太田述正コラム#9727(2018.3.27)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その29)>(2018.7.11公開)

 「外交政策形成・決定過程の中における学問所儒者の機能を、・・・概括しておきたい。
 (1)外交史料の整理・編纂・・・

⇒こんなもの、「外交政策形成・決定過程」には入りませんよね。(太田)

 (2)幕政の重要案件で諮問を受けての答申。
 文化年間のロシア使節レザノフへの対応の際には、大学頭林述齋と学問所儒者たちが、対処方針の提言から交渉事例調査・交渉方法案・返答素案作成にまで関与していた<(後出)>。
 また、天保年間にモリソン号の真相を伝えられて、今後の対応策を決定する際には、述齋にも諮問が及んだ<(後出)>。
 さらに嘉永2年にイギリス軍艦が浦賀・下田に来航した際には、学問所儒者全体に海防策・時務策の諮問が行われている<(後出)>。

⇒わずか3件ですが、一応は、「後出」に「期待」することにしましょう。(太田)

(3)老中の政策担当顧問。
 ・・・弘化・嘉永期には、・・・阿部正弘<(注59)(コラム#4177、5602、9657、9692)の老中時代に、>筒井◎<(糸言糸の下に金)>渓<(注60)>が、新たに西丸留守居役<(注61)>学問所御用を命じられた直後から、阿部政権の外交政策顧問の役割を果たした<(後出)>。

 (注59)1819~57年。「備後福山藩第7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部宗家第11代当主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%BC%98
 (注60)筒井政憲(1778~1859年)のこと。
https://kotobank.jp/word/%E7%AD%92%E4%BA%95%E6%94%BF%E6%86%B2-19175
 「戦国大名の末裔である旗本筒井氏(1000石)を継いだ。・・・
 柴野栗山に学問を学び、昌平坂学問所で頭角を顕わす。目付、長崎奉行を経て、文政4年(1821年)より南町奉行を20年間務めた。・・・
 天保年間<に>は、・・・町奉行を免職の上、西丸留守居役に左遷された・・・さらに弘化2年(1845年)には、・・・留守居役を免ぜられ、小普請に左遷される。ただ、学問に優れた政憲はこの間も御儒役として大学頭・林復斎に代わり12代将軍徳川家慶に進講するなどし、2年後には老中阿部正弘の命で西丸留守居役に復職となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E6%94%BF%E6%86%B2
 (注61)「幕府における留守居は、老中の支配に属し、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時には江戸城の留守を守る役割を果たした。役高は5000石で旗本から選任され、定員は4名から8名、旗本で任じられる職では最高の職であった。万石以上・城主格の待遇を受け、特権として次男まで御目見が許された他、下屋敷を与えられた。初期はまとめ役である「大留守居」が設置され、旗本でも最高位の格式が与えられた。しかし、将軍が江戸城から外出する機会が減少したことと幕府機構の整備による権限委譲によって、その地位は低下し、元禄年間前後には長年忠勤を尽くした旗本に対する名誉職と化した。本丸の他に西丸・二丸にも配置され、西丸留守居は若年寄の支配を受け、役高2000石で諸大夫役。二丸留守居は若年寄の支配を受け、役高700石で布衣役。両役ともに、長年勤仕を果たした旗本に対する名誉職であった反面、本丸留守居とは異なり左遷の意味合いを含むことも多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%99%E5%AE%88%E5%B1%85

⇒今度は、わずか一人しか言及されていませんが、筒井◎渓が、西丸留守居役の時に学問所御用であったことをネット上で直ちに裏付けることができませんでしたが、それが事実であったとしても、単に、学問所儒官を兼ねたというだけのことであり、いずれにせよ、幕府の行政官僚としてのキャリアを積んできたところの普通の旗本が儒学を余技にしていて、時折、その余技を幕府が「活用」しただけのように見えるところ、「後出」で眞壁が、一体、何を書いているかですね。(太田)

 (4)漢文国書の翻訳・漢文返書・返書案作成担当。・・・

⇒これぞ、「外交」関係での儒者達の本来業務でしょう。(太田)

 (5)外交交渉(聘礼受容の際)の全権・儒官としての任務。
 外交事務を専務とする外国奉行が成立する以前の広義での外交交渉・・・のうち学問所儒者が参与したのは、対朝鮮・<琉球・>西洋諸国など国際語としての漢文が用いられる外交交渉であった。・・・
 だが、対儒学文化圏の外交交渉ばかりでなく、嘉永年間のプチャーチン来迎時の魯西亜応接掛の首席全権は学問所御用筒井◎渓・・・が務め、條約締結の際に條約漢文本書の作成を担ったのは儒者古賀謹堂であり・・・、ペリー再来航時の亜墨利加応接掛の首席全権は林大学頭復齋<(注62)>、儒官は松崎柳浪であった・・・。」(151、153~155)

 (注62)1801~59年。「林述斎の六男として生まれる<が、>・・・親族の第二林家・・・の養子となり、<やがて>家督を継ぐ。文政7年(1824年)紅葉山文庫の書物奉行として勤務。・・・天保9年(1838年)には二ノ丸留守居に転じ、以後、先手鉄砲頭、西丸留守居などを歴任、能吏として知られた。また併行して昌平黌の学問所御用も兼務、総教(塾頭)となった秀才でもあった。嘉永6年(1853年)、本家大学頭家を継いでいた甥・・・が死去。急遽大学頭家を継ぐことになる。小姓組番頭次席となり、大学頭と改名。54歳にして林大学頭家11代当主となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BE%A9%E6%96%8E

⇒プチャーチン来迎時については、筒井◎渓は、幕府によって「西丸留守居役では重みにかけるとして・・・、幕府内の席次を大目付格に昇叙」させられています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E6%94%BF%E6%86%B2 前掲
 ここからも分かるように、あくまでも、筒井は、儒官としてではなく行政官僚として、プチャーチンと交渉したわけです。
 ペリー来航時の林復齋についても、彼は、たまたま林家出身ではあったものの、筒井同様、儒学を余技としつつ幕府行政官僚としてのキャリアを積んできていたところ、図らずも林家の惣領になってしまっていた、というだけのことです。
 やはり、ここでも、林は、儒官としてではなく、行政官僚として、ペリーと交渉したわけです。
 なお、プチャーチン来迎時とペリー再来航時に、それぞれ、筒井と林の他に儒者/儒官も関与したのは、ペリー再来航時を例に取れば、「フィルモア<米>大統領の親書は漢文およびオランダ語に翻訳され、日米和親条約も日本語、英語に加えて漢文版、オランダ語版が作成されて内容の確認が行われている。会話による交渉はオランダ語が中心となり、・・・文書による交渉では漢文が併用された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84 
という事情から、に他なりません。
 なお、このペリー再来航時に、ペリーが軍人だったというのに、幕府側が、その出自、教育、キャリアから見て、完全な「武」音痴であったと思われるところの、林を、よりにもよって首席全権に任じた感覚には唖然とさせられます。(太田)

(続く)