太田述正コラム#9729(2018.3.28)
<近所の名所(その1)>(2018.7.12公開)

1 龍子記念館

 10年以上前に一度訪れたことがあるのですが、近所に引っ越してきてからは、龍子記念館<(注1)>と龍子公園<(注2)>の間、は、しょっちゅう通るものの、再訪する機会がなかったところ、今回、従妹が来訪したおかげで、龍子記念館を再訪することができました。

 (注1)「龍子記念館は、・・・川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して[自らの設計で、]1963年に設立され・・・た。」
http://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/tabid/218/Default.aspx
 西馬込駅からは徒歩15分、大森駅からは東急バス4番「荏原町駅入り口」行乗車「臼田坂下」下車、徒歩2分。大森駅から我が家に来られる場合も「臼田坂下」下車で同じ。
 (注2)「龍子公園は、龍子自らが設計した旧宅とアトリエ[・・どちらも、本人が設計に関与している・・]を当時のまま保存してい<るところ、>旧宅は戦後1948~54年、爆撃の難をのがれたアトリエは・・・1938年<、>に建造されたもの」
http://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/ryushi_park/tabid/227/Default.aspx
 ([]内はツアー引率学芸員の説明)

 今回は、初めて、龍子公園・・非公開であり、龍子記念館から出発する、一日3回のツアーの一員としてのみ見学できる・・も見学することができました。
 引率学芸員の説明が丁寧で熱がこもっていて、好感が持てました。
 さて、川端龍子<(注3)>についてです。

 (注3)1885~1966年。「日本画家、俳人。弟(異母弟)は「ホトトギス」の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も「ホトトギス」同人であった。本名は昇太郎。・・・
 府立三中在学中の1903年(明治36年)に読売新聞社が『明治三十年画史』を一般募集した際に龍子は30作品を応募した。このうち『西南戦争の熊本城』と『軍艦富士の廻航』の2点が入選し40円(1点20円)の賞金を得た。これが本格的に画家を志すきっかけとなった。画家としての龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていた。1913年(大正2年)に渡米し、西洋画を学び、それで身を立てようと思っていた。しかし、憧れの地<米国>で待っていたのは厳しい現実であった。日本人が描いた西洋画など誰も見向きもしない。西洋画への道に行き詰まりを感じていた。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向した。・・・
 大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とした。大正 – 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。・・・
 1944年(昭和19年)には『水雷神』。水にすむ神々が持ち上げているのは、魚雷である。暗く深い海の底、その水は重く濁っている。龍子はこの神々に命を投げ出し、突き進む特攻隊員の姿を重ねた。この絵を描いた頃、龍子は息子を戦地で、妻を病で亡くしていた。・・・戦後の1950年(昭和25年)、65歳になっていた龍子は妻と息子の供養のため、四国八十八ヵ所巡礼を始める。6年がかりで全札所を回り、各札所で淡彩のスケッチ(画家自らは「草描」と呼ぶ)を残した。これらは、札所で詠んだ俳句とともに画文集『四国遍路』として出版されている。・・・
 1959年(昭和34年)、文化勲章受章。・・・
 龍子は自邸内に持仏堂を建てて古仏を安置していたが、これらのうち重要文化財指定の1162年(応保2年)銘・毘沙門天立像は遺族により東京国立博物館に寄贈されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E9%BE%8D%E5%AD%90

 「注3」からも分かるように、龍子の生涯と作品には、米国と先の大戦・・日米戦争を含む・・が大きく影を落としています。
 「龍子公園内の「爆弾散華の池」は、終戦間際の空襲で壊滅したアトリエ兼居宅・・・の住宅部分を、龍子が池として造成し・・・た<もの>」(龍子記念館パンフレット)であることもそうです。
 (「散華」は草花達の爆死を指す(学芸員の説明)、というのですから、龍子の人間主義者的優しさが・・仏教への思い入れぶりもこれあり・・伺えました。)
 なお、龍子は、戦前、内蒙古と南洋諸島を訪れています(記念館内展示)が、これはあたかも、先の大戦の勃発を予期して、その、対ソ(露)と対米の最前線を予め訪問したかのようです。
 蛇足的な感想を申し上げれば、龍子自身が俳人でもあったこと、また、異母弟が俳人であったことから、美術の才能と文学の才能とは相通ずるところがあるらしいな、また、それゆえにこそ、美術と文学は、大成するのに必ずしも先生を必要としないのかも、というものです。
 そうそう、館内の展示が、この時期は「名作展 鳥獣百科」であったところ、戦後インドから贈呈された象のインディラと子供達を描いた『百子図』(龍子記念館チラシ+展示)等から、日本画と漫画/アニメの画風的近似性も強く感じましたね。

(続く)