太田述正コラム#9573(2018.1.9)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その20)>(2018.4.25公開)

 「1942年1月、ポーランドのコミュニストはコミンテルンから活動再開の許可を得た(両大戦期にポーランド共産党という政党が存在したが、1938年に、トロツキー主義の汚名を着せられ、解党させられていた)。<かかる背景の下、>ソ連からポーランドに帰国した<者達>・・・が国内のコミュニストを集め、ポーランド労働者党<(注49)>を組織した。・・・

 (注49)Polish Workers’ Party。スターリンが作ったところの、1942~48年の間のポーランド人共産主義者達のフロント組織。
https://en.wikipedia.org/wiki/Polish_Workers%27_Party

 一方、在ソ・ポーランド人コミュニストにも動きが見られた。
 同じく1943年3月1日、モスクワで・・・ポーランド愛国者同盟<(注50)>が発足した。

 (注50)Union of Polish Patriots。1943~1946年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Union_of_Polish_Patriots
 戦勝後を見据えてスターリンが作った、ソ連に隷属するポーランド政治軍事機構の卵。https://en.wikipedia.org/wiki/Polish_Workers%27_Party 前掲
 会長は小説家のワンダ・ワシレフスカヤ(Wanda Wasilewska。1905~64年)・・夫は夫はウクライナの詩人・劇作家のアレクサンドル・コルネイチューク・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A4

 同年7月15日、愛国者同盟のもとに、在英・ポーランド軍やアンデルス軍とは別の軍事力が組織された。<(注51)>・・・

 (注51)「ポーランド人捕虜から・・・アンデルス将軍の第5ポーランド師団の編成が始まり、・・・ズィグムント・ベルリンク<(Zygmunt Berling。1896~1980年)が>・・・その参謀長に任命され[たが、彼は、無許可離隊し、]1943年からポーランド愛国者同盟組織委員会(後に理事会)委員<となる>。アンデルス将軍が部隊を引き連れソ連を出国した後、ソビエト当局は、完全に意のままとなる新たなポーランド軍の編成を開始した。ベルリンクは、新ポーランド軍(1943年にコシューシコ名称第1ポーランド師団)の長となった。1943年8月、師団は軍団に拡張された。1944年3月~10月、在ソ・ポーランド軍司令官、同年7月からポーランド軍第1軍司令官。第1軍は、生粋のポーランド人は少なく、主としてポーランド系ソ連人により充足された(しばしば、姓名がポーランド風というだけで同軍に編入された)。1944年7月からポーランド軍副総司令官・・・。1944年10月、ヴィスワ川渡河の失敗後、ベルリンクはモスクワに召還され・・・た。1947年、ポーランドに帰国し、1948年、ポーランド軍参謀本部アカデミー校長・・・。1953年、退役。[農業省次官等を歴任。]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%82%A3%E3%82%B0%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF
 彼をドイツ系ないしスウェーデン系とする研究者もいるが、本人はユダヤ人であることをかつて自称。
https://en.wikipedia.org/wiki/Zygmunt_Berling ([]内も)

 スターリンはこうして、将来のポーランドの傀儡化の準備を整えたのであった。」(107~108)

 「1943年11月28日から12月1日まで、イランの首都テヘランでチャーチル、ローズヴェルト、スターリンによる英米ソ三巨頭会談が開かれた。
 第二戦線をめぐって、チャーチルがバルカンを主張したのに対し、ローズヴェルトとスターリンは北フランスを挙げた。
 結局、米ソの主張が通り、1944年5月に北フランスに第二戦線を設けることが決定した。
 このことは、ポーランドの解放をソ連軍に委ねることを意味した。
 また、ポーランド国境問題についても議論され、東部国境をカーゾン線に、西部国境をオーダー・ナイセ線とすることが決まった(ただし、東ナイセ川とするのか西ナイセ川とするのかは決められていない)。
 こうしてポーランド問題に、当事国であるポーランドの参加なしに答えが出された。
 しかも、亡命政府はテヘラン会談での決定事項にについて知らされることがなかった(ミコワイチク<(注52)>がテヘラン会談での決定について知ったのは、1944年10月に訪ソした時であった。・・・

 (注52)スタニスワフ・ミコワイチク(Stanisław Mikołajczyk。1901~66年。)「1939年9月、ナチス・ドイツがポーランド侵略を開始すると、ロンドンに亡命、亡命政府の内相となった。1943年7月に亡命政府首相の・・・シコルスキ・・・が死亡したため、後を継いで1944年11月まで亡命政府首相を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%B3%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%AF
 庶民の家庭に生まれ、学歴もない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Stanis%C5%82aw_Miko%C5%82ajczyk

 <1943年4月のカティンの森事件露見以来、ソ連とポーランド亡命政府との関係は断絶していたが、1944年6月、駐英ソ連大使>はミコワイチクに、ソ連との関係再開の条件として三要件を提案した、
 カーゾン線の承認、改造人事・・・、カティンの森事件に際しての亡命政府声明の取り消しであった。
 これに対し、ミコワイチクはすべての要求を拒絶した。
 三つ目の要求には、「あなたは私に、・・・<ナチス・ドイツ政府と形の上では同様に、>ジュネーヴの国際赤十字に解決を委ねた<ところの、>・・・私自身が一閣僚であったシコルスキ政府を批判せよとおっしゃるのですか」と応じていた。・・・
 1945年2月4日から11日まで、ソ連領クリミア半島のヤルタでチャーチル、ローズヴェルト、スターリンが再び集い、戦後構想を話し合った。
 この会談で最も多くの時間が割かれたのがポーランド問題であった。
 東部国境はカーゾン線とすることが三国の一致した見解であることが確認されたが、ルヴフをめぐっては意見が対立した。
 英米はポーランドに含まれるべきと主張したが、ソ連はこれに反対した。
 最終的にはスターリンの主張が通った。
 一方、西部国境については、声明では「ポーランド北部および西部において相当の領土を得るべき」とあるだけで、その大きさについては講和会議で決められるとした。・・・
 ポーランド亡命政府は2月13日の声明で、「三者会談でのポーランドに関する決定を、ポーランド政府は容認することができない。よって、それらはポーランドの国民に強制力を持ち得ない」と発表した。<(注53)>」(114、133~134、137~138、147~148)

 (注53)この時のポーランド亡命政府の首相はトマシュ・アルチシェフスキTomasz Arciszewski。1877~1955年)だった。
 彼は、戦時中、ポーランド国内で抵抗運動を続け、ワルシャワ蜂起の直前に脱出し、カイロ経由でロンドンに到着しており、ミコワイチクから首相の座を譲られたもの。
 彼も庶民の家庭に生まれ、学歴もない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Tomasz_Arciszewski
 
⇒ポーランド亡命政府が、ソ連のみならず、亡命政府所在地の英国からも見放されてしまった最大の原因は、第一次世界大戦後に英国が提案した、合理性あるカーゾン線を独立ポーランド政府が認めず、この方針を亡命政府も堅持し続けた頑迷にあります。
 実現不可能な、大ポーランド復活という夢を見続けた、シュラフタ達の亡霊の呪縛に、独立後のポーランド人当局者達が、庶民出身の人々を含め、囚われ続けたことが、戦後ポーランドの完全ソ連傀儡化を必然たらしめた、ということです。(太田)

(続く)