太田述正コラム#9902(2018.6.23)
<皆さんとディスカッション(続x3747)/アジア復興の原点–島津斉彬コンセンサス>

<太田>(ツイッターより)

 建築家の藤本壮介の存在をCNN記事で知った。
https://edition.cnn.com/style/article/sou-fujimoto-future-architecture/index.html
 このl記事で紹介されているのや、ウィキ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E5%A3%AE%E4%BB%8B
でリンクされている、彼の作品群を一瞥したが、素晴らしいねえ。
 一流の建築家って、文科系理科系双方の学問に通じている必要がある偉大な芸術家だなあ、と改めて思う。

 「水滴の「ぽちゃん」という音、発生の仕組みついに解明 …」
http://www.msn.com/ja-jp/news/techandscience/%e6%b0%b4%e6%bb%b4%e3%81%ae%e3%80%8c%e3%81%bd%e3%81%a1%e3%82%83%e3%82%93%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e9%9f%b3%e3%80%81%e7%99%ba%e7%94%9f%e3%81%ae%e4%bb%95%e7%b5%84%e3%81%bf%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%ab%e8%a7%a3%e6%98%8e/ar-AAz2g7Q?ocid=ientp#page=2
 本日のオフ会で私がやる話は、日本人なら誰でも知ってる、日本(と世界)の明治維新150年史の仕組みをついに解明したことについてなんだけど、異論、反論、疑問、何でもいいから、コメントをどんどん寄せてたもれ。

<太田>

 それでは、その他の記事の紹介です。

 昨日、対局があることを知ってて、午後から見ようと思ってて、見損ねた。
 全タイトル独占、その上での(私の希望の)転身目前。↓

 「将棋–藤井七段、王座戦タイトル初挑戦まであと2勝・・・」
https://mainichi.jp/articles/20180623/k00/00m/040/143000c
 <アユム氏が二つもアップ。↓>
https://www.youtube.com/watch?v=cVZAYsfSmAw
https://www.youtube.com/watch?v=Z1ZOwIbnx48

 エー!↓

 「・・・国は刀鍛冶が作れる刀の数を年間24振りまでと事実上制限していることから、刀鍛冶が減り、たたら製鉄所の経営は逼迫している。・・・」
http://www.sankei.com/politics/news/180622/plt1806220018-n1.html

 NYタイムスが飛びつく話題。↓

 He Left Work for 3 Minutes Before His Lunch Break. Now His Pay Is Docked.・・・
https://www.nytimes.com/2018/06/22/world/asia/japan-bento-lunch-early.html?rref=collection%2Fsectioncollection%2Fworld&action=click&contentCollection=world&region=stream&module=stream_unit&version=latest&contentPlacement=8&pgtype=sectionfront

 いかなる効果を求めるかによるだろが・・。↓

 「運動は一気にやるか小分けか、効果あるのはどっち?・・・」
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO31708470T10C18A6000000?channel=DF140920160927&style=1

 やや筋肉に頼る方式ではある→ややカネに頼る方式ではある、朝貢をささげる属国→ちょっぴり朝貢してたんまり返礼品をもらう「属国」、だよ。
 マティスよ、チミもやっぱし、トランプのお眼鏡に叶っただけのことはあるね。↓

 「・・・マティス国防長官は15日、海軍大学の卒業式で演説し、「中国は現在、国際秩序を変更するための長期計画を持っている。明が彼らのモデルであるようだ」と述べた。その上で、「やや筋肉に頼る方式ではあるが、他国には朝貢をささげる属国になり、北京に頭を下げることを求めている」と指摘した。ワシントン・ポストは20日、「習近平国家主席の野心について、識見を通じて警告したものだ」と評した。
 中国が過去の明の時代の栄華を再現しようとしており、周辺国に朝貢外交を強要しているというマティス国防長官の批判は今回が初めてではない。昨年3月、米議会での聴聞会では、「中国は南中国海(南シナ海)で周辺国が強大国(中国)に朝貢したり、黙って従わせたりする一種の朝貢国家方式を取り、信頼を破壊している」と述べた。
 昨年2月に日本では、「今中国は明代の冊封政策を復活させ、周辺を全て自国の勢力圏に置こうとしているのかもしれない」と述べた。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/06/22/2018062201184.html

 一応記録に残しとこ。↓

 「メラニア夫人の上着に「私は気にしない」…物議・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/world/20180622-OYT1T50090.html?from=ytop_ylist

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <人民網より。
 日本へ行けキャンペーン。↓>
 「日本に「境界のない」デジタルアートミュージアム・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2018/0622/c94689-9473900.html
 <サッカー狂、習ちゃん。↓>
 「日本が6大会連続でワールドカップに出場できるようになった秘訣は?・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2018/0622/c94689-9473902.html
 <日本の新聞かよ。↓>
 「大阪北部地震の余震警戒し、避難所に身を寄せる住民・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2018/0622/c94689-9473901.html
 <ここからは、サーチナより。
 はい、よくできました。↓>
 「中国メディアの快資訊は・・・日本と中国は隣国同士でありながら各所に大きな違いがある国同士だと伝え、日本を訪れた中国人は「取るに足らないことに時間と労力をかける日本人は間が抜けている」と感じることもあると伝えた。
 たとえば、日本の商業施設では館内に表示案内板を設置すると同時に、案内係のスタッフを配置するなど、無駄と思えることをしていると指摘。また、地下鉄などではリュックを背負ったままではなく、前に持って他人の空間を奪わないよう配慮すべきと呼びかける表示もあると紹介し、中国人からすると「そんなことは取るに足らないこと」のように思えると主張した。
 だが、地下鉄や新幹線の発車時刻表は見やすく、何時に何番ホームからどの車両がどこへ向かうのか、一目で分かりやすく表示されていること、街中にごみ箱がないのにごみがまったく落ちておらず、嫌な臭いもまったくないことなどに気付くと、中国人旅行客はその「取るに足らないこと」の徹底した積み重ねが日本の精緻な社会を構築していることに気づくと強調。そして、「取るに足らないこと」をあらゆる分野で徹底して行うことができる日本人に「恐ろしさ」を感じるのだと伝えている。」
http://news.searchina.net/id/1661876?page=1
 <やっぱ、感覚、違うようなあ。↓>
 「・・・中国メディアの快資訊・・・記事は、日本の警察が主催したイベントなどで展示されたパトカーの写真を紹介。そこには、パトカーの色として白と黒にカラーリングされたホンダ・NSXのほか、日産GT-R、マツダRX-7、三菱GTO、日産フェアレディーZなどスポーツカーの警察車両が紹介されている。こうした車に憧れの気持ちを抱く中国の自動車ファンは少なくないようで、こうしたパトカーが存在することも羨ましいことのようだ。
 さらに、日産セドリックやトヨタクラウンなどの名車も日本の警察車両として使用されていることを紹介した。記事は、スポーツカーが警察車両に使用されていることはごく一部であることを紹介しつつも、中国とは大きな違いがあると紹介。それは日本の自動車産業が非常に発展していることであるとし、中国では自国メーカーが世界に名だたるスポーツカーを生産できないため、パトカーへの採用も当然望めないことだと伝えた」
http://news.searchina.net/id/1661835?page=1
 <同じく。↓>
 「 中国メディアの快資訊は・・・日本では大きな地震が発生しても出社を命じられるケースがあったことに驚きを示しつつ、「日本のビジネスパーソンはなんて抑圧されているんだ」と主張する記事を掲載した。
 記事はまず、神戸市の職員がこのほど、弁当を注文するために勤務時間中に職場を離れる「中抜け」を7カ月間で26回繰り返したとして減給処分となったケースを紹介。この中抜けは1回あたり3分ほどだったというが、記事は「3分間業務から離れただけで公開処刑されるなんて、中国だったら絶対にありえないこと」との見方を示した。
 確かに中国では勤務中に私語をすることは特に珍しいことではなく、勤務中に私用の電話をする人も少なくない。そして、こうした行為を咎める風潮も中国では一般的ではないため、中国人が「3分間の中抜けで減給処分とされる日本の風潮」に驚くのも無理はない。
 また記事は、日本は地震が多発する国であることは中国でも広く知られているが、地震が発生しても日本人は普通に出社して仕事をしていると紹介。大阪で18日に発生した震度6弱を記録した地震でも少なからぬ企業が社員に出社を命じたようだと指摘、中国の職場環境に比べると日本で働くのも楽ではないと驚きを伝えている。」
http://news.searchina.net/id/1661873?page=1
 <へイへイ。↓>
 「日本の対中投資が増加に転じる「中国の一帯一路に便乗しようとしている」・・・中国メディアの新浪・・・」
http://news.searchina.net/id/1661877?page=1
 <サッカー狂騒状態が続く中共。↓>
 「やはり羨ましい・・・どうして日本は毎回W杯の本戦出場権を獲得できるのか・・・中国メディア・光明日報・・・」
http://news.searchina.net/id/1661841?page=1
 「崖っぷちなのに・・・W杯韓国代表、日本の勝利になぜか自信取り戻して「GL突破」を豪語・・・中国メディア・東方網・・・」
http://news.searchina.net/id/1661847?page=1
 「日本代表の勝利は、ピッチ上だけではなかった! 相手サポーターをも感化させた、日本サポーターの行動・・・中国メディア・東方網・・・」
http://news.searchina.net/id/1661874?page=1
 「コロンビアに勝ち、道頓堀に飛び込む大阪人、中国「日本人のお祝いの仕方は不可思議だ」・・・中国メディアの快資訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1661875?page=1
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一人題名のない音楽会です。
 久しぶりに、クラシック的歌謡曲をお送りします。

〇初代コロムビア・ローズ小特集を組んでみました。

花の慕情(1957年) 作詞:西條八十 作曲:上原げんと
https://www.youtube.com/watch?v=3wG4OH5c0AA

しあわせはどこに(1956年) 作詞:西條八十 作曲:万城目正
https://www.youtube.com/watch?v=cq9I9LAzWmo

東京のバスガール(1957年) 作詞: 作曲:上原げんと
https://www.youtube.com/watch?v=kHFoO4L-KVw

オリーブの唄(1957年) 作詞:河西新太郎 作曲:服部良一 二葉あき子のカバー(注)
https://www.youtube.com/watch?v=xMkZamaesqI

(注)http://www.yamanashinouta.com/ori-bunouta.html

〇今度は、丸山圭子の「どうぞこのまま」カバー小特集です。
 この歌、カバー、むつかしそうで、碌なのがありませんが・・。

高田みづえ
https://www.youtube.com/watch?v=lZ_gz3PD794
こやすなほみ
https://www.youtube.com/watch?v=UP8eaURhtqM
川越美和
https://www.youtube.com/watch?v=em7ISIwZfjI

〇オマケです。

 10:16からのメドヴェージュワの演技も素晴らしいのだが、27:32からのキム・ヨナの演技の美しさは神がかっている。フィギュアスケートは、何回転だかを競うスポーツと美を競う氷上バレエとに「競技」を2分した方がいいのではないか。
Piazzolla’s Oblivion – Best 15 versions, vocal and instrumentals – A full hour
https://www.youtube.com/watch?v=KFkaVhfTvWE
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         アジア復興の原点–島津斉彬コンセンサス

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1 始めに
2 名君中の名君であった島津斉彬
3 島津斉彬の考え
 (1)序
 (2)斉彬が目標としたこと
[開拓使について]←囲み記事(以下同じ)
  ア 中期目標(顕教的目標):ロシアの脅威への対処
  イ 長期目標(密教的目標):英国の脅威への対処
  ウ 中期目標:支那の覚醒・復興
   ●支那を辱めよ
   ●支那と交流を促進せよ
   ●必要あらば軍事力を用いてでも支那に日本国制を継受させよ
   ●系1:朝鮮にも関しても、支那に関してと同じことをせよ
   ●系2:支那・朝鮮以外のアジア等の非欧米世界に関しても同じことをせよ
 (3)手段
  ア 総論–欧米の科学・制度の継受
  イ 欧米的な海軍の継受
  ウ 欧米的な軍事装備の継受
 (4)樹立すべき新国制
   ●強兵(国軍の設立・整備を含む中央集権化)
   ●富国(強兵を支える基盤の構築
(5)維新((1)~(3)の追求を可能にするための必要条件)
   ●倒幕
   ●斉彬が当然提携できると見ていた家や藩
(6)維新後における対外政策の基本
●提携:仏
●台湾領有
[幕府と、南朝正統論・尊王論・攘夷論]
(7)抱懐すべきイデオロギー
●天皇制堅持
●人間主義(縄文性)追求
●軍事力重視(弥生性)
[斉彬にとっての国学]
 [廃仏毀釈と斉彬]
4 島津斉彬コンセンサスの形成と展開
(1)精忠組による島津斉彬コンセンサスの形成
(2)拡大島津家
[藩論の「威力」]
●近衛家/天皇家
●尾張藩
   ●佐賀藩
   ●福岡藩
   ●中津藩
(3)島津斉彬コンセンサス中のアジア主義の展開
  ア 薩摩藩英国留学生達
 [興亜と脱亜]
  イ アジア主義の系譜–帝国陸軍
   ●西郷隆盛
   ●川上操六
   ●荒尾精
   ●石原莞爾
 [八紘一宇]
   ●板垣征四郎
 [宮沢賢治]
[ニアミスに終わったところの、岩畔豪雄と島津斉彬コンセンサス]
   ●松井石恨
   ●杉山元
   ●綾部橘樹
   ●牟田口廉也
 [悲喜劇の人、佐藤幸徳]
 [大陸打通作戦]
 [大東亜共栄圏]
  ウ アジア主義の系譜–一般
   ●大久保利通
   ●大隈重信
   ●近衛篤麿
   ●梅屋庄吉
   ●頭山満
   ●宮崎滔天
   ●犬養毅
   ●広田弘毅
   ●大川周明
   ●徳川義親
5 付け足し–帝国陸軍OB達の「沈黙」について
 [明治維新と昭和維新]
6 終わりに
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1 始めに

 江戸時代の選良教育について調べてきて、江戸時代に、文武両道を身に着けた者はまともな選良になったが、身に着けなかった者はダメ選良になったんだな、そして、そういう視点で明治新以降の選良教育も検証してみよう、というところまでは、うまくことが運んでいたのです。
 しかし、困ったことが起きました。
 薩摩藩士達が、(幕臣達や御三家/親藩/譜代の武士達同様、)兵学という意味での「武」をきちんとした教育を受けて身に着けていた形跡がないにもかかわらず、彼らが長州と並んで明治維新の主力たりえたのはどうしてなのか、という悩ましい問題です。
 彼らは島津斉彬が敷いた路線を歩んだだけだ、と言ってみたところで、その斉彬自身が、やはり、「武」を身に着けていた形跡がない、と来ています。
 私がとりあえず答えるとしたら、天才は、教育で欠けた部分があっても、何とかなるのではないか的なことですが、あえて、更に言えば、斉彬の場合(だけ?)は、現実主義の極致のような兵学を学ばなかったからこそ、ロマンを追求するという形でその天才を十二分にはばたかせることができたのではないか、でしょうか。
 なーんてことを考えているうちに、明治維新を実現させた戦略は島津斉彬が一人で描いたものだったのではないか、いやそれだけではなく、明治維新以降の日本の歩みを規定したのは、私の言う、横井小楠コンセンサスもさることながら、これを概ね包含したところの、島津斉彬コンセンサスとでも形容すべきものだったのではないか、という気がしてきて、このことを、前回の「講演」の中で示唆したわけです。
 考えてみれば、島津斉彬コンセンサス的なものを想定することなくして、ロシアの脅威の解消より先にアジア解放・・復興とまではいきませんが・・が成し遂げられたことを説明できないのではないのか、とも。
 (今にして思えば、先の大戦に日本は勝利した、と発想を180度変更した時点で、私は、このような問題意識を持つに至っていてしかるべきでした。)
 こういうわけで、今回、予定を変更して、「島津斉彬コンセンサス」についてお話することにしたのです。
 で、先に申し上げておきますが、
 「横井小楠コンセンサス(対露)が顕教で島津斉彬コンセンサス(対英仏露・向アジア)は密教と形容することも、或いはまた、前者は概ね後者の部分集合と形容することもできる。「概ね」なのは、後者がはみ出ている部分があって、それは、現実主義、とりわけ、戦争における現実主義であり、たとえ戦争目的が達成できたとしても、負ける戦争・・敵に比して味方の被害が大き過ぎる戦争を含む・・は行わない、という部分である。」
というのが、私のその後、到達した暫定的結論です。

 (なお、更にその後、選良候補でありながら、文武どちらかに偏った教育しか受けなかった中の(天才ならぬ)凡才達が奏で続けたところの、仮称、勝海舟通奏低音的なもの、も考慮に入れなければ、明治維新以降の日本の近現代史の総体を完全に説明しきることはできない、とも思うに至った(コラム#9760)のですが、その具体的な話は、結果的に次回回しにしたところの、「江戸時代の選良教育–後半」の中で取り上げるつもりでいます。)

 さて、斉彬自身は著作を残していないので、彼の言行を記録している『島津斉彬言行録』のさわり等・・を手掛かりにして、彼の考えをまとめることにしました。
 こういうわけで、まずは、(今更ながらという感なきにあらずですが、)『島津斉彬言行録』を買って読んだ次第です。
 この岩波文庫版が届いた時、その初版が1944年11月5日で序文を書いているのが牧野伸顕(注1)であることを知って、眼を丸くしました。

 (注1)1851~1949年。「大久保利通・・・の次男として生まれ・・・郷中で教育を受け・・・10歳ごろから<藩校>造士館でも教育を受ける。
1871年 1月、父・利通<、及び、>兄・・・と共に上京<、>11月、岩倉遺欧使節団に留学生として随行。
1872年 <米国>の学校に留学。
1874年 秋、帰国。鹿児島へ帰省後、上京。東京開成学校(東京大学)に入学。・・・
1878年 5月14日、利通暗殺さる。・・・
1879年 12月11日、外務省御用係となる。東京大学中退。
1880年 3月9日、外務省書記生(専門職)となり、<駐英>公使館に勤務。
1882年 <英国>を訪れた伊藤博文の知遇をえる。
1883年 10月14日、帰国。太政官権少書記官となる。・・・
 <宮内大臣、内大臣、文部大臣、農商務大臣、外務大臣等を歴任。>
 吉田茂は女婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
 「伊藤博文<いわく、>・・・明治の世となって以来、大久保さんほどに国家の難局を処理し、また事業を多く遂行された方は、維新の諸先輩中他に類例を見ない・・・
 <にもかかわらず、>おおよそ大久保さんほど誤解された人も少ない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
 伊藤は、こんな大久保心酔者だったから、大久保の令息である牧野伸顕を引き立てたのだろう。
 しかし、「注」の中で、しかも、こんな段階で書いてはいけないのだが、伊藤のこの大久保評は、大変な買いかぶり、というか、錯覚、であって、伊藤が見ていたのは、実は、大久保に憑依していた島津斉彬だった、ということが、本日の話を聞けば、分かるはずだ。

 私が眼を丸くした理由は、第一に、大久保が、西郷隆盛と並ぶ、島津斉彬の高弟であること、と、第二に、先の大戦を担った日本の指導者達の中には、維新の時代に活躍した大久保利通のような人の(孫ではなく)子供さえいたことに改めて気付いた、からです。
 逆に言えば、先の大戦を担った日本の指導者達の多くは、せいぜい、維新の時代に活躍した人々の孫達までであった、ということになるわけですが、この際、皆さん、ご自分の祖父母のことを思い起こしていただきたい。
 皆さんは、四人いる祖父母達の誰かから、直接、話を聞いたりしたことがあるのが普通でしょうし、少なくともご自分の両親から祖父母の言動について聞かされたことがあるはずです。
 つまり、我々は、両親だけでなく、祖父母のだって、遺伝子はもちろんですが、その言動の影響を濃厚に受けているところ、同じことが、先の大戦を担った日本の指導者達についても言えるはずだ、と

 さて、牧野は、1935年に内大臣を辞任し引退したけれど、「第二次世界大戦下にあっても<昭和>天皇の信頼は衰えず、数度宮中に招されて意見具申をした」(上掲)というのですから、天皇の側近達等から、最新の内外情勢について、情報を得ていたと思われ、(サイパン陥落により)日本の敗戦が必至となった半面、(インパール作戦が終わり、かつ、)大陸打通作戦(1944年4月17日~12月10日)がほぼ日本側の勝利で終わる見通しになっていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6
ことから日本が戦争目的を達成する目途もたっていた、ことも踏まえ、日支戦争/大東亜戦争が、島津斉彬コンセンサスに基づいて行われたことを、日本人に遺言するつもりでこの本を復刊した、と私は想像しているのです。

 ちなみに、この本は、もともとは、市来四郎<(注2)>によって、明治17(1884)年に編述されたものです。(岩波版25頁)

 (注2)1829~1903年。「青年時には高島流砲術など火薬に関する勉学を修めたところを島津斉彬に認められ、側近となる。製薬掛、後に砲術方掛となり、集成館事業に携わるなどの要職を務める。安政4年(1857年)に斉彬の密命により琉球に渡りフランスとの交渉に当たる。目的はフランスから戦艦を購入することであったとされるが、斉彬の急死により頓挫した。・・・斉彬の死後は弟の久光の側近となり、引き続き集成館事業に携わり、大砲・火薬製造を担当。・・・維新後は、主に久光の元で島津家に関わる史料の収集に携わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%9D%A5%E5%9B%9B%E9%83%8E

2 名君中の名君であった島津斉彬

 島津斉彬は、存命当時から、名君中の名君と目されていました。↓

 「中原尚介<(注3)>江戸へ遊學命ゼラレ、・・・カタハラ天下ノ形勢ヲ見聞シ言上イタスベキトノ御内命ヲ蒙リ候ニツキ、汎ク天下ノ有志人ニモ交際シ、當時評判シ奉リシ、私ドモヘ告ゲ越シタルコトコレ有リ候、ソノ概略ハ、即今大小諸侯ノ中ニ名君ト唱フルハ水戸福井尾張薩州宇和島佐賀岡山外ニ一橋(慶喜公)及び土州侯等之ヲ九明侯ト唱フ、中に就テ、我公ヲ以テ第一地位ニ稱シ奉リ、二ニ水戸福井佐賀宇和島トス、其他ハミナ混唱シテ明侯と唱フ、水戸ハ臣下ニ博識ノ名家多シ、輔佐ヲ以テ其名半バ以上ニ貴シ、福井モ然リ、獨リ薩侯ハ臣下ニ人ナク輔佐ナシ、薩州ニハ只公一人アルノミ、才アリ器アリ、創業守成兩ツナガラ兼備ノ君ナリト稱讃シ奉リ、殊ニ江川筒井川路等ノ人々ハ、尚ホ見ル處アリシヤ、當今海内只薩侯ノミ、今此侯ノアルアリ、望ラクハ天下ノ知政タラシメバ、外國恐ルニ足ラズ、内患憂フベカラズ、惜イカナ知政ノ地位ニアラズ、此侯ヲシテ知政ノ地位ニ居ラシメンコトヲ、若シ居ラシムルコト能ハザルトキ、テンカハ土崩瓦解鏡ニ照スガ如シ、トモ・・・是レ安静四年八月頃ノ事ナリキ」(183~184)

 (注3)「色合いも、薩摩切子には紅硝子という特徴的なものがあります。薩摩藩付きの蘭学者中原尚介らが、数百回の試験をしてやっと製法を確立したものです。江戸切子の被せにも赤はありますが、どちらかというと薩摩がルーツのようです。」
http://kiri-edo.com/2011/11/post_7.php

 ↑しかし、当時の名君達の中で、唯一、斉彬に関しては、臣下に人がいないともされていたわけです。
 中原尚介の報告に対して、この部分も含めて、斉彬が何の異論も唱えていないということは、斉彬自身が、西郷、大久保を含め、自分の部下には人がいないと自覚していたことを示しています。
 では、斉彬が亡くなってから、西郷、大久保らが「成長」した、ということなのでしょうか?
 いや、単に、この2人が、斉彬の戦略を忠実に遂行し続けただけなのに、それが、彼らの独自の見識による部分も大きい、と薩摩藩内外の人々が誤解した上、幸か不幸か、この2人が、明治維新後、それほど長く生きることができなかったので、馬脚を現さずに済んだ、というのが、あんまりな言いようだ、とのお叱りは甘んじて受けますが、私の見立てなのです。

 ちなみに、長州の毛利敬親は名君とされてはいなかったようですね。
 しかし、その敬親だって、人材を輩出させ、これら人材を自由闊達に活躍させた、という意味では、天才戦略家であった斉彬とは全く異なったタイプですが、やはり大変な名君・・豪華絢爛な神輿・・であった、と言うべきでしょう。↓

 毛利敬親(たかちか。1819~71年)は、 「11歳年下で下級武士の息子である吉田松陰の才を評価して重用し、自ら松陰の門下となったエピソードは、松陰の秀才ぶりと同時に敬親の人柄を示すものとしても語られることが多い。敬親は松陰を「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言ったという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%95%AC%E8%A6%AA
 実父毛利斉元(2代前の藩主)は、「狂歌を好んで鹿都部真顔に師事し、柳桜亭花也、柳花亭風姿瑞垣、土筆亭和気有丈などの狂号をもち、戯作者山東京山の次女・京が侍女から側室となり、孝姫、甚之丞(早世)を産んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%96%89%E5%85%83
 山東京山は、「江戸深川の質屋の次男・・・山東京伝は兄。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B1%B1
 とまあ、敬親は、まことに洒脱な父を持ったものだ。

 結局、敬親は、(横井小楠コンセンサスを抱懐する)人材を多数輩出させた一方、斉彬は、(島津斉彬コンセンサスなる)大戦略を、たった一人で編み出すも、西郷や大久保を含め、人材を養成することが、(素材が悪かったためか、)殆どできないうちに死亡ししてしまったところ、これからご説明するような次第で、敬親、と、斉彬の事実上の後継者たる久光、とが、それぞれ率いた、長州藩と薩摩藩が、島津斉彬の戦略通りに提携することでもって、ついに明治維新は成ったのです。
 そして、それだけではなく・・。

3 島津斉彬の考え

 (1)序

 薩長同盟が成立したおかげで、明治維新が成った、というのが通説ですが、そうではなく、たった今申し上げたことを繰り返しますが、島津斉彬が立てた戦略を西郷や大久保等の薩摩藩の藩士達が忠実に実行することによって、長州等を巻き込む形で明治維新が成った、と捉えるべきである、というのが私の現在の考えです。
 もっとも、ここまでのことであれば、明治時代の、ちょっと気の利いた日本の識者達にとっては常識的だったようです。↓

 「維新革命史中において、建設的革命家たる標式は、独り島津斉彬においてこれを見る。・・・
 彼の島津斉彬の如きは<明治維新>の首領にして、幕士中における勝安芳の如き、もしくは長州における長井雅楽の如き、もしくは横井小楠、佐久間象山の如きも、その実際的経綸は、ほぼこれと同一なりしやを想見せずんばあらず。」(徳富蘇峰『吉田松陰』)
https://furigana.info/w/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
 (私は、勝に関してのみは蘇峰の比較的高い評価に不同意なのですが、この話は、次回のオフ会「講演」に譲ります。)

 以下、斉彬の言動を紹介しながら、このことを明らかにしていこうと思います。

 (2)斉彬が目標としたこと

  ア 中期目標(顕教的目標):ロシアの脅威への対処

 斉彬にとっての最大の中期目標はロシアの脅威に対処する態勢の構築でした。↓

 「魯西亜ハ「ペートル」遺命シテ世界ニ一帝タランノ大志アリト、海國圖誌<(海国図誌)(注4)(コラム#4183、8580、8748、9364、9817、9821)>ニ記ス處モ、兵力盛ンニシテ國人勇敢且ツ富饒風俗質朴ナル趣トモ見エタリ、世界一帝タランノ計畵ニオイテハ必ズ先ヅ蝦夷ニ手ヲ延シ、尋デ支那ニ足ヲ入ルベシ、手ヲ延スニ當リテハ日本ノ一大事ナリ、之ヲ拒ガンニハ兵力ヲ用ユルハ下策ナリ、開墾シテ日本人種ヲ殖シ日本ノ所領ナルヲ分明ニスルトキハ、如何ニ強ナル魯西亜モ妄リニ手ヲ入ルヽコト能ハザルベシ、之ヲ上策トス、殊ニ産物多ク昆布敷ノ子鰯ノ類ヒ、其外發見セザル品モ多キ由、間宮林蔵ガ経歴誌ニモ記セリ、實ニ日本ノ寶蔵ナリ、然ルヲ魯西亜ノ為メニ奪ハルトキハ、日本ノ耻辱ナルノミナラズ、大損ナリ、専念來公義ヨリ度々手ヲ付ラレタレドモ永續セズ、今ノ向ニテハ持チ餘シタル姿ナリ、此内見込ミノ趣阿部伊勢守ヘ申開ケタルコトモアリタリ、・・・今形ステ置クトキハ後ニハ必ズ魯西亜ニ奪ハルニ至ルベシ、公義ヘ何ホド勸ムルトモ頓着ナキハ見ルガ如シ、依テ此方ヨリ願ヒ、開拓シ、實跡ヲ顕ハシタラバ、・・・」(言行録147~148)

 (注4)「『四洲志』は、1841年に林則徐の名で出版された中国人による最初の翻訳地理書である。同書は世界各国の歴史・地理、特に欧米の近代政治体制や科学技術など新情報を紹介した諸であ<る。>・・・
 『四洲志』の原書<は、>・・・1834年にロンドンで出版されたAn Encyclopeida of Geography:Comprising A Complete Description Of The Earth・・・と考えられている・・・《四洲志》は1839年2月以降に林則徐が原書を購入し、1840年1月ころから・・・林則徐の翻訳グループが翻訳を開始、1841年に出版されいる・・・
 『四洲志』を収めた『海国図志』(60巻)は、1854年に日本に舶載され、幕末の日本の知識人に影響を与えた」
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shkky/wakumon/no-21/05taniguchi.pdf

 これは、斉彬の独創でも何でもないのであって、単に、彼もまた、成立しつつあったところの、横井小楠コンセンサスの信奉者であった・・より正確には、で「も」あった、ことを示しています。
 ただし、このくだりで、斉彬が、ロシアの脅威への対処の観点から、北海道及びそれ以北の(入植を含む)経営に積極的に乗り出さない幕府を非難し、屯田兵的なものの入植を示唆しているように受け止めることができることは、斉彬の独創性を示すものとして重要です。
 で、斉彬が提唱した北海道開拓政策についてですが、明治維新後のその立ち上げには、斉彬の従兄弟で、斉彬の考えを聞かされていたはずの、しかも、薩摩藩と縁の深い(後出)佐賀藩の藩主鍋島直正とその重鎮藩士たる島義勇が携わるとともに、その後の推進は、斉彬の腹心の一人であった、薩摩藩の黒田清隆が担うことになるのです。

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[開拓使について]

 「開拓使(かいたくし)は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁である。
 樺太開拓使が置かれた明治3年(1870年)2月13日から明治4年(1871年)8月7日までは、北海道開拓使と称した
 開拓使の初代長官には、旧幕時代から北方の重要性を説いていた佐賀藩主鍋島直正<(コラム#9805))>が就任したが、彼は実務にとりかかる前に辞任した。東久世通禧が後を引き継ぎ、部下の判官とともに明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。箱館府が置かれていた箱館(函館)は旧・蝦夷地の人口・産業の中心であったが、位置が南に偏りすぎているため、北海道の中央部に本庁を設けることになっていた。長官の赴任に同行した佐賀藩士島義勇首席判官は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌で市街の設計と庁舎の建設を始めた。のちに「北海道開拓の父」とも呼ばれた島の計画は壮大であったが、厳冬の中で予算を急激に消費したこと等が理由で長官と対立し、志半ばで解任された。代わって赴いた<土佐藩士の>岩村通俊判官の下で札幌の建設が続けられ、明治4年(1871年)5月に開拓使庁が札幌に移った。
 開拓使の発足当時、中央政府の財政基盤は弱く、北海道の全域を統治する余力はなかった。そのため諸藩や団体・個人に呼びかけて北海道を分領し開拓させた。分領支配の実績は各地各様であったが、経験不足から低調な所が多かった。明治4年(1871年)8月20日に分領支配は廃止され、開拓使が館県(旧松前藩領)を除く全域を直轄統治することになった。
樺太では、箱館府の時代から<阿波(徳島県)の医薬家に生まれ><た
https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E7%9B%A3%E8%BC%94-1062335 >
岡本監輔が統治の任にあたっていた。兵士と移民を送りこむロシアに対し、日本が劣勢に立たされていることに強い危機感を抱いた政府は、明治3年(1870年)に樺太開拓使を設置し、<薩摩藩士の>黒田清隆<(注5)>を開拓使次官にして樺太専務を命じた。樺太を視察した黒田は「現状では樺太は3年もたない」という深刻な報告を行ない、対抗する国力を充実させるために北海道の開拓に力を入れるべきだと論じた。

 (注5)1840~1900年。「薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86

 彼の建議に従い、明治4年(1871年)8月19日に10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定された。
 明治4年(1871年)10月に東久世長官が辞職すると、黒田が次官のまま、東京にあって開拓使の長となった。明治5年(1872年)10月、旧館県であった渡島国に属する福島郡・津軽郡・檜山郡・爾志郡の4郡が青森県から開拓使に移管された。黒田は明治7年(1874年)に長官となったが、北海道に赴任せずに東京から指示を出す態勢をとった。黒田は米国人ホーレス・ケプロンらの御雇外国人を招いて政策の助言と技術の伝習を行わせた。
 開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進したが、広大な範囲でなおも全てを完遂するには不足であり、測量・道路などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。
 黒田は、北海道の開拓に難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという考えを抱いていた。この方針に反対した岡本の辞任もあって、樺太の開拓は進展しなかった。結局、明治8年(1875年)5月に樺太・千島交換条約によって日本は樺太を手放した。交換の際、日本は樺太アイヌを北海道に移住させた。札幌本庁を統括していた松本十郎は、樺太アイヌを移住させる事に反対して辞任した。松本の辞職で初期の開拓使の高官はほぼいなくなり、かわって黒田を頂点にした薩摩藩閥が開拓使を支配した。
 十年計画の満期が近くなった明治14年(1881年)に、黒田は開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設・設備を安値で払い下げることにした。これを探知した新聞社は、払い下げの主役を薩摩の政商五代友厚だと考えて攻撃した。これが、明治時代最大級の疑獄事件である開拓使官有物払下げ事件である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E6%8B%93%E4%BD%BF
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  イ 長期目標(密教的目標):英国の脅威への対処

 これは、超がつくほど重要な提言です。↓

 「西洋各国中ニモ、英國ハ、世界第一ノ海軍整備ノ出ナ<リ。>・・・世界中各所ニ局地ヲ弘ムルニ務ム、亜細亜州中ニモ手ヲ延バシ、印度ハ過半所領トナレリ、日本モ船艦ノ製ヲ開キ、英國ニ戻ラザル樣國威ヲ張ラザレバ、自國ノ備足レリト云フベカラズ、其目的ヲ以テ船艦ヲ製造シ、水軍ヲ設ケテ、國威ヲ張ルノ手初メヲナスノ見込ナリ」(言行録156)

 何せ、当時の世界覇権国であった英国に対抗できるくらいの国力をつけることを目指せ、と言っているのですからね。
 それには、英国がアジア全体を植民地にすることを阻止し、更には、英国が既に植民地にした地域を解放しなければならない、と、斉彬の薫陶を直接間接に受けた人々は受け止めた、と私は考えるに至っています。
 また、英国というのは、あくまでも欧米諸国・・ここにはロシアは入っていない・・の代表的例示なのであって、オランダやフランス、(後には米国も、)に関しても同じである、とも受け止めたに違いない、と。
 これについては、後述します。

  ウ 中期目標:支那の覚醒・復興

 これも、同じくらい重要な提言です。

 幕末における、幕府、及び、各藩中、(薩摩藩は、唯一、薩摩領であった琉球を通じて国交があったことから、)日本中で、最も、支那について詳しかったのが薩摩藩であり、識者達の中では斉彬でした。

●支那を辱めよ

 「清國モ内外ノ難題ニ苦ミヨリ、近年兵備モ手ヲ付ケ候様子ニ聞エタリ、然レドモ清人ハ頑固ニシテ未ダ西洋ノ兵式ヲ用ヒザル由、依テ此方ニアル古制ノ大小砲無用ノモノハ賣渡ス都合ヲ琉人ヘ内諭シ、私ニモ上人ニ錯リ渡唐シ、賣込ミハ素ヨリ、天津北京上海廣東邊ノ諸所ニ至リ、外夷ノ形況ヲモ見聞スベシ、古制ノ大小砲或ハ燧石銃火縄銃或ハ古法ノ野戰砲ハ惣テ賣拂ヒ、新式ヲ製スル方ニスベシ、之ヲ地金ニ禿シテモ益ナシ」(115)

 私は、この過激にして「下品」なくだり↑について、最初、一体、斉彬の真意がどこにあるのか、訳が分からず、とまどっていたのですが、今では、この「辱め政策」が実行に移されたのが、斉彬の意図に沿った合法的行為であるところの、支那に対する1915年1月18日の対華21ヶ条要求、そして、意図に沿わない違法行為であるところの、1842年2~3月のシンガポール華僑粛清事件、であったのではないか、と考えるに至っています。

・対華21ヶ条要求

 ご承知のように、「1915年(大正4年)1月18日、<元佐賀藩・・どうしていちいち出身藩を記すのかは、おいおい分かってきます・・の>大隈重信<の>内閣(<の元尾張藩の>加藤高明外務大臣)は袁世凱に5号21か条の要求を行<い、>・・・5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82
ところ、「袁世凱は自己の地位を強固にするために、日本の横暴を内外に宣伝して中国国民の団結を訴え」(上掲)、「<19>27年に南京国民政府が成立したのち,29年から30年にかけて,国民党の各党部,機関,学校,軍隊の公式国恥記念日は,15年に日本の最後通牒の圧力により二十一ヵ条要求を承認させられた5月9日と定められた」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E6%81%A5%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5-64114
ことで、この要求は、見事に斉彬の意図した効果をあげています。
 (但し、中共はこの記念日を引き継いではいません(上掲)。これもまた、極めて興味深い、と言わなければなりますまい。)

 さて、この要求の「首謀者」は、名実共に大隈重信であった、と私は見ています。
 彼が、生涯を通じて最も尊敬していた人物が大久保利通だったことが最大の根拠です。↓

 大隈(1838~1922年)は、「佐賀藩士の・・・長男として生まれる。・・・
 重信は7歳で藩校弘道館に入学し<たが、>・・・安政2年(1855年)に、弘道館を・・・退学(後に復学を許されたが戻らず)。この頃、・・・「義祭同盟」<(後述)>に・・・参加した。安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)、<藩主の>鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1
 「明治14年大隈が辞職したとき、大隈邸に寓居していた西幸吉に<こう>語った・・・
 「事のここに至ったのは全く薩長軋轢の関係から来たもので、邦家の前途深憂に堪えない。余は政府と縁を絶ち、野に下って学校を開き、国家有為の人材を養成せんと考えている。今更いうも詮方ないことではあるが、薩長の関係については、及ばずながら平生心を用いていたものであるが、事ついに志と違うに至ったのは、甚だ遺憾である。今にして思い出されるのは、故内務卿大久保さんのことである」
 「大久保さん」と力を込めてくり返し、「大久保さんが今日なお生きて居られたならば、斯かることはなかったであろう」と、両眼に涙を浮かべてはハンカチーフを取り出し、”語っては目を拭き、拭いては泣き、思い出多き歎息をして”続けた。
 「大久保内務卿は、度量が大きく親疎の別なく、よく人を容れ、かつ人と人との調和折合については、常に留意して居られた。また、人々の材能は遺憾なく発揮せしむる手腕について、実に天稟であった。」・・・
 「・・・内務卿が世を去られた後は、廟堂の関係、薩長の間に確執を生じ閣僚の仲さえ相反目するに至った。・・・」・・・
 後に大隈夫人は、「わたくしは永年寝食をともにしているが、大隈が今日のように涙を流して泣いたことはじつに初めてである。往事を追懐して心中しのび難き思いに堪えなかったと見えます」と語ったとい<う>。」
http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/09/12/091812

