太田述正コラム#9575(2018.1.10)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その21)>(2018.4.26公開)

 「1949年11月6日、ソ連駐留軍司令官コンスタンティン・ロコソフスキー<(注54)>元帥が、ポーランドの国防相に任命された。

 (注54)「ロシア帝国のヴェリーキエ・ルーキ市プスコフシチナ出身(現在のロシア連邦プスコフ州内)。父親はポーランド人のシュラフタ・・・階級出身だったが、・・・母は自身をロシア人と見なしていた。ロコソフスキーの誕生後、一家はロシア支配下(ポーランド立憲王国首都)のワルシャワに移住し、ロコソフスキーはここで育った。
 1914年、第一次世界大戦が始まると、ロコソフスキーはロシア帝国軍に入隊し、・・・下士官で終戦を迎えた。1917年にボリシェヴィキに参加し、間もなく赤軍に入隊。・・・
 1949年、ポーランド人民共和国政府の要請という形で、ロコソフスキーはポーランド国防相・・・<になったものだが、>1956年、ソ連<の>・・・フルシチョフ第一書記によるスターリン批判をきっかけに、ポーランドでは反ソ気運が高まり、ポズナンではポズナン暴動・・・が発生した。ロコソフスキーは暴動を武力で鎮圧し、モスクワでフルシチョフにソ連軍の直接介入を訴えた。しかし、ポーランドの指導者になったヴワディスワフ・ゴムウカがフルシチョフとの交渉によりポーランド内政の自律権を死守し、同年のハンガリー動乱のようなソ連軍の介入を阻止すると、ロコソフスキーは国防相を辞任し、ソ連に帰国した。・・・
 ロコソフスキーはポーランド語よりもロシア語の方が得意だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

 ソ連のポーランド直接支配の始まりであった。
 56年までに1万7000人のソ連将校が採用された。・・・
 ポズナン暴動<(注55)>後、・・・ゴムウカ<(注56)>・・・の党指導部復帰待望論が強まった。

 (注55)[Poznań 1956 protests=the Poznań 1956 uprising]。「ポーランド西部の都市ポズナンで1956年6月28日に起きた大衆暴動・・・
 軍隊が投入され、暴動は鎮圧された。死傷者は100名を超えると推定されている。・・・
 この事件は同年10月に隣国で起きたハンガリー動乱にも大きな影響を与えた。ハンガリー動乱は、ソ連が軍事介入し、ナジ・イムレが処刑され、死者が17000人に上り、20万人が難民となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%BA%E3%83%8A%E3%83%B3%E6%9A%B4%E5%8B%95
https://en.wikipedia.org/wiki/Pozna%C5%84_1956_protests ([]内)
 (注56)Władysław Gomułka(1905~82年)。「オーストリア=ハンガリー帝国クロッセン(現在の<ポーランドの南東部>)近郊の出身。初等学校卒業後、機械工として働いた。1921年に社会主義運動に加わり、1926年共産党に入党した。・・・1934年~1935年、モスクワの国際レーニン学校で学ぶ。第二次世界大戦勃発後、・・・ドイツに対する非合法的なレジスタンス運動(パルチザン)に従事、これを指導した。・・・1943年、ポーランド労働者党・・・の書記長となるが、1948年党内におけるゴムウカ体制はソ連の意向に反する態度を取ったためソ連のスターリンとラヴレンチー・ベリヤにより解雇され<た。>・・・だが、スターリンの死とソ連の政策変更を経て1954年12月に釈放され、1956年6月にポズナン暴動が起こると8月5日に党への復帰が認められ、10月21日には党の指導者的地位に当たる第一書記に選出される。・・・
 ゴムウカは第二次世界大戦後、東欧を支配していたスターリン主義的な風潮を、農業集団化の廃止、ローマ・カトリック教会への迫害の停止、検閲の緩和などの改革を行う事によって解消することに貢献した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%AF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%A0%E3%82%A6%E3%82%AB

 こうして10月に開かれた統一労働者党・・・中央委員会総会で・・・ゴムウカが第一書記に就いた。
 この決定は、モスクワとの事前協議を経ていなかったため、フルシチョフはポーランド駐留ソ連軍に対し、ワルシャワへの進軍を命じた。
 同時に、フルシチョフは自らがワルシャワを訪れる決意をした。
 出発前に、チェコスロヴァキア、東ドイツ、中国に対し、ポーランドに軍事介入する意向が伝えられた。
 10月19日、フルシチョフを乗せた飛行機がワルシャワに着いた。
 滞在中に、チェコスロヴァキアと東ドイツからはソ連の意向に賛同する旨の返信があったが、中国からの回答は断固反対というものだった。
 当時中ソ関係は緊張していたが、フルシチェフは毛沢東を無視することができず、軍事介入を思いとどまった。」(162、166)

⇒このくだりは、ゴムウカとポズナン暴動のそれぞれの英語ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/W%C5%82adys%C5%82aw_Gomu%C5%82ka :α
https://en.wikipedia.org/wiki/Pozna%C5%84_1956_protests (前掲) :β
の記述と全く異なっています。
 どちらも、チェコスロヴァキア、東ドイツ、とりわけ、中共、への言及は全くない一方、復権前にゴムウカと当時の第一書記が、ソ連軍の介入があったらポーランド軍は抵抗するとフルシチェフらに伝え、フルシチェフが説得された、という話が出てきます(α)し、ゴムウカの復権は、当時の第一書記がソ連の意向も忖度した結果としてのものだ、としています(β)。
 しかも、これらの箇所は、第一次史料が典拠として付されています。
 渡辺は、斬新(珍奇?)な説を唱えているところ、少なくとも、こういった箇所には典拠を付すべきでした。(太田)

(続く)