索しつつ、1788年には親プロイセン派に転じた。4年議会(1788年~1792年)においては、イグナツィ・ポトツキを中心とするファミリアの指導者たちは、再び国王とその支持派に接近し、「愛国派」と協働して1791年の5月3日憲法を成立させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E5%85%9A%E6%B4%BE)

 さらにロシアはワルシャワに派兵し、国会を包囲して、臨時議会を強行開催させた。
 結果、ポーランドはロシアの要求を呑み、選挙王制やリベルム・ヴェト(自由拒否権)<(注28)>の維持を決議した。

 (注28)liberum veto。シュラフタは全員平等であるとされ、セイムにおいても、多数が少数に対して意思を押し付けてはならないとされていた。だから、一人でも反対すればセイムは何も決めることができなかった。当初は、法律ごとの話だったが、やがて、一人が一つの法律に反対すると、当該議会に提出された全法律が否決されたものとみなされ、その時点でセイムの会期は終了することとされるようになり、セイムは完全マヒ状態になってしまう。
https://en.wikipedia.org/wiki/Liberum_veto

⇒自由拒否権こそ、ポーランド・リトアニア共和国を滅亡させた要因であると一般にされており(上掲)、それは、シュラフタの力が(選挙で選ばれた)国王に比して強すぎたことに遡るわけですが、渡辺は、滅亡というポーランド史における最大の悲劇をもたらしたこと・・私に言わせれば、その理解なくしては、現在のポーランドを理解できない・・をきちんと説明してくれていません。(太田)

 ポーランドのシュラフタはこうしたロシアの介入に反発し、1768年、南部の都市バルに集い、武装連盟を組織した。
 バル連盟<(注29)>は善戦したが、1772年、ロシアの軍門に降った。

 (注29)「バール連盟(ポーランド語:Konfederacja barska、1768年~1772年)は、ポドレ地方の要塞都市バールにおいて、ポーランド貴族(シュラフタ)が結成した連盟(コンフェデラツィア)。ロシア帝国の侵略、およびポーランド・リトアニア共和国のマグナート(富裕貴族)の権力を制限しようと試みていた国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキらの改革の双方に対する政治的な自由と独立を目的としており、内外の圧迫に応戦するものだった。・・・
 連盟に対する評価は分裂しており、連盟の軍事行動が第1次分割の直接的原因とする研究者もいれば、連盟をポーランドの独立回復をめざした最初の本格的国民軍と評価する研究者もいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%80%A3%E7%9B%9F

⇒私は、「バール・・・連盟の軍事行動が第1次分割の直接的原因」である、との見解に与します。(太田)

 この敗北が、そのまま第一次ポーランド分割へとつながった。・・・
 1772年8月5日、ペテルブルクで、ロシア・プロイセン・オーストリア代表間で第一次ポーランド分割に関する調印が行われた。」(39~42) 

(続く)