 この大隈は、当時、日本人の中で最も支那に関心を持ち、支那に通暁していた識者とみてよいことに注意が必要です。↓

 「大隈重信<は、>・・・明治15年(1882年)・・・10月、小野梓<(注6)>や高田早苗らと・・・東京専門学校(現早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1
 「<東京専門学校>では1899(明治32)年以降、清国人留学生を受け入れてきた。・・・
 1905年9月に予科と本科の3年の課程、および研究科をもつ「清国留学生部」<を>開校<させた>。入学した清国人は不断に1000名ないし1500名を数えた」
https://www.waseda.jp/inst/weekly/column/2014/06/16/11593/
 大隈重信は、1915年当時、早稲田大学の初代総長を務めていた。(1907~22年)
https://www.waseda.jp/top/about/work/organizations/office/former-presidents

 (注6)小野梓(1852~86年)。「土佐国宿毛に軽格の武士の子として生まれる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%A2%93

・シンガポール華僑粛清事件

 「日中間の戦争状態が拡大する中で、東南アジア各地では、華僑による抗日運動が盛んになっており、特にシンガポールの華僑は1938年10月の南僑総会の組織化に中心的な役割を果たし、1941年12月30日には<英>当局の要請もあって中華総商会を中心に星州華僑抗敵動員総会を発足させるなどしていたため、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動の中心になっていると見なしていた。・・・
 1942年2月15日、<英>軍が日本軍の第25軍に降伏し、日本軍はシンガポールを占領した。・・・
 同月21日に、・・・第25軍の山下奉文軍司令官は、・・・昭南警備隊の司令官・・・河村参郎・・・少将に、軍の主力部隊を速やかに新作戦へ転用するため、シンガポールの治安を乱し、軍の作戦を妨げるおそれのある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。作戦の詳細については軍参謀長・鈴木宗作中将、軍参謀・辻政信中佐から指示があり、掃討作戦の終了後は警備隊の兵員を別作戦に転用するので、作戦を同月23日までに終わらせること、選別対象は元義勇軍兵士、共産主義者、略奪者、武器を所持・隠匿している者および抗日分子となるおそれのある者とすること、掃討の方法として、中国人の住民を集めて抗日分子を選別、並行してアジトを捜索して容疑者を拘束し、秘密裏に処刑することなどが伝えられた。また辻参謀が作戦の監督役とされた。・・・
 犠牲者数は8,600人余りと<の説がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%8F%AF%E5%83%91%E7%B2%9B%E6%B8%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 山下奉文(1885~1946年)は、「開業医・・・の次男として高知県に生まれ・・・妻は永山元彦陸軍少将(騎兵第2旅団長)の長女・久子<であり、>永山少将が佐賀県の出身で、宇都宮太郎・真崎甚三郎・荒木貞夫へとつながる、いわゆる「佐賀の左肩党」の系譜に属したため、女婿である山下も皇道派として目されるようになった。・・・<処刑。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%A5%89%E6%96%87
 河村参郎(1896~1947年)は、「石川県出身<で、>旧加賀藩士・陸軍大尉、鈴木知康の息子として生れ<、陸軍に入ってから>・・・東京帝国大学法学部政治学科で<も>学<び、>・・・二・二六事件軍法会議判士を務めた<人物だ>。・・・
 河村は<華僑粛清に>・・・反対したが、当時の第25軍参謀長・鈴木宗作から「軍司令官(山下奉文)が決定したことだ」と言われ、軍命に服さざるを得なかった、として<いる。・・・<終戦後>処刑<される>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9D%91%E5%8F%82%E9%83%8E
 鈴木宗作(1891~1945年)は、愛知県出身で、フィリピンで戦死する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%AE%97%E4%BD%9C
 辻政信(1902~68年)は、「石川県江沼郡東谷奥村今立(現在の加賀市山中温泉)で・・・生まれ・・・名古屋陸軍地方幼年学校に補欠で入学したが、首席で卒業した。<・・・戦後、行方不明になる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1

●支那と交流を促進せよ

 「琉球を通じ、清との交易を活発化せよ。」(言行録115~117)

 「清國福建琉球館取弘メ・・・渡唐船ヲ増シ商法盛大ニスベシ」(116)

・支那の研究

 斉彬は、支那の研究を維持する(造士館を維持する)こととしました。
 しかし、(国学館を設立して)日本学も研究させたということは、主体性を持った支那学の教育研究を行わねばらないと考えた、ということでしょう。
 それは、幕臣達や薩摩藩士達が教育された朱子学が支那事大主義をもたらしていることを憂いている点からも分かろうというものです。↓

 「造士館ノ學風ハ、程朱ノ學ノミ講習シ、我生國ノ史籍ハ度外ニ措キ、人ニ依リテハ却テ我國ヲ賎シメ唐土ヲ尊重シ、何モ彼モ唐風ニセント謂フモノモアリト聞及ベリ、甚ダ心得違ヒナリ、儒學ハ人道教訓ノ規範ナレバ、人情風土ニ従テ、日本ハ日本ニ適シ、取捨斟酌シテ施スヲ為致ノ眼目トス、故ニ日本ニオイテ唐土同様ノ政ヲナサントスレバ、人氣風土ニ適セザルモノ多シ、漢學者ノ癖、何モ彼モ唐土ト同様ニセント主張シ、日本古ノ明帝賢相ノ言行等ニハ疎キモノモアリ、適々知ルモノアリテモ、唯物知リニテ用ヲナサズ、皇統ノ一系連綿タル目出度國ハ日本ノ外アラザルナリ、此ノ如ク芽出度國柄ナレバ、國人タル者ハ幾萬歳ノ末迄モ皇統ノ動カザル様𣂘ルベキハ勿論ナリ、依テ教ノ道ハ大ヲ目的トシ、國學館ヲ設ケ、生國ノ道ヲ辨ヘ、而シテ漢洋ノ學ヲ以テ補ヒ、未来先後ヲヨク辨ズルノ學規ヲ設クベキコト<ト>思ヘリ、宜シク其邊ノ事ヲ、古今ニ照シ、諸國學校ノ體裁ヲモ斟酌シ、取調ベシ」(160)

 いずれにせよ、この点が、欧米から学ぶことに注力し、支那研究に関心が薄かった横井小楠と斉彬との大きな違いです。

●必要あらば軍事力を用いてでも支那に日本国制を継受させよ

 下掲↓の斉彬の言葉をどう解するか、についても、考えに考えて、ようやく、表記の趣旨だ、という結論に達した次第です。

 「日本ニモ・・秀吉<ナル>・・・ナポレオン・・・ニ比スル人物アリシハ、此小國ニ誇ルベキコトナリ、」(194)

 私は、斉彬は、(自分の先祖の一人である)織田信長による日本統一の試みや(もう一人の自分の先祖である)徳川家康によるその完成ではなく、あえて、(自分の先祖ではない)秀吉による朝鮮出兵を、ナポレオンによるフランス外の欧州諸国やロシアへの出兵に準えて高く評価した、と解するに至っています。
 ここから先は、深読みし過ぎではないか、と言われそうですが、斉彬は、ナポレオンが、フランスの先進的な国制を遅れていたフランス外の諸国・諸地域に移植しようとしたことも知っていて(注7)、フランスを日本に置き換えた形で、秀吉は、先進的な日本の国制を遅れていた朝鮮や支那に移植しようとした・・現に秀吉は、天皇を支那に移す(天皇制を支那に継受させる)ことを考えていた(注8)・・と捉え、同じことを、必要であれば、(今度は欧米の国制も取り入れた)日本が、再度、秀吉の顰に倣って朝鮮や支那に対して軍事力を用いてでも、先進的な日本の国制を強制的に継受させるべきだと斉彬は示唆している、と私は解するに至っているのです。

 (注7)薩摩藩は、琉球を通じて、1844年からフランスと公的接触があり(後述)、当時、支那についてのみならず、フランスについても、幕府や他の諸藩に比べて、最も知識があったと見てよかろう。
 斉彬が藩主当時(1851~58年)は、ナポレオンの甥のナポレオン3世がフランスの最高権力者(1948年から大統領、1952~70年は皇帝)だったことも想起せよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96
 (注8)「秀吉<は>・・・、「後陽成天皇を北京に遷御して明国の皇帝とし、日本の天皇には政仁親王か智仁親王を置く」と公言<していた。>」
https://www.news-postseven.com/archives/20170222_494187.html

 少なくとも、斉彬の死後、島津斉彬コンセンサスを形成した人々、そしてそれを継承した人々は、このように斉彬の心中を推し量った可能性が高い、と、私は見ているのです。

●系1:朝鮮にも関しても、支那に関してと同じことをせよ

 更に私は、斉彬による直接の言及こそなかったかもしれないけれど、以上のような斉彬の示唆は、支那と同様に、というか、それ以上に、朝鮮にあてはまる、と受け止められた可能性が高い、と思っているのです。
 斉彬は、対露抑止も強く訴えたところ、朝鮮を露に取られるようなことは、絶対に回避しなければならないからです。
 西郷隆盛の征韓論への取り組みが、それを強く示唆しています。
 ここで、征韓論について、(かつて取り上げたことがあるので、)ごく簡単に振り返っておきましょう。↓

 「大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。当時外交官として釜山に居た多田、森山等はこの乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。
 明治6年(1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。<清>から帰国した副島種臣は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。二人の議論の末三条実美の説得もあり副島が折れることとなった。板垣退助も西郷のために尽力し、三条実美の承諾を得て西郷を使節として朝鮮に派遣することを上奏した。
 いったんは、<1872>年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した岩倉使節団の岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは時期尚早としてこれに反対、10月には収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が明治天皇に容れられ、遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96

 そして、「支那を辱めよ」の朝鮮版として行われたのが、斉彬の意図を逸脱した違法行為であるところの、1895年10月8日の乙未(いつび)事変(朝鮮王妃閔妃殺害事件)である、とも私は考えるに至っています。

 もっとも、この事変の首謀者が誰であったのかは、いまだにはっきりしていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E6%9C%AA%E4%BA%8B%E5%A4%89
 三浦梧楼(1847~1926年)は、「萩藩士の陪臣・・・の五男として生まれ<た人物ですが、>・・・明治28年(1895年)9月1日、在朝鮮国特命全権公使に就任。公使館付武官で朝鮮政府軍部顧問の楠瀬幸彦中佐や、邦字新聞「漢城新報」社長の安達謙蔵らの協力を得て、同年10月8日の閔妃暗殺を指揮したとされ<ています。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC
 しかし、詳細には立ち入りませんが、公使になったばかりの三浦が首謀者であったとは思えず、また、前任の井上馨は、明治の元勲の一人でもあり、そんな乱暴な陰謀を計画するような人物には見えません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8
 上出の楠瀬幸彦(くすのせゆきひこ)も、仏留や在露武官を経験しており、同様です。
 彼は、後に、後に陸軍大臣を務めている人物です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E7%80%AC%E5%B9%B8%E5%BD%A6 )
 朝鮮側の関与者もあったようですが、私は、熱烈な西郷隆盛信奉者であった安達謙蔵が日本側の首謀者であった可能性が一番高い、と考えています。
 (彼も、その後、衆院議員に14回当選し、逓信大臣を2度、内務大臣を2度務めているひとかどの人物です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E8%AC%99%E8%94%B5
が・・。)↓
 安達謙蔵(1864~1948年)は、「熊本藩士・・・の長男として生まれる。のち佐々友房が熊本市に設立した学校・済々黌で学ぶ。
 1894年(明治27年)、朝鮮国で東学党の乱が勃発すると佐々友房の指示で朝鮮半島に渡る。宝田釜山総領事の薦めで邦字新聞『朝鮮時報』、井上馨公使の協力で諺文新聞『漢城新報』を発行。社長兼新聞記者として日清戦争にも従軍した。
 井上に代わり駐韓公使となった三浦梧楼の朝鮮王妃閔妃殺害計画に参加し、1895年(明治28年)、在韓の熊本県出身者を率いて乙未事変を実行。中心メンバーとして投獄されるがその後釈放される。」(上掲)
 上出の佐々友房(1854~1905年)は、「戦国武将、佐々成政の子孫という。・・・初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行と、婦人運動家から参議院議員になった紀平悌子は孫に当たる。・・・肥後熊本藩士・・・の二男として、生まれた。同郷に横井小楠、宮部鼎蔵がいる。文久元年(1861年)藩校時習館に入る<が、>・・・明治3年(1871年)藩政改革により、時習館が廃止となったので、林桜園の原道館に入塾する。
 明治7年(1875年)2月に江藤新平の佐賀の乱に参加しようと同志と謀っていたが、先輩に軽挙を戒められ断念した。神風連の乱には不参加だったが、明治10年(1877年)西南戦争が起こるや、かねて西郷隆盛と気脈を通じていた池辺吉十郎(熊本隊長)のもと、薩軍に身を投じた。西南戦争では小隊長として肥後、薩摩、日向の山野に転戦。この中でも吉次峠の戦いは、近くの田原坂とともに激烈を極めた。重傷を負うて入院し、宮崎の監獄に収監された。・・・
 明治12年(1879年)1月に出獄すると、熊本市・・・に同心学舎を設立し建学精神を皇室中心、国家主義を建学精神とした。後に同心学校と改め、明治15年2月に濟々黌と改称する。現在の熊本県立済々黌高等学校である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E5%8F%8B%E6%88%BF
 つまり、佐々の強い影響を受けて、安達謙蔵が乙未事変を首謀した、と。

 但し、この暗殺が、斉彬的な意味での「効果」があがったかどうかは判然としません。
 現時点においては、韓国では、「皇后の曾孫は・・・<日本から>政府レベルの謝罪がなければならない」としていますし、「2005年・・・にも、金完燮がその著作の中で歴史上の人物である閔妃のことを、「朝鮮を滅ぼした亡国の元凶であり、西太后と肩を並べる人物」などと評論したことに対して、ソウル中央地裁から名誉毀損であるとして閔妃遺族らへそれぞれ1000万ウォンを支払うよう命じられ<ている>」等、日本批判の材料にされてはいるものの、「北朝鮮では、「反動的な保守派集団を作り、封建両班と地主の利益を代弁し、あらゆる進歩的傾向を無条件に弾圧して、人民に対する苛酷な搾取を行った」と否定的な評価をしている」こと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%94%E5%A6%83 前掲(「」内)
から、日本批判の材料にはされていないようですからね。

 乙未事変の後、朝鮮が日本との関係でいかなる道を歩んでいったかは、ご承知の通りです。

●系2:支那・朝鮮以外のアジア等の非欧米世界に関しても同じことをせよ

 これについては、後で詳述します。

 (3)手段

  ア 総論–欧米の科学・制度の継受

 斉彬の藩主時代は、普仏戦争でフランスがドイツに敗北する前であって、ドイツはまだ統一されていなかったということもあり、欧州ではフランスが最強国かつ最先進国と目されていましたし、英国は世界覇権国でしたし、米国は日本を開国させた、昇竜のような新興国であったことから、下掲のような斉彬の発想は極めて論理的なものであったと言えるでしょう。↓

 琉球王尚秦に、琉球から英仏米に留学生を送れ、と密命。(斉彬逝去により実現せず。)(『島津斉彬言行録』83~84)

 それに加えて、欧米研究教育機関の設立を斉彬は考えていました。↓

 「薩摩藩でも、・・・幕府の洋学所「開成所」に倣い、鹿児島城下の小川町庄内屋敷(都城屋敷)跡に、元治元年(1864年)「開成所」を開設、本格的に西洋の学問を教えたのである。薩摩では、洋学校の設立構想はすでに島津斉彬時代からあり、斉彬は石河確太郎らに命じていたが、斉彬が急死したために途絶えていたのである。
 庄内屋敷は海岸に面した広い屋敷であり、学問だけでなく海陸軍の調練場としても都合がよかった・・・。
 この開成所教授には、斉彬の集成館事業を手がけた蘭学者の八木称平、石河確太郎らをはじめ、外部からは、英語学者の前島密(日本郵便の父)やジョン万次郎(中浜万次郎)なども招かれた。生徒は藩内から選ばれた優れた人物60~70人が学び、それぞれの等級ごとに手当も支給されていた。教科は、英語、蘭語のほか海陸軍砲術、兵法、数学、物理、医学、地理、天文学、測量術、航海術などの西洋の進んだ技術や学問の修得であった。
 薩摩は慶応元年(1866年)、<英国>へ4名の使節団と15名の留学生を送りこみ、ロンドン大学などで学ばせる<(後出)>が、その人選にあたっては、開成所出身の優秀な人物を中心に選出したのである。しかし、この開成所も幕末の急激な世情の変化に伴う藩の軍制改革によって、軍にかかわる教科が分離し、単なる教科学習の域にとどまったため、後に藩校「造士館」に移ることになる・・・。」
http://www.meijiishin150countdown.com/topics/discovery/769/

 (次回のオフ会の「講演」で取り上げますが、名前こそ同じだけれど、幕府の「開成所」は昌平坂学問所の欧米版といった趣の、応用科学教育研究機関であったのに対し、薩摩藩の「開成所」は、軍事科学教育研究機関であり、性格がかなり異なっていました。
 とはいえ、この両者のインフラ面での格差は圧倒的なものがあり、明治維新以降の日本の高等教育研究機関は、幕府の「開成所」的なものになるのです。
 このことが、日本の科学、とりわけ人文社会科学の発展を阻害することになった、と私は考えています。
 欧米の、諸社会制度を含めた国制が基本的には軍事的ニーズの充足の目的で整備されてきた、という史実を等閑視することによって・・。)

  イ 欧米的な海軍の継受

 日本は島国ですし、世界覇権国の英国は世界一の海軍国であったことから、日本の軍事力整備は、海軍に注力すべきだ、と斉彬は考えたわけです。
 既に一度ご紹介した箇所ですが、再度、ここに掲げます。↓

 「西洋各国中ニモ、英國ハ、世界第一ノ海軍整備ノ出ナ<リ。>・・・世界中各所ニ局地ヲ弘ムルニ務ム、亜細亜州中ニモ手ヲ延バシ、印度ハ過半所領トナレリ、日本モ船艦ノ製ヲ開キ、英國ニ戻ラザル樣國威ヲ張ラザレバ、自國ノ備足レリト云フベカラズ、其目的ヲ以テ船艦ヲ製造シ、水軍ヲ設ケテ、國威ヲ張ルノ手初メヲナスノ見込ナリ」(言行録156)

 このことが、「一般に「薩の海軍、長の陸軍」というように海軍では山本権兵衛や東郷平八郎、西郷従道に代表される薩摩閥が、陸軍では乃木希典や児玉源太郎、山縣有朋、桂太郎に代表される長州閥が勢力を握っていたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E9%96%A5 
原因となった、と私は考えています。
 付言しておきます。
 「<但し>、決して単純に分類できるわけではない。例えば、日露戦争において、満州軍総司令官は薩摩閥の大山巌が務めており、総参謀長に児玉源太郎が配される、第一軍、第四軍の指令官は黒木為楨、野津道貫と薩摩閥、第三軍の指令官は乃木希典であるが参謀長に伊地知幸介をあてるなど、藩閥間のバランスに配慮している。」(上掲)という留保は、海軍については当てはまらない、のではないでしょうか。
 もとより、「昭和期に入ると藩閥出身者が高官を独占する事はなくな<る>」(上掲)わけですが・・。
 なお、この種の議論は、薩摩藩の場合に限り、薩摩藩それ自体ではなく、拡大島津家、の観点を加味して行わなければならない、ということを、後でご説明します。

 ウ 欧米的な軍事装備の継受

 「洋式ノ騎兵日本ニオイテノ開基トス・・・西洋砲術熱心・・・近代海陸軍トモ一變シ、大小砲ヲ専用スルニ至リシハ、宇内各國皆然リ、就テ、軍事ノ根本ハ硝石ナリ・・・安政四年ノ夏、二ノ丸内ヘ文武演習場御開キ相成リ、中ニモ兵隊練操盛大ニ御奨励アラセラレ候御次第・・・」(言行録50、52、176)

 ここ↑からは、海軍はもとより、陸軍も装備重視で、という、斉彬の志向性が伺えます。
 陸軍の場合は、戦略、戦術、及び、それらを踏まえた部隊編成が、武器と同じくらい重要なのですが・・。
 このあたりが、兵学をきちんと学んでいない、ロマンティストたる斉彬の唯一の弱点だと思います。

 (4)樹立すべき新国制

●強兵(国軍の設立・整備を含む中央集権化)

 「今ノ次第ニテハ外國防御ノ備ニハナルマジク、今ノ世トナリテハ日本一體一致ノ兵備ニアラザレバ、外國ニ對當スルコト叶フマジク、公義モ諸大名モ是レマデ一國一郡位ノ心得ニテハ、日本國ノ守護ハ調フマジク」(192)

 各藩が持っている軍事力を統合して単一の軍にしなければならない↑、というのですから、その前提として、幕藩体制の打破、中央集権国家の樹立が不可欠である、ということになります。
 明治維新後、そのために行われたのが、版籍奉還と廃藩置県、であり、国軍設立(徴兵制導入を含む)でした。

 すなわち、「全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した・・・版籍奉還<が>・・・明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された<が、これは、>・・・明治2年1月14日、薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助が・・・薩摩藩の吉井友実が持参した草稿を元に版籍奉還についての会合を行<い、この>3藩<の>合意<基づき>、肥前藩を加えた薩長土肥4藩の藩主<達>・・・が連名で新政府に対して明治2年1月20日に版籍奉還の上表を提出した<ことを受けてのもの>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%88%E7%B1%8D%E5%A5%89%E9%82%84
ですし、「明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した・・・廃藩置県・・・は<、>薩長両藩の間で密かに進められ、7月9日(8月24日)、西郷隆盛、大久保、西郷従道、大山厳、木戸、井上、山縣の7名の薩長の要人が・・・案を作成した。その後に、公家、土佐藩、佐賀藩出身の実力者である三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信らの賛成を得た<ことを受けてのもの>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E8%97%A9%E7%BD%AE%E7%9C%8C
です。
 どちらも、斉彬の高弟たる、西郷隆盛と大久保利通が、それぞれ、中心となって推進したわけであり、斉彬の考えを実行に移したしたものである、と言えるでしょう。
 もちろん、どちらも、「日本兵備」の確立がその最大の目的でした。
 陸軍に関しては、「太政官が将来全国に鎮台を置くことを明らかにした上で、1871年6月10日(明治4年4月23日)に現在の東北地方に東山道鎮台(本営石巻、分営福島・盛岡)、現在の九州地方に西海道鎮台(本営小倉、分営博多・日田)の2鎮台を設置することを布告し<つつも>、実際に部隊編成を行ったのは西海道鎮台のみであった<が、>同年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により全国が明治政府の直轄とな<るのと>同時に兵部省職員令が出され、北海道・石巻・東京・大阪・小倉の5鎮台制の構想が示された・・しかし、他の地方と比べ人口が極端に少ない北海道では鎮台の設置が後回しとなった・・結果、同年10月4日(明治4年8月20日)に旧2鎮台を廃止し、東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台が設置された<ところ、>このときの鎮台は、御親兵から転じた者と、士族からの志願者で編成され・・・残る各藩常備兵は武装解除され<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%8F%B0
ことで、達成されました。
 なお、「1873年に2つの鎮台が増設され、北海道を除く地域を、6軍管、14師管に分け・・・軍管には鎮台、師管には営所が置かれた<ところ、>新たに設けられたのは名古屋鎮台と広島鎮台で、大阪鎮台から北陸地方が名古屋鎮台に、中国・四国地方が広島鎮台にそれぞれ移管され・・・この年徴兵令施行とともに、徴兵された兵士が鎮台に入隊するようになった<が、>北海道には徴兵令が施行されず、かわりに屯田兵が置かれた」(上掲)ところです。
 ちなみに、以上については、大村益次郎、彼が暗殺されてからは、山形有朋、と長州藩士出身者達が担いました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D
 これは、斉彬の示唆を踏まえ、西郷や大久保は、海軍を重視し、陸軍は長州出身者達にやらせた、ということでしょう。
 ところが、海軍に関しては、「1870年(明治3年)に陸海軍が分離され、1872年(明治5年)に海軍省が東京築地に設置され<、>初期には<薩摩藩士出身>川村純義と<幕臣出身の>勝海舟が指導する<こととなり、>・・・明治初期には陸軍に対して海軍が主であったが、西南戦争により政府内で薩摩藩閥が退行すると、陸軍重点主義が取られるようにな」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%B5%B7%E8%BB%8D
ってしまうのです。
 それでも、その後、いずれも薩摩藩士出身の「海軍大臣の西郷従道や山本権兵衛らが海軍増強を主張し、艦隊の整備や組織改革が行われ」(上掲)てはいきます。
 なお、「陸軍はフランス後にドイツを模範とし、同様に海軍はイギリスを模範とした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%9B%BD%E5%BC%B7%E5%85%B5
のは、海軍については、既に記した理由から、また、陸軍については、後で記す理由から、どちらも、斉彬の考えを踏まえたものであった、と言えるでしょう。

●富国(強兵を支える基盤の構築)

 「今日本ノ形勢ハ累卵ノ危キニノゾミ危急存亡ノ秋ト云フベシ、就テハ軍備第一ノ折ニテ、兎角軍備整ハザレバ國威墜チ遂ニハ外國ノ手下ニナルニ立チ到ルベシ、依テ入費ヲイトハズ造營セリ、然レドモ理財ノ道モ双ンデ立テザレバ、國中疲弊シ、一同困窮トナリ、若シ非常ノコトアルニ當テ、金穀不足シテハ、必勝覺束ナシ、依テ深キ見込ミノ譯モアレバ、先ヅ軍備ト理財ノ二ツヲ兼テ此局ヲ取立テタリ、其通リ相心得ベシ」(65)

 これ↑は、つまり、強兵を確保するためには富国を図らなければならない、ということです。
 もっとも、富国強兵に関しては、斉彬の専売特許では全くなく、「幕末期の段階で開国派・攘夷派を問わず、富国強兵の必要性については共通の認識が確立していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%9B%BD%E5%BC%B7%E5%85%B5 上掲
ところです。

 しかし、当時の、幕府、及び、各藩の中で、実際に欧米技術を導入した形での殖産興業に着手していたのは、斉彬が藩主になってからの薩摩藩だけでした。↓

 「1851年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、藩主に就任するや、それまで長年温めていた集成館事業の計画に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心として近代洋式工場群の建設に取り掛かった。
 特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。この当時佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、殖産興業の分野まで広がっている点が他藩と一線を画す。
 1858年に斉彬が亡くなった後、財政問題などから集成館事業は一時縮小されたが、1863年の薩英戦争において<英>海軍と交戦した薩摩藩は、集成館事業の重要性を改めて認識し、集成館機械工場(現尚古集成館)、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造・・・した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E6%88%90%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E6%A5%AD

 しかも、維新後、これを全国規模で実際に立ち上げたのは、大久保利通です。
 すなわち、彼が、「明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制<(次回のオフ会「講演」回し)>や地租改正、徴兵令<(前出)>などを実施し<、更に、>「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
のです。
 ちなみに殖産興業を中心となって企画立案したのは、[薩長同盟の密使に加わ<った>]薩摩藩士出身の前田正名(まさな。1850~1921年)ですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%96%E7%94%A3%E8%88%88%E6%A5%AD
彼は、パリ留学から戻った「明治14年(1881年)、大蔵省・農商務省の大書記官になって理事官に進<み、>在職中に国内産業の実情を調査して、殖産興業のために報告書を作り、「興業意見」全30巻にまとめて提出し<、後に、>・・・明治22年(1889年)10月には農商務省農務局長・・・、明治23年(1890年)農商務次官とな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%90%8D ([]内も)
人物です。
 なお、薩摩藩士出身で、大久保によって登用された、元島津久光の側近、松方正義(1835~1924年)が、「明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」説立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、・・・参議兼大蔵卿と<なり>、日本に中央銀行である日本銀行を創設した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9
ところです。

 (5)維新((1)~(3)の追求を可能にするための必要条件)

●倒幕

 私は、斉彬が、わざわざ、新田義貞(注9)をこき下ろし、楠木正成を、この上もない形で称揚したのは、新田氏の子孫・・新田義貞の子孫ではないが・・を称している徳川氏をこき下ろし、倒幕すべきことを示唆したものである、と見るに至っています。↓

 (注9)源義家の子の義国が新田・足利両氏の祖にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%9B%BD
 新田義貞は義国から8代目の子孫、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%B0%8F
 徳川氏が祖先と称する世良田(得川)氏は、義国の孫の段階(新田氏の2代目の段階)で新田義貞に至るところの新田棟梁家から分かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%B0%8F

 「日本ニテ中古以来ニハ正成ニ比スル人アラザルベシ」(195)

 ↑というのは、第一に、斉彬は、近衛家を通じて天皇家と縁戚意識を持っていたはずである(後述)ところ、当時の天皇家が北朝の後継であり、現に、南朝を正統視した幕府に、天皇家側はその点で含むところがあったにもかかわらず、楠木正成を称揚するのは南朝を正統視していることになるわけですし、第二に、兒島高徳(児島高徳)にはさしたる軍功等がなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E5%B3%B6%E9%AB%98%E5%BE%B3
万里小路藤房も、後醍醐天皇に諫言をしたことは良しとして、聞き入れられないまま行方をくらました人物であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%87%8C%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E8%97%A4%E6%88%BF
鎌倉幕府の本拠地を攻め滅ぼすという決定的軍功をあげ、正成が戦死した湊川の戦い(1336年5月)で戦った後も、2年以上戦い続けて斃れた新田義貞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E#%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E6%94%BF%E6%A8%A9%E4%B8%8B%E3%81%AE%E7%BE%A9%E8%B2%9E
よりも、この2人の方に斉彬が高い評価を与えるというのは、いくらなんでも不自然だからです。↓

 「義貞ハ智勇兼備ノ人ニテ、軍事ハ上手ナレドモ、軍ノミノ達人ナリ、政事ニオイテハ何ノ説アルコトナシ、考フルニ、南朝ニテハ正成ヲ人物ノ第一トシ、次ニハ兒島高徳ナリ、藤房ハ其次ナルベシ、」(195)

 徳川氏のこき下ろしは、斉彬の水戸藩評価からも言えます。↓

 「水戸ノ學制ハ國體ヲ失ハズ名分ヲ過マラザルナリ、近代儒者ノ弊ニ生國ノ事ヲ餘所ニシ大イニ國害ヲ生ズルノ恐レアリ、又水戸ノ學風ニモ弊アリ、宇内ニ弘ク目ヲ付ケズシテ執拗ニ傾キタリ」(180)

 私は、当初、下掲から、斉彬が、水戸藩の藩論を形成したところの、水戸学のバランス感覚の欠如、に加えて、「儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6
水戸学に対して、そのシンクレティズム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0
に批判的であったのではないか、と考えたのですが、そんな「高尚」な話ではなくて、要は、儒学を信奉した徳川本家よりは国学「も」重視した水戸徳川家の方がマシではあるが、視野が狭いので、これもダメであることを示唆したのだ、と考えるようになりました。
 深刻なのは、そうだとすれば、これは、水戸徳川家出身で、一橋家入りしてからも、「仕事」のないまま、江戸で父親たる水戸徳川家の斉昭の薫陶を受け続けたと思われる慶喜・・斉彬が家定の次の将軍にと強く推していた慶喜ですよ・・もまたダメだ、と示唆した、と考えざるをえない点です。
 この関連で、斉彬が、慶喜の父親である水戸徳川家の齋昭、かつまた、「盟友」であるはずの越前藩の松平春獄を名指しで、更には、御「三家」までも軍事力整備に真剣に取り組んでいない、とこきおろしていることは、まさにダメ押しになっています。↓

 「水戸ハ、今ニ西洋式ヲ全ク用ユル場ニハ至ラズ、舊流ニ凝リタルモノニモアル由、アレ程ノ人ガ如何ナル心得ニテ國中一般ノ備ニ用ユルノ決斷ナキヤ、・・・
 西洋ニテハ數百年絶エズ實場ニ試験シ、種々發明或ハ改革シテ、<軍備ノ(私としては、このような趣旨だと考える(太田))>今日ノ盛ンナルニ至レリ、然レバ、其宜シキニ從ヒ、斟酌シ、軍備トスベキニ、水戸殿程ノ人ガ心付カレザルニモアルマジク、越前トテモ同様ナリ、今此ノ兩家ハ人望モアリ、殊ニ家門ノ分トシテ、天下ノ事ニハ心配セラルナルベシ、今ノ次第ニテハ外國防御ノ備ニハナルマジク、今ノ世トナリテハ日本一體一致ノ兵備ニアラザレバ、外國ニ對當スルコト叶フマジク、公義モ諸大名モ是レマデ一國一郡位ノ心得ニテハ、日本國ノ守護ハ調フマジク、此内、亜米利加ガ獻上ノ本込銃ハ、公義ニ秘シテ、外ニ出スコトモ禁ジタリト聞及ベリ、寔ニ笑フベキ仕方ナリ、近年中、諸大名ノ内ニ必ズ手ニ入ルモノアルベシ、一流一派ノ秘傳ノ弊ト同ジキナリ、・・・日本一致一體トナリ、器械モ何モ一様ノ良器備リテコソ、本途ノ防御調フベシ、此方ノ考ヘハ、良キ器械ニテモ手ニ入リタラバ、速ク諸大名ヘ相達シ、製造サスル様ニシ、日本中一致シテ、外國の備ニナシキコトヽ思ヘリ、然ルトキハ、將軍家ノ御職掌ニ適ヒ、天子ヘノ御忠義ナラン、水戸越前其外三家ニモ、其心得に成リテ手當アリタキコトナリリ、」(191~193)

 斉彬が、ここで徳川斉昭(水戸)を持ち出したのは、弘化元(1844)年に幕命により家督を嫡男の慶篤に譲らされた後、彼が、嘉永6(1853)年からは、幕府の海防参与、安政2(1855)年からは軍制改革参与に任ぜられていること、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD
から、幕府そのものを象徴する存在としてであり、同志であるはずの松平春嶽(越前)<(後出)>を持ち出したのは、越前藩が、御家門筆頭、すなわち、親藩筆頭であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E9%96%80
ことから、親藩全体を象徴する存在としてであり、「三家」とは、言うまでもなく、尾張藩、紀州藩、水戸藩の徳川御三家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%AE%B6
を指しています。
 (後でお分かりになると思いますが、本当のところは、斉彬は、この「三家」から尾張徳川家は省きたかったのでしょうが・・。)
 つまり、斉彬は、幕府/徳川諸家全体を、軍事軽視である、として切り捨てたわけであり、その完全打倒を行うべきことを示唆した、と解さざるをえないのです。
 (斉昭は、海防参与「のとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上し・・・、また、江戸の石川島で洋式軍艦「旭日丸」を建造し、幕府に献上し」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD 前掲
ているけれど、そんなものは、形だけだ、というのが斉彬の判断だったのでしょう。)

 結局、斉彬は、慶喜もまた、軍事力整備に真剣に取り組まないだろうと踏んだ上で、幕府が早晩倒れるのは必定である以上、流血の少ない形で「円滑」に幕府が倒れるように、尊王の水戸学を注入され、しかも、皇室の血を引く、最初(で薩摩藩の手によって最後のとされるところ)の将軍となる慶喜・・水戸徳川家出身の最初の将軍でもある・・を将軍の座に就けようとした、ということだったのでしょう。

●斉彬が当然提携できると見ていた家や藩

 ・肥前藩

 斉彬が、ことさら、楠木正成を持ち上げたのは、肥前藩との提携が既に成っていることに注意喚起する意図もあった、と私は見ています。(後述するところを参照。)
 もう一度、先ほどのくだりを再掲しておきましょう。↓

 「義貞ハ智勇兼備ノ人ニテ、軍事ハ上手ナレドモ、軍ノミノ達人ナリ、政事ニオイテハ何ノ説アルコトナシ、考フルニ、南朝ニテハ正成ヲ人物ノ第一トシ、次ニハ兒島高徳ナリ、藤房ハ其次ナルベシ、」(195)

 ・土佐藩

 土佐藩に関しては、下掲の事情があったので、斉彬は、提携は当然できる、と見ていたはずです。↓
 
 「13代藩主・山内豊熈、その弟で14代藩主・山内豊惇が相次いで急死し・・・山内家は断絶の危機に瀕した。豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)がいたがわずか3歳であったため、分家で当時22歳の豊信が候補となった。豊熈の妻・智鏡院(候姫)[・・斉彬の同父母妹・・]の実家に当たる島津家<・・当時藩主は斉興だったが、阿部との関係からしても恐らくは斉彬(太田)・・>などが老中首座であった阿部正弘に働きかけ、豊惇は病気のため隠居したという形をとり、嘉永元年(1848年)12月27日、豊信が藩主に就任した。<つまり、それは、>候姫<、より端的には斉彬(太田)、>の格別の推挙と幕閣に働きかけをした上での藩主就任<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B9%E5%A0%82 ([]↑↓)
 「この際、豊信[(1827~72年。藩主:1848~1859年)]は智鏡院の養子となり藩主となった。豊信は・・・後に数々の名歌を残したが、これは智鏡院の影響が強いと言われている。
 智鏡院は豊信の養母として・・・土佐藩政に多大なる影響を及ぼしたが、幕末には、実家の島津家が倒幕派、嫁ぎ先の山内家が佐幕派であったため、智鏡院の立場は複雑であったという。島津家と山内家が嫌悪状態になると、智鏡院は両家を上手く取り持つなど、土佐藩におけるその存在は重要<性>を増していた。
 その頃の江戸は倒幕の気運が高まり、危険な状態であったために、江戸在住の大名の生母や妻子などは次々と国元に戻っていったが、智鏡院は土佐に行く事を拒否してそのまま江戸に留まり、その後一度も土佐の地を踏むことはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%99%E5%A7%AB

⇒斉彬や篤姫(天璋院)(後出)とは違って、智鏡院が日蓮正宗信徒にならなかった、つまり、人間主義の実践にそれほど熱心ではなかったことに加え、幕府と違って土佐藩が「落ちぶれ」なかったこともあり、嫁ぎ先の土佐藩に「余生」を捧げなかったのだろう、と当初考えたのですが、それに加えて、江戸は、斉彬と共に父母、特に母親、の下で生まれ育ち、成人になり、結婚してからも住み続けた地であったことが大きい、と考えるようになりました。(太田)

 実際、「<土佐藩主の山内豊信(後の容堂)>は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された<が、>彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴え<、>阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推し<たのだ>。・・・結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった<が、>容堂はこれに憤慨し、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出した。この年の10月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。<(斉彬は1858年に死亡していた。)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B9%E5%A0%82
と、豊信は、斉彬の存命中は、完全に斉彬に同調した言動をとるのです。
 ところが、それ以降は、彼の言動は、薩摩藩と乖離する部分が出てきます。
 このことは、逆に、それまでの豊信が、斉彬の操り人形でしかなかったことを示すものです。↓

 「前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、隠居の身となった・・・容堂は、・・・四賢侯に共通する公武合体派<だったが、>・・・藩内の勤皇志士を弾圧する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取った。このため幕末の政局に混乱をもたらし、世間では「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、のち政敵となる西郷隆盛から「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言わしめる結果となった。」(上掲)

 山内容堂は、激動の時代に自分の意思で適切な言動を行えるほどの器量などなかった、ということでしょう。
 彼は、長州藩主の毛利敬親に見切られています。↓

 「<敬親は、>山内豊範が養女の婿という関係で山内豊信と交友があった。ある時、敬親の近侍が豊信(容堂)の隠居部屋を訪れると欄干に「酔擁美人楼」という額がかかっていた。当時の大名としては珍しいくらいくだけた雰囲気に、近侍は感心して敬親に話した。すると「こういう言は酒が飲みたくてもできず、美人を抱きたくても抱く余裕の無い者が好んで口にするものである。容堂はいやしくも24万石の太守で酒佳人は望み次第なのに、わざわざそんな額をかかげて人に見せるのは、自ら豪傑を装うものだ」と敬親は述べたという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%95%AC%E8%A6%AA
 ちなみに、敬親の養女とは、毛利信順(毛利斉熙三男)の娘であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E8%B1%8A%E7%AF%84
この「毛利斉熙(もうりなりひろ)は、長州藩の第10代藩主」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%96%89%E7%86%99
だが、13代藩主である毛利敬親は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%95%AC%E8%A6%AA
第8代藩主毛利治親の孫であるところ、斉熙は治親の子だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B2%BB%E8%A6%AA

