太田述正コラム#9715(2018.3.21)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その24)>(2018.7.5公開)

 「<経科に関して>は、それぞれの出題箇所について、答案でまず、平仮名交りでその訳文を書き、その後「章意」「字訓」「解義」「餘論」を順に叙述する。
 「章意」ではその出題箇所が含まれる章の大意を、「字訓」ではテクストの字句の意味説明、「解義」ではテクストの解釈、そして「餘論」では指定以外の箇所を他書などからの引用も含めて「餘派を論じ」る考察がなされる。・・・
 この答案筆記の際に<は>、指定の・・・「程朱学「宋学」の・・・標準注釈書の解釈に従った解答が要求されたのである。・・・

⇒ここまでは、漢文解釈(和訳)能力を見る、というより、「無本」(後出)であったとすればなおさらですが、記憶力を見る、試験である趣があり、ばかばかしい限りです。(太田)

 <史科に関して>は、史書の漢文和訳と、出題された史書に関する設問の是非得失の論述が求められる。
 後者は、「在りの儘のことを在りの儘に問ふ」「史學問題」ではなく、歴史評価という「活用的史學問題」が課題となり、解答者「自身が研究の力を以て当時の時勢を看破するに非れば、決して答案を草する能はず」という内容だった。
 たとえば、・・・「漢書」<についての、>「陳平<(注47)>・王陵<(注48)>か諸呂を王とする時の議論、一ツは正法を執り、一つは権道を行ふ、いづれ宜しと申すへきや」という設問であった。

 (注47)?~BC178年。「当初は・・・陳勝・呉広の乱が勃発すると、若者らを引き連れ魏王<と称し>た・・・魏咎<、や、楚王と称した>項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。その後、劉邦の遺言により丞相とな<る。>・・・
 <劉邦の妃で第2代皇帝の恵帝の母親の>呂雉<(呂妃)>の専権時代には面従腹背の姿勢を保ち、呂雉と対立して失脚した王陵の後を受けて右丞相(正宰相格)となった。しかし呂氏が中央の兵権を完全に握っているなど右丞相には権力がなく、実質的に名のみの役職であった。・・・陳平は酒と女に溺れ骨抜きになったふりをし、呂雉<ら>・・・から警戒心を持たれないようにして粛清の嵐を避け、反攻の機を伏して待った。
 紀元前180年に呂雉の死を機として、・・・陳平は宴会に見せかけ、宮廷内で大尉・周勃を始めとする反呂氏勢力や信頼できる人物を集め、密かに人脈を築き、打ち合わせを重ねていった。諸侯の監視を徹底していた呂氏も、酒好き女好きの右丞相が行う宴会なので、警戒をしなかった。そして斉王劉襄の蜂起と、その討伐に出した灌嬰の寝返りなどに動揺する宮中において策略を用い、周勃などとともに呂雉の甥である呂禄の不安を煽らせるため、呂禄の友人である●<(麗におおざと)>寄の父●商に迫り、●寄から「いつまでも中央に居るので、野心があるのではないかと疑われ天下が騒がしくなっています。領地は諸侯も重臣も認めており、帰国すれば疑いも晴れ安泰です」と吹き込ませた。呂禄はそれに従い兵権を返上し、周勃が兵権を取り戻す。そしてその兵と築きあげた人材・情報網で、呂雉の別の甥・呂産の帝位簒奪クーデターを鎮圧。更にこれを口実として呂氏一族を皆殺しにする逆クーデターを実行し、劉邦の子である代王劉恒(<第5代皇帝(3、4代皇帝は実権なし)>文帝)を立てた。その後まもなく引退したが、周勃と文帝に乞われて再び右丞相となった。周勃の辞任後は単独で丞相を勤めた・・・
 なおクーデター鎮圧の際に、兵権は握ったものの兵士が従うか不明だったため、「劉氏に加担するものは左袒(衣の左の肩を脱ぐ)、呂氏に加担するものは右袒(衣の右の肩を脱ぐ)するよう」との触れを出し、兵士は全て左の肩を脱いだことが、義により味方することを意味する「左袒する」の故事成語となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%B9%B3
 (注48)?~BC180年。「王陵が右丞相、陳平が左丞相<だったが、>・・・恵帝の死後、呂后は自分の一族呂氏を王にしようとした。王陵にそのことを尋ねたところ、「高祖は『劉氏以外で王になるものがいたら天下皆でこの者を討て』と白馬を生贄にして盟を行いました。呂氏を王とするのはこの盟に背くものです」と堂々と答えた為、呂后は不機嫌になったが正論であるために怒る事ができなかった。同じことを陳平・・・らに尋ねたところ、「高祖(劉邦)は天下を統一すると自分の子弟を王としました。今は皇太后(呂后)が天下を治めているのですから、呂氏の子弟を王として問題はありません」と答え、呂后を喜ばせた。王陵は後で陳平らを「君たちは高祖との盟の時にその場にいなかったのか?何の面目があって死後の世界で高祖に会えるというのだ」と責めたが、陳平は「朝廷で主と面と向かって争う点では私は貴方にかないませんが、社稷を全うし、劉氏の後継者を定めるという点では貴方は私に及びません」と答え、王陵は言い返せなかった。
 呂后は王陵を疎んじ、呂后元年(紀元前187年)に王陵<から>宰相の実権を奪った。王陵は怒り、病気を理由に辞職して屋敷の門を閉じ、朝廷にでることもなくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E9%99%B5

⇒面白い設問ではあるけれど、外戚の弊害は、私の言う一族郎党命主義の支那においてこそ深刻な問題であったところ、日本ではそうではない・・例えば、天皇家の外戚たる藤原氏による摂関政治に、天皇家の乗っ取りの恐れなど皆無でした(典拠省略)・・以上、ディベート能力だけは見ることができたかもしれませんが、愚問である、と言っていいでしょう。(太田)

 受験者には、試験場への経書持ち込みについて、それぞれ無本・有本・無指定の別が示されていた。」(125~126)

⇒「有本・無指定」は、カンニング防止に躍起になったところの、支那や朝鮮の科挙では見られない、日本独特の公試のやり方ではないかとも思われます
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%91%E6%8C%99%E5%88%B6%E5%BA%A6
が、確証は得られませんでした。(太田)

(続く)