太田述正コラム#9763(2018.4.14)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その37)>(2018.7.29公開)

 「学問所での幕臣教育の目的の一つが、試業を通した<選別化>にあり、そのうち最も重視された学問吟味では、『大學』<(注78)>の「辨書(べんがき)」で朱熹の注釈が標準とされていた。

 (注78)「大学とは儒教の経書の一つ。南宋以降、『中庸』『論語』『孟子』と合わせて四書とされた。もともとは『礼記』の一篇であり、曾子によって作られたとも秦漢の儒家の作とも言われる。・・・
 「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八条目が提示されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
 「『礼記』(らいき・・・)とは、周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が編纂したものである。・・・
 『礼記』49篇は、各篇独立した書物であるため、漢代以来、各篇を単独で読解する傾向があったが、宋代に至りその傾向は一層強くなった。特に「大学」と「中庸」の2篇は独立した経書としてみなされ、『論語』『孟子』とともに四書の一つに数えられるに至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E8%A8%98
 ちなみに、「五経(ごけい・ごきょう)または六経(りっけい・りくけい)は、儒教で基本経典とされる5種類または6種類の経書の総称。すなわち『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』の六経から、はやく失われた『楽』を除いたものが「五経」である。・・・。『易』は宇宙生成にまつわる陰陽未分化な太極から扱い、その基本となる八卦の製作者は伏羲とされる。『書』は堯・舜から夏・殷・周三代の歴史書、『詩』と『礼』『楽』は周代に作られ、『春秋』は春秋時代の魯で作られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%B5%8C

 したがって、学問所で教鞭をとる儒者古賀●庵の経書解釈・・・<である>『大學問答』・・・も、思想の独創性を競うためではなく、吟味を前提とし、学問所教育の一環として執筆されているということである。
 『大學問答』は、叙述形式こそ明清期の経書解釈書には見られない「問答」形式を採るが、その内容は、●庵が当時目にした明末・清初の経書解釈方法、すなわち、『四書大全』<(注79)>所収の諸説を前提にしながら、さらにその後の諸説にも眼を配り、二程子や朱子の主旨を弁じて、その観点から諸解釈を取捨選択していくものである。

 (注79)「明では朱子学は官学となり、永楽帝の命によって『四書大全』・『五経大全』・『性理大全』などが編纂された。・・・『四書大全』と『五経大全』(ともに1415年刊)は、『四書』と『五経』を朱子学の説によって解釈した注釈書で、以後<支那>と朝鮮で科挙試験の解釈の基準となった。また『性理大全』(1415年完成)は、宋・元の性理学の学説を集大成した書である。しかし、国家が経典の解釈を定めたために、儒学は形式化し、思想の固定化が進んだ。科挙の受験者はこれらを暗記するのみで、明・清代の知識階級の自由な研究心は阻害されたといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E5%A4%A7%E5%85%A8
 性理学=理学=道学(Daoism)=宋学=Neo-Confucianism。「その起源は中唐の韓愈や柳宗元らに求められる。それまでの経典解釈学的な儒学(漢唐訓詁学)は批判され、人間の道徳性や天と人を貫くことわり(理)を追求することこそ学問であるとされた。このことは文学史上の古文復興運動と連動しており、文章は修辞などによる華麗さを追求するものではなく、道を表現するための道具であるとされた。・・・
 程顥・程頤(二程子)を祖とする道学<では、>天理人欲、理一分殊、性即理などを述べた。道学の流れを汲み、他の流派の言説をも取り入れつつ、後世に大きな影響力のある学問体系を構築したのは南宋の朱熹である。朱熹の学派は道学の主流となり、このため程朱学派の名がある。朱熹は存在論として理と気を述べ、理気二元論を主張している。彼らの学問は性即理を主張したので性理学と呼ばれる。
 一方、朱熹と同時代の陸九淵や明代中葉の王守仁(王陽明)のグループは心即理を主張したので、心学と呼ばれる。心学は明代中期に隆盛した。
 理気論は宋代は理気二元論<だったが>、明代は気一元論へと変化していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%98%8E%E7%90%86%E5%AD%A6

 テクスト原典と直接対話し、独創的な解釈を生み出す読解ではなく、むしろ一方で「程朱」の全著述を踏まえながら、他方で朱子学を標榜する学問内の、経書解釈史の蓄積を前<(ママ。前提?(太田))>にしたテクスト解釈である。」(235~236)

⇒「註79」に言うように、「<支那>と朝鮮で科挙試験の解釈の基準とな<り>・・・国家が経典の解釈を定めたために、儒学は形式化し、思想の固定化が進んだ。科挙の受験者はこれらを暗記するのみで、明・清代の知識階級の自由な研究心は阻害された」的なことが当然、日本でも起こったはずですが、「科挙」ならぬ「学問吟味」の出題が良問化して行ったこと、「経典の解釈を定めた」のが「国家」ではなく「幕府」であり、「各藩」は必ずしもこの「経典の・・・定め<られた>・・・解釈」に拘束されなかったこと、「定めた」程度が緩く、官儒が「経典の」他の「解釈」を唱える自由が、少なくとも私的には許されていたこと、等(以上、コラム#省略)から、日本における「自由な研究心<の>阻害」の程度は、支那と朝鮮に比べれば、比較にならないほど小さかった、と言えるのではないでしょうか。
 しかし・・、というのが、私が、次回に取り上げようと思っていたけれど、次々回のオフ会「講演」に回したところの、明治以降の日本における、その深刻な後遺症です。(太田)

(続く)