 私は、山内豊範へのこの長州の毛利家からの嫁とりも、斉彬の意(遺志?)を汲んだ智鏡院(候姫)の差し金ではなかったか、と勘繰っています。
 薩摩藩が直接連携を図るのは目立ち過ぎて拙いので、操り人形であった土佐藩を通じて、後の連携の地ならしを行ったと・・。

 ・近衛家(天皇家)(理由は後述。)

 ・尾張藩(理由は同じく後述。)

 ・中津藩

 中津藩は、生来的同盟藩であったと言えます。↓

 奥平昌高(天明元(1781)年~安政2(1855)年)。「豊前中津藩第5代藩主。中津藩奥平家9代。・・・薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれる。母は側室・お登勢の方(慈光院)(ただし実母は直心影流剣術剣客鈴木藤賢の娘と伝わる)。
 ・・・天明6年(1786年)・・・急逝した中津藩主奥平昌男の末期養子として6歳で家督を継ぐ。これには昌男の父・昌鹿と昌高の父・重豪が蘭学仲間で非常に仲が良かったという背景があった。昌男は生前、重豪の娘と婚約もしていた。昌高も昌男の娘婿という形で養子に迎えられている。・・・
 実父も養家先も蘭学好きとなれば、昌高が蘭学好きにならないわけがなく、手始めに中津藩江戸中屋敷に総ガラス張りの「オランダ部屋」なる物を造り、そこに出島で買い集めさせたオランダ製品を陳列していた。しかし次第に物を買い集めるだけでは飽き足らなくなり、オランダ語を勉強するようになる。また、歴代のオランダ商館長(カピタン)と親交を結ぶようになり、ヘンドリック・ズーフからフレデリック・ヘンドリックというオランダ名までもらっている。後にはオランダ語の会話に不自由せず、さらに商館長と詩のやりとりまでしていたという。
 特に・・・シーボルトとの交流は熱心なもので、文政9年(1826年)・・・に実父の重豪とともに初めて対面して以降、6回も会談している。シーボルトと気兼ねなく対面するために、昌高は文政8年(1825年)・・・に次男の昌暢に家督を譲って隠居している。・・・
 昌高は養祖父の昌鹿より、藩医であった前野良沢らが『解体新書』の翻訳で辞書がないため苦労した話を聞いており、文化7年(1810年)に『蘭語訳撰』(通称「中津辞書」)、文政5年(1822年)には『バスタールド辞書』を出版し、江戸後期の西洋文化・科学導入に多大な役割を果たした。・・・
 <なお、島津重豪は遠縁だが奥平氏の血を引いている。よって、奥平昌高も、そして、島津斉彬も、奥平氏の血も引いていることになる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E6%98%8C%E9%AB%98
 奥平昌服(まさもと。天保元(1831)年~明治34(1901)年)。「中津藩<第8代藩主の>・・・昌服は・・・第6代藩主・奥平昌暢の次男として江戸で生まれ・・・第7代藩主となった叔父・昌猷の養子となり、天保13年(1842年)に昌猷が死去すると、家督を継いだ。・・・
 <現役中も隠居後も、>・・・開国論<を唱えていた>・・・昌高<が、当時まだ健在だった。>・・・
 昌服<自身、>・・・そもそも外国との通信交易は当然のことで、<米国>、ロシア、<英国>、その他どの国とも交易すべきで、鎖国は今や時代遅れだから廃止すべしと<考えていたが、>長州征討に<は>参加している。しかし慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、新政府軍に味方することを表明して会津藩まで出兵し<、その年に隠居している。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E6%98%8C%E6%9C%8D

 ずっと後のことになりますが、「旧中津藩士によって結成された・・・西郷軍に呼応し決起した士族隊としては最北かつもっとも西郷軍本隊から離れた地での蜂起した部隊<となった>・・・中津隊」の1877年の西南戦争での「活躍」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B4%A5%E9%9A%8A
は、当然のことだったと言えるでしょうね。
 なお、中津藩と言えば、同藩士から幕臣に転じた福沢諭吉も、薩摩藩士の松木弘安との関係もあり、薩摩藩とのご縁が深い人物です。
 松木弘安(寺島宗則。1832~93年)については、以下の通りです。↓

 「天保3年(1832年)、薩摩・・・の郷士・・・の次男として生まれる・・・。5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学ぶ。
 弘化2年(1845年)、江戸に赴き・・・蘭学を学び、安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する。 安政3年(1856年)、蕃書調所教授手伝となった後、帰郷し薩摩藩主・島津斉彬の侍医となったが、再度江戸へ出て蕃書調所に復帰した。蕃書調所で蘭学を教える傍ら、安政4年(1857年)から英語を独学しはじめ、<る。>・・・文久元年(1861年)には、英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として、福澤諭吉、箕作秋坪とともに抜擢された。
 文久2年(1862年)、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わる。この時、欧州でオランダ語がまったく重要視されていないことを知り、英学派に転ずる。翌年に帰国して鹿児島に戻る。文久3年(1863年)の薩英戦争においては五代友厚とともに、英>軍の捕虜となる。慶応元年(1865年)、薩摩藩遣英使節団に参加し、再び欧州を訪れる。
 明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B3%B6%E5%AE%97%E5%89%87

 福澤諭吉は、この松木弘安との関係を、以下↓のように活用しています。

 「妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。・・・
 廃藩置県を歓迎し、・・・これを成立させた西郷隆盛への感謝<する>と共に、・・・政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張した。・・・
 明治9年(1876年)2月、諭吉は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89

 ・福岡藩 

 幕末の福岡藩当主の黒田長溥は、あらゆる意味で斉彬の分身であったと言ってよいことから、同藩との提携関係は明らかでした。↓

 黒田長溥(ながひろ。1811~87年。藩主:1834~1869年)は、「江戸時代後期から末期の大名。筑前福岡藩の第11代藩主。養父斉清と同じく蘭癖大名であり藩校修猷館を再興させた事で知られる幕末の名君である。・・・
 <彼は、>薩摩藩主・島津重豪・・・の十三男<であり、>・・・2歳年上の大甥・斉彬とは兄弟のような仲であったという。
 文政5年(1822年)、第10代福岡藩主・黒田斉清の娘、純姫と婚姻。婿嗣子となり、養父同様、将軍徳川家斉の偏諱を賜って黒田斉溥と称した(家斉は斉溥からみて養父の伯父、また姉の広大院が家斉の御台所であることから義兄に<も>あたる)。天保5年(1834年)・・・養父の隠居により、家督を相続した。・・・
 嘉永3年(1850年)、実家島津家の相続争い(お由羅騒動)に際し、斉彬派の要請に応じて、<斉彬のポン友(太田)の>老中・阿部正弘、<斉彬の従兄弟(後述)の>宇和島藩主・伊達宗城、<斉彬心酔者(太田)(後述)の>福井藩主・松平慶永らに事態の収拾を求め、翌嘉永4年(1851年)、その仲介につとめ、斉彬の藩主相続を決着させた。
 嘉永5年(1852年)11月、福岡藩・佐賀藩・薩摩藩は、幕府からペリー来航予告情報を内達される。福岡・佐賀は長崎警備の任にあり、薩摩は琉球王国を服属させていたことから、外交問題に関係が深かったためである。情報を受けた斉溥は同年12月、徳川幕府に対して建白書を提出した。それは幕府の無策を批判し、ジョン万次郎の登用や海軍の創設を求めるものであった。一大名が堂々と幕府批判を行うということは、前代未聞の行動であった。結局建白書は黙殺され、その主張が採用されることはなかったが、斉溥や藩家老黒田増熊が処分を受けることもなかった。
 嘉永6年(1853年)7月、ペリー艦隊の来航を受けた幕府の求めに応じ再度建白書を提出。この中で、<斉彬の受け売りの(太田)>蒸気船を主力とした海軍による海防の強化、通商を開き欧米から先進技術を導入すること、<米>・<露>と同盟すれば<英>・<仏>にも対抗し得ることなどを主張している。・・・

⇒この部分だけは、後でお分かりになるように、斉彬の考えと微妙にズレているのがご愛敬です。(太田)

 斉溥は<当然(太田)>斉彬と同様、幕府に対しては積極的な開国論を述べている・・・<そして、>薩摩藩と長州藩、そして幕府の間に立って仲介を務めるなど、幕末の藩主の中で大きな役割を果たしている。斉彬派だったために様々な辛苦を受けた西郷隆盛は、斉溥に助けられた一人である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%BA%A5

 ・長州藩

 斉彬は、長州藩、就中、その下関、が戦略的要衝に位置している、と指摘することで、同藩と提携すべきことを示唆した、と私は見ています。↓

 「下ノ關ハ九州ノ咽喉ニテ、開市場ニ宜シキ地ナリ、長崎ハ不辨ナルノミナラズ、取締ニモ不都合ナリ、長崎ヲ措テ下ノ關ヲ開クトキハ、中國ノ半バ、四國ノ半バ、北國ハ一圓、九州ハ勿論、ミナ此地ニ開市スルヲ宜シトスルノ見込ナリ・・・公義ガ下ノ關ヲ長州ノ領分ニ與ヘタルハ拙策ナリ、」(189)

 九州の肥前藩、中津藩、福岡藩、四国の土佐藩、そして、近畿の、というか、日本の権威中枢の朝廷、更には、中部の尾張藩を(後述のように)押さえていたことを念頭に置けば、このくだり↑は、斉彬が、長州藩さえ確保できれば、日本の中部以西の全域確保のめどがつく、ということを示唆している、と受け止められたことでしょう。
 ですから、坂本龍馬らの尽力もさることながら、西郷ら薩摩藩士達の中に、元々、最終的には長州藩と組まなければならない、という認識があったからこそ、薩長同盟が成立した、と考えるべきでしょう。

 (6)維新後における対外政策の基本

●提携:仏

 薩摩藩は、下掲の事情から、他のいかなる諸藩よりも、そして、幕府よりも、英仏事情、就中フランスの事情に通じていました。↓

 「1844年 仏国軍艦アルクメーヌ号那覇に入港。和好・貿易を求める。回答は後来する艦船にするように託し、宣教師フォルカードを残して中国へ向かう。
 1846年 英国船スターリング号那覇に来航。英国宣教師ベッテルハイム来琉(以後8年間滞在)。仏艦船サビーヌ号がフォルカードの後任ル・テュルデュを伴い那覇に来航。その後クレオパートル号・ビクトリューズ号とともに運天港に集結し、44年に要求した和好・貿易の回答を求める。琉球側、これを拒否する。英艦隊3隻那覇に来航。薩摩藩、仏との貿易許可の内諾を得る。」
http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch4/syobun_2.html
 「それらは逐一琉球から薩摩藩へ報告されていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E6%88%90%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E6%A5%AD 前掲

 だからこそ、斉彬は、英国・・これに趣旨的に米国を加えてよいと私は見ています(太田)・・を長期的抑止対象、ロシアを短・中期的抑止対象、フランス・・これは、趣旨的に欧州と言い換えてよいと私は見ています・・を提携すべく篭絡する相手、という結論を出していた、と私は見ています。↓
 
 「琉球大島及ビ漸次山川港ニオイテ和蘭國或ハ佛郎西國ト貿易御開キノ御内慮」(言行録57)
 「<島津斉彬>は薩琉の役人を通じて、当時那覇に在留していたフランス人宣教師を介し、武器とその様々な備品、それに軍艦と商船のスクリュー蒸気船二隻の注文書簡をフランス政府まで送り届ける計画であった。ところが、安政5年7月の斉彬の急逝後、事実上の後継者という権力を得た、斉彬の異母兄弟でしかもライバルであった島津久光は、直ちに注文の撤回を命じた。したがって作業は最終的に中止された。」(言行録117~120参照)
http://venus.unive.it/okinawa/ja/sunti/beillevaire.html

 よって、薩摩藩が、1867年に、徳川慶喜が将軍になっていた幕府と張り合う形で、パリ万国博覧会に出展した理由の想像がつくというものです。
 (この時、佐賀藩が薩摩藩に付き合った理由も想像がつくと思いますが、後で改めて説明します。)↓

 「江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展した。幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の徳川昭武、薩摩藩からは家老の岩下方平らが派遣された。
 薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成した。幕府は薩摩藩に抗議したが聞き入れられ<なかった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E4%B8%87%E5%9B%BD%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A_(1867%E5%B9%B4)
 岩下方平(1827~1900年)について:「安政の大獄では、江戸において水戸浪士と結託して幕政打開を図ったが、挫折して帰藩<し、>安政6年(1859年)11月、精忠組<(後出)>に参加。文久3年(1863年)9月、薩英戦争の和平交渉の正使として交渉を担当する。慶応元年(1865年)、家老を勤める。・・・パリ万博では、「日本薩摩琉球国太守政府」使節団長として、野村宗七や市来政清ら藩士等9人を率いて参加し、同年夏に帰国の際には、シャルル・ド・モンブランと数人のフランス人技術者を伴った。 小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通とともに藩政をリードし、倒幕活動に尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%B8%8B%E6%96%B9%E5%B9%B3
 
●台湾領有

 薩摩藩に「隣接」していた台湾は、薩摩藩はもとより、日本全体に関しても、安全保障上の要衝であり、ここを(ロシアを含む)欧米諸国に奪取させてはならない、と斉彬は考えたわけです。↓

 「斉彬は西洋人はごくわずかの土地を手に入れてのち、それを押し広げていって、やがて広大な植民地を手に入れてしまうと考え、これと対抗するために、台湾に拠点を築く可能性を探るべく部下を琉球へ派遣した(『島津斉彬言行録』岩波文庫)。この企図は斉彬の病死によって沙汰止みとなった」(言行録97~99参照)  
https://www.hit-u.ac.jp/hq/vol035/pdf/hq35_30-33.pdf

 台湾出兵が、「<この出兵に反対の>木戸<が>参議の辞表を提出して下野してしまった<中、>・・・大久保利通を中心とする明治政府<によって、>・・・1874・・・年4月5日、台湾蕃地事務都督に<薩摩藩出身の>西郷従道が任命され<、>同年4月6日、<土佐藩士出身の陸軍の>谷干城と[幕臣出身の海軍の]赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と<薩摩藩出身の>西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命され」るという、薩摩藩出身者が主導する形で実行された https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B9%B2%E5%9F%8E (<>内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%89%87%E8%89%AF ([]内)
のは、そのためですし、日清戦争(1894~95年)の勝利により、(遼東半島を後で撤回し、結果として)台湾(だけ)を譲り受けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89
のもそのためである、ということです。

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[幕府と、南朝正統論・尊王論・攘夷論]

●幕府は、以下のような、自傷的イデオロギーを三つも積極的に抱懐することによって、当然のこととして瓦解した。
 その瓦解まで、あれほど時間がかかったのは、「異常」にも、日本の内外が、長期にわたって平和であり続けたからに過ぎない。

●新田氏自称の自殺性

 基礎事実:「朝廷も、歴代の天皇も、歴史的には北朝の延長でしかない以上、<本来、>北朝の正統性を疑う発想が出てくるはずがな<かった。>・・・
 <やがて、>『太平記』が流布されて公家や武士などに愛読され、南朝方に対する同情的な見方が出現するように<は>なっ<た。>
 南朝方であった<新田義貞を生んだ>新田氏の末裔と名乗った徳川氏が政権を取ったこと<が>状況に変化をもたらした。江戸時代に入り、<家康に重用された>林羅山親子によって編纂された『本朝通鑑』の凡例において、初めて南北併記の記述が用いられた。・・・
 その後、水戸藩主・徳川光圀が南朝を正統とする『大日本史』を編纂したことが後世に大きな影響を与えた。・・・
 <将軍、徳川>吉宗<に至って>は<、朝廷の反対にもかかわらず、>独断で<その>刊行を許可した・・・
 <このほか、>南朝正統論を唱えた人物として山崎闇斎が挙げられる。・・・彼の南朝正統論はその独自の尊王論とともに垂加神道を通じて多くの門人に伝えられ・・・た。<また、>江戸時代後期の頼山陽も・・・尊王論を鼓舞した<ところ>、彼もまた南朝正統論を採っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96

⇒徳川家は、貴種は貴種(源氏)でも新田氏の末裔と称したことで、北朝の末裔たる朝廷と敵対する契機を自ら作ってしまっていたことに加え、その南朝が、倒幕(倒鎌倉幕府)によって天皇親政を一時実現した史実から、自殺的倒幕(倒江戸幕府)の契機まで自ら作ってしまっていた、というわけだ。
 ちなみに、島津氏は、南北朝時代に、北朝についたり南朝についたり、と苦労をしたけれど、幸か不幸か一貫して一方側に立っていたわけではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F#%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3
ので、斉彬にはフリーハンドがあった。
 近衛家/天皇家が、この点で斉彬に対して、どう思っていたのかを知りたいところだ。

 以下、蛇足だ。
 長州藩でも、吉田松陰が「生きざまとして模範としたのが・・・楠木正成だった」
https://books.google.co.jp/books?id=V2f9okVmTOwC&pg=PA64&lpg=PA64&dq=%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0%EF%BC%9B%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D&source=bl&ots=n6k0fTiOjl&sig=N_6vRYJpwM-WgCWC-TPK176PIf0&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj24_H686XbAhVHJZQKHcJ5DdAQ6AEIQTAE#v=onepage&q=%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0%EF%BC%9B%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D&f=false
とくれば、明治維新後、「皇統は南朝が正統とされ、・・・国定教科書で<は>「吉野朝時代」の用語<が>使<われるようになり、>第二次世界大戦後<になって、ようやく、>再び「南北朝時代」の用語が主流になっ<て現在に至っている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
背景は明らかだろう。(太田)

●朱子学正学化の陥穽

 基礎知識:「尊王論<は、>・・・天孫降臨の神国思想に基づき皇室を政治的権威の源泉として尊崇すべきであると説く思想で,・・・江戸時代では,[放伐<論を含む>易姓革命論を認めて<いる>]支配的な儒教イデオロギーに対して日本独自の伝統的価値を至上とする国学者が,[武家政権(幕府)]に対するアンチテーゼを主張し続けた。当初は山崎闇斎らのように,儒学の立場から神道との結合をはかり,現存の幕府権力を至高の権威をもつ朝廷から委任されたものと説くことによって正当化する意味の敬幕的尊王論が盛んであったが,ペリー来航後は,外圧に対抗する攘夷主義的対応が高まるにつれて,尊王論は民族主義の精神的原理として登場し,倒幕論のイデオロギー的支柱となった。尊皇論と書くこともあるが,もと覇道を退け王道を求めるという儒教の用語に発するので,尊王論と書くほうが正しい。 」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E8%AB%96-90662
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E8%AB%96 ([]内)

(参考1)「元来,王は殷周封建制の諸侯に君臨する権威者,覇は春秋時代に諸侯を統制した実力者をいう。戦国時代中期に孟子が原義を転用し,儒教の政治的理想を表現するために王道を立て,その反対概念として覇道をおいた。王道は天によって任命された王の行う文治政治であり,周公の政治が理想とされ,覇道は実力者の行う武断政治で,春秋斉の桓公(かんこう)が最初の覇者である。 」
https://kotobank.jp/word/%E7%8E%8B%E9%81%93%E3%83%BB%E8%A6%87%E9%81%93-38820
(参考2)「易姓革命<は、>・・・孟子らの儒教に<おける、>・・・王朝の交代を説明した理論。天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、・・・血統の断絶ではなく・・・徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。・・・このような理論があったからこそ朱元璋のような平民からの成り上がり者の支配をも正当化することが出来たとも言える。これは西洋において長年に渡る君主の血統が最も重視され、ある国の君主の直系が断絶した際、国内に君主たるに相応しい血統の者が存在しない場合には、他国の君主の血族から新しい王を迎えて新王朝を興す場合すらあるのとは対照的である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%93%E5%A7%93%E9%9D%A9%E5%91%BD

⇒徳川本家は、朱子学(儒教)を公定イデオロギーとしたことによって、自らを覇者に同定してしまい、王たる天皇家に対する「原罪」を自ら背負うことになった上、易姓革命論も抱懐したことになり、自らを潜在的王位簒奪者と位置付けてしまった。
 それだけではない。
 しかも、「覇者」、「潜在的王位簒奪者」、ならば、「武」をより一層重視しなければならないというのに、儒教に言う「王道」を追求することとし、「文治政治」を行うべく、昌平坂学問所を設置し、幕臣達に文治政治教育を施し、教育達成度を学問吟味で試験し、行政官として登用することとしたため、幕府における「武」は衰退の一歩を辿ってしまい、墓穴を掘ることになった。(太田)

●攘夷祖法化の自縛

 基礎知識:「攘夷論<は、>・・・西洋諸国は卑しむべき夷狄(いてき)だから,接近してくれば打ち払うべきだという説であるが,この・・・根底にあったのは,西洋諸国の危険をキリスト教やその他の有害思想の浸透といういわば間接侵略に焦点をおいてとらえる見方である。これは国内の民心の動揺,離反にたいする危機感と対になっており,水戸学では攘夷論と尊王論(上下秩序確立論)が不可分に結びついて展開される。このため,その攘夷論には,対外危機ないし攘夷を強調することによって,崩れかけた幕藩体制を立て直そうとする傾向すら出ている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E8%AB%96-90662 前掲

⇒徳川幕府の「対外関係<が>朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間の通商関係に限定<するとともに、>・・・日本人の東南アジア方面への出入国を禁止<し、>[また、大船建造を禁止した]ことをもって、「鎖国」と呼ぶのは適切でないとされつつあるが、「1637年(寛永14年)に起こった島原の乱・・・により、キリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切行われることのないようイベリア半島勢力を排除した」ところ、同幕府が、これらの対外政策の総体を「祖法」・・井伊直弼は「閉洋之御法」・・と呼んでいたことは事実だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%9B%BD ([]内)
 しかし、この「祖法」は、少なくとも形式的には存在しなかったのだから、1853年にペリーが来航して「開国」を求めた時、幕府だけで対応すればよかったというのに、異例にも、「諸大名から庶民まで幅広く意見を求めた<り、>朝廷に事態を報告、対策を協議した」りした(上掲)ことによって、攘夷論を以下の三重の意味で掻き立ててしまった、と私は考える。
 すなわち、一、幕府が「キリスト教やその他の有害思想の浸透」の是非を検討中であると「曲解」され、二、幕府が無能化して自分で判断できなくなっていると受け止められ、三、重要政策については朝廷が幕府の上位権力であることを幕府自身が認めたと受け止められ、た、と。(太田) 
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 (7)抱懐すべきイデオロギー

●天皇制堅持

 日本国民(臣民)の中で、国のために一番良いことをやったのは、天皇制を守った和気清麻呂だ、と斉彬は喝破したのですから、このような意味での国体を維持していくこと、こそ斉彬の思想の核心であった、と言っていいでしょう。↓

 「和気清麻呂<(注10)ハ>・・・日本第一ノ忠臣ナリ、皇統ノ危ウキニ臨ンデ、此人ノ誠心ヲ以テ萬世一系御繼續ノ今日ナリ」(177)

 (注10)「清麻呂は与曽女とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した。清麻呂の報告を聞いた称徳天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷するが、さらに別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)と改名させて大隅国への流罪とした(宇佐八幡宮神託事件)。道鏡は配流途中の清麻呂を追って暗殺を試みたが、急に雷雨が発生して辺りが暗くなり、殺害実行の前に急に勅使が派遣されて企みは失敗したともいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97%E6%B8%85%E9%BA%BB%E5%91%82

●人間主義(縄文性)追求

 「斉彬は・・・嘉永6年11月(新暦:1853年12月)に先に大石寺に帰依していた年下の大叔父で八戸藩主・南部信順<(注11)>の強い勧めにより、養女である篤姫とともに、現在の日蓮正宗総本山大石寺・遠信坊(静岡県富士宮市)の檀越となったが養女・篤姫とともに静岡県富士宮市大石寺・遠信坊(日蓮正宗総本山)の檀越であった」(コラム#9692)わけですが、「大石寺の教義に随順し切れたかどうかは研究の余地を残す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC 前掲
などということはありえません。

 (注11)なんぶのぶゆき(1814~72年)は、「陸奥八戸藩の第9代(最後)の藩主。・・・」薩摩藩主・島津重豪の十四男として生まれる。・・・天保9年(1838年)に八戸藩の第8代藩主・南部信真の婿養子として迎えられる。重豪の息子の養子先は中津藩、福岡藩、外様ながら幕閣に列していた丸岡藩など有力藩が多く、2万石しかない小藩・八戸藩への養子は異例であった。お由羅騒動では、島津斉彬が薩摩藩主を継ぐよう実兄の黒田斉溥と共に尽力し、幕府に運動した。・・・
 慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、八戸藩は奥羽越列藩同盟の圧力を直に受けることとなる。というのも信順の実家が列藩同盟の敵方・薩摩藩であったために最初から仮想敵として見られていたからであった。信順は列藩同盟には家老を立ち会わせ、一方で官軍側に立った久保田藩と密かに連携するなど、この難局を上手く乗り切り、結局一度も戦闘に参加することなく八戸藩の存続に成功した。・・・
 日蓮宗富士派・大石寺門流(現在の日蓮正宗)の檀家として知られている。特に信真の代からの迫害(八戸法難)に苦しんでいた大石寺門流の檀家を法難から救い、自らも嘉永6年(1853年)頃に島津斉彬、天璋院と共に大石寺信仰に篤く帰依した。後に安政期から八戸藩内の黄檗宗玄仲寺(廃寺)の引寺を発願して、文久元年(1861年)に大石寺末の玄中寺を創建している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E9%A0%86

 その理由は以下の通りです。
 島津本宗家の菩提寺は、鹿児島の曹洞宗福昌寺だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%98%8C%E5%AF%BA_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)
(ちなみに、斉彬の墓所もここに設けられた)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC 前掲
、つまりは、島津本宗家の宗派は曹洞宗であったにもかかわらず、あえて、他宗派の信徒になっている、というのが第一点です。
 第二点ですが、天璋院篤姫が、「明治維新後、生活に窮した状況に陥っても薩摩藩からの金銭援助を断り、あくまでも徳川の人間として生きたと言われ<た・・この点は、土佐藩に輿入れしたところの、斉彬の同母妹の候姫(智鏡院)(前出)の姿勢と全く異なる・・ところ、>・・・大石寺・・・塔中遠信坊の再々興に貢献<するとともに、>家定の死後の万延元年(1860年)には51日間にわたって、大石寺第51代法主日英に1日3回4時間の唱題祈念を行わせている<・・>ただし、<彼女の>墓所<の>寛永寺は天台宗の寺院である<・・>・・・<上、銘記すべきは、>明治維新後・・・自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職・縁組に奔走し・・・そのため、死後に確認された所持金は3円(現在の6万円ほど)しかなかったとい<い、>・・・葬儀の際、沿道には1万人もの人々が集まった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2
と、日蓮宗、というか、法華経が促しているところの、利他行・・人間主義的実践・・を行っていて、彼女の信仰が真摯なものであったと思われるところ、これは、斉彬自身もそうであったことを強く推認させるからです。
 (私は、斉彬が篤姫を家定の正妻に送り込んだのは、慶喜を家定の後継に据える工作の一環であったということに加え、幕府の最小限流血による打倒とその後の幕臣達やその家族達の幕府打倒者たる薩摩に対する怨恨の緩和、のために彼女が働いてくれることまでをも期待してのことだったと思っており、彼女は、その期待に見事に応えて見せた、と言えるのではないでしょうか。
 そのためにも、斉彬は彼女が日蓮宗の信徒になって欲しかったのである、と。)
 もとより、檀越になった背景に、島津家と一体性のあった近衛家出身の熙子<(天英院)>・・6代将軍・徳川家宣の正室。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・(品宮)常子内親王。・・「2人の子供(長女・豊姫、長男・夢月院)を儲けたが、いずれも夭折する。そのことで彼女は嘆き悲しみ、そのためかいずれの子供も徳川家とは別に日蓮正宗常泉寺にて戒名を授かる。・・・日蓮正宗総本山大石寺の山門(三門)を寄進した。また、浄土宗明顕山祐天寺に鐘楼を寄進した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90
ということが斉彬の念頭にあったとしても不思議ではありませんが・・。

 すなわち、斉彬は、後の宮沢賢治の作品中に登場するグスコーブドリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%89%E3%83%AA%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%98
のように、「他者のために奉仕する菩薩行(利他行)の実践<・・すなわち、人間主義の実践(太田)・・>を勧める法華経・・・や日蓮の教えに」惹かれた
https://books.google.co.jp/books?id=4j0LUURTMVcC&pg=PA42&lpg=PA42&dq=%E5%88%A9%E4%BB%96%E8%A1%8C%EF%BC%9B%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C&source=bl&ots=VJ4hlKBskb&sig=h_ceNl4yzdEDgkztk8shGdREkuI&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiU8ZHSgpfbAhUExbwKHTmYC8QQ6AEISTAG#v=onepage&q=%E5%88%A9%E4%BB%96%E8%A1%8C%EF%BC%9B%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C&f=false
のだろう、と私は見ています。
 なお、日蓮が、「変成男子<(注12)>せずとも女人成仏ができると説いた」<(典拠が付されていない(太田)>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C
ことも、斉彬による篤姫への日蓮宗入信の勧め、篤姫の積極的帰依につながったと思われるところです。

 (注12)「変成男子(へんじょうなんし)は、古来、女子(女性)は成仏することか非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想。法華経提婆達多品で、8歳の竜女が成仏する場面を由来とする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%88%90%E7%94%B7%E5%AD%90

 もう一点。
 日本の浄土真宗のように他力に徹する宗派を除けば、仏教各派では、戒律を守ることを旨としますが、「戒律の根本は不殺生・・・、つまりは非暴力」
https://books.google.co.jp/books?id=4j0LUURTMVcC&pg=PA42&lpg=PA42&dq=%E5%88%A9%E4%BB%96%E8%A1%8C%EF%BC%9B%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C&source=bl&ots=VJ4hlKBskb&sig=h_ceNl4yzdEDgkztk8shGdREkuI&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiU8ZHSgpfbAhUExbwKHTmYC8QQ6AEISTAG#v=onepage&q=%E5%88%A9%E4%BB%96%E8%A1%8C%EF%BC%9B%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C&f=false 前掲
なのですから、斉彬は、自分の考えを日本が実践し続けて行けば、遠い将来においてでしょうが、世界全体が平和になることを信じ、そう期待していたはずです。
 戦後日本においては、米国の属国となることによって、日本だけにおいて、この期待は実現したかのように見えるけれど、もちろん、そんな小成に甘んじている日本を見たら、斉彬は、どんなに落胆することでしょうか。

(参考)著名な歴史上の日蓮正宗檀越(本文と重複あり)
・敬台院(1592~1666)
 徳川家康・・・のひ孫で徳島藩主・蜂須賀至鎮の夫人。大石寺の御影堂を再建寄進するなど・・・。
・板倉勝澄(1719~1769)
 ・・・大石寺の五重塔建立における御供御供養に、総工費の4分の1にあたる1000両を寄進・・・。
・天英院(1666~1741)<(前出)>
 江戸幕府6代将軍・徳川家宣の夫人。大石寺の三門を寄進。  
・南部信順[(1814~72)]<(前出)>
 八戸藩主で島津斉彬の大叔父。
・島津斉彬(1809~1858)<(前出)>
 薩摩藩主で篤姫の養父。薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人。西郷隆盛などの明治維新に活躍する人材を育成。
・天璋院・・・篤姫(1836~1883)<(前出)>
 江戸幕府第13代将軍・徳川家定の夫人。島津斉彬の養女。
・貞明皇后(1884~1951)<(後出)>
 大正天皇の皇后で昭和天皇の母。 
https://plaza.rakuten.co.jp/arinokingo/diary/201109300000/
 貞明皇后については、下掲に詳しい話が載っている。
http://8724.teacup.com/sokasoda/bbs/3739
 その、より「権威」ある典拠。但し、日蓮「正」宗とまでは踏み込んでいない。
https://toyokeizai.net/articles/-/64939?page=4

 ちなみに、近衛家の菩提寺は臨済宗の大徳寺で、上出の熙子の父母とも大徳寺に葬られている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
ことからして、日蓮正宗の教義に熙子もまた自ら惹かれた可能性が大です。

 本件が、明治維新後の日本の進展にいかに巨大な影響を与えたかは、後述します。
 なお、このあたりで、中共当局が、日本への最初の政府留学生を創価大学に送った(コラム#7625、9385)理由が、石原莞爾がらみだけではなく、そもそも、斉彬にあった・・更には、貞明皇后、そして、板垣征四郎(後出)や松井石根(後出)にもあった・・可能性だってありうることに気付き、脂汗が出ましたね。

●軍事力重視(弥生性)

 前掲の箇所のさわりの部分を改めて掲げましょう。↓

 「西洋ニテハ數百年絶エズ實場ニ試験シ、種々發明或ハ改革シテ、<軍備ノ>今日ノ盛ンナルニ至レリ、然レバ、其宜シキニ從ヒ、斟酌シ、軍備トスベキニ<テ、>・・・望日本一體一致ノ兵備ニアラザレバ、外國ニ對當スルコト叶フマジク、・・・日本中一致シテ、外國の備ニナシキコトヽ思ヘリ」(191~193)

 (8)結論

 以上を、私の言葉を用いてまとめれば、斉彬の戦略は、天皇制を中核として縄文性と弥生性からなる日本文明の至上性、普遍性を信じつつ、倒幕して日本を中央集権国家へと「復帰」させた上で、欧州と提携することによって、短・中期的にはロシア、長期的には欧米全体の侵略を抑止することとし、その方法として、欧米から学ぶことで富国強兵政策を推進するとともに、長期的には、支那を中心とする非欧米地域の人々を(欧米の両文明を部分的に継受した)日本文明でもって覚醒させつつ、そんな、この非欧米地域の人々と提携しつつ、彼らを欧米の支配から解放していき、日支を中心とする非欧米地域の復興を実現する、といったものであった、ということになりそうです。

 備考1:この斉彬の戦略の、短・中期的部分が、私がかねてから指摘してきたところの、横井小楠コンセンサスに概ね相当する。
 備考2:爾後の日本の歩みは、先の大戦終結時まで、基本的にこの斉彬の戦略通りに進行することになる。
 進行で異なったのは、先の大戦が始まる寸前まで、日本が欧州ではなく英米と提携した点、及び、長期的に達成予定であった非欧米地域の復興を、概ね、先の大戦終結時までにこの地域を解放することによって、早くも、中期的に、実現するための基盤を構築できた点、くらいだろう。

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[斉彬にとっての国学]

・斉彬にとっての国学

 私の見方とは異なるが、国学についての日本の現在の識者の典型的な見方は下掲のようなものではなかろうか。↓

 「・・・西欧諸国が進んだ文明の力を背景に開国を迫ってきたとき、日本人は世界における日本の自画像・アイデンティティを確立せねばならなかった。世界の中で、「日本」とは何なのか? 「日本人」とは何なのか? そういう切実な問いに気前よい回答を与えるのが、国学であったと言える。日本は無窮なる皇統がしろしめす国「皇国」であると、日本人とはその皇統を戴く万国に冠たる民族であると。こうした夜郎自大な自画像は攘夷思想と親和し、一方で日本の正統な君主は皇室であるという思想が、尊皇・討幕の理論へと発展していった。もちろん尊皇攘夷思想は、国学だけでなく水戸学や儒学をも源流に持つ。しかし国学が特殊だったのは、尊皇攘夷思想に強烈な宗教性を持ち込んだところだ。
こうして国学は、古典文学の研究という実証主義的で地味な課題から出発したが、古代社会の研究、歴史学、宗教学、神話学と次第に領域を広げ、幕末を動かす巨大なイデオロギーとなっていった。国学は、神話を核として様々な学問が学際的に融合した新しい学問体系・価値体系を創り出そうとしていた。生粋の「日本」の独自思想としてだ。・・・」
http://inakaseikatsu.blogspot.jp/2018/03/blog-post_15.html

 「元来、薩摩は国学との関わりは薄い土地であった。
 全国に数多くの門人をもった本居宣長の元へも、薩摩・大隅からはただの一人も入門していない(ただし薩摩藩領だった諸県郡高岡郷出身の者が3人だけ入門)。宣長の人気がなかったというよりも、国学は薩摩では禁止されていたらしい。平田篤胤と島津重豪には交流があったというが、篤胤に入門しようとした後醍院真柱(みはしら)が天保10年、眼病治療を口実に上京したことを考えても、薩摩では国学は異端とされおおっぴらには学べなかったようだ。
 そんな中、薩摩に国学を導入したのは島津斉彬だった。斉彬は嘉永4年の襲封後、鹿児島に帰着するとすぐに八田知紀<(注13)>、関勇助<(注14)>、後醍院真柱<(注15)>らに社寺陵墓の取調べを申しつけた。嘉永朋党事件で弾圧された国学グループが、一躍藩主の直轄事業に起用されたのである。これは後の廃仏毀釈や神代三陵の画定に繋がる調査とみられる。

 (注13)1799-1873 「京都藩邸勤務となり、歌を香川景樹に学ぶ。島津貞姫入輿に従って近衛家に仕え、維新後は宮内省に出仕して歌道御用掛に任命された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%94%B0%E7%9F%A5%E7%B4%80-14774
 (注14)?~?年。「お由羅騒動に連座して謹慎となるが、その後島津斉彬に重用され、常平法や外城屯田兵制の城下士への適用、郷校の設立などは広国の調査によるものが多く、斉彬がフランス式騎兵隊を創設した際はその隊長となったという。西郷隆盛や大久保利通は広国に学んだことがあるという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%BA%83%E5%9B%BD
 (注15)1805~1879年。「薩摩鹿児島藩士。江戸で平田篤胤にまなび,藩校造士館でおしえる。維新後皇学所御用掛,教部省御用掛などを歴任し,明治10年岡山吉備津(きびつ)神社宮司となった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%99%A2%E7%9C%9F%E6%9F%B1-1074998

 一般には、斉彬といえば蘭癖——西洋思想の信奉者だったと思われており、それは事実である。しかし斉彬は洋学と同じくらい、国学や勤皇思想を鼓吹した。斉彬は「天子より国家人民を預かり奉り候」といい、土地人民は元来は(幕府ではなく)朝廷より預かったものという認識を示した最初の薩摩藩主だった。
 また斉彬は、藩校造士館で国学が講じられていないことを不満とし、後醍院真柱を造士館の訓導として起用し古学(古典、六国史、律令格式等)に力を入れさせた。さらにそれでは不十分と思ったのだろう、漢学を教える造士館と並んで国学館・洋学館を創設することを企図した。この計画は斉彬の突然の死によって実現はしなかったが、西洋の技術と日本の精神を両方重んずる斉彬の考え方をよく示していた。」
http://inakaseikatsu.blogspot.jp/2018/03/blog-post_25.html

⇒私は、斉彬は、日本文明について、縄文性(文)と弥生性(武)、そして両性具有にして両性のバランサーたる天皇制、という、私の見方的なものに、彼が、もっと長く生きていたら間違いなく到達していたであろうと思っており、そういったことの研究を行うために国学館の創設を考えていた、と見ている。
 また、同じく斉彬がもっと長く生きていたら、造士館は、やがて、支那を中心とする非欧米世界全体の研究、また、洋学館は、欧米世界全体の研究、の場へと、それぞれが発展して行ったであろう、とも。(太田)
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 [廃仏毀釈と斉彬]

●これまでの説

 こうして、「薩摩藩でも国学が人々の注目を集めるようになる。後に「誠忠組」を形成することになる若者たちにも、国学への意欲がわき上がったことだろう。事実「誠忠組」の中で、大久保利通の親友だった税所篤、組中で最も家格が高く頭の位置づけにあった岩下方平(みちひら)は平田篤胤の没後門人となっている。

