太田述正コラム#9709(2018.3.18)
<竹村公太郎の赤穂事件論(その5)>(2018.7.2公開)

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[吉良義央私邸?]

 「麻布・・・にも吉良上野介が麻布一本松に屋敷を持って<いた>」
http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi11.html
とする記述にその後遭遇したが、典拠が付されていない。
 仮にこれが事実で、隠居後、義央が、妻の富子とは別居してここを使っていたとしても、深川の義周邸を主たる拠点にしていなかったとすれば・・その可能性は高い・・、私がこれまでに記した見解は成り立つ。
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[冨沢信明説]

 「赤穂浪士の中心メンバーで新発田出身の堀部安兵衛の研究で知られる冨沢<信明>氏は、討ち入りが赤穂側の一方的勝利に終わり、その後も3時間にわたり街中を行進できたことに注目。「幕府は討ち入りを黙認していたのではないか。内部に赤穂浪士の協力者がいたはずだ」とみて調べていた。 
 冨沢氏が今回、吉良邸の周囲に屋敷を構える5軒の家主の家系図をたどったところ、大名を監督する大目付、溝口摂津守宣就<(のぶなり)>の「母のはとこの妻のおい」や「娘婿のいとこの子」などの親族ばかりであることが判明した。2代目新発田藩主・溝口宣勝の孫でもある宣就は、安兵衛が知人に宛てた手紙などから、安兵衛と交流があったとみられるという。」
http://obaco.hatenablog.com/entry/2017/03/30/182039

 この説は、より実証的であることから、竹村説に比すれば筋は良いが、以下の理由で、やはり、首肯はできない。

 まず、「3時間にわたり街中を行進できた」ことについてだ。
 大石は、使者を通じて、行進開始後、直ちに、大目付の仙石久尚に「自首」しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E4%B9%85%E5%B0%9A
その際、泉岳寺までの行進を認めてもらい、大木戸(下出)の通過等を許可された可能性が高い、と私は見る。↓
 
 「元禄15(1702)年12月14日が討入りが決行されたとされているが、正確には12月15日午前4時頃から午前6時頃までの2時間あまりで行われている。討入り後の浪士一行は本所吉良邸から泉岳寺に向かい、汐留あたりで本隊から別れた吉田忠左衛門と富森助右衛門が、大石内蔵助の命により芝明船町(現在の虎ノ門病院付近)の仙石伯耆守邸へ「討入りの口上書」を提出るためにむかう。さらに、本隊はそのまま芝大門手前から東海道に出て泉岳寺へと向かった」
http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi11.html 前掲

 次に、深川の吉良邸の周囲の屋敷の住人達についてだ。
 これについては、冨沢の調べた結果が事実であったとして、これらの住人達中に、(溝口宣就とは比べ物にならないくらい華麗かつ多彩な親族群を擁していた)吉良家(注2)の親族で「も」あった者が存在したかどうか、かつまた、直近の住人達のその隣邸群の住人達・・直近の住人達の動向を把握しうる・・と、宣就や義央の間の親族関係の有無、を、冨沢が全て調べたのかどうか、が問題になってくるが、恐らく、そこまでは調べていないはずだ。

 (注2)義央は、「高家旗本・吉良義冬(4,200石)と<大老にまで上り詰めた>酒井忠勝の姪・・・の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。一説によれば、・・・義冬の母及び父方の祖母が高家今川家出身で、今川氏真の玄孫にあたる。継母は母の妹。
弟に東条義叔(500石の旗本)、東条義孝(切米300俵の旗本)、東条冬貞(義叔養子)、東条冬重(義孝養子)、孝証(山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の5人がいる。妹も2人おり、うち1人は安藤氏に嫁いだ。・・・
 出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚。・・・
 寛文4年(1664年)・・・義兄・上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために米沢藩が改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、長男・三之助を上杉家の養子(上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で<済んだ>。・・・
 長女・・・は薩摩藩主・・・の室、三女・・・は交代寄合旗本・津軽<某>の室、四女・・・も旗本・酒井忠平の室となっている(鶴姫は綱貴に離縁され、菊姫も死別するが、のちに公家・大炊御門経音の室となって1男1女を産む)。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE 前掲
 「<義央の妻の>富子の姉たちは肥前佐賀藩主・鍋島光茂や加賀大聖寺藩主・前田利治などに嫁いでいる・・・<また>、吉良家<は、>室町時代からの婚姻関係によって扇谷上杉家・八条上杉家の血を引いてい・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%B6%BA%E9%99%A2 前掲

 しかし、そんなことよりも重要なのは、前述したように、武家地では武家が自前で治安を守るシステムであったということは、各邸もまた相互に不可侵であったと考えられるのであり、そうだとすれば、吉良邸から「賊が侵入したが、防ぎきれないので助けて欲しい」、といった要請が、どの隣邸に対しても行われなかった
https://wheatbaku.exblog.jp/20734524/
以上、隣邸群側から、勝手に手出しすることなどできなかったはずだ、という点だ。
 実際、その後、幕府を含む、第三者の誰からも、隣邸群が手出しをしなかったことを疑問視、問題視する声は出ていない。
 それは、仮に吉良側が助けを求めるつもりになったとしても、それを行う遑を全く与えなかった可能性が高い、見事な山鹿流奇襲に赤穂義士達が成功したおかげである、と言えそうだ。
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(続く)