太田述正コラム#0571(2004.12.22)
<マキアヴェッリとヒットラー(その3)>

  ウ 『君主論』を実践するヒトラー
 1921年に国家社会主義ドイツ労働者党(National Socialist German Workers Party)(注3)をつくり、その党首(Fuhrer)となったヒトラーは、党員を隊員とする、突撃隊(storm troopers。SA)と親衛隊(Schutzstaffel=SS)なるミニ軍隊を編成します。まことに「君主」にふさわしい門出でした。

(注3)=Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=NSDAP=the Nazi Party。ちなみにナチス(Nazism)は、NationalsozialismusのNaとziとsmをくっつけて短縮形としたもの(http://en.wikipedia.org/wiki/Nazi。12月20日アクセス)。

 同時にヒトラーが、「外見」に弱い大衆(コラム#568)・・第一次世界大戦でのドイツの敗北以降精神的アノミー状態に陥り、かつ経済的苦境に呻吟していた・・に受けるのをねらってつくったキャッチコピーが、アーリア(Arian)民族至上主義であり、反ユダヤ主義であり、国家社会主義でした。
 1923年にヒトラーは、力によってババリア州政府を打倒しようとミュンヘン一揆(Beer Hall Putch)を起こしますが、警官隊に発砲され失敗します。これ以降ヒトラーは、力は示威的に活用するにとどめ、合法的に権力を簒奪する方針に切り替えます。「君主」は成長したのです。
 一揆を起こした廉で9ヶ月間入獄したヒトラーは、獄中でキャッチコピーを敷衍した『我が闘争』(Mein Kampf)を著すのですが、この本は、大衆にバカ受けし、1939年までに500万部も売れ、ナチス党員及びシンパは急速に増えて行きます。
 1932年7月、ナチスは総選挙で37.3%の得票率を獲得し、国会で第一党になります。同年の11月の選挙では、ナチスは得票率を減らしますが、第一党の地位は保ち、翌1933年1月、ヒンデンブルグ(Hindenburg)大統領は、しぶしぶヒトラーを首相に任命します。
 そしてその2月に起こった(ヒトラーが起こした?)国会火災事件を契機に国家緊急事態をヒンデンブルグに宣言させたヒトラーは、3月、国会から立法権を事実上剥奪する、いわゆる授権法(Enabling Act)を国会に上程します。国会の外をSAが取り囲み、議場の通路にまでSAが入り込んで無言の恫喝を加える中で、議決に要する三分の二の票を、ナチスはカトリック系政党をウソでたらしこむことによって確保し、授権法は可決され、ここにワイマール共和国の下の民主主義は死を迎えるのです(注4)。

 (注4)これまで何度も(例えばコラム#47、48で)述べてきたように、日本では議会制民主主義は敗戦時まで機能し続けた。この点だけでも戦前の日本とナチスドイツとは180度異なっている。

 これは、『君主論』ご推奨通りの、力と法を絶妙に組み合わせて行った権力簒奪でした。
 その上で、1935年にはヒトラーはヴェルサイユ平和条約違反の大軍拡に着手し、1936年には同条約で武装禁止地帯とされていたラインラントに軍隊を進駐させます。
やがて欧州最精鋭の軍隊の整備に成功したヒトラーは、軍拡による経済成長に幻惑され、一層ヒトラーに支持を寄せたドイツ大衆を兵士と兵站要員に仕立て上げ、『君主論』が「君主」の最大の使命とするところの、領土拡大・欧州統一に乗り出して行くことになるのです。
(以上、http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/hitler.html及びhttp://www.historyplace.com/worldwar2/riseofhitler/dictator.htm(どちらも12月19日アクセス)による。)

(続く)