⇒斉彬の国学推奨の意図の読み違えだ、と私は見る。(太田)

 また、「誠忠組」では篤胤の『古史伝』(37巻)を回し読みしていたが、これを聞いた島津久光は『古史伝』を所望。大久保らは『古史伝』を少しずつ久光に提出するとともに、天下の形勢や自分たちの意見の書状をそこに挟み込んで久光へ建言していたという。
 久光が『古史伝』を大久保らに所望したことを考えると、久光は国学を体系的に学んだことはなかったようだ。しかし彼は幼い頃から闇斎学に親しんでいた。これは朱子学の一派で廃仏的な傾向を持つ儒学であり、創始者山崎闇斎は神道と儒教を融合させた垂加神道を提唱してもいる。この闇斎学は、薩摩に国学が興る前かなり広まっていた教えであり、薩摩の尊皇思想の源流の一つであった。もともと久光は学問的な性格で和漢の書籍に通じ、斉彬もその見聞の広さと記憶力には舌を巻いていたくらいである。歴史好きだった久光が古学を中心とする国学へ傾倒してゆくのは自然のなりゆきだったろう。
 かくして、かつて異端として斥けられていた国学が藩主斉彬によって藩学へ採用され、久光がそれを加速させた。

⇒そもそも、久光は、斉彬の後継たりうる能力などなかったのであり、当然のように、彼もまた、斉彬の国学推奨の意図を読み違えた、と私は見る。(太田)

 平田篤胤の門下には薩摩人が集い、特に文久2年からは激増している。本居宣長の門人には一人の薩摩人もいなかったのとは隔世の感がある。こうして薩摩の地には平田派の国学が盛行し、遂に廃仏毀釈へと突き進んでいった。国学者たちは、古来より続く神道こそが至純であり、仏教は外来の邪教であると考えたからであった。今や仏教こそが異端とされた。」(上掲)

 「江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まり、影響を受けた池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。
 徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏も規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。
 光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。
 また同時期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。中でも平田派は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与することになった。・・・
 慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策・・・<の>後、仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈が全国的に生じた・・・<が、そ>の徹底度に、地域により大きな差があった<・・>廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため<・・>のは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。

⇒神仏分離も廃仏毀釈も、水戸学や平田派の影響も無視はできないものの、日蓮宗(日蓮正宗)信徒であった斉彬の考えに触発された旧薩摩藩士達が主として推進した、と私は見る。(太田)

 廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。

⇒国家神道の樹立もまた、斉彬の日蓮宗(日蓮正宗)の神道観に沿ったものであった、と私は見る。
 もとより、これは、フランスとの提携を英国との提携に切り替えたところの、維新政府の、英国教に相当するものの日本における樹立、という(私の想像する)発想にも合致するものでもあった。(太田)

 一方で、廃仏毀釈がこれほど激しくなったのは、江戸時代、幕府の間接統治のシステムとして寺社奉行による寺請制度による寺院を通じた民衆管理が法制化され、権力から与えられた特権に安住した仏教界の腐敗に対する民衆の反発によるものという一面もある。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88

 なお、薩摩藩内での先行実施の実態は以下の通り。↓

 「久保田収氏の「薩摩藩における廃仏毀釈」という論文には、・・・市来四郎の談として、次のような発言が記録されてい<る>。
 「寺院を廃して、各寺院にあるところの大小の梵鐘あるいは仏像仏具の類も許多の斤高にして、これを武器製造の料に充て、銅の分を代価に算して、およそ十余万両の数なり」
 「僧侶も真に仏教に帰依していた者はなかったようで、おおむね還俗することを喜んだそうな」
 「仏像の始末については、石の仏像は打ち壊して、川の水除などに沈めました。今に鹿児島の西南にある甲突川という川の水当のところを仏淵とよびます。すなわち仏像を沈めたところでござります。木の仏像はことごとく焼き捨てました。」
 「大寺の大門とか楼閣とかを打ち壊すに、大工人夫共が負傷でもすると、人気に障りますから、大いに念入りに指揮いたしました。大工人夫共の屋根から落ちて負傷したこともなく、滞りなく打ち壊しました。その頃の巷説に、昔の人は大寺だの大像だのを造立して、金銭を遣い、丹精もこらしたもので、それだけの効験があるものと思うたが、今日打ち壊してみれば、何のこともない、昔の人は大分損なことをせられたものだなどと言いました。仏というものは畢竟弄物みたいなものであったという気になりました」」
http://gachinbow.hatenablog.com/entry/2016/10/31/080000

(参考)

 日蓮は、自分の興した宗派以外の事実上仏教全宗派を排撃したことはよく知られている。↓

 「日蓮は鎌倉に現れ辻説法と「諌暁八幡抄」などで他の仏教宗派を批判した際、四箇格言(しかかくげん)を述べた。真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊の四つを謂う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE

 これが、維新後、(日蓮宗諸派の寺が存在しなかった)旧薩摩藩を中心として、全国で実行され、神仏分離は全面的に、そこから派生した廃仏毀釈は、神仏習合的要素のあった・・日蓮宗諸派には該当なし・・寺に対して地域的に濃淡ある形で行われた、ということではないのか、と。

 では、その一方で、どうして、国家神道が樹立されたのだろうか?
 日蓮の神道観で説明が可能だ。↓

 「日蓮はその著作の中で天照大神,八幡神を尊崇している」(注16)
https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%A5%9E%E9%81%93-133482
 「日蓮・・・は『立正安国論』に「世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(平成新編御書234ページ)と説<き>、法味(南無妙法蓮華経の功徳)に飢えた神は天上世界に帰ってしまい、そのかわり神社には、悪鬼・魔神が取り入って、災難を起こし、人々を悩乱せしめている<、とした>。」
https://www.myotsuuji.info/%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E7%A5%9E%E9%81%93%E3%81%A8%E3%81%AF/

 (注16)だから、日蓮宗諸宗派の中には、日蓮宗(のみ)は神仏習合が可能である、と考えたものすら出現している。↓
 「法華神道という特殊な日蓮宗神道が発生したのは室町時代以後で,三十番神を法華経の守護神とし,道場に祭壇または社殿を構えて勧請した。その祭壇祭式の形式は天台宗における日吉神社の先例に学んだものであるが,日蓮宗神道では日吉神道のごとき専門の神社神職を置かず,祭神勧請の儀式はいっさい日蓮宗徒が執行した。その説を述べたものに日澄の《法華神道秘訣》,日珖の《神道同一醎味鈔(かんみしよう)》などがある。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%A5%9E%E9%81%93-133482 前掲

 かかる、日蓮の神道観を踏まえ、神仏分離が行われた神社群、及び、もともと神仏習合していなかった神社群、の全てを国営化・・神職は公務員化・・することによって、全神社群は「純化」される、と考えられた、というのが私の新説(仮説)だ。
 そうだとすれば、(あの世で斉彬自身がどう思っているかは知らないが、)斉彬死後、彼を祭神とする神社が作られたのは不思議でも何でもないことになる。↓

 「島津家28代当主<の斉彬は、>安政5年(1858年)7月に50歳で急逝するが、文久2年(1862年)に・・・弟久光と甥忠義が鹿児島城内西域の南泉院郭内に祭神<たる斉彬>を祀る社地を選定し、翌3年5月11日に孝明天皇の勅命による「照国大明神」の神号授与を受けて祠を造営したのが創祀で、翌元治元年(1864年)に改めて東照宮が建っていた地に社殿を造営し、照國神社と称した。
 明治6年(1873年)に県社に列し、同15年(1882年)には別格官幣社に昇格。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 また、更に、斉彬を含む、全島津家当主達等を祭神とする神社が作られてもおかしくはない、ということになるわけだ。↓

 「鶴嶺神社・・・島津氏初代忠久公以降の歴代当主とその家族、及び分家筋の玉里家歴代当主とその家族を祀る。就中、16代当主義久公の3女である亀寿を祀る神社・・・斉興公と斉彬公父子も共に祀られている。
 幕末の頃から廃仏毀釈運動の煽りを受けて薩摩藩領内の寺院を廃止する機運があったが、明治2年3月24日、島津忠義の正室である暐(てる)姫が死去した際、葬儀を神式で行うことが決まったことをきっかけとして薩摩藩領内の寺院の排斥が一気に進行、かつて島津氏歴代当主の菩提を弔っていた福昌寺も廃絶の憂き目にあった。その代わりとして同年11月に忠義が鹿児島郡坂本村山下鶴峯(現鹿児島市照国町)に祖先を祀る神社を創建しこれを竜尾神社と号したのに創まる。なお、同時に従来の菩提寺で保管していた歴代当主の肖像画や宝物などは竜尾神社をはじめ他の神社へ移された。
 明治6年(1873年)に県社に列し、大正6年(1917年)に島津氏歴代の別館地であった事から祭神とも縁が深い現鎮座地を当時の当主忠重から寄進されて遷座、神社名を鶴嶺神社と改称した。因みにこの名称は旧鎮座地に由来する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%B6%BA%E7%A5%9E%E7%A4%BE
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4 島津斉彬コンセンサスの形成と展開

 (1)精忠組による島津斉彬コンセンサスの形成

 「秩父季保らが『近思録』<(注17)>・・・の学習会によって<薩摩藩の重豪下の放漫財政改革の>同志を募<ったが、志半ばで重豪によって挫折させられた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%B2%E5%B4%A9%E3%82%8C

 (注17)「朱熹と呂祖謙が・・・編纂した、・・・北宋時代の・・・1176年に刊行された朱子学の入門書である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%B2

 「国元下級藩士の間で「近思録党」は「藩に殉じた悲劇の士」として語られ、西郷隆盛や大久保利通など多くの藩士が「近思録」を読み、結党するようになった。皮肉なことにこれらの藩士が後に重豪が寵愛した曾孫島津斉彬の擁立に活躍する<ことにな>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%B2%E5%B4%A9%E3%82%8C
 「『近思録』を輪読する会を西郷吉之介(西郷隆盛)・大久保正助(大久保利通)・長沼嘉兵衛(早世)・有村俊斎(海江田信義)・税所喜三左衛門(税所篤)・吉井仁左衛門(吉井友実)・伊地知竜右衛門(伊地知正治)らが結成し、後にそれが発展した<のが、・・・「精忠組」<ないし、>「誠忠組」・・・である<が、彼ら>自身が<そう>名乗った事実はなく後世の命名である。
 安政の大獄期<には、>・・・<流刑中の>西郷隆盛・・・を盟主的存在とし、大久保・堀仲左衛門・岩下方平らが主導した。水戸藩と共同して大老井伊直弼を暗殺し京都への出兵を行おうとする「突出」を計画したが、藩主島津茂久およびその父で後見役の島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫。結局井伊暗殺には有村次左衛門のみが参加(桜田門外の変)し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。<(注18)>

 (注18)「孝明天皇の勅許を得られぬまま、6月19日に・・・日米修好通商条約が調印される。・・・
 ・・・孝明天皇は、安政5年8月8日、戊午の密勅を幕府の他、水戸藩にも下して幕府政治を非難した。・・・
 [「御三家・御三卿も一致団結して国難にあたれ」という当たり障(さわ)りのない内容だったが、勅書が幕府だけでなく、御三家代表の水戸藩にも送られたこと、さらに幕府より水戸藩に2日早く出されたことが問題となった。・・・直弼は「水戸藩に出した“密勅”を返せ」という命令を朝廷に出させた。
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180531-OYT8T50013.html?from=ytop_os1
 (6月2日アクセス)]
 安政6年(1859年)12月、直弼は若年寄の安藤信正を水戸藩主・徳川慶篤の下に派遣し、戊午の密勅の返納を催促した。この催促は数度にわたって続けられ、遂に慶篤は父の斉昭と相談の上、勅を幕府に返納することにした。ところが水戸藩の士民(特に過激派)が激昂して勅の返納を阻止あるいは朝廷に直接返納すべきとして混乱する。・・・
 <そして、直弼は、桜田門外で>水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士の有村次左衛門の計18名による襲撃を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%BC%BC
 有村次左衛門(1839~61年)は、「兄に有村俊斎(後の海江田信義)、有村雄助がいる。・・・安政5年(1858年)兄の雄助とともに江戸で尊攘活動を行い、のちに脱藩し、水戸藩士らの志士と交流を深める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%9D%91%E6%AC%A1%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
 遡れば、「嘉永2年(1849年)、薩摩藩の内紛(お由羅騒動)に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち西郷隆盛)、大久保正助(のち大久保利通)、伊地知龍右衛門(のち伊地知正治)、税所喜三左衛門(のち税所篤)、吉井仁左衛門(のち吉井友実)、長沼嘉兵衛(早世)らと『近思録』を輪読する会、いわゆる「精忠組」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。嘉永5年(1852年)、樺山三円(のち樺山資之)とともに江戸藩邸に勤め、多くの勤王家と知り合う。・・・
 大老井伊直弼による安政の大獄が始まると、俊斎も尊王の志士とみなされて追われ・・・帰国、その後、大久保利通ら在藩の「精忠組」各士<が>、脱藩「突出」して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義を暗殺することを計画するも、藩に知られるところとなり、藩主島津茂久(後見役島津久光)から、彼らを「精忠の士」と認めたうえで軽挙妄動を諌める親書を受けたことにより、「突出」は中止となり、以降、藩政に従うこととなる。
 ただ、攘夷派に対する慰撫はすべての藩士にいきわたらず、万延元年(1860年)、三弟・有村次左衛門が井伊直弼を桜田門外にて水戸浪士とともに襲撃(桜田門外の変)し自刃、また、水戸浪士と行動を共にしていた次弟の雄助は、幕府に遠慮した藩の意向で、鹿児島にて母、大久保利通ら精忠組の面々の立ち会いの下、自害し<た>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%B1%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9

 藩当局の対応に不満を懐く一派はあくまで突出を主張したが、大久保らがそれを抑えた。
 久光はその後、精忠組の取り込みを図り、大久保・税所・堀・吉井らを側近として抜擢し、活躍させた。
 文久2年(1862年)に久光は、精忠組の主張する「突出」に代わり、幕府改革を企図した出兵を実行に移す。
 しかし精忠組の中でも有馬新七<(注19)>ら過激派は、・・・諸国の尊王攘夷派志士らと連携し、孝明天皇奪還計画などに加わり、久光の説諭にも従わなかった。

 (注19)1825~62年。「真影流(直心影流)と崎門学派を学び文武両道の俊傑とうたわれた。・・・天保14年(1843年)より江戸で学び、山崎闇斎派の儒学者山口菅山の門下となる。安政4年(1857年)には薩摩藩邸学問所教授に就任。文久元年(1861年)造士館訓導師に昇進。・・・尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を謀ったが、自藩の同意を得られなかったため手を引き、結果的に水戸藩を裏切る形となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%96%B0%E4%B8%83

 有馬らが集結する旅館寺田屋に向けた久光からの上使として奈良原繁・大山綱良らが最後の説得を行うが、交渉は決裂。精忠組の同士討ちとなる寺田屋騒動が発生した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E5%BF%A0%E7%B5%84

⇒島津斉彬を擁立するため始まった精忠組は、斉彬存命中は、斉彬の考えの勉強・普及を行い、斉彬逝去後の島津斉彬コンセンサスの確立・維持をもたらし、倒幕までの薩摩藩では、精忠組メンバーの中から、桜田門外の変に参加した有村次左衛門、及び、寺田屋騒動で上意射ちされた有馬新七ら、の暴発があった、というのが私の理解です。
 忘れてはならないのは、こういった動きが、若干希釈された形であれ、拡大島津家(下出)関係者の間でも進行したに違いない、ということです。(太田)

 (2)拡大島津家

●近衛家/天皇家

 過去の幕末を扱ったNHK大河ドラマ群も思い出しつつ、以下をお読みください。

・過去や今年のNHK大河ドラマに登場した話ですが、一体どうして、篤姫は近衛忠煕の養子になってから徳川家定に嫁いだのでしょうか。それは、前例があったからです。↓

 11代将軍徳川家斉の正室の広大院は、「安永2年(1773年)6月18日に鹿児島城で誕生した。最初の名は篤姫、於篤といった。茂姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約し、薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された。
 10代将軍徳川家治の嫡男家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである。・・・<そこで、>茂姫は家斉が将軍に就任する直前の天明7年(1787年)11月15日に島津家と縁続きであった近衛家及び近衛経熙の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子(このえただこ)」として結婚することとなった。また、父・重豪の正室・保姫は夫・家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった。 この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基となった。
 <ちなみに>、実母である市田氏はその権勢により弟の市田盛常を薩摩藩一所持格(本来島津一族でないとなれない地位)に取り立て、同じ重豪側室で島津斉宣の母である公家の娘・堤氏(お千万の方)を江戸から鹿児島に追いだし、自らは重豪の正室同様に振る舞ったのである。このような市田一族による薩摩藩政の私物化は、後の近思録崩れの原因の一つとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2
 どうして、近衛経熙の養女にするなどという芸当ができたのか?
 近衛家久(正室は薩摩藩3代藩主。島津綱貴の娘)と側室の薩摩藩の第4代藩主島津吉貴の娘の子が近衛内前、その子供が近衛経熙だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E4%B9%85
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E5%89%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E7%86%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%B1%E8%B2%B4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%90%89%E8%B2%B4
 つまり、「島津斉彬と近衛忠煕は義兄弟の・・・関係にあった<からだ>。
 <これに加えて、>近衛忠煕の正室の島津興子(郁姫)は、10代藩主・島津斉興(なりおき)の養女であり斉興は斉彬の父であ<った>。郁姫(興子)は実際には島津斉宣(なりのぶ,斉興の父)の娘であったが、斉宣は薩摩藩の藩政を牛耳る父・島津重豪の逆鱗に触れて隠居させられていたため、斉興の養女として近衛家に嫁いだのである。
 <ちなみに、>近衛家に輿入れした郁姫に随行したのが上臈(じょうろう)の幾島(いくしま)であ<る>・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%B9%B3
 なお、将軍徳川家定の正妻となった「篤姫は、第9代薩摩藩主・島津斉宣の七男たる今和泉島津家第10代当主島津忠剛の娘」だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E5%89%9B

・島津家と近衛家の間でどうしてそんな関係ができていたのでしょうか–それは、そもそも、島津家と近衛家とは、もともと密接な関係にあったからです。
 話は、遠い昔に遡ります。↓

 「文治元年(1185)に惟宗(島津)忠久が鎌倉幕府より<近衛家の薩摩の>島津荘の下司職に任命されて以来、島津氏と島津荘の本家であった近衛家とは、時に対立しながらも、いつしか深い縁で結ばれてい<っ>た<のだ>。」
https://www.lib.kagoshima-u.ac.jp/ja/collection/record/201301 
 より詳しく見てみよう。
 「歴史的にも、島津氏というのは家系を遡ると『近衛家の門流(家司)』に行き着くと伝承されている。島津氏の始祖は鎌倉幕府を興した源頼朝に重用されたと言われる島津忠久(母は頼朝の乳母の子)であり、島津忠久は鎌倉幕府の有力御家人(薩摩・大隈の守護)であると共に京都では近衛家の家司(家臣)だったとされる。
 関ヶ原の戦い後に江戸幕府が成立しても、薩摩藩の初代藩主・島津家久と2代藩主・島津光久は他の大名の娘を娶らず島津一門や家臣の娘を正室にしていたが、3代藩主の島津綱貴(つなたか,1650-1704)は鷹司家の松平信平<(注20)>の娘を正室にした。

 (注20)「鷹司信房の四男として生まれる。信房により再興された鷹司家は摂家の一つで・・・あったが、庶子である信平には門跡寺院に入るか、他の公家の養子になるなどの選択肢しかなかった。しかし信平はいずれも選ばず、15歳になった慶安3年(1650年)、江戸幕府第3代将軍徳川家光の御台所(正室)であった姉・孝子を頼って家臣1人だけを伴い江戸へと下った。家光と孝子の関係は決して良好といえるものではなかったが、信平は家光から歓迎され、・・・寄合入りした。
 承応2年(1653年)、第4代将軍徳川家綱の配慮により家光の叔父である紀州藩主徳川頼宣の娘を娶り、翌承応3年(1654年)には従四位下左近衛少将に任じられ、紀州徳川家の縁者として松平の名字を称することを許された。・・・
 孫信清の代には大名となる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%B9%B3 前掲

 綱貴の娘・亀姫は近衛家久の正室となっており、ここから島津家と近衛家の縁戚関係が生まれ、後の島津家の徳川家との婚姻にも影響を与える。
 4代藩主・島津吉貴(よしたか,1675-1747)は桑名松平家の松平定重の娘を正室にしたが子ができず、側室の子である島津継豊(鍋三郎)を嫡子とし正室の子として育てた。・・・
 <振り返れば、徳川>家康は外様大名の中で最も強大な軍事力を保持し地理的にも遠方にある島津家への影響力を強めたいという意図を持っていた<が、>薩摩の島津家は初代藩主・島津家久(いえひさ, 1576-1638)の時代から他の大名家との政略的な縁組みには消極的であり、孤立主義的に九州南部での覇権と独立性を強めていた・・・
 <そこで、>まだ幼少の島津継豊(つぐとよ,1702-1760)に対して・・・5代将軍・徳川綱吉(つなよし,1646-1709)の養女である竹姫(たけひめ,清閑寺煕定<(注21)>の娘)との縁組みのご内意があった<時にも>、島津氏はこの申し出を幼少を理由にいったん拒否した。

 (注21)「元禄14年(1701年)2月には霊元上皇の使者として江戸へ下向し、浅野長矩による吉良義央への殿中刃傷に遭遇した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E9%96%91%E5%AF%BA%E7%86%88%E5%AE%9A

 <しかし、>・・・8代・・・将軍吉宗が側室の子である益之助(島津宗信)を嫡子にして良いと認めたこと、6代将軍家宣の正室・天英院(島津家との縁戚関係にある近衛煕子[・・ひろこ・・・父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・(品宮)常子内親王<であり、>・・・8代将軍に徳川吉宗を指名したのは天英院だとする説がある・・・<なお、>日蓮正宗総本山大石寺の山門(三門)を寄進し<、>また、浄土宗明顕山祐天寺に鐘楼を寄進し<ている>。・・])の強い意向があったことにより、島津継豊は・・・竹姫<(注22)>を正室に迎えることになった。

 (注22)「浄岸院<(竹姫)>は将軍家の養女という立場を大いに利用し、島津家と徳川家の婚姻関係を深める政策を進め、薩摩藩8代藩主・宗信の正室に尾張藩主・徳川宗勝の娘・房姫と婚約させ(寛延元年、輿入れ前に房姫が死去。寛延2年には房姫の妹邦姫と宗信の婚約の話があがったが、今度は宗信が死去)、義理の孫で9代藩主・島津重豪の正室に一橋徳川家の当主・徳川宗尹の娘・保姫を迎えさせている。この婚姻により、島津家と徳川家との縁戚関係が深まっていくのである。・・・
 浄岸院やその他のこれらの婚姻の結果、外様であった薩摩藩の幕府に対する発言力が大いに増すこととなり、幕末に薩摩藩が台頭する大きな要因の一つになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%B2%B8%E9%99%A2

 6代藩主・島津宗信(1728-1749)<・・竹姫の子ではない(太田)・・>は尾張徳川家・徳川宗勝の娘である房姫と縁組みするが、房姫がすぐに死去すると宗信もその後を追うかのように22歳の若さで死去した。
 宗信の後を継いだのは異母弟の7代藩主・島津重年(しげとし,1729-1755)<・・同上・・>だったが、重年は幕府から河川の氾濫が頻繁に起こって人々を悩ませていた木曽川の治水工事(普請手伝い)を命じられ、莫大な財政負担を負うことになった。
 <この>重年の嫡子の8代藩主・島津重豪(しげひで,1745-1833)<だ。>」
http://charm.at.webry.info/200811/article_14.html 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90 ([]内)

・その近衛家は皇室に最も近い貴族でした。

 藤原忠通(1097~1164年)の「直系子孫のみが五摂家・・近衛家 鷹司家 九条家 二条家 一条家・・として原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占する事となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%80%9A
 「近衛家<は、>・・・藤原忠通の<事実上の>長男の近衛基実を家祖とする。・・・
 近衛前久は三職推任問題や豊臣氏と徳川氏の創称に関わるなど当時の公家としてはめざましく活躍した。前久の子近衛信尹は継嗣を欠いたため、江戸時代初頭に妹の前子が後陽成天皇との間に儲けた四之宮を養嗣子に迎え近衛信尋とした。よって以後の近衛家のことを皇別摂家ともいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6
 ちなみに、「九条家<は、>・・・<近衛基実の弟>である九条兼実を祖とする。・・・
 <その>兼実の孫・道家は、子の頼経とその息子頼嗣が相次いで鎌倉幕府の摂家将軍となったことにより、<鎌倉時代には>朝廷内で権勢を振る<い、以後、>・・・以後摂関職は近衛流と九条流から<ほぼ>出る<こととなった>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%AE%B6

・今年のNHK大河ドラマに登場した斉彬の上洛計画は、近衛忠煕<(注23)>を通じて得ていた内勅があってこそでした。

 (注23)1808~98年。母親は[尾張藩の第9代藩主]徳川宗睦(とくがわ むねちか/むねよし)の娘。正室は、薩摩藩主・島津斉興の娘(実は前藩主・島津斉宣の娘)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%9D%A6 ([]内)

 近衛忠煕の正室は、斉彬の叔母だった、と言い換えましょうか。

・この近衛家は、尾張徳川家とも深い絆で結ばれていました。

 この忠煕の母親の父親の徳川宗睦は、正室が近衛家久の娘でしたが、男子たる後継者に恵まれず、徳川義直以来の男系の血筋は、彼の代で断絶しています。
 この宗睦は、一橋治国の長男斉朝を養嗣子として迎え、宗睦死後の寛政12年1月に後を継がせています・・10代藩主です・・が、斉朝は尾張藩4代藩主徳川吉通・・・の来孫(曾孫の孫)であり、尾張徳川家の血を女系で引いています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%9D%A6
 ところが、斉朝にも後継ぎができず、結局、11代藩主・斉温、12代藩主・斉荘、13代藩主・慶臧、と、実に、4代続いて将軍家周辺からの養子が続くことになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D 前掲
 ですから、幕末の時点では、近衛忠煕が、最も濃厚に、本来の尾張徳川家の血を引いている男性であったことになるわけです。
 なお、その後に14代藩主となった慶勝は藩祖・義直の遺命である「王命によって催さるる事」を奉じる治世を行うことになります。(後述)

・そこで、何が起こったか、です。

 一橋派と南紀派の対立とは、一体何だったか、お分かりでしょうか。
 一般的な説明は以下の通りです。↓

 「徳川家定は病弱かつ暗愚で、若年にもかかわらず長命や嗣子誕生は絶望視されていた。自然後継者問題が勃発するが、年長かつ賢明であるとして一橋慶喜を推したのが一橋派である。
 一橋慶喜の実父である前水戸藩主・徳川斉昭を筆頭に、実兄の水戸藩主・徳川慶篤、越前藩主・松平慶永、尾張藩主・徳川慶勝などの親藩大名や、開明的思想で知られた外様大名である薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らがいた。紀州徳川家の徳川慶福(のちの14代将軍徳川家茂)を継嗣に推挙していた南紀派と対立した。
 従来、幕政を主導していた譜代大名が多かった南紀派に対し、一橋派は幕政から遠ざけられていた親藩や外様大名が中心であり、背景には老中首座・阿部正弘(備後福山藩主)がこれら親藩・外様大名を幕政に参与させたことによる発言力の高まりがあった。外交政策においては、水戸藩のような強硬な攘夷派と薩摩藩や宇和島藩のような積極的な開国派が混在していた。

⇒しかし、基本的には、もっとずっと単純な構図だった、すなわち、天皇家の血族ないし姻族であるところの、薩摩の島津斉彬とそれに加えて藩論が尊王であった水戸の徳川斉昭/慶篤、と、同じく藩論が尊王であった尾張の徳川慶勝、並びに、自分の大恩人である義母の兄の斉彬の意向に逆らうわけにはいかなかった土佐の山内豊信(後出)、の間の紐帯を核として、それに、越前の松平慶永<・・(春嶽)(1828~90)は田安家から越前松平家に養子に入ったが、この後に田安家当主は空席となる。養子入りが少しずれていたら、慶永自身が有力な将軍候補になっていた。慶永は「自分は後継争いに口を出す権利がある」と思っていたという。
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180531-OYT8T50013.html?from=ytop_os1 前掲・・>と宇和島の伊達宗城<・・斉彬とは、同じ鳥取藩の池田治道の孫として、佐賀藩の鍋島直正(後出)と共に従兄弟同士
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B2%BB%E9%81%93
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E6%96%89%E7%9B%B4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%97%E5%9F%8E
・・>が加わったところの、尊皇派が一橋派・・天皇家の血族で徳川本家との血縁が薄い慶喜を推した・・であり、佐幕派が南紀派・・天皇家と縁遠く徳川本家との血縁が濃い慶福(家茂)を推した・・である、と見ていいでしょうね。
 なお、松平慶永が、斉彬の崇拝者であった・・「慶永は後世において「世間では四賢侯などと言われているが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろんのこと、水戸烈公、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語ったといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD
・・ことも忘れてはならないでしょう。
 結局、斉彬が「説得」して慶喜派(一橋派)に引き入れる必要があったのは、慶永だけ、と考えてよさそうです。
 以下の記述については、そのまま受け止めていいでしょう。(太田)

 一橋派は、安政3年(1856年)に島津斉彬が養女(天璋院)を家定の後室に据えるなど大奥への工作もはかったが、謹厳実直な徳川斉昭は奢侈を好む大奥からは嫌われ、勢力を浸透させられなかった。・・・大奥では「そもそも水戸は紀州に比べてはるかに血縁が遠く、御三家といっても水戸など下々なら他人同然」という声もあった・・・。阿部の死後、幕閣を主導した老中・堀田正睦(佐倉藩主)は一橋派に好意を示し、安政5年(1858年)の日米修好通商条約をめぐる争いも絡んで、京都の朝廷を巻き込んで両派の対立は激化した。松平慶永の腹心・橋本左内や島津斉彬の腹心・西郷隆盛らも京都で暗躍したが、南紀派の重鎮・井伊直弼(彦根藩主)が大老に就任したことで、条約問題も継嗣問題も一挙に井伊の主導の下に解決が図られ、結局慶福が継嗣となって一橋派は敗北した。<(注24)>

 (注24)徳川家茂(1846~66年。将軍:1858~66年)。「紀州藩第11代藩主・徳川斉順の次男として江戸の紀州藩邸・・・で生まれる。・・・嘉永2年(1849年)に叔父で第12代藩主である徳川斉彊が死去したため、その養子として家督を4歳で継いだ。・・・第14代将軍となった・・・時13歳という若年であったが、第13代将軍・徳川家定の従兄弟に当たり、前将軍の最近親ということから、血縁を徳川家康まで遡らなくてはならない一橋慶喜を抑えて将軍に就任した。しかし、文久2年(1862年)までは田安慶頼が、その後は慶喜が「将軍後見職」に就いていたため、その権力は抑制されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82

 この措置に憤った斉昭・慶篤・慶勝らは許可なく江戸城へ登城し、井伊に談判におよんだため、蟄居謹慎を命ぜられる。これを機に井伊は「安政の大獄」を開始。京都でも南紀派の老中・間部詮勝(鯖江藩主)が弾圧を行い、一橋派大名は軒並み隠居・謹慎の憂き目にあった(率兵上京により情勢を挽回しようとした島津斉彬は出兵直前に病死)。これらの大名が復権するのは桜田門外の変で井伊が暗殺され、斉彬の弟・島津久光が率兵上京を敢行して、幕府に迫り文久の改革を行わせた後となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A9%8B%E6%B4%BE
 「このときに一橋慶喜が将軍後見職に、松平慶永が政事総裁職に就任、慶喜は家茂の死後に15代将軍に就任することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E7%B6%99%E5%97%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C

 この時、斉彬が率兵上京を計画できたのは、近衛忠煕を通じて、天皇から、「一朝事アルニ際シテハ禁闕ヲ守護セヨトノ内勅<(注25)>」を得ていたからです。↓

 (注25) 内勅。「内々の勅命。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E5%8B%85-345325
     勅命。「天皇の命令。勅諚(ちょくじょう)。みことのり。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%85%E5%91%BD-569383

 「<斉彬>公ガ一朝事アルニ際シテハ禁闕ヲ守護セヨトノ内勅ヲ近衛公ヲ経テ蒙リタルガ此レハ外患ノ場合ニ賜ハツタノデアルガ今ハ内患ニ備フル必要ヲ感ジ時機ラバ公ハ三千ノ兵ヲ率ヰテ上洛スル決心ヲシタノデアル」(『島津斉彬言行録』9。牧野伸顕)

 ちなみに、これも、今年の大河ドラマに登場しましたが、それ以前にも、斉彬は、「<近衛>家<等>を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を朝廷に請願した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC 前掲
ことがありました。
 
 また、久光が、文久2年(1862年)、「率兵上京を敢行し」たのは、「亡兄・斉彬の遺志を継ぐものとされ」ているところ、「近衛忠煕と近衛忠房<父子>へ・・・勅命獲得の周旋」を依頼したものの、「安政の大獄で幕府の鉄槌を食らっていた忠房は消極的に拒絶をした」ということとされているけれど、結局、「孝明天皇よりの宸翰<と>、世をおもふ心のたちとしられけり さやくもりなき武士のたま・・・<という、>御製の和歌がもたらされた」ところからして、やはり、近衛家の働きはあったものと推察されます。
 なお、久光上京後、「幕政改革を要求するために勅使を江戸へ派遣することが決定され」ています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%85%89 (「」内)

 また、安政の大獄を引き起こし、更に、桜田門外の変をもたらしたところの、戊午の密勅(1958年)・・要約すれば、●勅許なく日米修好通商条約(安政五カ国条約)に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求●御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。●上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書・・は、関白九条尚忠の裁可を経ずしての下賜であったこと、その前に西郷吉之助が江戸で水戸藩への勅諚降下を打診していたこと、及び、薩摩藩士の日下部伊三次(注26)が副使となっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85
、といったことから、戊午の密勅を、三条実万に対し(「注」)、「水戸藩士らが・・・働きかけた結果」である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%BC%BC
とするのが通説であるようですが、西郷や日下部(伊地知)が中心となり、近衛家を通じて孝明天皇に働きかけた、と見るべきではないでしょうか。

 (注26)くさかべいそうじ(1814~1859年)。「元薩摩藩士・海江田訥斎連の子として誕生。出生当時、父は脱藩して水戸藩にいたので常陸国・・・で生まれる。・・・なお、家名の「日下部」は海江田氏の本姓は日下部氏であることから。・・・
 はじめ水戸藩主・徳川斉昭に仕える。天保10年(1839年)、父の跡を継いで太田学館益習館の幹事を務めた。弘化元年(1845年)、江戸幕府より斉昭が謹慎を受けた際にはその赦免運動に尽力している。安政2年(1855年)、島津斉彬に目をかけられて薩摩藩に復帰し、江戸の藩邸に入る。安政5年(1858年)、将軍継嗣問題や条約勅許問題が起こると京都に赴き、水戸・薩摩両藩に繋がりを持つ事から攘夷派の志士の中心として京都で活動。水戸藩士・鵜飼吉左衛門らと公家の三条実万に接触し、同年に水戸藩へ密勅が下ると、実万よりその写しを受け取り、木曽路を通って江戸の水戸藩邸へ届けた(戊午の密勅)。しかしこのことが幕府による安政の大獄を誘発し、子の裕之進とともに捕縛される。江戸の伝馬町の獄に拘留され、凄惨な拷問を受けた末、安政5年(1859年)に獄中で病死した。・・・家督は薩摩藩士・有村俊斎が海江田信義と改名して継承した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E4%BC%8A%E4%B8%89%E6%B2%BB

 なお、近衛家が、孝明天皇に最も近い摂家であったことが、下掲の挿話からも分かります。↓

 三条實萬(さんじょうさねつむ。1802~59年)。「明治時代の元勲・三条実美の父。・・・1848年(嘉永元年)に武家伝奏となり、たびたび江戸に下って対米政策について江戸幕府と交渉した。1859年(安政5年)には日米修好通商条約への勅許を巡り関白九条尚忠と対立して、3月7日には左大臣近衛忠煕とともに参内停止を命じられる。これに激怒した孝明天皇によって2日後に右大臣鷹司輔煕と権大納言二条斉敬を勅使として近衛・三条両邸に派遣して両名に参内の勅命を下した。これは長年朝廷の全権を握っていた摂関家が勅使となり、政治的に非力であった清華家出身の三条を出仕させるという公家社会始まって以来の出来事として衝撃を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E4%B8%87

 また、幕末の潮流の中心は一貫して薩摩藩だったのであり、その薩摩藩の動きのとばっちりを、幕府や他の諸藩、この場合は水戸藩士達、がくらったということが、下掲の挿話からも分かります。↓

 鵜飼吉左衛門(1798~1859年)。「水戸藩の京都留守居役<だったが、>・・・尊王攘夷運動に励む。将軍継嗣問題では一橋派につき、日米修好通商条約締結勅許打診に反対し・・・徳川慶喜の擁立を図る。時の孝明天皇からの戊午の密勅降下に際しては、持病の悪化のため、それを子の幸吉に託して江戸小石川の水戸藩邸にあった徳川慶篤のもとに運ばせた。・・・子の幸吉と共に伝馬町の獄舎内にて死罪に処された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E5%90%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80

・その後、島津家と近衛家の姻戚関係は更に深まっていきます。↓

 「於直は、加治木島津家第9代領主久長の女で、弘化2(1845)年5月28日、城下屋敷にて誕生し、第10代領主久宝の姉君<だったが、>斉彬の遺命を継いだ久光は、文久2(1862)年7月、於直を自分の義子となし(養女扱い)、9月斉彬の養女に擬し(貞姫と改名)、文久3年12月18日、19歳で[近衛忠熙の四男の]近衛忠房に輿入れしました。婚姻準備は、小松帯刀・大久保一蔵等が担当し、・・・また、仕え人兼中央と薩摩藩との連絡役には、加治木出身の尊王志士葛城彦一と相良藤次が命じられ・・・た。・・・
 貞姫の娘の泰子(ひろこ)は最後の徳川将軍15代慶喜の後継者徳川家達(いえさと)の妻となり、<忠房と貞姫の>長男篤麿は貴族院議長など要職につき、内閣総理大臣近衛文麿は、孫に当たる・・・。
 <ちなみに、>篤姫<は、>・・・幼少の家達、泰子を養育し・・・た。」
http://www3.synapse.ne.jp/hantoubunka/kagoshimamingu/summary200809-1.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E6%88%BF ([]内)
 系図的には、第5代藩主島津継豊→知覧島津家18代当主島津久峰→加治木島津家第6代当主島津久徴→今和泉家第8代当主島津忠厚→加治木島津家第8代当主島津久徳→加治木島津家第9代当主島津久長→貞姫、となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E9%95%B7_(%E5%8A%A0%E6%B2%BB%E6%9C%A8%E5%AE%B6) 等

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[藩論の「威力」]

 この先の話について行っていただくためにも、遅きに失したきらいがあるが、ここで、藩論の「威力」を理解しておいていただく必要があろう。

〇水戸藩

 「水戸徳川家<には、>・・・「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6

 この↑藩訓(家訓)を叩きこまれたはずの、「副将軍」家たる水戸家出身者である慶喜が徳川幕府の第15代将軍になり、大政奉還を行ったこと(下述)、そして、水戸家出身者の子供である慶勝が御三家最大の石高で京都と江戸の間の戦略的要衝に位置し、かつ、尊王を藩訓としていた尾張藩の当主として倒幕側に与したこと(後述)で、マクロ的には無血革命と言ってよい形での明治維新が可能になったのだ。
 慶喜について、ざっと振り返っておこう。↓

 徳川慶喜(1837~1913年)。「第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた。 母は正室・吉子女王<で、>・・・尊敬する第2代藩主・光圀の教育方針を踏襲している斉昭の「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という教育方針に則り、天保9年(1838年)4月(生後7ヶ月)に江戸から水戸に移る。弘化4年(1847年)8月に幕府から一橋徳川家<(注27)>相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。この間、藩校・弘道館で会沢正志斎らに学問・武術を教授された。・・・

