太田述正コラム#9669(2018.2.26)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その11)>(2018.6.12公開)

 「柴野栗山は、その上書の中で、まず(1)幕府直轄地の代官の地方行政に、次に(2)幕府の対譜代大名・対旗本(幕府の行政官)のそれぞれに、文と武の両面、すなわち(2)a「文徳」としての「恩徳」と(2)b「御上の御威光」としての「武威」を発現させる政策を提言する。・・・
 栗山上書の前半・・・は、決して彼独自の政策案ではなく、かつて荻生徂徠が吉宗に献策した政策に依るところが少なくないと思われる。・・・

⇒眞壁の言いたいことを露骨に書けば、栗山の上書の前半は、荻生徂徠の献策の焼き直しに過ぎない、ということでしょう。
 栗山のオリジナルな献策は、後半だけ、と受け止めてよさそうです。(太田)

 <次に、後半に言う、>「文徳」としての「恩徳」は、学問・教育が果たす政治的役割にも通じている。・・・
 「唐人の真似」をして「詩文章」を作り、あるいは自ら講釈をするのは、・・・為政者にとっては「御政道の御邪魔」になるのではないか<、といった>・・・「御役人衆」からの批判に応え、徳川吉宗<(注25)(コラム#750、1626、1648、4170、5768、8070、8442、9444、9653、9659)>・徳川光圀・保科正之、池田光政の名を挙げて栗山は云う。

 (注25)「吉宗の行なった享保の改革は一応成功し、幕府財政もある程度は再建された。・・・ただし、財政再建の一番の要因は上米令と・・・年貢を五公五民にする・・・増税によるものであったが、上米令は将軍権威の失墜を招きかねないため一時的なものにならざるを得ず、・・・増税政策によって、農民の生活は窮乏し、・・・百姓一揆の頻発を招いた。・・・また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97
 「上米の制(あげまいのせい)は、・・・大名に石高1万石に対して100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代の際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とし<た。>・・・享保7年(1722年)に制定され・・・享保15年(1730年)に廃止された。・・・<これは、>・・・幕府財政を各藩に依存するものであり、幕府権威の低下は免れなかった。また、参勤交代の緩和策は江戸藩邸での経費削減につながり、大名の経済力の拡大をもたらしうるものだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%B1%B3%E3%81%AE%E5%88%B6

⇒「注25」からお分かりのように、総じて言えば、吉宗もまた、名君の名には到底値しません。
 なお、吉宗は、「それまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した」(上掲)とされてはいますが、それがまさに掛け声だけだったと思われる証拠に、「吉宗自身は、紀州時代に九歳から新陰流の稽古をはじめて<いたにもかかわらず、>・・・歴代の将軍の中で、将軍時代に新陰流の稽古はおろか、上覧演武すら見たことがないのが、・・・子供のまま短期政権で亡くなったので仕方がないと<ころの>・・・七代家継と八代吉宗だけ」
http://www.mugairyu-hyohotan.com/shidan056.html
という始末ですし、いわんや、彼の兵学(軍学)への関心をうかがわせる事績は、少し当たってみた限りでは皆無です。
 吉宗の孫の定信が用いた「武」や「軍」は言葉だけではないか、との私の推量は、吉宗についてもあてはまりそうです。
 (このうち唯一の外様大名たる池田光政だけは名君の名に値するのかも。)(太田)

 「人君」にとっての学問とは、治国平天下に関わる政治の学である。
 「人君の本道の御學文と申すは」「國天下を御治め申候事を學び被遊候事に御座候」。
 しかも、「天下に學者は大勢御座候得共、此筋をよく呑込候ものは餘り多くは無之」、わずかに新井白石・室鳩巣・熊沢蕃山・中江藤樹<(注26)(コラム#3666、6831、9659、9663)>・山崎闇齋・伊藤仁齋・東涯<(注27)>父子だけである・・・。

 (注26)1608~48年。農家に生まれ、武士であった祖父の養子となり、武士になるが、脱藩し、私塾を開く。「やがて朱子学に傾倒するが次第に陽明学の影響を受け、・・・身分の上下をこえた平等思想<を説き>、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し・・・「近江聖人」と称えられた。代表的な門人として熊沢蕃山・・・などがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%A8%B9
 (注27)伊藤東涯。1670~1736年。「京都生。伊藤仁斎の長男。・・・父に儒学を学び、その学を継承して堀川学風を大成<したが、>・・・仁斎に残存した朱子学的要素を一掃し,仁斎の心情的道徳論を客観秩序重視の方向に転換して,徂徠学に接近<した。>・・・<なお、>語学,史学,考証学,博物学など仁斎が手がけなかった分野も開拓した。・・・新井白石・荻生徂徠らと親交が篤く、また・・・多くの子弟を育成<した>。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%9D%B1%E6%B6%AF-15408

 しかし、彼が「天下の智をかりて天下を治る」と述べるとき、その智者とは、いわゆる「學者」や「奥儒者」の任命ばかりを想定しているわけではない。
 「物をいはせて、夫を取り撰び政道に用ひ」るのは、「下の者」たちの政治的意見も含む。」(86~88)

⇒栗山は、陽明学者たる中江藤樹、熊沢蕃山も含む、妥当かつバランスのとれた人選を儒学者については行っているところ、名君についての彼の人選が、本心の吐露なのかゴマスリ入りなのか、等には立ち入らないことにしましょう。
 より重大なのは、何度も同じような話をして恐縮ですが、彼が、「武」をネグレクトした上で、「文」の方について、国政に関すること、という独特の再定義をしておきながら、その国政の中に軍事を含めなかったところ、かかる軍事のネグレクトは、当然、定信の考えにも合致していたはずだ、という点です(太田)

(続く)