太田述正コラム#9703(2018.3.15)
<竹村公太郎の赤穂事件論(その2)>(2018.6.29公開)

3 幕府は吉良家を取りつぶしたかった

 (1)どうして取りつぶしたかったのか

 この点についての著者の具体的説明には、立ち入りません。
 どうせ、それも、根拠レスの思い付きなのであろう、と、僭越ながら想像されるところ、反駁する材料を集める労を惜しんだ、ということです。
 それは、吉良の、昔からの領地、と、徳川(松平)の昔の領地、が近接していたことに起因するところの、水利に係る軋轢が、両家間に続いた(148~157)、という説なのですが、近傍にお住まいの関係「地形」に詳しい読者の方にでも、検証していただくことを期待しておきましょう。

 (2)どうしてすぐ取りつぶさなかったのか

 そんな吉良家を、家康が最高権力者になった時点ですぐ取りつぶさなかったのは、家康への将軍宣下、引き続く秀忠への将軍宣下による徳川家の将軍職の事実上の世襲化、そして、その後における代々の将軍職世襲、にとって、吉良家が、朝廷との間の取り持ち役として不可欠だったからである(159~162頁)、と武村は主張しています。
 しかし、一番目と二番目の実現にあたっての最大の鍵はそんなところには全くなかった、あるワケがなかった、ということを、そもそも、どうして家康がそれらの実現を目指さなければならなかったのか、という話から始める形で、この時期を、「二重公僕、二重封臣関係の時代」とするところの、笠谷和比古「徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制」
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/nike/1992-09-30/s001/s008/pdf/article.pdf
が明らかにしており、誰でも、この論文を読めば、たちどころに、その通りである、と思うようになることを請け合っておきます。

 (3)取りつぶしたかった

 こんな主張ができる人物・・竹村に限らないようです・・の頭の構造は、およそ、私の想像を絶します。
 なぜなら、幕府が吉良家を取りつぶしたかったのであれば、刃傷事件の時に、喧嘩両成敗ということで、浅野内匠頭の切腹と赤穂浅野家の取りつぶしに加えて、もっけの幸いと、吉良家の高家としての職責を取り上げ、吉良家を取りつぶしておれば、何の問題もなくその目的を達成できたはずだからです。
 どうして、そのずっと後で、赤穂浪士達に吉良義央を襲撃させる、などという迂遠でリスクの高いことをやらせる必要があったのか、全く説明がつきません。
 ただ、これを言っちゃあお終いなので、幕府が吉良家を取りつぶしたかったとは到底思えないことの根拠を、上野介のウィキペディアから、典拠が付けらている諸箇所だけを拾う形で示すことにしましょう。↓

 「万治元年<(1658年)>3月5日、・・・老中・酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋列座のなか、保科正之から<上杉藩当主の綱勝の>三姫を<義央>へ嫁がせるべき旨を・・・<同藩家老の>千坂兵部が・・・命じられた・・・
 <義央の>24回もの上洛は高家の中でも群を抜いており、さらに部屋住みの身でありながら使者職を<やらされ>ていた、・・・
 寛文4年(1664年)閏月、<義央の>義兄・上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために米沢藩が改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、長男・三之助を上杉家の養子(上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。・・・
 以後、義央は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、たびたび財政支援をさせたほか、3人の娘達を綱憲の養女として縁組を有利に進めようとした。長女・鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室、三女・阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政兕の室、四女・菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている(鶴姫は綱貴に離縁され、菊姫も死別するが、のちに公家・大炊御門経音の室となって1男1女を産む)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE

 私が、上掲にあれこれコメントを付ける必要はないのであって、これで十分である、とお思いになりませんか?

(続く)