 (注27)「<一橋等の>御三卿は常時江戸城内にあって、領国経営や家政運営の必要がなく、実質上は何もすることがなかった。・・・御三卿当主は常に存在しているわけではなく、不在のまま家だけが存続することが許されていたことも、他の家との大きな違いである。これを明屋敷(あけやしき)といった。・・・このため幕末においては、一橋家の血筋が代々の将軍と御三家・御三卿を含めた親藩のほとんどの当主を独占する一方で、当の一橋家の当主には一橋家の血筋ではない慶喜が水戸家から入っており、慶喜が将軍を継いだ後は、元尾張藩主で隠居の身であった徳川茂徳が茂栄と改名して一橋家を継ぐという、奇妙な事態となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%8D%BF
 「一橋家は御三卿の中で唯一将軍を出しており、第11代将軍家斉と第15代将軍慶喜が一橋家の出身である。・・・<慶喜は、>1866年、将軍家へ転出し第15代将軍とな<った>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A9%8B%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6
 「文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入、7月6日、慶喜を将軍後見職に・・・に任命させることに成功した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C

⇒15年間、何もやることがないまま、将軍家からも結果的に疎まれた形で放置され、他方、実父がずっと江戸定府だったのだから、慶喜は、水戸徳川家の人間であり続けた、と見てよかろう。(太田)

 慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」という主旨の手紙を斉昭に送っている・・・

⇒慶喜は、頭脳明晰ではあったので、幕府が無能化、退廃化していたとこへ、国際環境の大きな変化があり、その命運が尽きかかっていることが分かっていただろうし、水戸家の家訓で育てられ、しかも、皇族(天皇のひ孫)の子供でもあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE
のだから、予見できた尊皇派と佐幕派との争いにおいて、常識的には佐幕派を率いなければならない立場であるところの、将軍になることを回避したかったのは当たり前だと私は思う。(太田)

 慶応2年(1866年)・・・第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する・・・家茂の後継として、老中の板倉勝静、小笠原長行は江戸の異論を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、8月20日に徳川宗家は相続したものの将軍職就任は拒み続け、12月5日に将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。・・・
 慶喜政権は会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した。 一方、これまで政治的には長く対立関係にあった<・・典拠不明(太田)・・>小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。・・・
 薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年)10月14日、政権返上を明治天皇に奏上し翌日勅許された(大政奉還)。・・・
 ・・・<戊辰戦争が始まった時、>慶喜が・・・敵前逃亡にも等しい行動をとった動機については幾つかの説がある。・・・
 慶喜が朝敵となったことによって諸大名の離反が相次いでおり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で、諸外国の介入を招きかねなかったことから、やむを得なかったという見方もある<が、>新政府から「朝敵」とされるとすぐに寛永寺に謹慎した事などから、天皇や朝廷を重んじていたと考えられる・・・。・・・
 旧幕臣の訪問を受けても渋沢栄一など一部の例外を除いては、ほとんど会おうとしなかった。共に静岡に移り住んだ旧家臣達の困窮にも無関心で、「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかった。・・・

⇒この背後には、既に示唆したように、水戸/尾張徳川家等と将軍家/紀州徳川家等、との間に、物の考え方においても血筋においても、殆ど同族意識などなくなっていた、すなわち、幕末においては、徳川/松平家は、勤王徳川/松平家と佐幕徳川/松平家の二つに大きく分裂していた、という事実がある、と私は見ている。(太田)

 <ちなみに、>父の正室が生母である将軍は第3代・家光以来」だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C

〇彦根藩

 比較目的で、今度は、桜田門外の変で斃れることとなる井伊直弼の彦根藩を見ておこう。↓

 「・・・[彦根藩井伊氏は幕閣の中枢を成し・・・文字通り譜代筆頭と言えよう。]
 <その彦根>藩主に就任した直弼は亡兄・直亮の遺命であると称して藩金15万両を士民に分配した。これは直弼が愛民と施しを忘れないようにするために行なったとされ、藩主に就任した頃の直弼にはこのような優しさがあった。・・・
 安政5年11月29日に間部詮勝を通じて関白九条尚忠に、自分の本意は「従来の国法(鎖国)に復することである」と述べている。・・・
 安政の大獄による有力諸侯や攘夷派の処罰も、直弼が条約締結の裏で進めていた攘夷(鎖国への回帰)も、「幕府の権威回復による旧体制への回帰」という路線上にある方針であ<った。>・・・
 井伊家では安政6年(1859年)までは主君の身を守るために警護を密かに増やしていたが、直弼がこれを知って安政7年(1860年)に廃した・・・。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%BC%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A6%E6%A0%B9%E8%97%A9 ([]内)

⇒直弼は、将軍家に過剰適応することが藩訓になっていたと思われる彦根藩の当主らしく、弥生性を放棄するに至っていた将軍家に過剰適応していたところの、縄文的名君だった。
 彼の跡継ぎ息子もまた、同様であったことは、滑稽ですらある。↓

 「<直弼の>次男の直憲は、文久2年(1862年)に直弼の罪を問われ10万石を減封された。
 元治元年(1864年)、禁門の変での功により旧領のうち3万石を回復する。また天誅組の変・天狗党の乱・長州征討にも参戦し、幕府の軍事活動に協力した。・・・
 [<さて、>井伊の赤備え<は、>・・・井伊直政<が、家康の>・・・天正10年(1582年)の後北条氏との講和によって、武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の一部が配属されたことから始まる。この時、直政は兜や鎧を始めとする戦で使用する全ての装備品を赤色で統一させた。これはかつて武田の赤備えの将であった山県昌景の意志を継ぐという意味もあった。]
 第二次長州征伐では彦根藩510人が赤備えを率いて出陣したが、鎧が夜間でも目立つことが却って仇となり、遊撃隊に狙撃され、鎧を脱ぎ捨てて壊走するほどの大敗を喫したと言う。鹵獲した武具について石川小五郎に「何分甲冑夥しき事数知れず、火砲も十余挺隊中へ奪ひ候、 中ニもアメリカホード拾弐封度弐挺此分ハ余程の名砲乍併ライフルニ而ハ無之候、小銃ハ少く、偶これ有り候もヤーグル又は倭筒にカンを付け候様の物にて無用の品のみ、それ故戦争中にも小銃せり合は余程容易に候得共、大砲は思ひの外能く打ち候様相考えられ」と酷評されている。]
 この時点では幕府内では旧一橋派が主導権を持っており、桜田門外の変以降の彦根藩への報われない扱いを彼らの報復と意識したことが、大政奉還以降の薩長新政府支持へ繋がったともいわれている。
 [<すなわち、>1万3000人の家臣のうち、佐幕を唱えるのはわずか3人というほど藩論の大勢が官軍側となり、]慶応3年(1867年)、大政奉還後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させた。翌慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、家老岡本半介は旧幕府軍と共に大坂城に詰めたが、藩兵の主力は東寺近くにある四塚や大津で薩長の後方支援にあたり、大垣への出兵に際しては先鋒となった。戊辰戦争では明治政府に加わって小山や本宮など各地を転戦、近藤勇の捕縛にもあたった。戦功により賞典禄2万石を朝廷から拝領している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A6%E6%A0%B9%E8%97%A9 上掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E6%94%BF ([]内)

〇高須四兄弟

 兄弟たる藩主達であっても、藩を異にすることになると、いかに、異なった生き様をするようになるかを示しているのが高須四兄弟だ。

 ・高須四兄弟とは、「[尾張徳川家御連枝である松平氏が領した]美濃高須藩の第10代藩主<の>・・・松平義建<(注28)(よしたつ)>・・・の子供のうち慶勝、茂栄、容保、定敬の4人を高須四兄弟と呼ぶことがあ<り、>・・・慶勝 尾張藩尾張徳川家養子・・・茂栄 高須藩主(義比)→尾張藩主(茂徳)→一橋徳川家養子(茂栄)・・・容保 会津藩会津松平家養子・・・定敬 桑名藩久松松平家養子<、の4人を指す。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BB%BA#
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%A0%88%E8%97%A9 ([]内)

 (注28)1800~62年。「江戸の水戸藩小石川邸で出生。父義和(保友)は当時水戸徳川家の部屋住み身分であったが、<その後、>文化元年(1804年)に高須松平家に末期養子として入り、高須藩を相続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BB%BA# 前掲

 以下、この四兄弟中の慶勝、容保、定敬それぞれの生きざまを、逆順で見ていこう。

 ・桑名藩–藩論不在

 桑名藩は、「江戸時代,伊勢国 (三重県) 桑名郡の一部を領有した藩。氏家氏の2万2000石に始り,本多氏 10万石,松平 (久松) 氏 14万石,松平 (久松) 氏 11万石,松平 (奥平) 氏 10万石,松平 (久松) 氏 11万石」
https://kotobank.jp/word/%E6%A1%91%E5%90%8D%E8%97%A9-58268
と藩主家がコロコロ代わってきていたことから、藩論的なものは存在していなかった。
 しかも、定敬が藩主になった経緯が、「桑名藩主松平定猷が死去<し、>長男・万之助(後の定教)が3歳と幼少、かつ妾腹の庶子であったため、14歳で定猷の正室の間に儲けた娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられ藩主とな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E6%95%AC
というものであったことから、就任後3年目で、兄の容保の事実上の部下になって京で勤務するようになったことから、会津の藩論(後出)に染まることになったと思われる。

 松平定敬(さだあき)(1847~1908年)「藩主在任:安政6年(1859年)~慶応4年(1868年)。・・・
 元治元年(1864年)に京都所司代に任命され、京都守護職の実兄松平容保(会津藩主)、朝廷から新設の禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命された元将軍後見職の一橋徳川家当主徳川慶喜と連携し、幕府から半ば独立して朝廷を援護する勢力を形成する(近年では一橋・会津・桑名の頭文字をとって一会桑政権と呼ばれる)。同年の禁門の変では会津藩とともに長州藩兵を撃退し、水戸天狗党の乱でも出兵している。髪を総髪にし、洋装で馬に乗り都大路をかっ歩した。
 慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると、慶喜に従い江戸の霊巌寺にて謹慎した。江戸城では抗戦派と恭順派が争い、大久保一翁と勝海舟により恭順工作が進められていた。さらに、桑名藩は会津と並んで新政府からは敵視されており(朝敵5等級の認定のうち、第1等が徳川慶喜、第2等が松平容保と定敬、国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から、先代当主の遺児・万之助(定教)を担いで恭順することを家老たちが決めていた。そのため、徹底抗戦派と見られていた定敬の帰国は困難な状況となった。定敬は一翁から桑名藩の飛び地領である越後国柏崎へ赴くことを勧められ、横浜からプロイセン船「コスタリカ号」で柏崎へ渡る。鯨波戦争では後方連絡の都合から指揮を家臣に任せて柏崎から会津へ移動した。その後は会津若松城で兄の容保と再会し、仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡った。箱館戦争終結前の明治2年(1869年)4月、従者とともに<米>船に乗り横浜を経て上海へ渡るも、路銀が無くなったため外国への逃亡を断念して同年5月18日には横浜へ戻り降伏し、明治5年(1872年)1月6日に赦免される。同年2月に許嫁の初子と結婚した。同年3月、明治政府に対し、平民になることを願い出たものの、認められなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E6%95%AC
 ちなみに、「幕末には所司代の無力さが指摘され京都守護職がその上位機関として設置された」という経緯がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%89%80%E5%8F%B8%E4%BB%A3
 また、「禁裏御守衛総督とは、江戸時代末期(幕末)に幕府の了解のもと、朝廷によって禁裏(京都御所)を警護する為に設置された役職のことである。任命された徳川慶喜は、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備えるため、摂海防禦指揮という役職にも同時に任命された。
 元治元年(1864年)3月25日、一橋慶喜(徳川慶喜)は、将軍後見職を免ぜられると同時に禁裏御守衛総督に就任した。朝廷から任命された役職ではあるが、禁裏御守衛総督の役料として幕府より月に7500俵受け取る合意を得た。配下に京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬らを従え、江戸の幕閣達から独立した動きをみせ、 在京幕府勢力の指導的役割を果たす存在となった。
 同年5月、慶喜は摂津国沿岸を視察している。同年7月、慶喜は禁門の変において会津藩、桑名藩、大垣藩、薩摩藩等の在京諸藩勢力の総指揮を執り、禁裏から長州藩勢力を撃退している。慶応元年 (1865年)、政務輔翼を命じられている。慶応2年(1866年)7月31日、慶喜は総督職を辞任し、徳川宗家を相続した。その際に役職としての禁裏御守衛総督は自然消滅するに至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E8%A3%8F%E5%BE%A1%E5%AE%88%E8%A1%9B%E7%B7%8F%E7%9D%A3

 ・会津藩

 容保は、下掲のような経緯で、会津藩主の叔父の薫陶を受け、同藩の藩論にどっぷりと染まることになった。↓

 「松平容保(1836~93年。藩主:1852~68年)。「弘化3年(1846年)4月27日、実の叔父にあたる会津藩第8代藩主・容敬<(注29)(高須松平家出身)の養子となり・・・容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。

 (注29)「<水戸藩の第6代藩主・徳川治保の次男≫松平義和<(1804~52年)>の庶子(三男)として生まれる。文化元年(1804年)に父が尾張藩<御>連枝の高須藩を相続するにあたり、その扱いが問題となった。
 他方、会津藩では文化2年(1805年)に・・・<4>歳の容衆[(かたひろ)(1803~22年)]]が相続し<てい>た<が、>・・・会津藩家老の田中玄宰は義和のこの庶子を万一の備えとして引き取りたいという申し出て、極秘のうちに引き取られた。
 こうして・・・容衆の<1806年に生まれた>異母弟として幕府に届けられたのが容敬である。・・・
 ・・・容衆が嗣子なく没したので、・・・容敬が末期養子となり、文政5年(1822年)に家督を継ぎ、・・・弘化3年(1846年)、高須藩主を継いだ次兄・義建の六男・容保に娘・敏姫を娶わせ、養嗣子とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B9%E6%95%AC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%92%8C (<>内)
 ちなみに、「徳川秀忠の男系は・・・容衆の死により完全に断絶した」ことになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B9%E8%A1%86 ([]内も)

⇒水戸徳川家/高須松平家(事実上の尾張徳川家)の義和の子とはいえ、容敬は乳児の時から会津松平家で育ったのだから、同家の藩訓が身に染みており、10歳くらいの時に、容敬に引き取られた容保も、「ほぼ」同様であったはずだ。(太田)

 それは神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教による「義」と「理」の精神、そして会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川<将軍>家への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった。・・・
 嘉永5年(1852年)2月10日、藩主容敬が亡くなり、2月15日、封を継ぎ会津藩主肥後守となる。・・・
 文久2年(1862年)28歳・・・閏8月1日京都守護職に就任する。・・・
 元治元年(1864年)・・・2月12日、参議就任の詔があったが容保はこれを辞退。容保は「私にいささか功ありとすればそれは全て藩祖保科正之公の故あってである。正之に贈賜下さりますように」と奉答した。20日に重ねて恩命があったが、重ねて辞退している。

⇒いかに、容保が、水戸徳川家/高須松平家(尾張徳川家)とは違って、「<将軍>家への絶対随順」を旨とした保科正之(注30)を藩祖と戴く、会津松平家の人間になりきっていたかが分かろうというものだ。(太田)

 (注30)「慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に<異母弟の肥後守>正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B

<(後に、明治天皇に代わってから受けている。)>これにより保科正之に従三位が追賞された。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B9%E4%BF%9D (〈〉内↓も)

 「元治元年(1864年)・・・池田屋事件が発生し、これに憤慨した長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変(蛤御門の変)を引き起こす。しかし、これに失敗して長州藩は朝敵となり、幕府が長州征伐(第一次長州征討)を行うこととなる。征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられたが[前々尾張藩主の徳川]慶勝に変更され、・・・出征した。[その後、慶勝は西郷隆盛を全権を委任された参謀格に任命している。]この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は〈12月27日、弟の容保の意に反し、〉寛大な措置を取って京へ凱旋した。しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定する。慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就いた。長州藩は秘密裏に薩摩藩と同盟を結んでおり(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E5%BE%81%E8%A8%8E ([]内)

⇒事実上提携していたところの、兄慶勝(尾張藩)と薩摩藩、に対するに容保、という構図だ。(太田)

 「慶応4年(1868年)1月3日、慶喜、京師の奸<である薩摩軍>を除かんとして大阪を出発、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。旧幕府軍が敗北。
 1月6日、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱し夜に紛れて幕府軍艦で江戸へ下った。容保は慶喜の命によりこれに随行することになる。これは慶喜による策(君臣一体となっては戦うことになる会津藩士から容保を引き離す)である・・・。・・・

⇒尾張藩/薩摩藩とはまた一味違う、元水戸藩の慶喜、にも容保は危険視されてしまうわけだ。(太田)

 2月16日、会津・桑名を朝敵とする勅命が下り、慶喜より江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡される。容保は江戸を発し会津へ向かう。江戸詰めの藩士や婦女子も会津の人間のほとんどが江戸を後にした。2月22日、会津に到着。容保は謹慎して朝廷の命を待つ。会津は武装防衛と降伏嘆願の二方向へ動く。
 3月、奥羽鎮撫総督九条道孝は参謀世良修蔵らとともに東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命ず。4月、容保は仙台・米沢・庄内各藩を通じて降伏嘆願書を提出。しかし世良はこれをしりぞける。会津に同情的な奥州の各藩からも嘆願書が出されるがしりぞけられ、逆に各藩は会津征討を迫られてしまう。横暴な態度が目立ち奥羽の反感を買った世良は仙台藩士に襲われ殺害される。戦争は不可避となった。・・・
 <その後の悲劇的展開については略すが、実はハッピーエンドとも言えるのであって、>現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B9%E4%BF%9D 前掲
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●尾張藩

 高須四兄弟の残りの2人の中で、高須藩当主から始まって、尾張藩、一橋家を転々とした茂栄はさておき、幕末から維新にかけて、尾張藩主を務めた慶勝の説明がないではないか、とお叱りを受けそうですが、(既に、各所で尾張藩について言及してきたところ、)尾張藩は、私は拡大島津家の一員と見ているところ、以下、本文中で説明させてもらいます。

 尾張徳川家は、「藩祖義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家で<し>た。
 [これは後々の、幕末の行動に至るまで尾張藩の藩政に大きな影響を与えました。]
 このことや、将軍を出せなかったこと、将軍家から養子を押し付けられ続けたことなどにより、家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では官軍につ<くこととなるのです>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4 ([]内)

 義直の尊皇ぶりは、「1642年に家光の長男・竹千代(のちの4代将軍徳川家綱)が山王社にて初詣を行った際、御三家当主も供奉(同行)するよう幕閣より通達が出されたが、義直は「無位無官のものに対して官位あるものが礼をすることは典礼に反する」としてこれを拒否した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4
ことに如実に表れています。

 「徳川吉通<(1689~1713年)>・・・は、尾張藩の第4代藩主・・・<でしたが、>・・・武術、儒学、神道を修め、剣術では尾張柳生新陰流9世を継承し<、>内政面でも木曾の林政の改革に挑むなど、名君の評価が高かった<ところ、>・・・<その>正室<に、>九条<(注31)>輔実の娘・輔姫<を迎え、二人の間の>子<は、>五郎太<(第5代尾張藩主)>、三千君(九条幸教室)、三姫([尾張徳川家第8代藩主]徳川宗勝室) 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E9%80%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%8B%9D ([]内)
と、ここで、尾張徳川家と、九条家、ひいては天皇家は縁戚関係となり、藩訓は縁戚的根拠を付与されるに至ったのです。

 (注31)「近衛流は殿下渡領以外の摂関家領のほとんどを掌握した。
 <それに対し、>九条流は天皇の外戚としての血縁関係と、自家からも将軍を輩出するほどの鎌倉幕府との良好な関係によってもたらされた摂関就任の実績によってようやく摂関家としての地位を安定化させ<た。>・・・
 <ちなみに、>五摂家成立以後は、摂政・関白にはこの5家の者のみが任じられ、摂家たる5家は摂政・関白職を独占した。そのため、関白就任を目論んだ羽柴秀吉(豊臣秀吉。当時は平朝臣を称していた)は、1585年(天正13年)に近衛前久の猶子となり、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として関白就任を果たし<ている>。・・・
 <江戸時代、>天保期には九条家3000石、近衛家2860石、一条家2044石、二条家1708石、鷹司家1500石・・・、慶応元年の段階で近衛家2862.8石、九条・一条両家が2044石、二条家1708.8石、鷹司家は1500石の家領・家禄が与えられ、<近衛、九条両家は、>他の堂上家よりも経済的に厚遇を受けていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%AE%B6

 徳川五郎太(正徳元年1月9日(1711年2月25日)~正徳3年10月18日(1713年12月5日))は、尾張藩の第5代藩主。第4代藩主徳川吉通の長男。母は吉通の正室である九条輔実の娘・瑞祥院輔子。輔子の実母益子内親王は後西天皇の息女。吉通の父の第3代藩主徳川綱誠は、第2代藩主徳川光友と3代将軍徳川家光の長女の霊仙院千代の嫡男である。つまり、五郎太は尾張徳川家・徳川将軍家と皇室・五摂家の血を引いていた。
 父・吉通が25歳の若さで死去したために跡を継いだが、相続から2ヶ月ほど後に数え3歳で死去した。家督は叔父の継友が継いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E4%BA%94%E9%83%8E%E5%A4%AA

⇒天皇の孫が一度ではあっても、しかも、極めて短期ではあっても、尾張徳川家の藩主となったことが、藩訓を一層確固たるものにした、と思われます。(太田)

 徳川継友(1692~1731年)は、「兄・吉通、甥・五郎太の相次ぐ急死により第6代藩主とな<ったところ、>・・・正室は近衛家熙の娘・安己君(あこぎみ)<であったが、>。・・・・・・異母弟の松平主計頭通春(後の徳川宗春)が跡を継いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%99%E5%8F%8B

⇒九条家よりも、更に天皇家に近い、近衛家とも、縁戚になったことが、後に、尾張藩の薩摩藩との事実上の同盟関係に繋がって行った、と思われます。(太田)

 その第7藩主「宗春は・・・、4代藩主吉通の<正室>の実家の九条家に3千両を寄付し、朝廷との関係を大切にした。・・・
 享保年間の後期から元文当時の幕府は、朝廷と対立しつつあった<が、>朝廷内では親幕府派の近衛家と、反幕府の霊元法皇が激しく対立してい<て、>近衛家熙が薨去した後は、桜町天皇側近で霊元法皇の強い影響下にあった一条兼香を中心に朝廷は動き始めていた。
 幕府は、水戸藩から上程された『大日本史』の出版許可を朝廷に求めた際に、有職故実の大家でもあった霊元法皇門下の一条兼香(当時大納言)に裁可を仰いだ。10年間放っておかれたが、再度許可願を出した。南北朝問題があり、一条兼香(当時は右大臣)は不許可とする。ところが、幕府は朝廷の許可を得ないまま、その3年後に『大日本史』を出版をしてしまい、朝廷と幕府の間は緊張関係に陥った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%98%A5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%AE%B6 前掲([]内)
 さて、「宗春・・・は倹約を主とする江戸の幕閣の政策を批判し、名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を許可し、規制緩和政策を推進した<が、>これは江戸幕府の緊縮財政に対して真っ向から対立するものであった。
 <面白いことに、>享保20年(1735年)に入ると幕府よりも5ヶ月早く遊興徘徊を禁じる令を出<している>。また、翌年の元文元年に行われた幕府の元文の改鋳によるインフレ政策に先立って、すでにインフレ状態にあった尾張藩内の引き締め政策を展開し<ている>。
 <このように、>幕府より<常に>一手先を行く宗春の政策は幕閣に警戒感を与えてしまう。
 ちょうどその頃、幕府は朝廷が禁じた『大日本史』の出版を強行し、幕府と朝廷に緊張が走っていた。元文3年(1738年)朝廷が、反幕府の象徴的儀式である大嘗会を開くことになる。・・・
 吉宗は、尾張藩内の騒乱状態を理由に宗春を隠居謹慎処分に処した。その日に、吉宗は朝廷の中心であった一条兼香に多額の献金をし、宗春の甥である二条宗基に諱の「宗」の字を与え、朝廷対策を打った。
 尾張藩は初祖義直の頃から朝廷との縁が深<かったことから>、・・・宗春は朝廷と幕府の間に挟まれて隠居謹慎せざるを得なくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E8%97%A9

⇒天皇家と血のつながりがなかった宗春が、あたかも実家に仕送りをするようなことを九条家にしたのは、天皇家との縁戚関係に尾張徳川家がある、という意識が血肉化していたからだ、かかる矜持が、彼をして、幕府の逆張り的行状・施策を、自信たっぷり平然と行わしめたのだ、というのが私の見方です。(太田)

 ちなみに、その後の話ですが、「尾張藩10代藩主の斉朝は・・・宗春を祀る山王社を下屋敷内に創建。通称孚式権現(孚式は宗春の戒名)と呼ばれ、主祭神は宗春、相伝には徳川家康・徳川義直であった。明治維新に至るまで、毎年使者が出たお祭りが行われてきた。・・・14代藩主慶恕(慶勝)は、下屋敷の薬草園跡に精林庵(現:名古屋市東区、浄土宗無量寿院)を江戸の下屋敷戸山邸より移して、宗春の菩提を弔った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%98%A5 前掲
ということです。

 その次の第8代藩主となったのは、徳川宗勝(宝永2年6月2日(1705年7月22日)~宝暦11年6月22日(1761年7月23日)であり、「川田久保松平家初代・松平友著(尾張徳川家第2代当主・徳川光友の十一男)の長男・・・<であって、>御連枝川田久保松平家第2代当主、高須藩四谷松平家の第3代藩主でもあ<りまし>た。・・・正室は第4代藩主・徳川吉通の次女・・・。・・・厳密には宗春の養子となったわけではなく、一旦収公された藩領を宗勝に下す形で尾張藩を引き継いだ<ところ、>・・・彼も名君の一人で<す>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%8B%9D

 その子の徳川宗睦(とくがわ むねちか/むねよし、1733年10月27日(享保18年9月20日)~1800年1月14日(寛政11年12月20日))<が>、尾張藩の第9代藩主<で、>・・・正室は近衛家久の娘・好君(たかぎみ、転陵院)<で、彼は、>・・・尾張藩中興の名君と称され<まし>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%9D%A6 

⇒今度は、継嗣を得ることさえできなかったけれど、尾張徳川家と近衛家/天皇家との縁戚関係は、これで盤石なものになったと言えるでしょう。
 これが意味するところは頗るつきに重大です。
 縁戚意識に基づく確固たる紐帯が、同じく近衛家/天皇家と深い縁戚関係にあったところの、薩摩藩との間で成立したはずだからです。
 (本日の話を全部お聞きになれば分かるはずですが、)私見では、これこそが、日本の明治維新、及び、明治維新から先の大戦の終戦まで、いや、考えようによっては、現在までの日本の近現代史の基本的な部分を規定したのです。(太田)

 この宗睦の死去でもって、「<1800>年に尾張徳川家<が、そして>、1801年には高須松平家<までもが男系子孫が断絶したため>、義直の男系子孫は断絶し、19世紀以降の尾張徳川家は養子相続を繰り返・・・<すこととなります>。<すなわち、>10代から13代まで吉宗の血統の養子が藩主に押し付けられた<ところ>、これに反発した尾張派は14代慶勝を高須家から迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めた<のです>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6 前掲 

⇒但し、第10代藩主の徳川斉朝(なりとも)(1793年9月27日(寛政5年8月23日)~1850年5月11日(嘉永3年3月30日))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%9C%9D
は、「宗睦<が>・・・一橋治国の長男斉朝を養嗣子として迎え、宗睦死後の寛政12年1月に跡を継<いだのですが、>・・・、斉朝の実母は二条治孝の娘・乗蓮院であり、治孝の父・二条宗基の実母は尾張藩4代藩主徳川吉通の長女信受院(三千君)で<す>。つまり斉朝は吉通の来孫(曾孫の孫)であり、尾張徳川家の血を女系で引いている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%9D%A6 前掲
ことから、彼に関しては、家臣団や領民達の間での拒否反応はそれほど大きくなかったはずです。
 しかし、斉朝が藩主の座を35歳の若さで譲ったことから、彼が尾張徳川家、ひいては天皇家、にさほどの愛着を持っていなかったことが推し量れるのであって、藩士達や領民達らは裏切られた思いがしたのではないでしょうか。
 その後のことを、大急ぎで紹介しておきましょう。(太田)↓

 第11代藩主の徳川斉温(なりはる。1819~39年)は、「11代将軍・徳川家斉の十九男。12代将軍・徳川家慶は異母兄。・・・文政5年(1822年)6月13日、従兄にあたる徳川斉朝の養子にな<り、>文政10年(1827年)8月15日、養父斉朝が35歳の若さで隠居したことにより、9歳で家督を相続し<まし>た。・・・
 <彼は、>病弱の故をもって江戸藩邸に常住し、襲封後21歳で死去するまでの12年間、尾張藩領内に一度も入ることが<ありませんでし>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%B8%A9
 「天保10年(1839年)・・・<に>徳川斉温が死去すると、<幕府は、>・・・<徳川家斉の十二男で田安徳川家4代当主で斉温の異母兄である徳川>斉荘<(なりたか。1810~45年)>を末期養子として尾張徳川家の家督を継がせるよう命じ<まし>た。<第12代藩主です。>・・・
 <これは>、支藩などにもあった尾張家の血統をないがしろにするものであり、藩内に大きな反発を生<みました>。特に、先代斉温の遺言でもなく、隠居していた先々代斉朝(斉荘の従兄にあたる)にも全く相談もないことに不満は高まった。藩内では支藩である高須藩主松平義建の次男・秀之助(後の徳川慶勝)を望む者が多かった<のです>。このとき、御附家老の一人である竹腰正富が藩内の説得役となった<のです>が、反発した藩士が「金鉄組」を結成し<まし>た。これが幕末に至り、反幕・尊皇攘夷派への流れとなって、竹腰家を中心とした佐幕派との対立へとつながることとなる<のです>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E8%8D%98
 徳川慶臧(とくがわよしつぐ。1936~49年)は、「幕末四賢侯の一人である福井藩主・松平慶永(春嶽)・・・の実<弟だったが、>・・・尾張藩主・徳川斉荘が没した際に男子がなかったため、斉荘の娘と婚約し、弘化2年(1845年)に10歳にして<第13代>尾張藩主となる。・・・このとき、跡目相続を争ったのが後に14代藩主になる松平義恕(徳川慶恕、のち慶勝)であったが、義恕のほうが12歳も上であった。しかも義恕は尾張藩の支藩である高須藩出身であり、また12代藩主相続時にも争った経緯があって、尾張藩士は幕府のたび重なる押しつけ養子に落胆、憤慨した。この先代以来の押し付け養子に関わる藩内抗争が、幕末の尊皇攘夷派と佐幕派との対立につながっていく。・・・
 <彼は>、在任わずか4年で・・・病没したため、・・・以前から継嗣候補になっていた松平義恕<(よしくみ)>が徳川慶恕<(よしくみ)>と名を改めて後継となった。<のち慶勝(よしかつ)と更に改名した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E8%87%A7 

⇒反幕・尊王攘夷派などという捉え方は誤りなのであり、要は、尾張徳川家・・その家臣達や藩民達を含む・・は、徳川本家よりも天皇家の方に、より強い縁戚(家族)意識を持っていたところ、その意識が、徳川本家の尾張藩主継承への累次の介入によってより強化された、ということなのです。(太田)

 さて、ここで、既に何度か言及されたところの、「尾張徳川家の支系(御連枝)として<の>、美濃国高須藩<(注32)>を治めた高須松平家(四谷松平家)<そのものについての話です>。

 (注32)「尾張藩主の子が立藩しており、宗家に嗣子が絶えたときこれを相続し、尾張藩を輔弼する役割を果たすなど支藩として機能した。しかし、所領は幕府より与えられたものであり、尾張藩からの分知ではないことから、完全な支藩であるとは言えない。ただし、第3代藩主の松平義淳は徳川宗勝として尾張藩第8代藩主となり、第5代藩主の松平義柄も徳川治行として第9代藩主徳川宗睦の養子となった(相続前に早世)。<以下、前述したことの復習ですが、>また、第10代藩主松平義建には子が多く、次男は尾張藩第14代藩主徳川慶勝、三男は石見浜田藩主松平武成、五男は高須藩第11代藩主から尾張藩第15代藩主、さらに後には御三卿一橋家当主となった(名乗りも松平義比→徳川茂徳→徳川茂栄と変遷)。七男が会津藩主松平容保で、九男が桑名藩主松平定敬と幕末に活躍した藩主となった。十男の義勇は高須藩第13代藩主となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%A0%88%E8%97%A9

 「松平義和<(よしなり)が>、美濃高須藩の第9代藩主<に[末期養子として]迎えられたところ、彼は、>水戸藩の第6代藩主・徳川治保の次男<であって、水戸藩の>第7代藩主<の>徳川治紀は兄<なのですが、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%92%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BB%BA ([]内)
この徳川治紀の子が第8代藩主斉脩と第9代藩主斉昭であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6
「斉昭は、・・・江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父」である、
http://www.wikiwand.com/ja/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD
ということは、「美濃高須藩の第10代藩主<で、>息子<が>高須四兄弟を筆頭に<その>多くが幕末期に活躍した<ところの、>・・・松平義建<(よしたつ)>は、」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BB%BA
徳川斉昭の従兄弟で、徳川慶喜はその従兄弟の息子、ということになります。

 銘記すべきは、御連枝とはいえ、尾張藩の事実上の一環たる高須藩に送り込まれたところの、「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」という水戸藩の藩訓を叩きこまれていたところの、義和は、「王命に依って催さるる事」という、水戸藩のそれをより純化し、過激化したものと言える、尾張藩の藩訓に自己同一化し、それを子の、尾張藩第14代藩主となる慶勝に徹底的に叩き込んだとしても不思議ではない、ということです。
 仮にそうであったとすれば、慶勝が、幕末・維新期に、以下のような、反幕的な行動を一貫してとったのは至極当然のことだった、と言えるでしょう。↓

 「安政5年(1858年)に将軍後継者問題・条約勅許問題などから<、自分のはとこの慶喜を次期将軍に推す>一橋派に与して井伊直弼ら南紀派と対立し、この政争に敗れた慶勝は紀州家からの将軍擁立を妨害するために押しかけ登城を行ったことなどにより、直弼の安政の大獄によって強制的に隠居処分に処され、第15代藩主には慶勝の弟・徳川茂徳がなった。しかし直弼が桜田門外の変で暗殺され、文久3年(1863年)9月13日には茂徳に代わり、慶勝の子・徳川義宜が第16代藩主となったため、慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮として活躍し尾張藩は藩主と元藩主の二重支配体制となり、第一次長州征伐の総督に立てられるなどした。慶勝は第二次長州征伐の総督にも任命されたが、辞退している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E8%97%A9 前掲
 「徳川慶喜によって大政奉還が行われ<ると、>慶勝は上洛して新政府の議定に任ぜられ、12月9日(1868年1月3日)の小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定<すると>、慶勝が通告役となる。翌慶応4年1月3日(1月27日)に京都で旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して鳥羽・伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎する。慶勝は新政府を代表して大坂城を受け取る。そのうち尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの知らせを受け、1月20日(2月13日)に尾張へ戻って佐幕派を弾圧する(青松葉事件)。そして[前藩主徳川慶勝は東海道諸藩の触頭に任命され]、尾張から江戸までの間の譜代親藩を含む[佐幕色の強かった]大名や寺社仏閣に至るまで使者を送って新政府側に付くよう説得し、500近くの誓約書(勤王誘引書類)を取り付ける。これにより慶応4年2月6日に京都を出発した新政府軍は大きな抵抗に合うこともなく約1月ほどで江戸に到着した。 その後一橋家当主となっていた茂徳に手紙を送り容保、定敬の助命嘆願にあたらせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E8%97%A9 前掲 ([]内)

 蛇足ながら、徳川本家の歴代将軍中、天皇家・公家の子供は皆無で、天皇家の孫が一人(慶喜)であり、水戸徳川家も同様で、最後(第10代)の慶篤(慶喜の同母兄)だけが皇室の孫でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E7%AF%A4
 (なお、慶篤の後、水戸徳川家を継いだ昭武(慶喜の異母弟)の母は公家の万里小路睦子です。)
http://dbrec.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvSearch.cgi?DEF_XSL=default&SUM_KIND=CsvSummary&SUM_NUMBER=20&META_KIND=NOFRAME&IS_DB=G0038791ZSI&IS_KIND=CsvDetail&IS_SCH=CSV&IS_STYLE=default&IS_TYPE=csv&DB_ID=G0038791ZSI&GRP_ID=G0038791&IS_START=1&IS_EXTSCH=&SUM_TYPE=normal&IS_REG_S1=none&IS_TAG_S1=Identifier&IS_KEY_S1=G0038791ZSI:61391&IS_LGC_S2=AND&IS_CND_S1=ALL&IS_NUMBER=1&XPARA=&IS_DETAILTYPE=&IMAGE_XML_TYPE=&IMAGE_VIEW_DIRECTION=

●佐賀藩

 改めて、ですが、「薩摩の島津齋彬<(斉彬)>と肥前の鍋島直正が従兄弟であった」(コラム#9805)ことと、斉彬が恐らくは義祭同盟(注33)の存在をも意識して意図的に楠正成への敬意を表明し続けたことで、幕末、佐賀藩は薩摩藩と準同盟関係に入ったと言えるでしょう。

 (注33)「国内に尊王思想が広がり始めた事をきっかけに、藩校弘道館教授であった枝吉神陽が発起人となり、1850年(嘉永3年)5月25日、・・・楠木正成、正行親子の忠義を讃える祭祀(義祭)を執り行う崇敬団体・・・義祭同盟が結成され、第一回の祭祀を行った。・・・神陽は水戸の藤田東湖と並び「東西の二傑」と称される。・・・
 神陽は尊皇思想を藩内に広めることで、藩論を尊皇倒幕へ向かわせることを目的としており、祭典終了後は無礼講として一切格式を問わず論議を行うという形で参加者に尊王思想を説いていた。・・・
 しかし、藩主直正の「議論は自由に行うべきである」という方針により、藩の家老クラスから下級武士まで様々な層から参加を得られたものの、徐々に「藩の針路を誤らせるのでは」と危険視され、会合も次第に儀式化していった。そのため、・・・枝吉神陽・・・実弟の枝吉次郎(副島種臣)・・・を京都に派遣し、朝廷関係者に倒幕を呼びかけたり、大隈重信が直接藩主直正に談判を行うなどの奇策を実行したが、いずれも失敗し、藩論を動かすことはできなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E7%A5%AD%E5%90%8C%E7%9B%9F

●福岡藩(前述)

●中津藩(前述)

⇒以上を踏まえ、何度も同じようなことを申し上げて恐縮ですが、倒幕・明治維新は、一言で言えば、(島津家、近衛家(天皇家)、尾張家、山内家、鍋島家、奥平家、黒田家を中心とする、)拡大島津家・・ここに毛利家が入るかどうかは微妙・・が、慶喜を将軍の座に就けることで疑似拡大島津家に仕立て上げてやっていたところの、徳川本家を切り捨てる形で、ファミリー・ベンチャーとして行われた、というのが私の結論です。(太田)

