太田述正コラム#9691(2018.3.9)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その22)>(2018.6.23公開)

 「学問吟味の受験資格は、それが導入された時点から、非幕臣で全国の諸藩から<学問所に>集まった「書生」には与えられていなかった。・・・
 彼ら・・・は、・・・学問所附属の寄宿舎・・・にも入寮が許可されず、当初隣接する尾藤二洲の官舎などに寝泊りした。
 しかし享和3<(1803)>年に非幕臣のための書生寮が官費で建造されるに及んで、その寄宿舎となった。
 ・・・昌平坂学問所の主たる教育対象は、学問吟味の受験資格を持つ「稽古人」と呼ばれる幕臣たちである。
 彼ら幕府の家臣たちは、一年を目途に寄宿舎に住み込んだ「寄宿稽古人」、南寮の二階を溜まり場とした通学生の「通稽古人」、北寮を居住場所とした「寄合」たちに分類され、それぞれに課業をこなして学問所で行われるいくつかの学問試業に備えた。

⇒眞壁は、稽古人や書生の昌平坂学問所在籍期間、という肝心のこと、を明らかにしてくれていないのですが・・。
 まさか、在籍期間は、わずか「一年」ということではなかったのでしょうね。(太田)

 その学習方法は、一、儒者の経書講釈の聴講、二、経書の輪講、三、史書の会読、四、経・史書の自修であったという。・・・
 輪講は経書、会読は史書について行われた・・・。いずれも問答や討論の末、会頭に採決を乞うた・・・。・・・
 会読は、同水準の学力を持つ学生が集まって所定の箇所について相互に「義理を討論し、精緻を講究」し、教官が批判・審判者となり、さらに、輪講会は、同僚同士相互にそれを行うものであった。・・・

⇒眞壁は、ここでの『義理』が「物事の正しい筋道。また、人として守るべき正しい道。道理。すじ。」的な意味で使われているのか、それとも、「わけ。意味。」の意味で使われているのかを明らかにすべきでした。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/58162/meaning/m0u/ (2か所の「」内)
 私は、後者の意味であると解しています。
 また、『精緻』は、ご存知のように、「非常に細かな点にまで注意が行き届いている」
https://kotobank.jp/word/%E7%B2%BE%E7%B7%BB-545831
 更に、『講釈』については、文理的に、ここでは、「物事の道理や心得などを説いて聞かせること。」ではなく、「書物の内容や語句の意味などを説明すること。」でしょう。
https://kotobank.jp/word/%E8%AC%9B%E9%87%88-62220 (2か所の「」内)
 結局、学問所における勉強は、漢籍なる外国語文献の和文への翻訳、要は、漢語和訳、を、いかに「正しく」行うかに終始していた、ということになりそうです。(太田) 

 <この他、>非幕臣の書生も交えた詩会や文会(10・20の日)も行われた。・・・
 「・・・詩や文などの會をいたすには、書生同士で回評をいたします。
 是は嚴しい評正をいたし、充分思ふところを書入れて廻はすといふ様なことでありました・・・」・・・

⇒引用文の中の「評正」の意味は、日本語としても漢語としても、調べがつかなかったので、常識的な解釈でいきますが、評価しつつ正しいものにしていく、ということのように思われます。
 そうだとすると、詩・・もちろん漢詩でしょう・・にしても、文・・もちろん漢語の文章でしょう・・にしても、用いられている漢字、文法等が正しいかどうかについて評価しつつ正しいものにしていく、ということになるところ、先ほどが、漢語和訳についての勉強であったのに対し、これは、和文漢語訳についての勉強である、ということになりそうです。
 すなわち、学問所における勉強は、経書や史書の内容に関するものではなく、経書や史書の和訳の勉強と、この勉強を踏まえた、和文漢語訳の勉強であったのであり、それ以上でも以下でもなかった、ということになりそうだ、ということです。(太田)

 幕臣以外の一般庶民にも公開された「御座敷講釈」(4・9の日)・「仰高門日講」へも「聴聞人」と共に出席が可能であった。

⇒漢語和訳・和文漢語訳の公開講座があった、ということですから、この点に関しては、学問所、というか、幕閣、は、いいことをしたな、と評価したいですね。(太田)

 学業が進めば、共同学習ばかりでなく、書籍を借り出して独習する「独看」も行われた。」(118~119、548)

(続く)