太田述正コラム#9701(2018.3.14)
<竹村公太郎の赤穂事件論(その1)>(2018.6.28公開)

1 始めに

 読者提供の、竹村公太郎(1945年~)の『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫2013年)の中の98~184頁が広義と狭義の赤穂事件論なのですが、率直に言って、内容が赤穂事件論の名に値しないので、その全体像をご紹介することは止め、いくつかの竹村の主張を拾って、それに反駁を加える形で進めたいと思います。
 思ったのは、東北大工学部(土木)修士で建設省/国土交通省の局長まで勤めて退官(奥付)、という著者が、いくらエンジニア、行政官として優秀であろうと、文系の本を書くとなると、日本の文系の一般的(低)水準を超えることは困難なのだな、ということと、このこととも関連していますが、文系の本を書くことになった途端、彼が、恐らくは理系の本を書く場合ならありえないような手抜きをしてしまっているようだ、ということです。
 こういう言い方ができるのは、私が文系の著作にはちょっとうるさい、ということに加えて、登場する諸「地形」が、私が一時住み、かつそこにあった小・中・高校にずっと通ったところの、半蔵門・麹町界隈、と、私の官舎があった田町・泉岳寺界隈、であり、どうやら、彼よりも私の方が詳しい・・彼が、現地及びその周辺をきちんと歩いて確認していない・・らしい、からです。
 とはいえ、私自身、これまで余り考えたことがないトピックであるだけに、私による反駁が絶対正しいという自信があるわけでもありません。
 皆さんのコメントを期待しています。

2 半蔵門こそ江戸城の正門だった

 この主張を目にした瞬間、この本を読むのを止めようかと思ったくらいです。
 大手門(注1)が正門に決まっているからです。

 (注1)大手。「城の正面。また、正門」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%89%8B-450261
 なお、大手門は木橋だった。
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/767/Default.aspx

 名前ではなく、使用実態で正門かそうでないかを見極めるべきだ、ということのようですが、それなら、竹村なりの正門の定義をきちんと示すべきですが、定義は見当たりません!
 彼は、第一に、公式行事の時以外の両陛下の外出時には半蔵門が使われている、と指摘しています(123頁)が、公式行事の時に使われる方が正門でしょうし、そもそも、平素、半蔵門を使われるのは、他の諸門に比べて半蔵門の外の界隈の交通量や人出が一番少なく、人々に迷惑がかからないからでしょう。
 また、彼は、第二に、(内堀だけを見て、)半蔵門だけが土橋であって他の諸門は木橋である、と指摘していますが、半蔵門からまっすぐ甲州街道が伸びているところ、少し進むと、昔、江戸城の外堀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E6%BF%A0_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD)
のところにあった四谷見附に差し掛かりますが、そこも、江戸時代には土橋であった
https://wheatbaku.exblog.jp/13163120/
ところ、これだけとると、いかにも、半蔵門/四谷見附ルートが特殊のように思われるかもしれませんが、お隣の、昔の外堀続きのところにあった赤坂見附だって、土橋でした。(大山街道が伸びていた。)
https://wheatbaku.exblog.jp/13282684/
http://www.ktr.mlit.go.jp/kawakoku/road/03.htm ()内
 つまり、城の土橋なんて、特殊でも何でもなく、ごくありふれた存在であった、ということです。
 そんなことは当たり前であり、日本の「城の設計では、<どちらにもメリット・デメリットがあったことから、>堀の通行に木橋を設けるか土橋を設けるかの選択があった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%A9%8B
からです。

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[大手門の正門性(補足)]

 「大手門の警備を担ったのは、10万石以上の譜代大名2名」
http://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0244/
であったのに対し、江戸城の大手門とは正反対の位置にある搦手門である、半蔵門ができた時に警備を担当したのは服部半蔵で有名な服部家だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E8%94%B5%E9%96%80
が、同家は単なる旗本だったし、服部家はすぐ改易されてしまい、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
その後、警備を代々担当する旗本がいたのか定かではない。
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 私の見解は、大手門を含め、半蔵門以外の諸門は、海に近く、海抜も低く、高潮や洪水等があれば、木橋は流されてしまう恐れがあり、また、木橋は、大火があれば、焼け落ちてしまう恐れがあり、全ての橋が使えなくなった暁には、江戸城からの脱出さえ困難になることから、相対的に高台である半蔵門を土橋にして、脱出路を確保した、ということではないか、というものです。。
 ところが、あろうことか、竹村は、「堀を土手で埋めるなど常軌を逸している。世界の城を見回しても、城の堀をわざわざ土手にした例などない」(127)などと、何の典拠も付さずにトンデモ断定をした上で、「徳川幕府はよほどの覚悟をした上での決断であったのだろう。その覚悟とは、絶対にこの土手を守ってみせる、という覚悟である。半蔵門の土手を守るにはどうするか。それは半蔵門へ向かう道を守るということである。・・・
 <そんな、厳重に警備された道に面した>麹町<に>・・・赤穂浪士の主要人物を含む三分の一に当たる総計16名の浪士が・・・潜伏していたことになる。・・・とうてい信じられる話ではない。」(127~128、133)と決めつけています。
 しかし、既に明らかになったように、半蔵門は、諸門のうちの、最重要ではない門でしかないのですから、これには、失笑するしかありません。

(続く)