太田述正コラム#9693(2018.3.10)
<2018.3.10東京オフ会次第>(2018.6.24公開)

1 始めに

 遠方からの出席者2名、新規出席者1名、があり、オフ会幹事団のうちの1名が欠席であったにもかかわらず、(私を除き、)11名出席、と、久しぶりに出席者が10名を突破したオフ会になりました。
 出席者中、医師2人、ということで、人体論を踏まえた社会論談義や最新医学談義でも盛り上がりました。
 また、komuroさんの、かなりの時間を費やした作業によって、1階のピアノ室で、再び、簡単に、タンノイ・スピーカーの使用ができるようになり、今回は、komuroアンプだけでなく、プラスkomuroUSB-DAC環境なので、従前よりもタンノイの音が更に良く響くようになりました。
 komuroさん、及び、タンノイを寄贈された読者のHNさんにも改めて、感謝申し上げます。

2 最近の日本の近代論(参会者に提示)

 (1)英エコノミスト

 「・・・明治維新は近代化のみならず、軍国主義の始まりでもあった。・・・

⇒アングロサクソン文明は、経済的収奪目的に軍事力を駆使する・・薩英戦争を想起せよ・・という、いわば、本来的軍国主義の文明であり、プロト欧州文明の欧州文明化はアングロサクソン文明継受による軍国主義化の試みであり、それが、後に、近代化と称されることになった。
 日本の明治維新以降の富国強兵とは、まさに、かかる欧米の東漸に対抗するためにやむを得ずして追求したところの、(プロト欧州文明諸国のそれと似通った、)軍国主義化の試み以外の何物でもなかったのであり、「近代化」と「軍国主義化」をあたかも別個の事柄のように語るのは(、それが分かっていて行っているところの、イギリス流の)欺瞞。(太田)

 当時の日本は200年以上鎖国しており、内向きになっていた。階層化された社会は、ばからしいほど硬直していた。

⇒オランダと李氏朝鮮とは国交があり、鎖国していたわけではないことから、書くとすれば「200年以上平和を維持しており」だし、階層間に垣根のない、しかも、生活様式や水準に大きな違いのないところの、(当時の(階層社会の)イギリスや(階級社会の)欧州諸国に比し、より)風通しのよい社会だった。(太田)

 何にも増して、武士階級は諸外国からの脅威の高まりに対応する能力を欠いていた。・・・

⇒全くその逆であったことを、本日のこれまでの私の話を聞いた人々はお分かりいただけたのではなかろうか。(太田)

 <西洋諸国は、>対等に戦える相手ではなかった。西洋諸国が持っていたのは甲鉄船と最新の大砲で、サムライが持っていいたのは儀式用の甲冑と、見事なつけひげを見せつけるように作られた甲冑面だった。

⇒一番大事なのは選良達の質と大衆の教育程度なのであり、その両方において、当時の日本は、欧米のいかなる国にもひけをとらなかったどころか、むしろ凌駕していた、と言えよう。(太田)

 「尊皇攘夷」というスローガンを掲げたクーデターが始まった。その指導者たちが、「尊皇」の部分で頼りにしたのは伝統だった。
 それまでは京都の支<配>者にすぎなかった皇族を、政治の中心に据えた。
 当時12歳だった天皇の睦仁を江戸(現在の東京)に連れて行き、天照大神から途切れることなく続いている系統の出自であると確認したうえで、睦仁に代わって政治を行うと主張したのだ。・・・」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52105?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link&utm_content=top (英エコノミスト)
(1月17日アクセス)

⇒(無答責の)天皇が権威を、それ以外の(答責の)選良達が権力を担う、という、平安時代以来の、江戸時代においても貫徹していたところの、日本の伝統的政治体制が、時代の変化への対応を著しく迅速かつ抜本的なものにした、ということなのであり、間違い。(太田)

 (2)日本の「右」の論客(小川榮太郎)

< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%A6%AE%E5%A4%AA%E9%83%8E >

 「・・・水戸学の大家、会沢正志斎らとの邂逅は転機となつた。<吉田松陰は、>『日本書紀』『続日本紀』を直ちに読み始め、“身皇国に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん”と嘆声を挙げてゐる。

⇒間違い。山鹿流を身に着けていた松陰にとっては、幼少時から、そんなことは常識だったはず。(太田)

 これが松陰の「日本」発見である。それは、例へば本居宣長の発見した「日本」とは異なる。宣長は『古事記』に漢心(からごころ)以前の日本の心の質朴さを、『源氏物語』にもののあはれを見いだしたが、松陰は『日本書紀』に、古代日本史における歴代天皇の雄大な国際経営を発見したのである。・・・

⇒間違い。『源氏物語』においても、天皇の権威の下での日本の権力者の統治においても、人間主義が通奏低音的に貫かれている。(太田)

 かうした日本国といふネーションの自覚の過程が、松陰にあつては単純な排外主義にはつながらないのである。寧ろ、九州遊学、佐久間象山らとの交際による正確な国際情勢認識と共振してゆく。・・・

⇒間違い。「武」の要諦は内外情勢の的確な把握にあることなど、山鹿流を身に着けていた松陰にとっては、幼少時から常識だったはず。(太田)

 果敢なリアリスト松陰<と言うべきか。>・・・
 それにしても、なぜ松陰にこの独創が可能だつたのだらう。恐らくそれは、松陰の学問が単なる知的構想ではなく、彼自身がどう建国事業に参与するかといふ、己の生の意味そのものを追求する営みだつたからではなかつたか。・・・」
http://www.sankei.com/column/news/180129/clm1801290004-n1.html
(1月29日アクセス)

⇒山鹿流をきちんと身に着け、かつ、能力の高い人物であれば、それが大石義雄であれ、吉田松陰であれ、自然にとるであろう言動が、現代日本人からすれば独創的に見える、というだけのこと。(太田)

3 質疑応答(順不同。Oは私。)

A:技術者が、地理の観点から、赤穂事件幕府やらせ説を唱えており、極めて説得力がある。
 上野介を深川という浪士達が襲撃しやすい場所に引っ越しさせたこと等に加えて、三河時代以来の、所領が近接していた徳川と吉良の怨念的関係等がこの事件の背景にあり、幕府は吉良家の取りつぶしを図っていたというのだ。
B:私も読んだ。
O:私も、幕府の中に、赤穂浪士シンパが大勢いた、という認識だが、その説は面白い。
A:では、その本を送ろう。
O:コラムに仕立てられそうだ。

(続く)