太田述正コラム#9671(2018.2.27)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その12)>(2018.6.13公開)

 「<栗山は言う。>
 かつて室鳩巣の献策によって吉宗が導入した目安箱<(注28)>・・・も、今や「町人百姓のみ」しかその「訴状箱」に書を投じない有り様である。

 (注28)「戦国時代には戦国大名において目安箱を設置し、相模国の北条氏康がこの制度を実施していたという。また、・・・甲斐武田氏でも本拠である甲府に目安箱を設置していたという。一般的に目安箱といえば江戸時代の1721年(享保6年)に徳川吉宗が設置したものを指すことが多い。目安とは訴状のことであり、政治・経済から日常の問題まで、町人や百姓などの要望や不満を人々に直訴させた。幕臣の投書は当初許可されていたが間もなく禁止され、投書は住所・氏名記入式で、それの無い訴状は破棄された。箱は鍵が掛けられた状態で江戸城辰ノ口の評定所前(現在の東京駅北口付近)に毎月2日、11日、21日の月3回設置され、回収された投書は将軍自ら検分した。・・・
 これにより、町医者の小川笙船が江戸の貧民の窮状を訴えて施療院を建てさせる進言をし、吉宗が大岡忠相に検討させて小石川養生所の設置が実現した他、町火消が整備され、幕府が行っていた新田開発では、開発可能地の意見も参考にされた。吉宗が紀州藩主時代に和歌山城一の橋御門前に設置した訴訟箱が目安箱に繋がったと言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E5%AE%89%E7%AE%B1

⇒目安箱を設置したからといって、そして、投書を踏まえた「善政」を若干行ったことがあるからといって、(そして、大岡等の名町奉行を任命したからといって、)吉宗が名君であった、とは言えません。
 あのサウディアラビアにおいてすら、国王への直接請願制度があることを想起してください。(注29)

 (注29)「サウ<ディ>アラビアでは、国王はじめ王族や政府機関の幹部が毎週、一定の日時を定めて陳情・直訴を直接受ける仕組みが存在する」
http://www.iima.or.jp/Docs/newsletter/2011/NLNo_08_j.pdf
 ちなみに、人権という観念そのものを私は評価していないわけだが、「人権としての請願の起源は、イギリスにあるといわれている。・・・イギリス<で>・・・明文で請願権を規定したのは・・・権利章典(1689年)である<が、>・・・歴史上、その明確な起源を辿れば、・・・エドワード1世(1272~1307)のころにまで遡ることができる。」(2)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=12&ved=0ahUKEwiwkdn_4cXZAhVQQLwKHUJNCJ84ChAWCCowAQ&url=https%3A%2F%2Frikkyo.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D4303%26item_no%3D1%26attribute_id%3D18%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0kZWekyyF18TjfGliq0v3M

 階層社会の上下間で塞がった「言路を開」くことは現今の急務、したがって武士においても身分格式に関わりなく下から忌憚なき「諫言を御取上被遊候が人君の御学<(ママ)>文の第一」なのである。<と。>・・・
 <ところが、>栗山の場合、学問と政治の関係は、対象者によって異なる。
 すなわち、彼は、一方で「人君」の使命として下からの「實知」にもとづく「諫言」許容や「言路洞開」の必要を主張しながら、他方で旗本教化については「忠孝」精神の教育を説く。
 後者の旗本にとっての学問の意味に限っても、もっぱら統治者の「恩徳」として、旗本の「忠孝」倫理涵養の道具となっているが、これは・・・古賀精里の<佐賀藩当時の>「選士法」の学問観、すなわち藩役人が不学で「小智を用候而も大理ニ暗」いことを憂え、学問によって「致事も道理ニ當」り「道理を能ク吟味」することを求めたこととは明らかに趣きを異にする。
 じっさい、栗山が旗本教育の手段として「上書」であげる方法は、徂徠が批判した「四書・小学等の講釋」である。
 それは、耳から「講釋」を聴かせ、それによって五倫を修養させる方法である。」(88~90)

⇒定信は、昌平坂学問所が設置された1797年時点では、既に老中首座を解任されています・・解任は1793年・・が、同学問所は定信の行った寛政異学の禁の論理的帰結であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80 前掲
「定信引退後の幕府は、・・・定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだので、彼らは寛政の遺老と呼ばれた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
くらいなのですから、同学問所の実質的な設立者は定信であるところ、栗山のこの「上書」の内容の核心部分は、恐らくは、定信の考えでもあった可能性が高いことからして、昌平坂学問所での教育における期待される幕臣像が、単なる将軍・幕閣による命令の忠実な執行者、イエスマン、でしかなかった可能性が高いことを示すものです。
 なお、この上書における、目安箱への幕臣の投書の解禁提案は、既にイエスマン化させられていた幕臣達のガス抜きの場を設けた方がよい、という趣旨のものであった、と私には思えます。(太田)

(続く)

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