 (3)島津斉彬コンセンサス中のアジア主義の展開

  ア 薩摩藩英国留学生達

 「1863年の薩英戦争を機に、薩摩藩では海外に通じた人材養成の気運が高まった。薩英戦争で<英>軍の捕虜となった五代友厚は、翌1864年に、欧州への留学生派遣を強く推す富国強兵策「五代才助上申書」を藩に提出し、薩摩藩洋学校「開成所」教授の石河確太郎も大久保利通に開成所の優秀な学生の派遣を上申した。開成所は、薩英戦争後の藩の近代化政策の一環として、洋式軍制拡充の目的で1864年に創設された藩立の洋学養成機関で、語学のほか、砲術、兵法などの軍事学や天文、数学などの自然科学を中心に教えていた。
 選抜された学生たちは五代ら引率者とともに、元治2年(慶応1年、1865年)1月18日に鹿児島城下を出発。・・・3月22日、トーマス・グラバーの持ち船であるオースタライエン号で密航出国した。
 5月28日(旧暦)に<英国>到着後、一行19名のうち、引率係の新納久脩、寺島宗則、五代友厚と、通訳の関研蔵、年少の長沢鼎を除いた14名が、3か月の語学研修ののち、ロンドン大学のユニバーシティカレッジの法文学部聴講生として入学し、先に入学していた長州藩の留学生2名(井上勝と南貞助)とともに学んだ。長沢はアバディーンのグラバーの家に預けられ、地元の学校に通った。大学では、英国軍事学の基礎とも言える歴史・科学・数学などを主に学び、約半数が経済的理由により一年後の1866年夏に帰国した。・・・
 残留した学生たちは、学業のほか、欧州各地を訪問するなどしたのち、一部はシャルル・ド・モンブランの紹介でフランスに転学、森有礼、鮫島尚信、長澤鼎、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵の6名は、英国下院議員ローレンス・オリファントの「日本再生のために役立つ」という勧めに従い、オリファントが信奉する宗教家トマス・レイク・ハリスが創立した宗教共同体「新生兄弟」のコロニーに参加するため、1867年夏に<米国>に移った。オリファントは・・・留学生たちにハリスの教えこそ「外国から日本を守る唯一の道」と説いて勧誘した。教団コロニーでの自給自足の共同生活は、学資の尽きてきた留学生たちにとっても好都合であった。また、英国で1年を過ごした時点で留学生たちはキリスト教文明社会について懐疑的になっており、オリファントらの影響もあってか、欧米諸国の欲心にのみとらわれて侵略行為を繰り返す弱肉強食的な体質を批判して学ぶべき点が少ないとし、「表面的には公平な英国もその実は技巧権謀に支配された不義不法の国」と国元に書き送っている。
 同教団には、森らの勧めで、薩摩藩から新たな留学生たちも参加した(薩摩藩第二次米国留学生)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E7%95%99%E5%AD%A6%E7%94%9F
 「薩摩藩留学生とハリスとの出会いは、初代駐日英国領事ラザフォード・オールコックの秘書官として日本滞在経験のある英国下院議員ローレンス・オリファントが取りもった。英国の政治に絶望し、ハリスの説く新世界に傾倒していたオリファントは、議員職を投げ打ち、母親とともにハリスのコロニーに参加することを決めており、イギリスに滞在中だった薩摩藩留学生を新世界建設の仲間にするべく勧誘し<た。>・・・
 11人の日本人留学生がハリスのコロニーで暮らしたのは、1867年の後半から数か月間で、翌1868年の春から離脱者が続き、夏ごろには、ほとんどがハリスの元を去った。脱退の原因はハリスの信仰と教義に対する学生たちの疑念にあったとされ、多くが教団と決別しているが、森とハリスの付き合いは森が帰国してからも続いた[6]。・・・
 コロニーに残った長澤は、教団の収入源であるブドウ農園の経営を続け、生涯米国に残留してサンタ・ローザで暮らし、ワイン業で成功して「カリフォルニアの葡萄王」と称えられるまでになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9

 まことに興味深い紆余曲折があったわけですが、我々が抑えるべきメジャーなポイントは、薩摩藩士達が、「英国の脅威への対処」を唱えた斉彬の戦略がいかに正鵠を射ていたかを嫌という程再確認して日本に帰国した、ということであり、マイナーなポイントは、薩英戦争後に示された英国からの薩摩藩への好意(注34)もあり、主提携先(留学先)こそ、斉彬の推奨していたフランスから英国に切り替えたものの、留学生たちの一部が、斉彬に敬意を表してか、フランスにも赴いていることです。

 (注34)「<英ヴィ>クトリア女王は・・・、英国議会の開会挨拶の中で、鹿児島市民に多大な被害を与えたことに対し遺憾の意を表明し<た>。<英>国内においては、英国艦隊の行動を批難した住民の抗議集会などがあり、各地で批難の決議や書簡が政府や報道機関に寄せられ<た>。交戦時に砲台を壊滅する必要はあっても、市街地を焼き払い、一般市民に多大な被害を与える行為は許せないとの声であり、人道的な立場からの深い同情の念が示された・・・。」
http://www.meijiishin150countdown.com/topics/discovery/753/

 この時点で、既に、私の言う、島津斉彬コンセンサス中の伏流部分たるアジア主義が、薩摩藩士達の間に浸透していたことが分かるとともに、この薩摩藩英国留学生達が、明治維新後のアジア主義の展開の前衛となるわけです。

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[興亜と脱亜]

 「欧米によるアジア進出に対抗した〈興亜〉の流れと,日本の欧米化を願う〈脱亜〉の流れは,対立する二つの思想潮流であったが,両者とも〈亜細亜〉という漢字表記(その省略形も含む)を用い,これはやがて〈東亜〉〈大東亜〉という用語として継承された。…」(世界大百科事典)
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%9C%E7%B4%B0%E4%BA%9C%E5%8D%94%E4%BC%9A-1261878

 福沢諭吉は、興亜から脱亜に転向したことで有名だが、その、中津藩士→幕臣、という経歴
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
にも着目しつつ、次のオフ会「講演」で、やや詳しく取り上げたい。
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  イ アジア主義の系譜–帝国陸軍

●西郷隆盛(1828~1877年)≪薩摩藩≫

 西郷隆盛は、「征韓論を唱えるに際し、予め北村重頼・別府晋介らを朝鮮に、樺山資紀らを南清に派遣して情報収集に当たらせた」
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34623/1/59-2_p101-169.pdf

⇒西郷は、島津斉彬コンセンサス中の横井小楠コンセンサスの部分とアジア主義の部分を、征韓論の形で複合的に前のめりに遂行しようと思ったものの、拡大島津家の内部分裂によって、それを果たすことに失敗して下野します。
 1874年の台湾出兵は、いわば、この征韓論の代替物として、木戸孝允を筆頭とする長州閥の反対を押し切って、参議の大久保利通(薩摩藩・全権弁理大臣)の総合指揮下、参議の大隈重信(佐賀藩・台湾蕃地事務局長官)、陸軍中将の西郷従道(薩摩藩・台湾蕃地事務都督)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5
という、政府残存拡大島津家が一致することで、実施に移されたものです。
 (朝鮮半島や台湾を日本の勢力圏にとどめることは、ロシアの日本列島包囲体制構築の防止、に加えて、フィリピン、インドシナまで北上してきていた欧米勢力の、一層の北上、更には、ロシアとの提携による、支那と日本の分断、支那、日本、それぞれの欧米・露による包囲体制構築の防止、にも繋がることに注意。)(太田)

●川上操六(1848~99年)≪薩摩藩≫

 川上操六<(注35)>は、薩摩藩出身で日清戦争を指導した人物である。
 すでに日清戦争以前から戦端を予測して参謀次長として軍制改革を行い、大陸作戦の準備をし、戦争を勝利へと導いた。

 (注35)「薩摩藩士・・・の三男として生まれ、鳥羽・伏見の戦い・戊辰戦争に・・・従軍する。戦後上京し明治4年(1871年)4月から陸軍に出仕。・・・明治17年(1884年)には陸軍卿・大山巌に随行し欧米諸国の兵制を視察する。帰国後の明治18年(1885年)に陸軍少将・参謀本部次長、同19年(1886年)に近衛歩兵第2旅団長を務めた後、同20年(1887年)には再び<欧州>に渡りドイツで兵学を学ぶ。・・・明治21年(1888年)、帰国し同22年(1889年)3月より参謀次長。明治23年(1890年)、陸軍中将に進級。明治26年(1893年)から清国に出張の後、同年10月に参謀本部次長に就任し、設置された大本営で陸軍上席参謀兼兵站総監につき日清戦争開戦に大きく関わる。明治28年(1895年)3月には征清総督府参謀長に任命される。日清戦争では、それまで川上が推し進めた軍の近代化が功を奏した。・・・台湾・仏印・シベリア出張を経て明治31年(1898年)1月に参謀総長に就任。同年9月、陸軍大将に任命されるが、翌年5月に死去する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%93%8D%E5%85%AD
 「「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」と・・・唱えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9 前掲

 この「川上は、<征韓論の時の西郷隆盛>に倣い、一八八七(明治二0)年参謀次長になると、朝鮮、華北、華南、インド、中央アジア、シャム、安南、南洋諸島などに多くの将校を派遣し、情報を収集させた。中でも川上が熱心に後援したのが、・・・荒尾精であり、その他、福島安正、上原勇作、宇都宮太郎、明石元二郎らを世界各地に派遣すると共に、自らも朝鮮・<支那>を視察している。
 戦後には台湾を「元と大陸附属の地にあらずして、寧ろ日本の地脈に接続する島嶼である」として、「台湾は東亜に於ける平和の心臓部である」との明治天皇の言葉を強調し、華南、安南・トンキンなとの東南アジアへの躍進を期してこれらの地域を視察した。
 東南アジアでは英仏の植民政策を視察し、明石陸軍少佐をフィリピンに派遣し、独立連動に参加させようとしたという。
 その一方で、朝鮮を根拠地として日露戦争に備え満蒙進出を志して、ウラジオストック・東部ンベリアを槻察した。
 松井の「歴史的記憶」の中で、薩摩閥の川上が、西郷を継ぎ、後のアジア主義的大陸政策の原型を形作った人物として位置付けられるのは不自然ではない。」
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34623/1/59-2_p101-169.pdf 前掲

●荒尾精(1859~96年)≪尾張藩≫

 荒尾精は、「尾張藩士・荒尾義済の長男として・・・生まれる。・・・陸軍士官学校<卒。>・・・1886年(明治19年)、参謀本部の命を受け、情報収集のために中国(清)に赴任<(~1889年)。>・・・1890年(明治23年)9月、上海に日清貿易研究所を設立し、日中貿易実務担当者の育成に着手。日清貿易研究所は彼の死後設立された東亜同文書院の前身となった。1893年(明治26年)7月、予備役に編入となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B0%BE%E7%B2%BE
 「『対清弁妄』(たいしんべんもう)は、荒尾精の最後の著作(1895年3月出版)。日清戦争後、日本は清国に対し領土割譲や賠償金を要求すべきではないと訴えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%B8%85%E5%BC%81%E5%A6%84

 「<荒尾が>日清貿易研究所を創設した<時、>これを後援したのは、黒田清隆<(薩摩藩)>首相・松方正義<(薩摩藩)>蔵相・前川正名<(?)>農商務次官・川上操六<(薩摩藩)>参謀次長ら除摩閥や岩付通俊(土佐藩出身、鹿児島県令や北海道庁長官を歴任し薩摩閥と近かった)らである。
 頭山満<(後出)>は、荒尾の日清貿易研究所経営が逼迫した際、川上が自宅を担保として調達した四千円で荒尾を援助したことを以て、「川上は尠なくとも東亜先覚者の第一人者と云つても誰れ一人異論を挟むものはあるまい」と述べている。
 なお、尾張藩は、倒幕に際して重要な役割を果たしたため、尾張出身者は明治政府でも重きをなしており、荒尾や松井の例に見られるように、薩摩悶と近い閥係にあったと言うことができるであろう。・・・

⇒薩摩藩と尾張藩の密接な関係を指摘している論者は珍しいです。(太田)

 東亜同文会ならびに同文書院が、荒尾精の日清貿易研究所の延長にあること、日本にとってのアジア主義が日本と<支那>との通商を、<支那>商人や西洋商人を仲介とせず直接掌握することで、商業的利益を挙げることにあったこと、その際に「同文同種」であることを利用して<支那>人と混交することを西洋人に対する優越性として位置付けていたこと<を銘記すべきである。>・・・。
 この当時はアジア主義とは言っても東アジア主義であり、世界恐慌後の汎アジア主義とは異なるが、アジア主義による日中提携論はこのような構造を持っており、情報活動と通商膨張とが表裏の閥係にあったことが理解できる。
 松井<石根(後出)>が束亜同文会上海支部の会員であったことや白岩<龍平(注36)>が後に大亜細亜協会<(後出)>の創立委員となったことなどと合わせ、後の大亜細亜協会も満蒙のみならず台湾を中心とする華南や上海など<支那>南部を重要な活動対象と見なしていたこと、通商及び諜報・情報宣伝活動を重視していたことなど、近衛篤麿<(後出)>の東亜同文会と、二二年からその副会長を務めた近衛文麿<(後出)>を中心として発足した大亜細亜協会との連続性は明らかであろう。

 (注36)1870~1942年。「美作(みまさか)(岡山県)出身。・・・23年荒尾精が上海に創設した日清(にっしん)貿易研究所に野崎武吉郎の学資援助でまなぶ。29年大東汽船,36年湖南汽船,40年日清汽船を創設。この間,31年近衛篤麿らと東亜同文会の創立にくわわった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E5%B2%A9%E7%AB%9C%E5%B9%B3-1082794
 野崎武吉郎(ぶきちろう。1848~1925年。「備前(岡山県)出身。・・・祖父野崎武左衛門の跡をついで家業の製塩業を発展させ,道路改修,学校建設の援助など地域の発展につくした。明治23年貴族院議員。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E5%B4%8E%E6%AD%A6%E5%90%89%E9%83%8E-1100096

 文麿は篤麿から、その「御遺物」として東亜同文系の人脈を引き継ぐと共に、そのアジア主義をもそっくり引き継いだのである。・・・
 薩摩・佐賀閥が優勢であった海軍ではなく長州閥が強固である陸軍・・・」(松浦正孝<(注37)>「汎アジア主義における「九州要因」(上)–ヒト・モノの移動と「歴史的記憶」–」(北法;;9(2・112)628~634)
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34623/1/59-2_p101-169.pdf 前掲

 (注37)1962年~。「1985年東京大学法学部卒業後、同大学院法学政治学研究科で学び、1992年単位取得退学。1994年博士(法学)取得。東京大学法学部附属近代日本法政史料センター助手(1992-1994年)、同助教授(1994-1995年)、北海道大学法学部助教授(1994-2002年)、同大学院法学研究科教授(2002年-2012年)を経て・・・立教大学法学部教授。専門は日本政治史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A3%E5%AD%9D

●石原莞爾(1889~1949年)≪庄内藩≫

 国柱会会員。「[山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)<(注38)>で誕生。・・・

 (注38)「庄内藩または荘内藩は、・・・出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。・・・
 実収が20万石ともそれ以上ともいわれる庄内に目をつけたのが武蔵川越藩主・松平斉典である。当時川越松平家は度重なる転封で莫大な借財を抱え、また水害等で藩領内が荒廃し財政が逼迫していた。そこで、内実の豊かな庄内への転封を目論んだわけだが、斉典は11代将軍・家斉の第二十一子・紀五郎(のちの斉省)を養子に迎え、養子縁組のいわば引き出物として、当時、大御所となっていた家斉に庄内転封を所望した。このため、松平を川越から庄内へ、庄内の酒井を越後長岡へ、長岡藩の牧野忠雅を武蔵川越へという「三方領地替え」という計画が持ち上がった。
 これに対し、天保12年1月20日(1841年2月11日)庄内藩の領民は江戸へ出向き幕府に領地替え取り下げを直訴した。この行動は本来ならば死罪である。また従来、領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛された。同年7月12日(8月28日)徳川家斉・斉省の死去も伴い幕命は撤回となった。・・・
 <戊辰戦争の際、>会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなった。但し、奥羽越列藩同盟は会津、庄内の謝罪嘆願を目的としたものであったため、正確には両藩は加盟していない(会津藩と庄内藩で会庄同盟が締結された)。戊辰戦争では、明治政府に与した新庄藩、久保田藩領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口では攻め入る明治政府軍を撃退。その後に新庄を落とし、内陸、沿岸から秋田へ攻め入った庄内軍は中老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、明治政府軍を圧倒した。内陸では横手城を陥落させた後さらに北進、久保田城へ迫ったが、新政府側が秋田戦線へアームストロング砲やスペンサー銃等の最新兵器で武装した佐賀藩(正確には佐賀藩内の武雄鍋島家)の兵力を援軍として投入したため、戦線は旧藩境付近まで押し戻されて膠着状態となった。
 <しかし、>列藩同盟盟主の一角である米沢藩が降伏したため、藩首脳部は撤兵を決断、さらに会津藩も降伏し、庄内藩以外のすべての藩が恭順した。明治元年9月26日(1868年11月10日)庄内藩も恭順した。結果的には恭順したものの庄内藩は最後まで自領に新政府軍の侵入を許さなかった。・・・
 明治元年12月に公地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには明治政府軍でも薩摩藩の西郷隆盛の意向があった<(注39)>と言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛された。

 (注39)「西郷隆盛は・・・荘内に攻め入る軍の司令官黒田清隆に対して、「黒田君、羽州荘内とくに酒田湊は・・・酒田の本間家の分家の出身<で、薩摩藩の開成所の英語教師を務めた>・・・本間北曜先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ」と言<っている。>」
http://rekishizuki.com/archives/1116 

⇒それは韜晦であり、西郷は、江戸治安任務についていた庄内藩を、江戸テロ(コラム#9869、9871(未公開))によって、苦しめ、幕命とはいえ、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(コラム#9857、9853、9869(未公開))を行わざるをえなくしたところの、自分の同藩に対する責任を強く感じていた、ということだと私は見ています。(太田)

 明治3年11月には、旧庄内藩主酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島に入り、また後年にも旧家老菅実秀等が鹿児島を訪問し、西郷隆盛(西郷南洲翁)に親しく接する機会を得た。この経験を踏まえ、南洲翁の遺訓をまとめた「西郷南洲翁遺訓」が旧庄内藩士により、明治初期にまとめられた。現在でも、南洲翁の遺徳を伝えようと、財団法人 荘内南洲会により南洲神社が運営されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%86%85%E8%97%A9

 父親は警察官]・・・<。石原>の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、更には石原が参謀であった満州国建国の思想的バックボーンとして、国柱会の思想は多大な影響を及ぼした。特に満州国には皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、関東軍軍人を支援している。・・・
 <国柱会>は、同会は新体制運動や大政翼賛会には批判的であったため、1942年3月17日結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9F%B1%E4%BC%9A 前掲
 「東亜連盟という語は1933年,満州国協和会の目的に見られるが,日中戦争の長期化と日本の国力消耗を憂慮した石原が,<支那>民族運動の高揚に触発されて宮崎正義<(コラム#2264等)>らと38年末具体化した。それは〈国防の共同,経済の一体化,政治の独立〉を条件として,日本と中華民国および〈満州国〉が手を結ぼうという趣旨の理論であった。3国間の政策の一致ないし一部の国家機関の共同により日中両民族の対立を提携に転換させることで,戦争の速やかな終結をはかることに当初の主眼があった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E9%80%A3%E7%9B%9F-103052
 「<石原は、>陸軍中央幼年学校<時代に、>・・・<長州藩の支藩である長府藩出身の>乃木希典や<佐賀藩出身の>大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている。・・・
 アジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)・・・には、孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて、共に「支那革命万歳」と叫んだという。・・・
 ベルリン<留学>時代<に、>・・・研究会である大尉が「帰途、米国に立ち寄られるか」と質問すると「俺が米国に行く時は日本の対米軍司令官として上陸する時だけだ」と息巻いたという。国柱会入会直後、石原は「大正9年7月18日<に>・・・白人を「悪鬼」と述べ、また「この地球上から撲滅しなければなりません」と憎悪を著わしている。さらに・・・大正12年8月28日<に>・・・は、ドイツで活動写真を見て「亜米利加物にて、排日宣伝のフィルム大いに癪に障り、大声にて亜米利加の悪口を話せば近所に居りし若干の独人大いに同意を表す」「何時かは一度たたいてやらざれば彼を救う能はざるなり」と述べている。伊勢弘志は・・・国柱会入信の動機の一つに「対米感情と排他的教義への共鳴があった」としている。
 石原が田中智学の国柱会に入会したのは1920年の会津時代であり「兵にいかにして国体を叩きこむか」に悩んで、この時期、天皇主権を唱える筧克彦の『古神道大義』を読んだり、神道、キリスト教、仏教などを研究したが「ついに日蓮に到達」し、国体と日蓮主義の同一性を説く国柱会に入会した。田中智学は日露戦争の際に「日蓮主義は日本主義なり」と戦勝祈願し、以来国柱会は「日本は特別な価値ある国」として『日本書紀』と『妙法蓮華経』(法華経)が同一であるとしており、入信の動機もその国体論にあるが、伊勢弘志は、入会動機は教えより予言であり、対米悪感情と排他的教義への共鳴だとも考察している。・・・
 <もっとも、>田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べた<ことがある>といわれる。
 <なお、>現場の技術者および新しい技術を軽視する立場は他の参謀たちと変わらなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE ([]内)

⇒石原莞爾は、庄内藩の西郷フェチの環境下で島津斉彬コンセンサス、就中、アジア主義と日蓮主義信仰に感化された、と見てよかろう、というのが私の考えです。
 しかし、石原は、首謀した満州事変の成功後、転向した・・私の言葉で言えば、島津斉彬コンセンサス信奉者たるロマンティストから横井小楠コンセンサス信奉者たるリアリストに転向した・・と見ています。(太田)

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[八紘一宇]

 「大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる。・・・
 八紘一宇の提唱者の田中は、その当時から戦争を批判し死刑廃止も訴えており、軍部が宣伝した八紘一宇というプロパガンダに田中自身の思想的文脈が継承されているわけではない。・・・
 1938年1月<に>・・・関東軍<によって>・・・制定された「現下に於ける対猶太民族施策要領」及び「猶太人対策要綱」では、ユダヤ人についてあくまで受動的な立場をとること、そしてドイツをはじめとする欧州諸国には八紘一宇の精神等に立脚する理由を理解させる旨が記載されて<おり、これ>・・・が欧州での迫害から満州や日本に逃れてきたユダヤ人やポーランド人を救済する人道活動につながった・・・

⇒石原莞爾が、1928年10月から1933年8月まで関東軍作戦主任参謀/作戦課長をしており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
これは彼の置き土産と考えるべきでしょう。(太田)

 <また、>昭和初期に活躍したジャーナリストである清水芳太郎<(注40)>は、・・・同年・・・主要国がこぞってブロック経済の構築を進めていた国際情勢に対抗するために、八紘一宇の理念を提唱すべきであると主張した。・・・

 (注40)1899~1941年。「和歌山県那智勝浦町の生まれ。大正14年、早稲田大学政治経済学部卒業後、三宅雪嶺主宰の雑誌「我観」の編集に従事。この縁から中野正剛が九州日報社を買収したのを機に主筆に迎えられた。昭和5年、清水理化学研究所を設立後、同年秋、九州日報社を退社。9年3月、国家主義思想団体「創生会」を結成。12年から15年まで九州日報社の社長をつとめた。」
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/image/fukuoka/0349.html
 中野正剛(1886~1943年)。旧福岡藩士の息子。早大政経卒。ジャーナリスト(朝日)、衆院議員。三宅雪嶺の娘・多美子と結婚している(仲人は、頭山満と古島一雄)。南進論・日独伊三国同盟を支持し、撃栄東亜民族会議を主催した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B

 1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。・・・
 「八紘一宇」という表現を内閣として初めて使ったのは第一次近衛内閣であり、1937年(昭和12年)11月10日に内閣・内務省・文部省が国民精神総動員資料第4輯として発行した文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」であるとされる。1940年(昭和15年)には、第2次近衛内閣による基本国策要綱(閣議決定文書、7月26日)で、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」[20]と表現し、大東亜共栄圏の建設と併せて言及された。同年9月27日には、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された詔書にて「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ」と言及されるに至った。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87 

⇒「八紘一宇」の理念もまた、庄内藩、福岡藩、近衛家、という、拡大島津家のファイミリーベンチャーの産物だったわけだ。(太田)
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●板垣征四郎(1885~1948年)≪石原莞爾/日蓮宗≫

 日蓮宗つながりで、部下だったことがある石原莞爾経由で拡大島津家の一員となった・・「<今後、>日本の仏教は、その場合非常に重要な役割を持つことになる」、「世界最終戦ということを一部で唱え、私たちもそれを支持してきた」という彼の最後の言
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
参照・・と私が見ている板垣征四郎は、満州事変を主導した後、石原の「転向」後も、島津斉彬コンセンサス信奉者として、その徹底的前倒し遂行に向けて献身的努力を行った、と言えるでしょう。
 三国同盟成立は、彼のこの努力の賜物だったのです。
 辞世の言から漂ってくる、彼の達成感に注目。↓

 「祖父・佐々木直作は盛岡藩士族・・・岩手県岩手郡沼宮内村(現・岩手町)出身。・・・家の宗旨は日蓮宗である。・・・盛岡中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。・・・
 1929年(昭和4年)に関東軍の高級参謀に就任。1931年(昭和6年)、石原莞爾らと謀り柳条湖事件を起こし、これを奇貨として満州事変を実行した。・・・
 1932年(昭和7年)、軍司令部付で満州国の執政顧問・奉天特務機関長となる。・・・
 熱河作戦では天津特務機関長となり、反蒋介石勢力によるクーデターを起こさせる「北支親日政権」樹立のための調略活動に従事していたがこれに失敗、<欧州>出張を命じられる。・・・
 <欧州>から帰国した後は満州国軍政部最高顧問(1934年8月~12月)、関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官(1934年12月~1936年3月)、関東軍参謀長(1936年3月~1937年3月)を歴任。
 満州事変勃発の前月、・・・板垣は、「将来の世界は、大国だけが存在し、他の小国は経済的に従属の地位に落とされる。確実な資源の供給地と、製品の販路を持たない国は、経済的に独立することができない。日本が満州を失えば、重工業の基礎は破滅だ。満州は戦略的拠点だ。現在の情勢では、日ソ戦争は北満で起きる。大日本建国には満州は絶対に必要な戦略拠点だ。」と語っている。また、関東軍参謀長時代には「満州帝国は治安ますます良好で、庶政は発展している。満州国は日、鮮、満、漢、蒙の五族協和の国だ。満州三千余万の人口中、日本人は僅か五十万人である。これでは心細い。二十年間、百万戸、五百万人の日本移民が実現されなければならない。」と述べ、関東軍主導による満州農業移民百万戸移住計画を推し進めた。・・・
 〈1936年9月~11月〉内蒙古の工作を進め、・・・綏遠事件を起こした。こうした関東軍の急進的な活動に批判的でこれを止めようとした石原莞爾参謀本部戦争指導課長は関東軍本部を訪問し、陸軍中央部の指示に反する内蒙工作を中止するよう要望したが、・・・工作の主導者である板垣はかつての上司であり、石原の「二度と柳の下に泥鰌はいない」という忠告<を>無視し・・・、陸軍中央による統制の試みは失敗した。・・・
 満州時代の板垣はいわゆる分治合作論を唱え、対中工作の指針とした。日ソ戦争が起きた場合<蒋介石政権>はソ連側に立つ公算が高いと考え、それは蒋介石政権 の思想的基盤は排日にあり、財政的基盤を英米に依存する蒋介石政権が日本と親善関係に入ることはないとして日本のこれまでの対中政策を批判し、以下のような方針を採用すべきとした。「…その要点は支那大陸を人文及び地文上の見地に基づき分立せしめ」、日本は分立した個々の地域と直接提携を結び、日本の国力によって各地域間の対立相克を防ぎ、各地域内の平和の維持と民衆の経済的繁栄をはかり、究極的には日・満・華、三国提携の実績を挙げるべきである、とした。・・・
 [1939年・・・<当時>陸軍大臣の板垣征四郎以下陸軍主流は同盟推進で動いた。・・・陸軍でも石原莞爾・・・などが条約締結に反対していた。・・・
 1940年になってフランスが敗北し、ドイツが俄然有利になると三国同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍ではこの「バスに乗り遅れるな」という声が高まり、オランダ領インドネシアやマレー半島を確保しようする「南進論」の動きが高まった。陸軍首脳は親英米派の米内内閣倒閣に動き、近衛文麿を首班とする第2次近衛内閣が成立した。陸軍は独伊との政治的結束などを要求する「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」案を提出し、近衛もこれを承認した。]・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E 上掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%8F%E9%81%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (〈〉内)

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[宮沢賢治]

 宮沢賢治(1896~1933年)≪日蓮宗≫。
 「広く<彼の>作品世界を覆っているのは、・・・贖罪感や自己犠牲精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。

⇒「贖罪感や自己犠牲精神」ではやや不正確であり、(私の言う)「人間主義」がよりふさわしい。(太田)

 その主な契機としては浄土真宗の暁烏敏らの講話・説教が挙げられるが、特に18歳の時に同宗の学僧である島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより、賢治は後に国粋主義の法華宗教団国柱会に入信する・・・
 賢治の作品には世界主義的な雰囲気があり、岩手県という郷土への愛着こそあれ、軍国的要素や民族主義的な要素を直接反映した作品はほとんど見られない。ただ、24歳の時に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの、生涯その一員であり続けたため、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時のファシズム的風潮との関連も議論されている。

⇒軍国主義、民族主義、ファシズム、といったものと人間主義とは本来的に無縁だ。(太田)

 また、当時流行した社会主義思想(親友・保阪嘉内など)やユートピア思想(「新しき村(武者小路実篤)」、「有島共生農場(有島武郎)」、トルストイ・徳富蘆花、「満州・王道楽土(農本主義者・加藤完治や、国柱会の石原莞爾)」など)の社会思潮の影響を考えるべきであるという見解も見られる。晩年には遺作『銀河鉄道の夜』に見られるようにキリスト教的な救済信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB

⇒人間主義と社会主義、新しき村等との間には、生来的な親和性がある。
 他方、キリスト教との間には、相容れない部分がある。(コラム#省略)
 重要なのは、幕末における、斉彬、そして、昭和初期における、板垣、石原、松井石根(後出)、そして宮沢、は、人間主義的ロマンティストだった、ということだ。
 なお、板垣が、人間主義的ロマンティストであり続け、島津斉彬コンセンサス信奉を貫いたのに対し、石原は、前述したように、中途で人間主義的ロマンティストであり続けることに疲れ、横井小楠コンセンサス信奉者たるリアリストへと「転向」したのは対照的だ。(太田)
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[ニアミスに終わったところの、岩畔豪雄と島津斉彬コンセンサス]

●岩畔豪雄(いわぐろひでお。1897~1970年)≪?≫

 「広島県安芸郡倉橋島(現・呉市)出身。・・・成績は優等ではなかったが、1922年(大正11年)に山県有朋が死に、長州出身者が陸軍大学校試験の面接段階で全員落とされるという時の勢いに助けられ陸大入学。・・・
 1938年(昭和13年)には秋草俊、福本亀治と共に[阿南<惟幾>少将発案による「科学的防諜機関」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%8D%89%E4%BF%8A
たる]日本初のスパイ学校、後方勤務要員養成所(のちの陸軍中野学校)を設立。

 「大分県竹田市の広瀬神社に建立されたばかりの阿南惟幾像。・・・阿南自身は東京出身ですが父が竹田出身、阿南の本籍地も竹田にあったということで、竹田ゆかりの人物という扱いのようです。・・・
 H.27.6.22に顕彰碑のそばに銅像をつくるために寄付をしたのは中津の梶原直でした。 ・・・彼は陸軍士官学校の60期の入隊でそのいきさつのなかで阿南氏に直接の薫陶を受けたとしておりそのことが人生の分岐点となったとしております。その後彼は医者となり、その後の人生を送ることとなります」
https://murakumo1868.blog.fc2.com/blog-entry-352.html
 増田宋太郎(1849~77年)は、「福澤諭吉の再従弟に当たり、住まいも近所で親しい交際があった・・・福沢の価値観に魅せられ、・・・慶應義塾で学んだのち、民権運動に開眼し、中津帰郷後、英学を教える一方、「田舎新聞」を創刊する。・・・西南戦争に薩軍側として従軍、中津隊<(前出)を率いた。和田峠の戦いで敗れた後、西郷が解軍の令を出し、故郷へ帰る隊もある中、西郷に付き従った。司馬遼太郎も著書で引用した「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも捕えられて斬首されたともいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E5%AE%97%E5%A4%AA%E9%83%8E

⇒岩畔と拡大島津藩との接点があったかも追及したのですが、彼の「メンター」たる阿南惟幾の本籍地の竹田を通じての中津藩の線はニアミスに終わったと言わざるをえません。(太田)

 1939年(昭和14年)2月、軍政の中心・軍事課長に着任し同年3月、歩兵大佐に進級。・・・
 1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した訓令「戦陣訓」は、岩畔が発案したといわれる。
また1942年(昭和17年)10月に陸軍の兵器行政の大改革を行い、兵器の行政本部、陸軍技術本部をまとめて陸軍兵器行政本部を設け、その下に10の技術研究所を設立。その第9研究所が殺人光線などの電波兵器を研究した通称登戸研究所(現在の神奈川県川崎市多摩区生田)で、所長には篠田鐐大佐が就いた。・・・
 「大東亜共栄圏」という言葉は、岩畔と堀場一雄が作ったものといわれる。・・・
 近衛内閣のために各界の人材を集めて「国策研究会」を編成し、そこで総合的に国策を論じた「総合国策十年計画」を策定。これは内閣の基本原案となる。・・・
 辰巳栄一少佐らと総力戦研究所の設置、陸軍機甲本部の新設、日独伊三国同盟工作の締結促進、航空軍備の拡張などを実現させ<た。>・・・
 1941年(昭和16年)3月、緊迫する日米関係の調整のため井川忠雄の要請で、日本大使館付武官補佐官として渡米、日本の興亡を決定する日米交渉を行う。・・・
 岩畔は帰国し・・・「もし、日米が戦い、長期化したら勝算は全くありません」と付け加えた。だが大勢は参謀本部での会合でも「日米開戦は避けがたい」というのが堂々と述べられほどで、岩畔が「勝算があるのか」と反問すると「もはや勝敗は問題ではない」という暴論がかえってきた。非戦論の多い海軍もやがて主戦派の抬頭となって不調に終わり、岩畔は天を仰いで嘆いた。8月直談判した陸軍大臣東條英機に近衛歩兵第5連隊長に転出を命じられた。・・・
 シンガポール攻略と同時に印度独立協力機関(通称「岩畔機関」)の長としてインド国民軍(INA)の組織と指導・自由インド仮政府の樹立に関与した。参謀本部第8課出身の藤原岩市少佐率いる「藤原機関」(のち「F機関」)と共にこれを成功させ、INAの結成でF機関は「岩畔機関」に包含され「岩畔機関」には、多数の中野学校出身将校の他、松前重義、水野成夫なども加わり(水野の起用にあたっては日本共産党員時代の彼の地下活動経験を岩畔が高く評価したという。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%95%94%E8%B1%AA%E9%9B%84

⇒この、アジア解放に巨大な役割を果たした人物の拡大島津家との接点をぜひ見つけていただきたいものだ。(太田)
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●松井石恨(1878~1948年)≪尾張藩≫

 「・・・満州事変後に作られた大亜細亜協会<(注42)>の支部が、会頭松井石恨<(注41)>との関係が強い地区や師団所在地(金沢、名山屋、福岡、熊本) のほか、繊維や雑貨などの軽工業を基盤とする地域(大阪、神戸、名古屋)や、仏教なとの彫響力の強い地域(京都、神戸、金沢) に作られたことは、世界恐慌後帝国経済再編に伴うインド商人の進出に見られる「インド要因」や、南出の拠点である植民地台湾を中心に活発化した「台湾要因」と対応している。

 (注41)「旧尾張藩士・・・の六男として生まれた。成城学校卒業後、陸軍幼年学校へと進んだ。在学中、松井が感銘を受けた思想があった。それは川上操六が唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識であった。川上は、日本が将来、ロシアとの戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す必要性を訴えていた。そのための軸となるのは、日本と・・・支那・・・の良好な提携であるという。この川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、<支那>への興味を改めて深めていった。幼年学校卒業後、松井は順調に陸軍士官学校へと入学した。
 陸軍士官学校(9期次席)卒業後、明治34年陸軍大学校に入学した。明治37年、陸大在学中に日露戦争に従軍した。 この時期の松井が思想的な影響を受けたのは、同郷の先輩にもあたる荒尾精であった。荒尾の思想の根底にあるのは、日<支>の強い提携である。欧米列強の侵略に対し、アジア諸国が連携しあって対抗していこうというのが、その主張の要であった。・・・
 明治42年(1909年)、清国滞在中に大尉から少佐へと昇進した。この頃から孫文と深く親交するようになった。
 松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これを松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。その後も中国国民党の袁世凱打倒に協力した。
 松井は日本に留学した蒋介石とも親交があり、昭和2年(1927年)9月、蒋が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持ち事態を打開させた。・・・松井の秘書田中正明によれば「松井は当時すでに中国は蒋介石によって統一されるであろうという見透しを抱いていた。日本は、この際進んで目下失意の状態にある蒋を援助して、蒋の全国統一を可能ならしむよう助力する。そのためには張作霖はおとなしく山海関以北に封じ、その統治を認めるが、ただし蒋の国民政府による中国統一が成就した暁には、わが国の満蒙の特殊権益と開発を大幅に承認させることを条件とするという構想であった。」ところが、昭和4年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蒋介石への批判が相次いで、日<支>関係は松井の意図に反した方向へと流れていった。
 同年6月4日、張作霖爆殺事件が勃発。この事件の発生により、松井が実現させた「田中・蒋介石会談」の合意内容は完全に瓦解した。松井は張作霖を「反共の防波堤」と位置づけていた。それは当時の田中義一首相らとも共通した認識であった<のだが・・>。・・・
 国民党政府に対する不信を濃くする松井は、徐々に「中国一撃論」へと傾いていった。・・・
 昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争(支那事変)勃発。・・・同年8月13日第二次上海事変が勃発すると、予備役の松井に・・・呼び出しがかか<り、>8月20日上海派遣軍司令官として・・・上海に向けて出港した。・・・
 <南京事件を引き起こしたのは、>独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始した・・・柳川平助中将率いる第10軍<だった。>・・・
 松井は軍中央から<蒋介石政権>寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。
 昭和13年3月に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日<支>両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。滞在先の宿の主人に相談し、昭和15年(1940年)2月、日中戦争(支那事変)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音<(注43)>を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝[法華]経をあげていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C ([]内)
 (注42)「蒋介石との連携によるアジア保全の構想は破綻したものの、松井は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立した(松井は設立発起人、後に会長に就任)。会員には近衛文麿、広田弘毅、小畑敏四郎、本間雅晴、鈴木貞一、荒木貞夫、本庄繁など、錚々たるメンバーであった。「欧米列強に支配されるアジア」から脱し、「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日中の提携が第一条件である」とする」(上掲)
 (注43)「日蓮宗から分かれた法華宗陣門流(本山: 新潟県三条市)の系ではあるが、興亜観音はこれにも属さず、・・・独立した寺院である。創立の趣旨から宗派を問わず参拝客を受け入れている。・・・
 <その後、松井本人を含め、>大東亜戦争・・・の全戦没者を祀り、「小さな靖国神社」とも喩えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E8%A6%B3%E9%9F%B3

 大亜細亜協会においては問西や九州地方、環日本海(日本海側) における基盤が強く、一方、東北・北海道には支部も作られなかった。
 台湾商人、インド商人、そして華僑らのネットワークと資本とを日本が掌握し、それらを東南アジア・南アジア開発へと向けることで、孫文がかつて呼びかけた大亜細亜主義を旗印に、通商・イデオロギーを軸として日中対立を止揚し、「大東亜共栄圏」を作ろうとしたのである。・・・」
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34623/1/59-2_p101-169.pdf

