太田述正コラム#9547(2017.12.27)
<映画評論51:ユダヤ人を救った動物園 ~アントニーナが愛した命~(その4)>(2018.4.12公開)

4 使われるのが英語

 米英の映画作品を鑑賞するたびに、非英語圏の人々を演じる俳優達に英語をしゃべらせることが通例であることに、私は不快感を覚えてきたのですが、この映画では、全ての場面の舞台がポーランドなのに、集団としてのドイツ軍兵士達を除けば、主人公夫妻はもちろん、ドイツ人のヘックまで、英語を使っている、というか、英語しか使わないことに、とりわけ大きな違和感を覚えました。
 この関連で、一体、夫妻とヘックの間の会話は、ドイツ語でなされたのかポーランド語でなされたのか、恐らくはドイツ語なのだろうが・・、などと、いったことが妙に気になりました。
 この問題を、この映画の主要諸評論の中の二つが取り上げていました。
 一つはこうです。↓

 「何人かの映画批評家達によって提起されたところの、いずれにせよポーランド語をしゃべっていたはずの人物が訛った(accented)英語を用いていることに対する技術的な疑問は正当なものであり、これに関しては、それぞれの観点から長い論考を書くことができよう。
 例えば、「ソフィー<(注4)>の選択」の中でメリル・ストリープが演じた人物なら、確かにポーランド訛りの英語をしゃべったことだろうが、そもそも、自分自身の言語をしゃべっている人物に外国の訛を与えてしかるべきなのか、と<いう疑問だ>。

 (注4)この映画のストリープ演じる主人公で、「ポーランドで育ったソフィーは幼い日、母国語であるポーランド語以外にドイツ語、フランス語、ロシア語、ハンガリー語を父から教わったが、英語はと言うと、まだ完璧に話せないでいる。 スラブ系言語の話者が持つ訛りたっぷりに話し、時に英単語を間違えたり、記憶した単語を頭の奥から引っ張り出すのに少し時間を要したりすることもある。・・・ソフィーにはアウシュヴィッツ強制収容所にいた経験がある・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8A%9E
 タイトルだけは知っていた映画だが、欧米ものとしては珍しく男女の心中を扱っているという意味でも興味がある。いつか、鑑賞することとしたい。

 その答えは、これは演劇的やり口(theatrical convention)であり、一種の近道であって、実際には英国人でも米国人でも(あるいは他の英語を母語とする人々でも)ない人々が、にもかかわらず英語をしゃべっているのは、<しゃべっている内容を視聴者達に>理解してもらうためであること、を視聴者達は容易に受け止める、というものだ。

⇒それなら、ヘック役を演じたダニエル・ブリュール、や、ワルシャワ・ゲットーの門衛のドイツ軍兵士、が訛のない英語をしゃべることの説明がつきません。(映画そのものより。但し、ブリュールについては後出でも言及あり。)
 ブリュールは、「ドイツ人舞台演出家の父親と、カタルーニャ人の母親の間にバルセロナに生まれる。生まれてすぐにドイツのケルンに移り、そこで育った。スペイン語・英語・フランス語・カタルーニャ語を流暢に話し、ポルトガル語を理解できる」ドイツ人である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB
、というのですから、ドイツ訛の英語をしゃべれと言われたら、それをいとも容易くやってのけたであろうというのに・・。
 本作品は、英米映画(A、B)であるわけですが、制作陣からすれば、当時のドイツは悪、そして、その象徴がヘック、であるにもかかわらず、彼らは、自分達を、同じ「アーリア人」として、ナチスドイツやヘック側に置いて、非「アーリア人」たるポーランド人(非ユダヤ人、ユダヤ人の双方)をインディアンやチカノのような「原住民」視している、というのが、私のチョイ悪なヨミです。(太田) 

 もとより、クエンティン・タランティーノ(Quentin Tarantino)のような人々はこのやり口に立ち向かった<(注5)>し、本件については、別の観点からの諸論文を書くこともできよう。」(γ)

 (注5)私は、彼の作品は『パルプ・フィクション』しか鑑賞していない(コラム#5149)ところ、この作品に関しては、確か、英語を母語としない人は登場せず、従って、英語以外が登場することはなかったと思う。

もう一つはこうです。↓

 「諸訛についていえば、それこそ、まさに、ニキ・カーロ監督の「ユダヤ人を救った動物園」が失敗した(go awry)点だ。
 というのも、ジェシカ・チャステインは<自分の台詞が>できる限りポーランド語的に聞こえるよう格闘する一方で、その他の面々については、その英語が完璧であるところの、ドイツ生まれの<(これは誤り(太田))>ダニエル・ブリュール、から、アントニーナのヒットラーに挑む夫を演じるところの、ユーロ<諸言語>の異なった諸屈曲のごちゃまぜを用いて行動するフランダース人俳優ヨハン・ヘルデンベルグ(Johan Heldenbergh)、に至るまで、誰一人として、これらの諸人物が実際に用いていた言語を使っていないからだ。

⇒ブリュールについては、私の耳が確かであったということになりますが、ヘルデンベルグについては、しゃべる英語がポーランド訛りに聞こえるよう努力したものの、本当のポーランド訛りを知っている者からすると、努力ないし能力が不足していた、というだけのことではないでしょうか。(太田)

 この、世界の歴史を英語で置き換える(reenact)傾向は、きわめてありふれたやり口なのだが、この映画の場合は、関係者全員の真摯な諸努力を台無しにしてしまうに十分だ。
 というのも、彼らが「演じる」のに費やした作業の極めて大きな部分が、一人一人の俳優が思い描く諸言語のごった煮の中を泳ぎ渡ることに捧げられたであろうところ、にもかかわらず、結果として、ブリュール一人を除いて、彼らは高度に知的なレジスタンス闘争者達だというのに、全員、<しゃべる台詞が>学のないポーランド人移民のように聞こえてしまっている一方、ナチスの人物<たるヘックがしゃべる台詞>は、いい意味で洗練されているように聞こえてしまっているからだ。」(Δ)

⇒私は、まさに、そのように視聴者達に受け止められることこそ制作陣の意図であった、というチョイ悪ヨミを入れているわけです。(太田)

(続く)