太田述正コラム#9597(2018.1.21)
<大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』を読む(その1)>(2018.5.7公開)

1 始めに
 
 コラム#9561でご披露した4冊全てについて、昨日、ページをめくってみたところ、コラムシリーズで紹介するに値するものが一つもなさそうに思えてがっかりしたのですが、せっかく「投資」したのだから、とにかく、1冊でも2冊でも取り上げよう、と気持ちを奮い立たせ、まずは、大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』を、(そのほんのさわりですが、)取り上げることにしました。
 なお、大澤(1973年~)は、中大法、埼玉大教養卒、中大博士(政治学)で、現在、熊本学園大外国語学部准教授、という人物です。(本書奥付)
 仮に私がこの本を書いたとすれば、同じ時期に、同じく法的根拠なしに、旧日本軍人達が抑留された、ところの、シベリア抑留、との比較めいた話をどこかですると思うのですが、大澤はそれを行ってくれていません。
 皆さんは、シベリア抑留の方について、ぜひ、下掲くらいは頭に入れておいてください。

 「厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99
 「シベリアに抑留された元日本兵<は>、・・・スターリン政権による共産主義教育を受け<たが、>・・・共産主義に共感して赤化した者は少なく、大抵は強制収容所内において、生き抜く手段として共産主義を受け入れた。従って引き揚げ後も日本において共産主義運動を継続した者は、ほとんどいない。」←直接の典拠は付されていない(太田)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%8C%96%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA

2 毛沢東の対日裁判

 「戦後、連合国の一員として、<支那>を代表して対日戦犯裁判を行う権利を有していたのは、あくまで蒋介石の中華民国政府であった。
 そのため、いわゆる対日戦犯裁判の歴史のなかで、1949年12月にソ連が細菌戦関連戦犯をさばいたハバロフスク裁判や、1956年6月に中<共>が瀋陽と太原で行った特別軍事法廷は正規の裁判とは認められておらず、日本政府も中<共>で拘束されていた「戦犯」たちを「抑留者」とみなし、のちの帰還業務に際しては彼らを「いわゆる中共戦犯者」と呼んでいた。」(48)

⇒私が、小見出しで、「戦犯」という言葉を削除している理由です。

 「<この日本人>戦犯たちはどこからきたのか、・・・シベリア抑留と国共内戦である。・・・
 <シベリア抑留組は、>1950年7月、ソ連のスターリンから毛沢東に・・・<シベリア抑留されていてまだ日本に送還されていなかった戦犯中>969名<が>・・・「贈られた」<が、>・・・彼らは・・・撫順戦犯管理所に収監され・・・た」(ii~iii) ものです。
 国共内戦組については、閻錫山(コラム#750、4980、5569、8115)がからんでいるのですが、136名の日本人達が抑留に至る(79)複雑な経緯が長々と説明されている(19~40、76~79)ところ、要約して紹介する労を省くこととし、必ずしも中身が一致していませんが、それに代えて、下掲をご紹介しておきます。
http://www.ohproject.com/ivlist/03/21.html         
http://www.ohproject.com/ivlist/03/22.html ←こちらは読む必要なし。
 
(続く)