●杉山元(1880~1945年)≪小倉藩※≫

 ※小倉藩は、幕末、以下のような数奇にして激動的な運命を辿ります。↓

 「宮本武蔵と佐々木小次郎との決闘が当時は小倉藩領だった巌流島で行われたのは・・・細川氏の時代である<が、>2代<細川>忠利は寛永9年(1632年)加藤忠広の改易に伴い、さらに加増され熊本藩54万石に移封され・・・、同年、播磨国明石藩より小笠原忠真が入部し、小倉城主として豊前北部15万石を領した。なおその際、支城の豊前中津城には忠真の甥長次が8万石で入部し中津藩が、同じく豊後杵築城には忠真の弟忠知が4万石で入部し杵築藩が成立した。
 忠真の母は松平信康の娘で徳川家康の外曾孫にあたることから、以後小倉小笠原氏は西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を抑える、いわば「九州探題」の役割を果たし外様大名の監視にあたった・・・
 長州征討では、小倉藩は征討軍の九州側最先鋒として第一次、第二次ともに参加した。元治元年(1864年)の第一次長州征討では長州藩が江戸幕府に対する恭順を示し、戦闘は発生しなかったが、翌慶応元年(1865年)の第二次長州征討(四境戦争)では、小倉藩は征長総督の老中小笠原長行[・・・忠知(上出)の子孫で唐津藩主・・・]の指揮下で小倉口の先鋒として参戦した。この戦闘は幕府・小倉藩に不利に展開し、長州軍の領内侵攻により門司が制圧されると、小笠原総督は事態を収拾することなく戦線を離脱し、他の九州諸藩も軒並み撤兵に転じた。孤立した小倉藩は慶応2年(1866年)8月1日小倉城に火を放ち、田川郡香春(現香春町)に撤退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E8%97%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F ([]内)
 「長州藩との戦いに敗れ、企救郡を失った小倉藩は香春のお茶屋に仮の藩庁を置き、香春藩・・・<後に>改め豊津藩・・・として建て直しを計ろうとしていた矢先の慶応4年(1868)正月10日(後に遡って明治元年となります)、薩長を中心とした新政府から出兵の要請があり・・・送り出しました。・・・
 <そして、>小倉藩士は、長州藩と同盟を結んでいた薩摩藩、小倉口の戦いに出兵を拒否した佐賀藩、長州藩と正面から戦った自分たち<、>が新政府軍として共に行動して・・・庄内藩と戦<うことになったのです。>・・・
 小倉藩以外に・・・<薩摩藩の>黒田清隆率いる・・・庄内討伐軍に参集した藩・・・は<、この>長州藩・・・、薩摩藩・・・、佐賀藩・・・<のほか>、福岡藩・・・、秋田藩・・・でした。」
http://759700.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/31-cefb.html#more

 さて、「焼け落ちた<小倉>城跡に立ち、<杉山元の父>杉山貞は小倉の町の復興は、吉田松陰を超える学問の力が必要であると考え、学校・・・幼稚園から中学校まで・・・建設に、生涯を賭けていく」
http://www.kenbunsai-fukuoka.jp/events/detail/936/back:1
のですが、その「杉山貞<(1843~1913年)は、>・・・農家に生まれた。・・・丙寅御変動<(四境戦争)>では、農兵として従軍し<、>その後、漢学者の村上佛山が開いた私塾である水哉園を経て、明治6(1873)年に長崎師範学校(現・長崎大学教育学部)に入学<、>同校卒業」
http://tkw65-kikuchi.jugem.jp/?eid=28 
、という人物です。
 私は、「敵」の長州藩、及び、拡大島津家たる福岡藩と中津藩と佐賀藩、に囲まれて苦難の幕末を送り、島津藩とこれら拡大島津家の諸藩と共に、その後、拡大島津家の熱烈なる一員になることとなる庄内藩と戦うことで、旧小倉藩もまた、拡大島津家の一員になっていった、と見ている次第です。

 背景説明が長くなりましたが、杉山元は、小倉藩生まれの「敗戦復員兵」で強烈な教育者たる父親の下に生まれ、拡大島津家の一員となって「戦勝」を経験した、旧小倉藩、の環境下で旧制中学卒業まで過ごしています。
 そんな杉山は、恐らく、最初から、その帰結も分かっていた上で、島津斉彬コンセンサスの前倒し成就を期して、日支戦争/大東亜戦争を指導した確信犯でしょう。
 彼が、日支/大東亜戦争中における、(帝国海軍には「名誉」元帥の伏見宮は別として長野修身がそうでしたが、)帝国陸軍で、3人の元帥のうちの1人であるところ、もう一人の、同日付(1943年6月21日)・・なお、長野も同日付・・に元帥になった寺内寿一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%B8%A5_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
と違って、戦争中、1937~38年は陸軍大臣、1940~44年は参謀総長、1944~45年に再び陸軍大臣、という中央の要職を、ほぼ一貫して務め続けています。
 (もう1人の畑俊六は、1939~40年に陸軍大臣をやり、支那派遣軍司令官時代の大陸打通作戦の最中の1944年6月2日に元帥になっていますが、これは、翌年の第2総軍司令官就任の含みではないかと思われます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD )
 彼の自殺は、自らの口封じのためでもあった、と私は思っているのです。↓

 杉山元 (げん/はじめ)。「元帥陸軍大将、陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。福岡県出身。・・・豊津中学を経て、陸軍士官学校12期卒・・・陸軍大学校卒業22期卒・・・
 1912年(明治45年)に海軍軍令部員と共に、商社マンに扮してフィリピン・マニラに潜入。諜報活動を行った。日本海軍の練習艦隊がマニラを訪れた際には、海軍少尉になりすまして米海軍の軍港を視察している。
 1915年(大正4年)にインド駐在武官任命。この時の縁で、インド独立運動家のラス・ビハリ・ボース、スバス・チャンドラ・ボースの日本招致や太平洋戦争中の対印工作に関与している。1918年(大正7年)には、中東戦線を視察し、エドムンド・アレンビー将軍率いる英軍の戦いぶりに衝撃を受けたと言われる。

⇒杉山は、このあたりで、既に、大東亜戦争における、マレー作戦、フィリピン作戦、インパール作戦等の構想を抱くに至っていた、と私は見ている。
 (インド独立の機運、英印軍の弱さ、英軍、ひいては米軍の強さ、フィリピン攻略成功見込み、等の実地見聞によって得た認識を踏まえ・・。)(太田)

 その後、国際連盟空軍代表随員、1918年に陸軍飛行第2大隊長、1922年(大正11年)に初代陸軍省軍務局航空課長となり、・・・<ずっと後だが>陸軍航空本部長<も務めており、>・・・陸軍航空隊育ての親と称される。・・・

⇒杉山は、当時の帝国陸軍軍人中、もっとも先端兵器に通暁していた一人だと言えよう。
 なお、1928年時点で、昭和天皇のモード転換示唆(後述)を受け、杉山は、1926年の蒋介石による北伐開始、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BC%90
及び、1926年の英国の親蒋介石政権化(コラム#8628)、1928年の、(ヴェルサイユ平和会議時の人種平等宣言非採択下での、欧米植民地解放戦争を非合法化したところの)不戦条約締結、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
ソ連の五カ年計画(経済成長/軍事力強化)開始、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3#第一次五ヵ年計画
等を踏まえ、帝国陸軍を挙げて、島津斉彬コンセンサスの前倒し成就、を推進する決意を固めた、と、私は、想像するに至っている。(太田)

 満州事変勃発時には陸軍次官として「正当防衛」声明を発表している。・・・

⇒もちろん、杉山は、それが「侵略」であることは百も承知で事変決行者達を擁護したわけだ。(太田)

 1937年(昭和12年)、林銑十郎内閣下の陸軍大臣に就任、続く第一次近衛内閣でも留任。盧溝橋事件では強硬論を主張し、拡大派を支持。1938年(昭和13年)辞任・・・

⇒それが、泥沼化すること、英米との衝突をやがて引き起こすこと、も、杉山は承知の上だった、とさえ、私は想像している。(太田)

 同年12月北支那方面軍司令官となり山西省攻撃を指揮。・・・

⇒こうして、支那の現地政治軍事情勢にも通暁するに至ったはずです。(太田)

 1940年(昭和15年)[10月]から1944年(昭和19年)・・・2月・・・まで参謀総長に就任し、太平洋戦争開戦の立案・指導にあたる。・・・

⇒開戦劈頭でのマレー作戦の成功と作戦目的の達成を確信する・・それが、大英帝国に回復不可能の痛打を与え、アジア解放につながると目論む・・と共に、この戦争で最終的には英米に敗れることも予見していたとさえ、私は思っている。(太田)

 帝国国策遂行要領決定時に「もし日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」と対米戦争の成算を昭和天皇に問われた参謀総長の杉山は「太平洋方面は3ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」と楽観的な回答をする。これに対して天皇は「汝は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき事変は2ヶ月程度で片付くと私にむかって申したのに、支那事変は4年たった今になっても終わっていないではないか」と語気荒く問いつめた。答えに窮した杉山が「支那は奥地が広うございまして、予定通り作戦がいかなかったのであります」と言い訳すると、天皇は「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか。いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか?」と一喝し、杉山は言葉を失ったという。・・・

⇒杉山は、日支戦争の時も、大東亜戦争の時も、「結末」が予見できていて、あえて天皇に嘘をついた、と解するべきだろう。
 なお、インパール作戦の作戦の失敗と作戦目的の達成も、彼には予見できていたはずである、と申し上げておこう。(太田)

 小磯國昭に組閣の大命が降下すると、小磯の陸軍への掣肘を抑えようとする梅津ら陸軍中枢の意向を受け、〈1944年7月、〉陸軍大臣に再任される。1945年(昭和20年)4月、鈴木貫太郎内閣が成立すると阿南惟幾に陸相を譲り、本土決戦に備えて設立された第1総軍司令官となった・・・

⇒この2度目の陸軍大臣の時、大陸打通作戦の成功はもちろん、作戦の成功と作戦目的の達成を知ったはずだ。(太田)

 第1総軍の復員は9月11日に完了したが、杉山はその翌日に自決した。・・・
 杉山夫人は自らも国防婦人会の役員であったことから自決を決意し、疎開先から東京に戻ってきていた。・・・
 <杉山>の自決の報を自宅で聞いた夫人は「息を引き取ったのは間違いありませんか?」と確認した後、正装に着替え仏前で青酸カリを飲み、短刀で胸を突き刺し自決して夫の後を追った。・・・
 8月15日の段階で「御詫言上書」と題する遺書(言上書)をしたためていた。・・・
遂に聖戦の目的を達し得ずして戦争終結の止むなきに至り・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD (〈〉内)

⇒自分が大嘘を2度も付いた相手たる昭和天皇に、「聖戦の目的を達し得ず」などという最後の(3度目の)大嘘を付いて、杉山は、島津斉彬コンセンサスの前倒し完遂に相当程度成功したと、(そしてそのことによって、貞明皇后/秩父宮の意向(後述)に概ね応えることもできたと、)まるで遠足にでも出かけるかのように、杉山は、楽しげに自裁した、ということではないでしょうか。(太田)

 なお、杉山は、以下の2人と共に、インパール作戦の首謀者達でもあります。

●綾部橘樹(1894~1980年)≪中津藩?≫

 綾部橘樹(きつじゅ)は、「大分県出身。農業・矢野黙三郎の息子として生まれ、綾部伝一郎陸軍少佐の養嗣子となる。中学済々黌、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業・・・1924年11月、陸軍大学校(36期)を首席で卒業した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BE%E9%83%A8%E6%A9%98%E6%A8%B9
 大本営は、昭和18年6月、近藤伝八参謀を南方総軍に派遣し、牟田口中将も川辺中将もインパール作戦実施を希望している、と復命させている。
 昭和18年10月15日、インパール作戦に反対していた稲田正純少将に代わって、賛成だった参謀本部台地部長(作戦部長)の綾部橘樹少将が、南方総群参謀副長(作戦副長)として着任。
https://books.google.co.jp/books?id=01s-DwAAQBAJ&pg=PT127&lpg=PT127&dq=%E7%B6%BE%E9%83%A8%E6%A9%98%E6%A8%B9&source=bl&ots=4KEFwndgLP&sig=8uLPaVqp7ORNOxIJMjMSXHJo_Gs&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwig8Y2K8tHbAhXHCqYKHTRqBHcQ6AEIYTAN#v=onepage&q=%E7%B6%BE%E9%83%A8%E6%A9%98%E6%A8%B9&f=false
 「ビルマ方面軍参謀長「中永太郎」は補給困難を訴え<、インパール作戦に反対し>たが、上級司令部南方軍総参謀副長の「綾部橘樹」がこれを<押し切って、実施を>決定した。」
https://ameblo.jp/yosia621/entry-11184615254.html

●牟田口廉也(1888~1966年)≪佐賀藩≫

 牟田口廉也は、「佐賀県出身、陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。難関の陸軍大学校を中尉になってすぐに合格しており、荒川憲一は「下級将校時代はいわゆる優等生であったことは間違いない」と評しているが、陸大を卒業してからは18年間は専ら参謀本部・陸軍省勤務であった為、典型的軍人官僚とも述べている。・・・少佐時代にカムチャツカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。
 1937年(昭和12年)7月7日夜半に発生した盧溝橋事件では、現地にいた支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長であった。牟田口は、同連隊第3大隊長だった一木清直から、同大隊第8中隊が中国軍の銃撃を受けたとして反撃許可を求められ、「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」(支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報)として戦闘を許可した。このことから、牟田口は、自身が日中戦争(支那事変)の端緒を作り出したと考えるようになった。・・・
 第18師団長として部下を率い、ビルマ戦線にも加わった。1942年(昭和17年)9月、南方軍がインド東部のアッサム地方に侵攻する二十一号作戦を立案した際には、上司である飯田祥二郎第15軍司令官とともに兵站面の準備不足で実現の見込みが無いとして反対し、同作戦を無期延期とさせた。もっとも、牟田口は、二十一号作戦に反対したことについて、大本営や南方軍の希望を妨げ第15軍の戦意を疑わせてしまったとして後に反省している。
 牟田口は1943年(昭和18年)3月に第15軍司令官に就任し、1944年(昭和19年)3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2,000m級の山々が連なる山岳地帯での作戦を立案した。この作戦に対しては当初、上部軍である南方軍司令官や第15軍の参謀、隷下師団のほぼ全員が、補給が不可能という理由から反対した。しかしながら・・・軍上層部の意向に後押しされる形で、最終的にはこの作戦の実施は決定されることとなった。南方軍の綾部橘樹総参謀副長は総司令官寺内寿一元帥の上申書を携えて大本営参謀本部に赴き「作戦全域の光明をここに求めての寺内元帥の発意であるから、まげて承認願いたい」と許可を求めた。作戦に反対した第一部長・真田穣一郎は参謀総長・杉山元に別室に呼ばれ、「寺内さんの初めての要望だ。やらせてよいではないか」と指示されて反対意見は封じられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F

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[悲喜劇の人、佐藤幸徳]

 「インパール作戦において・・・第31師団(通称号:烈)の師団長<として、>・・・独断退却を行ったことで知られる・・・佐藤幸徳・・・<は、>山形県に生まれ・・・、鶴岡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業。さらに1921年(大正10年)に陸軍大学校を卒業<というのだから、まさに庄内藩出身であり、それだけに皮肉だ。(太田)>・・・
 1930年(昭和5年)から2年間を陸軍参謀本部の戦史課で過ごす。この戦史課勤務時代に、小磯國昭や東條英機などの統制派に属する人物と多く交際し、橋本欣五郎とともに桜会の規約作成にも関与した。この時期の交際が、階級の上下などにこだわらない佐藤の性格形成にも関係したと言われる。また、桜会の活動を巡っては、同じく参謀本部の総務課長だった牟田口廉也(皇道派)と激しい喧嘩となったことがあり、このいさかいが後のインパール作戦での抗命事件の一因との見方もある。・・・
 インパール作戦時には、上司の牟田口中将とだけでなく、部下の第33歩兵団長である宮崎繁三郎少将とも折り合いが良くなかった。宮崎は、食糧が十分でない前線部隊にまで佐藤が慰安所を設けようとしたことや、宴席で率先して猥談をしたこと、公然とインパール作戦の失敗を予言していたこと、テント暮らしの兵士を尻目に数寄屋造の豪華な師団長宿舎を造らせていたことなどを不快に感じていた。・・・
 三十一師団参謀長加藤国治大佐<は、>・・・<佐藤>師団長の態度及び処置について一切を詳しく・・・打ち明けて、統帥上、軍紀上、軍律上の痛憤止まる所を知らないと<いう趣旨のことを語った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B9%B8%E5%BE%B3
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[大陸打通作戦]

 インパール作戦とほぼ同じ時期に、やや遅れて始まり、合わせて先の大戦日本勝利に決定的役割を果たしたところの、大陸打通作戦を、杉山の命を受けて企画立案した、当時参謀本部作課長の服部卓四郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6
(1901~60年)は、庄内藩出身・・荘内中学から仙台陸軍地方幼年学校・・です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%8D%93%E5%9B%9B%E9%83%8E
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[大東亜共栄圏]

 「大東亜共栄圏・・・用語としては陸軍の岩畔豪雄と堀場一雄が作ったものともいわれ、1940年(昭和15年)7月に近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話に使われてから流行語化した。公式文書としては1941年(昭和16年)1月30日の「対仏印、泰施策要綱」が初出とされる。但し、この語に先んじて1938年(昭和13年)には「東亜新秩序」の語が近衛文麿によって用いられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F

 堀場 一雄(1901~53年)「最終階級は陸軍大佐。愛知県<(尾張藩!)>出身。陸軍士官学校34期卒業で、同期の服部卓四郎および西浦進と並んで「34期の三羽烏」と称された。
軍歴[編集]
1914年(大正3年)9月 名古屋陸軍地方幼年学校入学
1918年(大正7年)7月 同校・卒業(台賜の銀時計) 9月 陸軍中央幼年学校入学
1920年(大正9年)3月 同校・卒業 10月 陸軍士官学校入学(第34期)
1922年(大正11年)7月 同校・卒業 10月 任陸軍歩兵少尉・補歩兵第50連隊附
1925年(大正14年)10月 任歩兵中尉
1927年(昭和2年)12月 陸軍大学校入学
1930年(昭和5年)11月 同校・卒業(42期恩賜)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%A0%B4%E4%B8%80%E9%9B%84

⇒「大東亜共栄圏」の概念もまた、(岩畔はさておき、)尾張藩と近衛家、という、拡大島津家のファイミリーベンチャーの産物だったわけだ。(太田)
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  イ アジア主義の系譜–一般

●大久保利通(1830~78年)≪薩摩藩≫

 帰国した薩摩藩留学生達(前述)の訴えもあって、大久保利通は、島津斉彬コンセンサス中のアジア主義の推進団体たる振亜社の結成を目論んだ、と私は見ています。
 その究極的な狙いは、もちろん、斉彬流の、間接侵略による、英国の(私の言う拡大英国を除く)全植民地の解放による、英国(や米国)から日本(と支那)への世界覇権の奪取です。
 これには、自ずから、欧州諸国の全植民地・・但し、ラテンアメリカを除く・・の解放も含まれることになりました。↓

 「…明治期には,アジアではなく〈亜細亜〉が主流だが,その意味内容を見ると,亜細亜はたんなる地理的範囲を示す用語ではなく,・・英国及び欧州諸国のアジア・アフリカにおける全植民地という(太田)・・きわめて政治的な意味をこめたものとして用いられた。
 振亜社(1877年,大久保利通<(薩摩)>らによって結成,80年に興亜会と改名,同人には中村正直<(元幕臣・キリスト教徒)>,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%AD%A3%E7%9B%B4
曾根俊虎<(元米沢藩士・海軍)>,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E4%BF%8A%E8%99%8E
・・・など)<が結成され、次いで、>亜細亜協会(1883年結成,同人に長岡護美<(元肥後藩士)>,鄭永寧ら)<が結成され、>1898年<に、この>・・・東亜会と同文会<が>合併して近衛篤麿<(近衛家≒島津家(太田))>を会長に・・・東亜同文会<が>結成<された>。

●大隈重信(1838~1922年)≪佐賀藩≫(前出)

●近衛篤麿(1863~1904年)≪近衛家≫

 近衛篤麿は、「左大臣・近衛忠房と島津斉彬娘(実は養女)・貞姫の長男として京都に生まれ・・・大学予備門に入学したが、病を得て退学を余儀なくされた<ものの、>・・・1884年(明治16年)、華族令の制定に伴い公爵に叙せられ<た後、>1885年(明治18年)に<欧州に>・・・渡り、ボン大学・ライプツィヒ大学に学んだ。1890年(明治23年)に帰国し貴族院議員<、更に、>貴族院議長<となる>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
という人物であり、「<彼>の外交政策は、中国(当時は清朝)を重視したものであった。特に日清戦争後に積極的に中国をめぐる国際問題に関わっていく。1893年(明治26年)に東邦協会の副会頭に就任。日清戦争後、西欧列強が中国分割の動きを激しくしていく中で危機感を抱く。1898年(明治31年)1月<の>・・・論文「同人種同盟附支那問題の研究の必要」で「最後の運命は黄色人種と白色人種の競争にして此競争の下には支那人も日本人も共に白色人種の仇敵として認められる位地に立たむ」と日本と中国は同文同種と主張して同年に同文会を設立したが、同文会は、アジア主義の祖たる興亜会やアジア主義の巨頭である犬養毅の東亜会、さらに東邦協会と善隣協会の一部などを吸収して東亜同文会となり近衛篤麿は同会の会長に就任する。」(上掲)というわけですが、彼が、島津斉彬コンセンサスを体化していた人物であったことは、近衛家と島津家の一体性もこれあり、疑いの余地がありますまい。
 なお、篤麿は、国柱会の会員でもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9F%B1%E4%BC%9A
 まさに、アジア主義運動そのものが、拡大島津家のファミリー・ベンチャーとして推進されたのです。
 そして、この篤麿の長男が、近衛文麿です。(太田)

●梅屋庄吉(1869~1934年)≪土佐藩≫

 「長崎県生まれ。幼少期、土佐藩経営の土佐商会の家主でもあった貿易商・梅屋家に養子入りする。一時は米穀相場に失敗して中国へ退転したが、写真術を学んで写真館を経営するなど、香港で貿易商として地位を築いた。・・・
 日活の前身の一つであるM・パテー商会の起業家の1人でもある。
 1895年(明治28年)に中国革命を企図した孫文と香港で知り合<う。>・・・
 1913年(大正2年)に孫文が袁世凱に敗北し日本に亡命した後も、1915年(大正4年)に孫文と宋慶齢との結婚披露宴を東京・新宿(大久保百人町)の自邸で主催するなど、たびたび孫文への援助を続けた。1929年(昭和4年)には南京に孫文像を寄贈している。  また、頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らアジア主義者らと集い、フィリピンの独立運動にも関与している。・・・
 孫文に対する革命への資金援助額については、現在(2010年時点)の貨幣価値で1兆円に及ぶとされる。・・・
 日中関係の悪化に伴い、外相・広田弘毅に改善の談判に赴こうとした途上、別荘の最寄駅である外房線三門駅にて倒れ、急死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%B1%8B%E5%BA%84%E5%90%89
http://tabinaga.jp/sonbunumeya/introduction.html
 「土佐商会<は、>・・・ 土佐藩の貿易関係の役所で、開成館貨殖局と呼ばれ、その長崎出張所は、慶応3年(1867)2月頃、西浜町(現在の浜町)に開設された。最初は、後藤象二郎が、後には岩崎彌太郎が主任となり、辣腕を振るった。同出張所の目的は、大砲や弾薬、さらには艦船等を調達することであったが、そのための資金は、土佐の樟脳や鰹節などを売却、捻出した。また、坂本龍馬率いる海援隊には、隊員それぞれに月々金5両を支給するなど、その運用資金なども調達した。このように、海援隊は土佐藩の保護のもとにあったので、海援隊旗は土佐藩旗と同様に、「赤白赤」の二曳(にびき)と呼ばれるものであった。明治2年(1869)正月、彌太郎は大阪商会(旧開成館大阪出張所)に転出。以後、大阪で活躍したが、長崎での経験が以後の九十九商会、三菱商会(現在の三菱グループ)へと発展する大きな原動力となった。」
http://naemon.jp/nagasaki/tosasyokai.php
 後藤象二郎(1838~1897年)。「慶応2年(1866年)、藩命を奉じて薩摩、長崎に出張、さらに上海を視察して海外貿易を研究した。・・・慶応3年(1867年)、龍馬の提案とされる船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。・・・薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと会談し薩土盟約を締結した。しかし、・・・倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。薩摩との提携解消後も大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。・・・
 新政府では大阪府知事や参与、左院議長、参議、工部大輔などの要職に就くが、明治6年(1873年)の征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野する(明治六年政変)。その後、板垣や江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民撰議院設立建白書署名の1人となる。・・・
 嫡男・猛太郎は、日本活動フィルム会社(日活の前身)初代社長をつとめた。・・・
 三菱財閥の岩崎弥之助と長與稱吉は象二郎の娘婿であり、三菱の岩崎小弥太と旭硝子の創業者・岩崎俊弥、鉄道ファンのパイオニア岩崎輝弥は象二郎の孫にあたる。音楽プロデューサー・川添象郎とドイツ語学者・岩崎英二郎、評論家・犬養道子及びジャーナリストで共同通信社の社長を務めた犬養康彦は象二郎の曾孫にあたる。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%B1%A1%E4%BA%8C%E9%83%8E

●頭山満(1855~1944年)≪福岡藩≫

 「福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれる。・・・西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)したが、<投獄されていたため、>それに参加し尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている。・・・
 孫文は明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって頭山と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。
 明治32年(1899年)、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。明治44年(1911年)、辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。その後、袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて首相・山本権兵衛に交渉し、亡命を認めさせた。孫文が匿われたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。
 明治35年(1902年)、欧米列強による清の半植民地化が加速し、日本とロシアの対立が鮮明になるなか、日本は対ロシア戦略のもとに日英同盟を締結し、頭山も対露同志会を設立した。明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると玄洋社は若者を中心に満州義軍を結成、参謀本部の協力を得て満州の馬賊を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。
 玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。杉山茂丸や内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。
 大正4年(1915年)、頭山は孫文の紹介で、イギリス領インド帝国の植民地政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府からの要請を受けた日本政府から国外退去命令が出されていたインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースに会い、支援を決意した。
 並行して日本国内では、1919年11月、河合徳三郎、梅津勘兵衛、倉持直吉、青山広吉、篠信太郎、西村伊三郎、中安信三郎を中心とし、原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎(立憲政友会)を世話役に、伯爵大木遠吉を総裁、村野常右衛門を会長、中安信三郎を理事長として、会員数60万と称する大日本国粹会を立ち上げた。
 またボースの紹介により、当時のインドの独立運動家で、アフガニスタンにインド臨時政府を樹立していたマヘンドラ・プラタップにも会った。大正12年(1923年)、頭山は来日したプラタップの歓迎会を開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を想わしむ」との賀詞を国王に送った。頭山はこのような独立支援の対象をフィリピン、ベトナム、エチオピアなどにも拡大していった。
 大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。
 翌年、孫文の後継者として蒋介石が国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蒋介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席している。
 昭和7年(1932年)の関東軍の主導による満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れていた。昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会への招待を、頭山は「気が進まない」との理由で断わっている。
 支那事変(日中戦争)が勃発した昭和12年(1937年)通州事件が起き、当時の首相・近衛文麿は、父の近衛篤麿や外相・広田弘毅と親密な関係だった頭山を内閣参議に起用する計画を立てた。その上で蒋介石と親しい頭山を中国に派遣して和平の糸口をつかもうとした。近衛から打診をうけた頭山は内諾したが、頭山を「市井の無頼漢に毛の生えたもの」と見ていた内大臣・湯浅倉平が参議起用に反対したため実現しなかった。
 戦争が長期化し、日米関係も悪化していた昭和16年(1941年)9月、頭山は東久邇宮稔彦王から蒋介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社主筆の緒方竹虎に蒋介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。これを受けて東久邇宮が首相・東條英機に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蒋介石に国際平和の提言をすすめてもらうことを考えた」と書き残している(東久邇宮著『私の記録』)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80

●宮崎滔天(1871~1922年)≪西郷隆盛≫

 「欧州に侵略されているアジアを救うには、アジア文明の中心である中国の独立と中国民衆の自由が先決であり、それが世界平和に繋がるという信念のもと、大陸浪人として活躍した。・・・現在も東京の中国大使館に新たに大使が着任した際には自宅に訪問があり、孫文の友人「井戸を掘った人」として5年に一度、国賓として中国に招待されている。・・・
 肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に<熊本藩>郷士・宮崎政賢・・・の末子として生まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%BB%94%E5%A4%A9
 「<兄の>宮崎八郎(1851~77年)<は、>・・・長州征伐に父とともに従軍する。時習館に通う。・・・1874年(明治7年)『征韓之議』を提出する。・・・1877年(明治10年)、鹿児島県で西郷隆盛の私学校が西南戦争をおこすと、民権家同士と熊本協同隊を結成し2月21日に川尻で薩摩軍に合流、桐野利秋のもと共に政府軍を相手に戦う。・・・熊本県八代市萩原堤で戦死。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%85%AB%E9%83%8E

●犬養毅(1855~1932年)≪大隈重信≫

 「父は・・・備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士である。・・・慶應義塾卒・・・、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。また、大隈のブレーンとして、東京専門学校の第1回議員にも選出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85
 「慶應義塾・大隈重信に属した犬養毅は福澤諭吉の「脱亜論」が説くアジア蔑視観の影響下にあったが、大陸浪人の宮崎滔天や玄洋社の頭山満との交流を通じて「アジア主義」革命運動のシンパとなり、広州武装蜂起に失敗し東京に逃げて来た孫文を保護し「中国同盟会」結成のお膳立てをした。その後、孫文は辛亥革命で清朝を滅ぼし南京で中華民国建国を宣言し臨時大総統に就いたが、武力を握る袁世凱との政争に敗れ再び日本に亡命し犬養毅らに匿われた。・・・
 世界恐慌と満州事変で機能停止した民政党の第二次若槻禮次郞内閣に代わり<政友会>犬養内閣が発足した。かつて孫文を支援した「<支那>通」の犬養毅首相は国民の期待を集め総選挙で圧勝、高橋是清蔵相の金輸出再禁止と軍事費拡大で景気回復を果したが、荒木貞夫の陸相就任で永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚が陸軍を掌握し第一次上海事変・満州国建国を強行、海軍将校のテロで犬養首相は殺害され(五・一五事件)政党内閣は終焉した。 」
http://omoide.us.com/famous/$/no/7609/v/episode/ 典拠?

●広田弘毅(1878~1948年)≪福岡藩≫

 「福岡県那珂郡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれた。・・・徳平は条約改正に反対し、大隈重信に爆弾を投げつけて重傷を負わせた来島恒喜のために立派な墓碑を寄贈した。来島は玄洋社の社員であり、広田家と玄洋社の間につながりがあったことを示している。・・・福岡県立修猷館(のち福岡県立修猷館高等学校)に入学し・・・広田は幼少期から柔道、書道を得意としており、玄洋社の所有する柔道場で稽古をしていた。後に柔道場が新築された時の落成式では総代を務めている。このころ玄洋社の社員となった。
 当初は家計への負担をかけないために陸軍士官学校への進学を志望していたが、修猷館時代に起きた三国干渉に衝撃を受け、外交官を志した。・・・
 修猷館卒業後、・・・上京し第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。学費は玄洋社の平岡浩太郎<(注44)>が提供している。

 (注44)1851~1906年。「福岡藩士・平岡仁三郎の次男として、福岡市地行に生まれる。幼名は銕太郎。号は玄洋。内田良平の叔父。藩校修猷館に学ぶ。
 1868年(明治元年)、戊辰戦争で奥羽に転戦し功をな<した。>・・・1877年(明治10年)、西南戦争に呼応して・・・福岡の変<が起き>るとこれに加わるが敗れ、その後、単身西郷軍に合流し、豊後・日向の本営において謀議に参与。敗戦後、東京の獄に懲役一年の刑を受ける。
 出獄後は自由民権運動に参加し、1878年(明治11年)12月、・・・頭山満・・・等と共に向陽社を組織。・・・1880年(明治13年)3月に・・・は国会期成同盟の設立に主導的な立場をとっている。1881年(明治14年)、向陽社を玄洋社と改名して初代社長に就任。1882年(明治15年)、朝鮮の壬午事変に際し、西郷軍の生き残りの野村忍助と義勇軍計画を起こすなど、早くからアジア問題に関心を示した。
 その後、実業方面にも進出。赤池・豊国炭鉱などの経営に成功し、その豊富な資産で玄洋社の対外活動を支え、一方で九州鉄道の創設、官営八幡製鉄所の誘致運動などに関わり、福岡県の経済発展に貢献した。
 1894年(明治27年)、・・・衆議院議員に当選。以後・・・連続6回当選を果たす。<支那>革命の支援にも情熱を注ぎ、1897年(明治30年)、日本に亡命した孫文に活動費、生活費を援助している。1898年(明治31年)には、憲政党結成に尽力し、隈板内閣樹立に努めた。・・・ロシアの満洲侵略が顕著となると1903年(明治36年)に対露同志会に参加し対露強硬論を唱えた。・・・
 1913年(大正2年)2月18日、辛亥革命を成し遂げ再び来日した孫文は、福岡市の聖福寺に平岡浩太郎の墓参に訪れている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E6%B5%A9%E5%A4%AA%E9%83%8E

 また頭山満の紹介で副島種臣、山座円次郎、内田良平<ら>の知遇を得た。内田の紹介で講道館に入り、また山座には特に気に入られた。・・・<そして、一度失敗したが、>高等文官試験外交科では、合格者11人のうち、首席で合格して外務省に入省した。同期に吉田茂・・・らがいる。・・・
 「対華21ヶ条要求」の条文作製に参加するものの最後通牒の形で出すことには強く反対した。・・・
 1933年(昭和8年)9月14日、斎藤内閣の外務大臣に就任・・・
 1934年(昭和9年)4月17日、外務省情報部長・天羽英二が<支那>大陸(中華民国)に対する外国の干渉を退けるという趣旨の会見を行った(天羽声明)。この発言を欧米諸国は「東亜モンロー主義」であるとして激しく非難し、外務省内部からも反発された。天羽の発言は広田名義で駐華公使・有吉明に宛てた公電であったが、この公電の内容を指示したのは外務次官の重光葵であった。広田はグルーなどに第三国の利益を害するものではないと釈明を行ったが、天羽や重光が処分されることはなかった。
 同年7月3日、斎藤内閣は総辞職したが、続いて岡田内閣でも外相に留任・・・
 1935年(昭和10年)1月22日、帝国議会において広田は日本の外交姿勢を「協和外交」と規定し万邦協和を目指し、「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言した。この発言は蒋介石や汪兆銘からも評価された。その後、中国に対する外交姿勢は高圧的なものから融和的なものに改められ、治外法権の撤廃なども議論されるようになった。さらに在華日本代表部を公使から大使に昇格させた。諸外国もこの動きに追随したため、中華民国政府は広田外交を徳とし大いに評価した。しかし、軍部は満州国の承認がない状態での対華融和に反対であり、特にこの動きは軍部への根回しがほとんど行われなかった。また軍部は衝突が起こるたびに独自に中国側と交渉し、梅津・何応欽協定や土肥原・秦徳純協定を結ばせた。中華民国側は外務省に仲介を求めたが、「本件は主として停戦協定に関聯せる軍関係事項なるを以て、外交交渉として取り扱うに便ならず」として拒絶した。
 中華民国政府内の親日派は日本との提携関係を具体化すべく、同年5月から広田と協議を始めた。中華民国側は「日中関係の平和的解決、対等の交際、排日の取締」の3条件を提示し、さらに満州国の承認取り消しを求めないという条件を伝えた。しかし広田はこれに納得せず、新たな「広田三原則」を提示した。
支那(中華民国)側をして排日言動の徹底的取締りを行いかつ欧米依存より脱却すると共に対日親善政策を採用し、諸政策を現実に実行し、さらに具体的問題につき帝国と提携せしむること。
支那側をして満州国に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策を罷めしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。
外蒙等より来る赤化勢力の脅威が日満支三国の脅威たるに鑑み、支那側をして外蒙接壌方面において右脅威排除のためわが方の希望する諸般の施設に協力せしむること。
 この三原則は外務・陸・海の3大臣の了解事項となり、首相・岡田啓介、大蔵大臣・高橋是清もこれを了承した。これは対中外交の大枠を決定することにより、実質的に軍部を牽制するものであった。しかし中華民国側には失望を以て受け止められた。・・・
 二・二六事件が発生すると岡田内閣は総辞職した。当時の総理大臣は最後の元老であった西園寺公望が天皇の下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず近衛文麿を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、近衛は病気を名目に辞退した。そのため枢密院議長・一木喜徳郎が広田を推した。西園寺もこれを了承し、近衛を介して吉田茂を説得役として派遣した。広田は拒み続けたがついには承諾した。・・・
 組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南、中島知久平である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務し(かわりに吉田は駐英大使に任命される)小原、下村らも辞退、川崎を商工相に据えることになり3月9日、広田内閣が成立した。
 就任後は二・二六事件当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、陸軍大臣・寺内寿一ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を実行させた。しかし軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。・・・
 11月には日独防共協定を締結した。これについて広田は頭山満の死後、頭山を「大徳」と呼び「英米の東洋圧迫が露骨化して来たころ、陰ながら先生が独大使との間に尽され斡旋された」とその内幕を書いている。・・・
 1937年(昭和12年)1月、議会で浜田国松と寺内寿一の間で「割腹問答」が起こった。激怒した寺内は広田に衆議院解散を要求、しかし政党出身の4閣僚がこれに反対し、海軍大臣・永野修身も解散には否定的であった。このため広田は閣内不統一を理由に内閣総辞職を行った。・・・
 6月4日に近衛文麿を首相とする第一次近衛内閣が成立すると、近衛の要請で外務大臣となった。しかし組閣後間もない7月7日に盧溝橋事件が勃発し、中華民国との間で戦闘状態が発生した。当初、広田は不拡大方針を主張し、現地交渉による解決を目指した。・・・
 しかし戦果に対して世論が沸き立つと、徐々に妥協的になり、陸軍の求める増派や休戦条件を了承するようになった。 この時の内務大臣・馬場鍈一は、「広田外務大臣の如きはあまりに消極的で、こういう大事な時に進んでちっとも発言しない」とし、近衛も「外務省は広田さんの消極的な態度にはほとんどあきれ返って、下の者がまるでサボタージュというような状態だ」と語っている。この時、広田の部下であった東亜局長・石射猪太郎と東亜一課長・上村伸一は辞表を提出したが、広田に慰留されている。不拡大を実現したい陸軍作戦部長・石原莞爾は何度も首脳外交を提案するが、外交のプロを自認する広田は動かず、外務省は石射を中心に、北支からの撤退を基本とする和平条件を作り陸海軍の了承を得るが、実現しなかった。
 閣議で不拡大方針が放棄された後も、日華和平の動きは続いた。当初、広田が南京に派遣されるという案があったが、実行されなかった。最終的には元外相・有田八郎を中国に派遣して国民政府との交渉の糸口をつかもうとした。
 また駐日ドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクセン、駐華ドイツ大使オスカー・トラウトマンを介して事変の解決を働きかけたが、日本軍の占領地域が拡大すると「先に我方条件に付御話したるが、その後一ヶ月余りも経過し戦局多いに進捗し、今日に至りては日本国民の支那に対する考え方にも変化を生じ、日支関係の根本的建直しを求め居る」として条件を付加し、交渉はまとまらなかった。交渉中止の決定を受け、「国民政府を対手とせず」という近衛声明が発せられた。
 1938年(昭和13年)1月22日、広田は帝国議会で「到底事変解決の見込ないことが明かとなったのであります」と述べ、「帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとした。この後、南京に日本の支援で「中華民国維新政府」が設立されたが、蒋介石率いる重慶国民政府との交渉ルートは失われ、和平は絶望的になった。5月26日、路線転換を図った近衛は内閣改造を行い、広田は外相を辞任した。後任はかつて広田内閣後の首相候補となった宇垣一成であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85

⇒広田が、極東「裁判において軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができた、という分析も多く、広田とは対照的に軍部に責任を擦り付ける発言に終始した木戸幸一は、後に広田の裁判における姿勢について「立派ではあるけどもだ、…つまらん事だと思うんだ」と評している<ところ、広田は、>・・・最終弁論を前に、弁護人を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という言葉を伝え・・・文官で唯一の死刑判決を受けた」(上掲)のは、島津斉彬コンセンサスの完遂に努めたところの、近衛自殺後の文官生存者中の最高位の者として、彼は、達成感に包まれて「喜んで」処刑された、ということでしょう。(太田)

