太田述正コラム#9607(2018.1.26)
<大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』を読む(その5)>(2018.5.12公開)

 「起訴状のみならず、弁護人の法廷での発言原稿が準備され、裁判の開廷前にすでに徹底的な量刑議論が完了し、「有罪」かつ「刑期ありき」の判決文が確定していた毛沢東の戦犯裁判は、法的手続きがいかに慎重であろうが、やはり一種の劇場型の戦犯裁判であったといえる。」(151)

⇒そんなもの、「劇場型の戦犯裁判」どころか、「戦犯裁判劇」でしかないでしょう。
 問題は、劇には、(不条理劇でない限り、)テーマがあるはずであり、一体、それは何だったのか、です。
 残念ながら、ここまでのところ、大澤は、それについて殆ど語ってくれていませんし、それを推察させる手掛かりも禄に提供してくれていません。
 とにかく私自身の仮説を記してみよ、と言われたら、ですが、中共国内に関しては、帝国陸軍との実戦を碌にやらなかった中国共産党が、「ノンフィクション」劇の形で、悪玉の帝国陸軍と、遅まきながら戦ってみせた、ということなのでしょうし、日本に関しては、「戦犯」達が帰国してから、彼らの相当部分が、帝国陸軍が支那で悪行の限りを尽くした、という、一面的にして部分的なイメージを日本国内で普及してくれることを期待した、ということなのでしょうね。
 前者は、中共当局の、国内統治における正当性を強化することが究極の狙いであり、後者は、対ソ抑止の観点から、日本人の間で、支那、ひいては中共当局に対する罪の意識を醸成することで、日本人達の間で、(台湾の蒋介石政権に代わって、)帝国陸軍によって筆舌に尽くし難い被害を受けた支那の人々を統治しているという意味での中共政権の正統性的な観念を確立し、日本政府に、米中国交樹立/蒋介石政権断交、の露払いをさせることが究極の狙いであった、と読むわけです。(太田)

 「<その上で、>戦犯たちはそれぞれの刑期に応じて釈放され、帰国を果たしていった。・・・
 また、最後まで残った<人々>・・・も東京オリンピックが開催された1964年の3月に・・・刑期満了前に釈放された。・・・
 <1856年に相当数がまとまって第一陣が帰国したが、その時点でも、>すでに敗戦から10年以上が経ち、戦後日本社会に生きる「普通」の日本人にとって、戦犯帰国者は明らかに異質な存在として映った。
 「共産中国」の監獄のなかで「学習反省」「認罪担白」「尋問調査」、さらに「認罪服法」教育を受け、自らの罪を認め、その責任を黙々と語る彼らが奇異に見えたのである。・・・
 毎日新聞の特派員は「旧軍人に限らず医者、官吏、警察官、会社員、看護婦や病人まで全戦犯が判を押したように自分の罪を後悔し訴えている」とし、「戦犯にされて当然だ」と真剣な表情で懺悔する戦犯帰国者たちの「異様な緊迫感」を伝えた(『毎日新聞』)。
 また、朝日新聞も「今度帰国する釈放”戦犯”に接して強く感じたことは、殉教者のように自分の罪を強く告白することである」と報じた(『朝日新聞』)。」(166、170)

⇒結局、毛沢東の狙いは、日本に関する限り、失敗に終わった、ということになります。
 (別の形で、最終的には田中角栄内閣を「使って」、日中国交正常化という形でそれが成功することにはなります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%A4%E6%AD%A3%E5%B8%B8%E5%8C%96
が・・。)
 中共から帰国した「戦犯」達は、長期抑留された上、日本で完全に浮き上がった存在となり、苦難に満ちた「余生」を送らされる羽目になったわけであり、ただただ同情するほかありません。(太田)

(続く)