太田述正コラム#9723(2018.3.25)
<岸・安倍家三代の凋落記(その1)>(2018.7.9公開)

1 始めに

 表題に関し、初代が首相、三代目も首相2回、なのに、どこが凋落なんだ、と思われたかもしれません。
 しかし、岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三、それぞれの能力に着目すれば、それは、紛れもない凋落だったのであり、本稿は、その原因を解明しようとするものです。
 なお、初代岸信介の実弟の佐藤栄作も首相になっていますが、話が長くなり過ぎるので、彼については端折ったことをお断りしておきます。

2 岸信介の原罪

 岸信介が、東大法で、後の東大法学部の最も著名な教授の一人(民法専攻)になった我妻栄と成績を競い合った超絶的秀才であったことはよく知られています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
 その彼が、農商務省に入り、その後、農林省と分離した商工省で活躍し、本省と出向先の満州国において、日本型政治経済体制構築の主要有力者達の一人として活躍し、商工次官を経て、先の大戦期における閣僚の一人となったことも、太田コラム読者ならよくご存じでしょう。(上掲、及び、当コラム(#省略))
 しかし、遺憾ながら、彼をもってしても、帝国陸軍ないし安全保障ないし国際情勢についての理解、認識、は、極めて不十分でした。
 それが分かるのが、以下の2つの挿話です。
 第一は、「1944年・・・7月9日に・・・サイパン島が陥落し」た時、岸が、重臣達や帝国海軍の協力を得て、「サイパン陥落に伴って今後本土空襲が繰り返されるであろうから軍需次官<(兼無任所相)>としての責任が果たせない」として講和を要求し、ならば辞職せよと東條に迫られるも拒否して閣内不一致を現出させ」、東條を首相の座から引きずり下ろしたことです。(上掲)
 これは、インパール作戦(3月~7月初旬)がまだ終了しておらず、また、大陸打通作戦(4月17日~12月10日)の真っ最中、という時期でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6 
 もとより、作戦自体は内閣ではなく参謀本部所管ですが、当時、東條が陸相及び参謀本部長を兼務していた・・1944年2月より・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
ことから、当時の岸の東條追い落とし策動は、これら諸作戦の足を引っ張りかねないものであり、この両作戦が、それぞれ、アジア解放、対ソ(露)抑止、の見地からいかに重要なものであったかに思いを致せば、岸のタイミング選択の浅慮ぶりが強く咎められてしかるべきでしょう。
 第二は、戦後、支那の内戦について、「支那が中共の天下となれば朝鮮は素より東亜全体の赤化である」、と述べた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B 前掲
ことです。
 これは、岸が、中共の親日性、反ソ性について、満州国出向時代も、閣内にいた時代も、軍部等との接触を通じて知る機会があったにもかかわらず、それを怠り、全く無知のままであったことを意味しています。
 吉田茂は対英米戦争に反対工作をし、岸は逆に賛成したけれど、結局のところ、二人とも、時期こそ違え、陸軍の忌諱に触れ、憲兵に脅迫ないし拘束される、という共通の経験をしています。(注1)

 (注1)岸は、1944年7月、「東條側近の四方諒二東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した」(上掲)。
 また、吉田は、「ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった」ところ、今度は、「書生として吉田邸に潜入し<てい>たスパイによって1945年・・・2月の<終戦工作たる>近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B

 吉田は、自民党「ハト」派の源流になるわけですが、一層、たちが悪かったのが、岸が、自民党「タカ」派の源流になったことです。
 すなわち、自民党全体が、帝国陸軍嫌いならぬ軍事嫌いにして、安全保障、国際情勢音痴、の党であり続け、吉田ドクトリンにしがみついたまま現在に至ることになった元凶は岸である、というのが、私の見解なのです。

(続く)