●大川周明(1886~1957年)≪庄内藩≫

 「1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。
 なお、東京裁判において民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴されたことでも知られる。しかし、精神障害と診断され裁かれなかった。晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。
 山形県酒田市出身。祖先は代々・・・医者の家系である。・・・第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。また『南州翁遺訓』(西郷隆盛が遺した言葉を庄内の人々が纏めたもの)を何度も読み、・・・西郷の精神を学ぶ。・・・大学時代は宗教学を学ぶ中で「マルクスを仰いで吾師とした」大川にも唯物論的な社会主義への疑問が芽生えてくるようになる。その後、キリスト教系の新興宗教団体「道会」に加入。・・・
 大学卒業後、インドの独立運動を支援。ラース・ビハーリー・ボースやヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆。日本が日英同盟を重視して、<英国>側に立つことを批判し、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力した。
 1918年(大正7年)には南満州鉄道に入社する。これは、初代満鉄総裁の後藤新平に、植民地インドに関する研究論文が評価されたことによる。のち、満鉄東亜経済調査局の編輯(へんしゅう)課長を務める。
 また、イスラム教に関心を示すなど、亜細亜主義の立場に立ち、研究や人的交流、人材育成につとめ、また、亜細亜の各地域に於ける独立運動や欧米列強の動向に関して『復興亜細亜の諸問題』(1922年)で欧米からのアジアの解放とともに、「日本改造」を訴えたり、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード、ケマル・アタチュルク、レザー・パフラヴィーらの評伝集である『亜細亜建設者』(1941年)を執筆した。ルドルフ・シュタイナーの社会三層化論を日本に紹介もしている(「三重国家論」として翻訳)。また、学生時代に参謀本部でドイツ語の翻訳をしており、宇垣一成、荒木貞夫、杉山元、建川美次、東条英機、永田鉄山、岡村寧次らと知己があった。

⇒アジア主義者がイスラム教に関心を持つのは、インドネシアとマラヤがイスラム教地域であって、インド亜大陸にも多数のイスラム教徒がおり、また、支那の新疆地区にも中央アジアにも、更には、中近東・アフリカにも多数のイスラム教徒がいるのですから、ごく自然なことです。(太田)

 一方、日本精神復興を唱えて佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめ『日本精神研究』(1924年)を執筆。日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。同書は大ベストセラーとなるが、当時賊徒とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛するなどの内容があったため批判され、改訂を余儀なくされる。
 大正・昭和期に、北一輝、満川亀太郎らと親交があり、特に北一輝とは上海で2日間語り合い、北が計画している「日本改造」の原稿を託される。・・・日本で普通選挙運動が盛んだった頃、「日本改造」を実践する結社猶存社や、行地社、神武会を結成。貴族院議員の徳川義親<(下出)>侯爵と親交が深く、徳川から金銭的援助を受けており、徳川は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロンであった。
 三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受けて服役。
 満州事変に際しては首謀者の一人板垣征四郎と親しく、大川の弟子が結成した大雄峯会が柳条湖事件や自治指導部などで関わった満州国の建国を支持して在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。北守南進を主張していたが、それはあくまでも「日中連携」を不可欠のものとしており、日中間の戦争を望むものではなかった。日中戦争が勃発時大川は獄中にあった。太平洋戦争については、「最後の瞬間までこの戦争を望まず、1940年に、日本がもっと準備を整える時まで、戦争を引き延ばそうと努力した」と記述があるとおり、肥田春充とともに日米戦回避のため開戦前夜まで奔走した。また、戦時中は大東亜省の大東亜共同宣言の作成にも携わった。
 戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらした計画」が挙げられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E

●徳川義親(1886~1976年)≪尾張藩≫

 徳川義親は、「越前松平家・松平慶永(春嶽)の子に生まれ、1908年に尾張徳川家の養子となり、家督を相続。・・・1908年9月、東京帝国大学文科大学史学科に無試験入学。尾張藩が領地としていた木曾の経営史(主に林政史)をテーマに卒業論文を執筆した。・・・1911年(明治44年)7月に同大学を卒業後、同年9月に・・・同大学理科大学生物学科に学士入学。植物学を専攻して、・・・1914年7月、卒業論文「花粉の生理学」(ドイツ語論文)により、東京帝国大学理科大学植物学科を卒業。・・・
 1929年(昭和4年)夏、大川周明が「武力行使も辞さない満蒙問題の早期解決」を主張して清水行之助らと時局懇談のため結成した「二十日会」の発足当初のメンバーに(義親の秘書の渋谷三が)名を連ね、毎月20日に開催された同会の会合に有馬頼寧、近衛文麿、鶴見祐輔らとともに出席。・・・
 1929年・・・<ジャワ、マレー半島旅行後、マレー語習得の必要性を感じ、朝倉純孝に師事して学習を開始。・・・
 1931年(昭和6年)2月17日、清水行之助と大川周明から、宇垣一成陸相を首相にするクーデター計画を明かされ、資金援助を求められる。20万円(ないし50万円)の資金援助を承諾し、尾張徳川家の家令・鈴木信吉らと相談して、金塊を処分して資金を捻出、同年3月上旬に3回に分けて合計20万円を清水に渡した。
 同月11日、清水から決行予定日が同月20日であるとの連絡を受けたが、予定日直前の同月18日に小磯國昭の使いの河本大作の訪問を受け、永田鉄山ら陸軍の中堅幹部が計画に反対、宇垣が「変心」し計画は中止することになったが、大川と清水が自分達だけでの決行を主張しているとして、2人の説得を依頼された。河本と東亜経済調査局へ行き、「失敗することが分かっている以上、感情的になって暴挙に出ても仕方がない、自重して再起を図るべきだ」と説得、2人は計画中止を受け入れた。
 この事件の後も清水から様々な政治工作への出資を持ちかけられ、資金援助をした。・・・
 1932年(昭和7年)2月、陸軍の菊池武夫や河本大作、実業家の石原広一郎らとともに、大川が行地社を母体として結成した右翼団体・神武会の設立を支援し、顧問となった。
 同年5月に起きた5.15事件では、事件に関与したとして同年6月に大川と清水が逮捕され、3月事件の経緯が検察側の知るところとなったことから、同年7月に3月事件に関する検察の取調べを受けたが、3月事件には陸軍首脳が関与しており、それが不問に付されたこともあって、そのまま釈放された。大川の逮捕は神武会に打撃を与え、同会の会長だった石原は神武会への出資を減らすようになったとされ、事件と前後して将官級の在郷軍人を結集して、大川の急進主義的な方針と一線を画した明倫会を組織。義親は石原と行動を共にし、同会の結成に関与した。・・・
 1934年3月、ジョホールのスルタン・イブラヒムが来日し、石原兄弟とともに接待役を務める。スルタン・イブラヒムは、大阪、京都、名古屋を訪問した後、翌4月3日に東京で昭和天皇に謁見し、勲一等旭日大綬章を贈られ、更に名古屋、京都を訪問した。
 1934年11月9日に東京控訴院で5.15事件に関して大川に禁固7年の判決が下ると、小原直法相に大川の仮出所を要請し、神武会の解散を条件に、同月12日に大川の保釈が認められた。・・・
 1937年3月、サワラク王国の王妃がハリウッド訪問の途中で東京に立ち寄り、日沙協会の近藤正太郎夫妻とともに買物に随行した。
 1937年2月に朝倉純孝と共著でマレー語の入門書『マレー語4週間』を出版した。・・・
 1936年(昭和11年)2月、2.26事件では、藤田勇から事件の知らせを受けた後、殺害された渡辺錠太郎に見舞いを出し、自身も錦町署の小栗一雄警視総監を見舞う一方で、山王ホテルに「連絡本部」を置き、大川、藤田、清水、山科敏、石原らと、決起軍との調停について相談し、決起した将校に資金を提供していた石原と明倫会の陸軍予備少将・斎藤瀏を通じて、首謀者の1人である栗原安秀に自分が決起将校を引率して宮中に参内することを申し出たが、栗原に断わられた。
 事件後の同年6月13日に資金提供者となった石原が逮捕され、同月24日に石原の取調べ結果に基づく取調べを受けた。義親の宮中参内計画は事件の軍事裁判でも問題となり、石原や斎藤瀏が計画の概要について証言、北一輝は自分が西田税に命じて義親からの申し出を拒否させたと証言した。事件で義親は検挙されず、また石原も無罪となった。
 1937年1月に宇垣一成が組閣の大命を受け、組閣参謀の鶴見祐輔から、近衛文麿への辞退働きかけや、宇垣組閣への陸軍の反対意見を抑えて欲しいとの依頼を受けた際には、3月事件における宇垣不信の念から難色を示し、居留守を使うなどして不支持に回った。・・・
 1937年(昭和12年)2月、華北から東京へ戻った支那駐屯軍参謀で太原特務機関長の和知鷹二の訪問を受け、藤田勇、渋谷三、山科敏と話を聞く。同年4月には所三男と和知の使いとして来た山科の報告を聞き、同月結城豊太郎蔵相、日本産業・鮎川義介と相談、同月許斐氏利・冀東防共自治政府秘書の孫錯と会い、同政府への援助について話し合った。翌5月山科を通じて和知に冀東政府支援問題について連絡し、同年6月にも孫錯と冀東政府参政・殷体新と会って、山科とともに北支問題について相談した。
 1937年7月7日に盧溝橋事件が起ると、塩野季彦法相や風見章内閣書記官長に大川周明の仮釈放を働きかけ、同年10月13日に釈放が実現した。
 同月25日、帰国していた和知から開戦の事情を聞き、戦争拡大は止むを得ないとしながらも、同月下旬に松平康昌内大臣秘書官長、有馬頼寧農相を通じて近衛文麿首相に不拡大の方針を取るよう働きかけた。
 1937年11月、陸軍省新聞班の後援を受けて、貴族院議員の上海派遣軍慰問団10名の団長として樺山愛輔らとともに上海へ渡航。同月17日から28日にかけて、上海の政府施設や戦死者遺骨奉安所を訪問、尾張徳川家の御相談人の1人だった上海派遣軍司令官・松井石根と会い、上海戦の戦跡を視察、名古屋第3師団など各部隊の慰問、俘虜収容所・病院などの視察を行なった。
 同月28日に慰問団の行程が終了した後も帰国せず、前線の視察に向かう。・・・
 同月30日に蘇州、翌12月2日無錫に到着して第11師団歩兵第44連隊長として南京に進軍中の和知と再会し、同月3日に陥落後間もない丹陽に到着、第16師団長・中島今朝吾と会い、「第一線の兵士を慰問したい」と申し出て、馬で白兎鎮にあった歩兵第19旅団・草場部隊に合流し、同月5日-6日にかけての句容への進軍に従軍し戦場を視察した。同月7日に句容から丹陽、常州、無錫と引き返し、南京陥落を前に、同月10日に上海から帰国した。
 同月、帰国後、視察で知った「前線の人々」の意思・希望を踏まえて大川と「支那問題解決案」を取りまとめて木戸幸一文相や有馬農相に示したが、停戦は実現しなかった。南京虐殺事件については、翌1938年2月に松井が更迭されたことについて、松井の立場に同情し、粛軍の必要を感じる、と日記に記している。・・・
 南京が陥落した1937年12月頃から、大川周明と、「支那問題解決」のために南進して英国をはじめとする列強の勢力を排除する強攻策を取るべきだと主張。翌1938年1月-2月にかけて、英国の動静を探るために、大角岑生大将や石原広一郎を交えて、対日宥和を探っていた駐日英国大使・クレーギーやピゴットと非公式な意見交換を行なった。
 1938年4月には、3月事件、10月事件、血盟団事件、5.15事件、神兵隊事件の関係者で在京の者を組織し、石原を創設者、大川を幹事、義親を会長とする国家主義団体・大和倶楽部を結成し、排英運動や末次信正海軍大将擁立運動などを推進した。
 同年11月頃から、大川と「アメリカからの借款を実現することにより、蒋介石政権に決定的な打撃を与えて日中戦争を収拾し、南進に転じ(て英国と対決す)る」ことを目的として、米国からの大規模な借款を計画し、翌1939年(昭和14年)を通じて日本政府への働きかけを続けたが、実現しなかった。
 1939年6月14日、北支那方面軍が天津のイギリス租界を封鎖し、日英間の緊張が高まった際には、これを打開するため7月15日に行なわれた有田・クレーギー会談[注釈 97]を準備し、他方で小磯拓相や参謀本部の樋口季一郎、軍事課長の岩畔豪雄らと情報交換して日独伊防共同盟を強化し対象に英国を加えさせようとしたが、同年8月下旬の独ソ不可侵条約締結により、計画はいったん頓挫し、排英運動は継続されたが目標は定まらなかった。
 1940年(昭和15年)8月、第2次近衛内閣が蘭印との交易維持交渉再開(第2次日蘭会商)を模索した際に、当初使節団長に任じられた小磯国昭から交渉への同行を依頼され、承諾[238]。軍艦と陸戦隊を同行してオランダ総督を威嚇し、現地で義親が銃撃される事件を起こして、それを理由に陸戦隊を進駐させる計画を進言。この計画を小磯から聞いた近衛文麿は、小磯を交渉担当から外し、代わりに小林一三を派遣した。
 1940年11月に米国メリノール会のウォルシュ司教とドラウト神父が来日して産業組合中央金庫理事の井川忠雄と民間交渉を行なった際には、1939年5月から井川と同じ産業組合中央会理事となっており、また米英可分論について井川と立場を同じくしていたことから、井川の交渉の経緯を聞き、翌1941年2月の井川の米国行きに際して、海軍の岡敬純軍務局長、高木惣吉調査課長らへの根回しを行なった。1941年7月の南部仏印進駐と翌8月の石油禁輸により交渉は頓挫し、同年8月に井川は帰国、義親を訪問して、外務省ルートを外れて交渉を行なった井川への風当たりが強かったことなど、交渉失敗の経緯について報告している。
 1941年(昭和16年)には、マレー半島で行なわれた、諜報工作や民族工作などの謀略工作に関与した。同年5月には、高木惣吉らからシンガポール軍港に人を潜入させる相談を受けて石原広一郎に相談、同年9月には、桜井徳太郎の紹介で日高みほらとインド人工作について相談した。
 第1次・第2次近衛内閣の下では、1930年代前半のクーデター事件により収監されていた受刑者の、恩赦や大赦による刑期満了前の仮出所が相次ぎ、このうち5.15事件の三上卓、血盟団事件の四元義隆、井上日召らは義親と連絡をとっており、義親は釈放後に南進のための謀略工作に携わろうとする事件関係者の仲介役となっていた。
 同年10月頃からは、マレー作戦の実行部隊となった第25軍の軍政要員高瀬通らと占領後の軍政の実施方針などについて打ち合わせを重ねた。
 同年10月、懇意にしていたサルタン宛てに、第25軍の参謀長に就任した鈴木宗作の紹介状を送付。
 同年10-12月、高瀬の訪問を受けて華僑工作や「軍政実施の基本要領」について相談。
同年11月22日、高瀬、清水と「南方策の打合せ」をし、「事ある時には南方にゆく筈」となった。
 同年12月、高瀬に同行してきた白浜宏少佐と対英米諜報網の構築について相談。
 同年12月7日、鶴見貞雄、清水とともに、南方軍政部の一員として同月11日に出発の予定されていた高瀬の送別会を行なった。・・・
 義親のマレー赴任の希望は陸軍に伝えられ、1941年12月18日に陸軍から内示があり、1942年1月30日に永田秀次郎、村田省蔵、砂田重政とともに正式に軍政顧問の事務委託が発令され、翌2月11日に第25軍軍政顧問としてシンガポールへ出発した。 義親の主たる任務はスルタンによる統治と文教政策の統轄だった。同月4日付『朝日新聞』には出発にあたっての抱負が掲載され、同月9日付同紙では、欧米列強が設立した研究所での活動の再開・継続など、文化行政に関する抱負を述べている。
 同年3月5日にシンガポール(昭南)に到着、その後3月25日から4月3日までマレー半島の視察旅行を行なって各州の(日本人の)州知事やスルタンを訪問・視察し、同月13日には各州のスルタンが義親のお茶会に招待されて昭南に集まった。同年5月、一時的に日本に帰国。
 一時帰国後、1942年(昭和17年)6月初に参謀本部、陸軍省、首相官邸の大東亜建設審議会総会、軍務局を訪問して、現地の事情を説明するとともに、参謀本部・杉山元参謀総長以下に、スルタン統治に関して、宗教上の地位は尊重するが、政治上の主権を日本に委譲させることをマレーの軍政方針とすることを提起。
 同年6月27日、昭南島へ戻り、スルタン統治の基本方針作成に着手、軍政部の渡辺渡と相談し、鈴木宗作参謀長、斎藤弥平太軍司令官に相談した結果、同年7月に極秘文書「王侯処理に関する件」が作成された。同文書は、スルタンに統治権(王位と土地人民)を自発的に軍司令官を通して天皇に「奉納」させるよう「誘導処理」するという「版籍奉献」を推進するという方針だった。同月、長男・義知を通じ、懇意にしていたジョホールのスルタン・イブラヒムに「版籍奉献」を打診して「一任する」との返事を得た。
 義親らが策定した第25軍のスルタン統治策は、英植民地下で認められていたスルタンの伝統的統治権限を剥奪する強硬な内容で、マレー半島では生活必需品などの物資不足からくるインフレ激化などにより不満が嵩じつつあったこともあり、1942年7月に東條内閣はマレー人の宗教・慣習への不干渉をはじめとして、第25軍の強硬方針の修正を求めた。
 その後も、義親は昭南忠霊塔の建設に尽力し、各州のスルタンから忠霊塔建設のための寄付金を徴収、1942年9月10日の除幕式の後、同月13日にジョホール州のスルタンから5,000円、翌10月9日にケダ州のスルタンから5,000円を受領したり、また同年9月下旬にトレンガヌ州のスルタンが死去した際の後継者問題について、久慈学州長官から意見を求められ、これに関与したりしていた。
 義親は、日常生活ではマレー人との日常会話にマレー語を用いることもあったが、公務では日本語教育を推進する立場にあり、秘書たちに日本語教師をさせるなどして、積極的に現地住民の日本語教育に関与した。
 1942年8月ないし9月、昭南博物館・植物園の館長・園長となる。同年6月に日本に帰国した際に、女学校での礼法講師時代に知り合った大森松代と土田美代子に「文化活動の手伝い」を依頼し、2人を秘書としてシンガポールに帯同、昭南博物館附属図書館の書籍のうち、英語の書籍を大森が、マレー語の書籍を土田がマレー人の元国語教師と共同で、日本語に翻訳した。大森は主に英国の行政関係文書を翻訳し、土田はマレー語の辞書を作成した。
 同年10月頃、第25軍の方針「秘・南方建設の人材養成機関設置要領」に基づいて設立された20-30代の日本人の養成機関「経綸学園」の設置に関与。また同方針における、中国人・インド人・マレー人の中の優秀な人材を養成するための「図南塾」構想により設立された興亜訓練所で訓練を受けるなどした後、1943年1月に日本に留学したマレー人留学生17人のうち5人を「徳川奨学生」として個人的に援助した。
 1943年1月に、南方軍軍政総監部に設置された調査部は、同年2月23日に昭南博物館の付属研究室として南方民族研究室の設置を提言し、研究室を母体として南方科学委員会を組織し、同委員会によって南方各地に設置されていた各種調査・研究機関の研究内容を、戦争遂行のために必要な研究が優先的に、効率よく行なわれ、研究成果が軍事的に活用されるように調整しようとした[268]。昭南博物館長として委員会の運営について調査部の相談を受けた義親は、調整機関の恒久的設置と、定期刊行物の発行を提言した。
 1943年7月19日には「南方学術機関に関する打合せ会」が開催され、昭南博物館からは義親、郡場寛、羽根田弥太らが出席、「研究所間の連絡不足や研究の重複を避ける」方針、「戦時下の調査として必須なるものから着手」することが確認された[270]。同年10月には「南方学術機関会同」で「緊急調査研究」項目を決定、同年11月に「南方科学委員会専門分科会編成要領」がまとめられ、農林、地下資源、化学、工業、医学、衛生、民族の5分科会が設置され、義親は民族分科会に所属した。同月、南方軍軍政総監部・南方軍総司令部から研究を要望する事項のリストが提出され、同月27日に南方科学委員会第1回会合が開かれ、義親の所属していた民族分科会では「宗教」「各民族の取扱方法、之が参考となるべき風俗習慣に関する研究」「各民族に対する民族別適応性の調査」「華僑対策に資すべき研究」「言語対策の研究」が研究課題となり、義親は主に「言語対策の研究(マライ語、日本語)」を担当した。・・・
 1942年(昭和17年)8月に大本営は斎藤弥平太・第25軍司令官や鈴木宗作・同軍政監にスルタン対策の緩和を指示し、同年11月9日に軍司令部は現地軍に寛大方針遵守の命令を発出した。渡辺渡・総務部長は歩み寄りをみせたが、義親はこれに反発し、また現地軍も大本営方針を留保して抵抗したため、同年12月、陸軍次官・木村兵太郎は西大条胖軍政監に緊急電報を繰り返し送り、戦前支給されていたスルタンの俸禄を減じたり、取扱いを変更して名誉を毀損するような第25軍軍政監部の政策を非難し、大本営方針の励行を迫った。・・・
 同月20日-21日に、第25軍軍政監部はマライ・スマトラのスルタンをシンガポールに招いて会議(サルタン会同)を開き、各州スルタンの、回教の首長としての地位・尊厳と、財産所有権を公式に承認した。他方で、会同に先立って、斎藤軍司令官や義親は、行事の一環として各州のスルタンを忠霊塔に基金を献納・参拝させ、昭南神社を訪問させた。会同の後、義親は、議会報告のため日本に帰国する大塚惟精・軍政顧問に、東條首相宛の、軍中央の寛大方針に対する所見を託した。
 その後、戦局が悪化する中で、軍中央は統治方針を軟化させていったのに対して、義親は強硬な姿勢を強めていった。
 1943年後半になると、シンガポールでは戦局の悪化とともに食料品、医薬品など物資の不足が深刻化し、義親自身は衣食住を軍から保証されており生活にはさほど不自由しなかったが、軍政顧問としての課題はインフレ対策、人口疎散、生活必需品の調達などが主になり、1944年(昭和19年)になると、華僑協会との協力関係の構築、マライ義勇軍によるマレー人の民心把握など、占領当初の強硬策からの転換が軍政の重要課題となった。
 1944年5月、義親は日本に一時帰国し、同年8月、日本からの帰還命令発出を受けて、軍政顧問を辞任して日本に帰国した。・・・
 1944年5月に日本に一時帰国した際に、藤田勇から「一刻も早く中国・米国と講話し戦争を終結しなければ、日本は大敗北し、流血の革命が起きて皇室もろとも崩壊する」として東條内閣打倒を呼びかけられ、木戸幸一と会って相談したが前向きな返事はなく、シンガポールに戻っていた同年7月に東條内閣が総辞職し、話が立ち消えたとされる。
 同じく日本に一時帰国した際に、兵器行政本部の野村恭雄技術課長、第7研究所野村政彦大佐らの訪問を受けて生物学研究所による研究支援を要請され、研究所を転換して、兵器行政本部、第7研究所に協力することを決定。生物学研究所での研究内容は不明だが、帰国後の同年11月には「兵器行政本部第7研究所臨時嘱託」に任命され、翌1945年1月に萱場製作所の萱場資郎と会って新兵器についての話を聞き、翌月朝香宮鳩彦に萱場の新兵器を紹介するなどした。・・・
1945年(昭和20年)7月-8月のポツダム宣言受諾前には、清水行之助、佐治謙譲らとともに、少壮将校と頻繁に会合を開き、徹底抗戦を主張する稲葉正夫や井田正孝らと面会していた。同年8月11日には日本が「国体護持」の条件付きでポツダム宣言受諾を申し入れたことを聞き、木戸幸一に、国体護持のためには(連合国に対する示威活動として)錦旗革命を断行するしかない、用意はある、と記した書簡を送った。
 しかし、同月14日には、清水、藤田勇、石原広一郎らと会合した後、高松宮邸に参殿して夕食を供され、「(…)事決す。何もいふことなし、と共に泣く。又、元の学究に戻るのみ。無力事ここに到る。(…)」と日記に記した。・・・
 東京裁判では、義親の1925年から1945年までの日記が国際検察局によって押収され、その分析結果から「米英に対する戦争準備の共同謀議」の容疑で検察局にマークされた。特に、1938年に大和倶楽部を組織し排英運動を推進したことや、太平洋戦争開戦後、シンガポールで軍政顧問の公職に就いていたことが問題視された。しかし徳川の日記の分析は東京裁判の開廷後に行なわれており、また日記の記述が簡単で証拠に適さないと判断され、戦犯裁判の被告として訴追されることはなかった。
 1946年8月に公職追放となり、社会党顧問を辞任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E8%A6%AA 

⇒徳川義親こそ、実は、知る人ぞ知る、島津斉彬コンセンサス信奉者中の非軍人の総帥だったのであり、とりわけ、このコンセンサスにおけるアジア主義の「アジア解放」部分の前倒し完遂に決定的役割を果たした、と言えるでしょう。(太田)

5 付け足し–帝国陸軍OB達の「沈黙」について

・杉山元<斉彬コンセンサスの「大使徒」>

 「9月12日朝、部下から拳銃を受け取った後自室に入った彼は、暫くして突然ドアを開き緊張してドアの外で待っていた第53軍高級参謀・田中忠勝大佐に「おい、弾が出ないよ」ととぼけて言ったという。田中大佐が安全装置を外してやるとそのまま部屋に再び入り、胸を4発拳銃で撃ち抜き従容と自決した・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 前掲

 先の大戦を推進したのは帝国陸軍であり、その中枢は杉山である、と私は見るに至っているわけです。
 東條英樹なんぞは、統制派時代における、杉山の子分の一人でしかありません。(上掲)
 また、杉山の参謀総長時代に、次長は、沢田茂、塚田攻、田辺盛武、秦彦三郎、とどんどん代わっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) 前掲
 次長以下、ひいては、帝国陸軍全部隊が、杉山の手駒に過ぎなかった、くらいの認識を我々は持っていいのかもしれません。

・板垣征四郎<斉彬コンセンサスの「使徒」>

 「1948年(昭和23年)12月23日、絞首刑に処せられた<が、>死刑が宣告された後、板垣は・・・<こう>語った。・・・
 自分のようなものが、この糞土の身を変えて黄金の身とさせてもらえるということは、実に幸福である。ポツダム宣言を実行されて、自分が永久平和の基礎となるならば、非常に幸いであり喜びである。・・・
 今次の世界大戦が起きる前、世界最終戦ということを一部で唱え、私たちもそれを支持してきた。・・・
 <今後、>日本としては最高の精神文化と科学を高い水準にまで上らせて行かねばならん。日本の仏教は、その場合非常に重要な役割を持つことになる・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E

 思い残すことはなかったことでしょう。

・松井石根<同上>

 「松井は巣鴨プリズンに収容される前夜、・・・「乃公はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる<支那>人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないナァ」と語った・・・。・・・収監されてからも毎朝、[法華]経をあげるのが習慣だった。また、・・・人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって「殺身為仁」であ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9 前掲

 部下に人を得ず、とんだ汚名を着せられたことは気の毒でした。

・(参考1)東條英樹(1884~1948年)<斉彬コンセンサス使徒達の小間使い>

 「東京府麹町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父は陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)東條英教」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F

 「他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直した・・・
 戦犯容疑者として収容されてからは、浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師・花山信勝の影響で浄土真宗に深く帰依した・・・」(上掲)

 東條もまた、杉山の手駒であり、部隊司令官/参謀としてでなく、軍事官僚として彼に仕えた人々のうちの中心人物、と見ればいいでしょう。
 なお、処刑が間近に迫った時に急に信心深くなった点一つとっても、東條の人としての器の小ささを感じずにおられません。

・(参考2)山下奉文:<斉彬コンセンサスの背教者>

 「山下奉文は、処刑前に・・・日本人へ向けた遺言を残した。・・・ 
 彼は、「新日本建設には、私達のような過去の遺物に過ぎない職業軍人或は阿諛追随せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者等を断じて参加させてはなりません。」と言明し、日本再建の方向性について、「丁独戦争によって豊沃なるスレスリッヒ、ホルスタイン両州を奪はれたデンマークが再び武を用いる事を断念し不毛の国土を世界に冠たる欧州随一の文化国家に作り上げたように建設されるであろう事を信じて疑いません。」と述べた上で・・・倫理性の欠除という事が信を世界に失ひ醜を萬世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本的原因であると思うのであります。・・・従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。皆さんは旧殻を速かに脱し、より高い教養を身に付け従来の婦徳の一部を内に含んで、然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。平和の原動力は婦人の心の中にあります。・・・<等と語った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%A5%89%E6%96%87 前掲

 虐殺を命じたこと、それを後悔したこと、処刑される前に、米国に対して奴隷の言葉を吐いたこと、いずれをとっても、山下は、帝国陸軍の恥部です。
 
・(参考3)石原莞爾:<斉彬コンセンサスから小楠コンセンサスへの「転向」者>

 「太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。・・・
 日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学や経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた・・・
 太平洋戦争(大東亜戦争)に対しては、「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていた・・・
 独ソ戦に対しては、石原は、1941年10月当時から、ドイツは地形の異なるバルカン半島においても西部戦線と同一の戦法を採っており、また東部戦線においてもその戦法に何ら変化の跡が見られないことから、ドイツはソ連に勝てないと断言していた。
 『世界最終戦論』(後に『最終戦争論』と改題)を唱え、東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。その一方で、熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争と捉えていたことはあまり知られていない。
 最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。比喩として挙げられているのは織田信長で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている。・・・
 <戦後、>戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとし、大アジア主義の観点から「我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである・・・日本の<在来>軍備撤廃は惜しくはない、次の時代は思いがけない軍備<や>原子力武器が支配する」と語ったという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE 前掲

⇒要するに、帝国陸軍内における、先の大戦において決定的な役割を演じた将官達が、グスコーブドリが抱いたであろうような達成感に包まれながら・・ということが分かる形で・・、自ら命を絶ち、或いは、処刑というリンチによって殺され、また、東條が、自衛戦争という主張しかせず、事実上沈黙を保ったまま同じく「処刑」された後、多かれ少なかれ杉山の部下(手駒)であったところの、残された帝国陸軍有力OB達は、(国内外において、多大な犠牲者を出したこともあって)自決した杉山に敬意を払い、その殆どが杉山に倣って沈黙を貫いたまま亡くなっていった、ということなのではないでしょうか。(太田)

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[明治維新と昭和維新]

〇明治維新(縄文モード→弥生モード)

 モード転換示唆者が孝明天皇でこの示唆が1846年(弘化3年)になされた、ということをずっと以前に指摘済み(コラム#8297)だが、この示唆を受け、倒幕・明治維新という形で、実際にモード転換を行ったのは、島津斉彬コンセンサスを信奉する拡大島津家の人々であった、というわけだ。

〇昭和維新(弥生モード→縄文モード)

 別の意味がある昭和維新という言葉を使うのも初めてだが、このモード転換示唆者が昭和天皇で1929年(昭和4年)であった、という仮説を、ここで初めて提示しておきたい。
 昭和天皇の聖断については、「二・二六事件…昭和天皇は反乱将校たちに激怒し、徹底した武力鎮圧を命じている。天皇自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たると述べたとされる。
 ポツダム宣言受諾…1945年(昭和20年)8月10日(および14日)、ポツダム宣言の受諾を巡って御前会議が紛糾した際に、当時の鈴木貫太郎首相に促されて天皇自ら受諾の決断を下したとされる。「聖断」といえばほとんどこの例を指す。
 しかし田中義一内閣の時、昭和天皇が田中義一首相の言動に対して懐疑的になり、侍従長に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ」という言葉を発した。これが田中に伝わり、田中は申し訳ないとして、内閣総辞職した。この事件を、上記の二例に並んで、天皇が政治に関わったとされることがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%96%AD
とされている。
 しかし、最初の「聖断」は、首相(内閣)から、判断の委任を受けたのでそれに応えただけだし、次のは、「聖断」が必ずしも実施されたとは言えないので、結局、聖断の名に値するのは最後のもの・・時期的には最初のもの・・だけだろう。
 これについて、もう少し詳しくは以下の通りだ。↓

 「1929年(昭和4年)6月27日に、・・・1928年に起きた張作霖爆殺事件に関東軍は無関係であったと・・・田中が天皇に奏上したところ、天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問した。このあと奥に入った天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」との旨の愚痴を述べたが、これを鈴木が田中に伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼し、7月2日に内閣総辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80 

 これだって、田中が内閣総辞職する必要などないのに辞職してしまったから、結果的に聖断になってしまったわけだが、この事件の意味するところは大きい。
 それは、昭和天皇の議院内閣制(によって選ばれた首相の権威)否定の意思表明、ひいては議院内閣制に象徴されているところの、欧米文明から継受した重要諸制度、の廃棄宣言、を事実上意味したからであり、かつまた、軍事力をもってする現状変更否定の意思表明、ひいては人間主義的非人間主義否定宣言、をも意味したからだ。
 これによって、まさに、この瞬間に、弥生モードから縄文モードへのモード転換示唆がなされた、ということだ。
 既に世論の支持があった前者は、例えば、4年弱後の下掲のように、(有事意識ともあいまって、)速やかに実行に移される。↓

 「1932年(昭和7年)5月15日<の>・・・五・一五事件・・・の翌日に内閣は総辞職し、次の総理には軍人出身の齋藤實が就任した。総選挙で第1党となった政党の党首を総理に推すという慣行が破られ、議会では政友会が大多数を占めているにもかかわらず、民政党よりの内閣が成立した。大正末期から続いた政党内閣制は衰えが始まり、軍人出身者が総理についたが、まだ議会は機能していた。しかし、これ以後は最後の存命している元老の西園寺公望(1940年没)や重臣会議の推す総理候補に大命が降下し、いわゆる「挙国一致内閣」が敗戦まで続くことになった。・・・
 五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの世論の万単位の嘆願で軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、彼らは満州や中国北部で枢要な地位についた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85

 しかし、その時点ではまだ世論の支持が十分なかった後者は、17年強も後の日支戦争/大東亜戦争の終戦を契機に実行に移されることになる。
 この間、帝国陸軍を中心とする、杉山元ら島津斉彬コンセンサス信奉者達は、大車輪でコンセンサス内容の前倒し実現に向けての努力を行わざるをえないことになったわけだ。
 それはそれとして、昭和天皇の、やや早きに失したとも思われる、このモード転換示唆のよってきたるゆえんを何に求めるべきだろうか。
 私の仮説は、(もとより、基本的には、歴代の諸天皇の大部分に備わっていたところの、時代の要請を見抜く眼力の賜物なのだが、この場合は、)天皇の、母親たる貞明皇后への反発が果たした役割を無視できない、というものだ。
 貞明皇后が、日蓮正宗信徒であったことは既に紹介したが、「第二次世界大戦<の>・・・終戦前、・・・戦争でこれ以上国民に苦しみを与えたくないと、いかい(=大変)心を痛め<つつ、国民と苦しみを共にすべく(?)、>疎開を拒<む>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E ※
一方で、「「どんなに人が死んでも最後まで生きて神様に祈る心である」と神に勝利を祈っていた」
http://www.book-navi.com/book/kougou_hara.html
というのだから、私には、彼女が、熱烈な島津斉彬コンセンサス信奉者であったことに、ほぼ間違いないように思える。
 この貞明皇后は、幕末に親幕的姿勢を概ね貫いたところの、九条家の出身であり、どのような経路でこのコンセンサス信奉者になったのかの究明は今後の課題にしたい。
 問題なのは、この貞明皇后が、「長男の裕仁(昭和天皇)ではなく雍仁(秩父宮)を溺愛し・・・裕仁天皇と良子皇后の間になかなか男の子が生まれなかったこともあって、・・・秩父宮を皇位に即けたいのではないかとの噂<すら>流れた」(上掲)ことがある点だ。
 この、中央幼年学校、陸士、陸大出の俊秀、秩父宮の、ヒットラーを嫌い、警戒しつつも、「1939年(昭和14年)、<三国>同盟に消極的な兄・昭和天皇に対して週に3度参内して締結を勧め」る、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E5%AE%AE%E9%9B%8D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
という、島津斉彬コンセンサス信奉者的な言動を、昭和天皇はどんな思いで見守っていたのか、想像できるというものだ。
 「皇太后に敗色濃い戦況を報告しなければならない前夜、天皇は緊張から「御気分悪しく」「御嘔吐」までしている<し、>・・・天皇が戦争終結を決意した後になっても、<貞明皇后>の意向を受けてだろう、神功皇后を祀る福岡・香椎宮に激烈な言葉で戦勝を祈願させている」
http://www.book-navi.com/book/kougou_hara.html
くらいであることから、昭和天皇の貞明皇后に対する、恐怖がないまぜになった反発心が伝わってくる。
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6 終わりに

、「日本では今も家族は『血縁』というイメージが固定化されている。・・・<私は、>永遠に一緒にいられなくても、共に過ごした時間がそれぞれの人生の中に深く刻印されること、それ自体が家族なのではないかと思う」は、「日本では今<や>家族は『血縁』というイメージが固定化され・・・る<に至っている>。」だし、「永遠に一緒にいられなくても、<また、>共に過ごした時間がそれぞれの人生の中に深く刻印されること<がなくても>・・・家族<たりうる>」だ、と私は考えています」(コラム#9860)というのは、拡大島津家の人々等のことを念頭に置いた記述であったところ、本日の私の話をお聞きになり、その意味、と、妥当性、を御理解いただけたのではないでしょうか。
 このことを踏まえ、最後に申し上げたいことがあります。
 1928年1月1日以降の共同謀議の咎で、A級戦犯として「判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4
わけですが、ナチスドイツではあるまいし、日華事変/大東亜戦争に係る共同謀議などなかったし、あるはずがなかったことに加え、1928年以降という時期を画したことの卑劣性を柴田徳文が、ケロッグ・ブリアン条約(不戦条約)が締結された年以降としないと、「欧米の過去<の侵略行為>に触れることなく日本のみを犯罪国家におとしめるための窮余の一策であった」(注45)・・それでも、同「条約調印は8月27日である」から9か月に近いズレがあることになるほどいい加減な代物だった・・、的なことを指摘しています。
https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action…item…

 (注45)石原莞爾が「東京裁判には証人として山形県酒田の出張法廷に出廷し(これは病床の石原に尋問するために極東裁判所が特設したものである)<た時に、>・・・判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清・日露戦争までさかのぼる」との回答に対し、「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」と持論を披露した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
ことからも分かるように、連合国側として、ホンネでは、日本の明治維新以降の対外進出を全て共同謀議に基づく侵略とみなしていたわけだ。

 共同謀議なる観念がナンセンスであることは、極東裁判当時から、日本の識者達の間では常識でした。
 現に、「被告であった賀屋興宣<が、>「ナチスと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と評している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4
くらいです。
 しかし、本日の私の話が意味するところは、このような「常識」こそ誤りなのであって、共同謀議は、1860年前後に、島津斉彬コンセンサスという形で、拡大島津家の人々の間で、まさに成立するに至っていた、ということなのであり、この拡大島津家の人々のファミリーベンチャーとして、まず倒幕・明治維新が成り、その後も、拡大島津家の人々が日本の中枢を占め続けるとともに、このコンセンサスが空気化し、日本人の過半がこの空気を(無意識的に)共有するに至り、この中枢の指導の下に、この過半の日本人達が、巧まずして組織的な連携行動をとり続けたおかげで、先の大戦に、今度もまた、拡大島津家の人々のファミリーベンチャーとして、日本は、アジア解放を筆頭とするところの、全面勝利を収めることができた、ということなのです。
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太田述正コラム#9905(2018.6.24)
<2018.6.23東京オフ会次第>

→非公開