太田述正コラム#9767(2018.4.16)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その39)>(2018.7.31公開)

 「●庵の華夷秩序観が、夷狄を文徳によって服属させうるとする中国戦国時代に生まれた中国の中華思想とは明らかに異なるのは、第一に中華を中国の「中原」に実態的に限定せず、<中華--夷狄>を関係概念として機能的に捉える点であり、第二に中華と夷狄の関係を、理念においても「徳」や「礼」の有無という文化的区別のみではなく、「威力」や「威武」という軍事的区別を並列させて論じる点においてである。・・・
 ●庵が何をもって「中原之道」と認識していたかは次のような叙述からも明らかである。
 「吾将に之を奈何とす、独り百倍の工夫を用いて以て自強するのみ、吾が徳、吾が威、高く戎虜之上に出ず、然る後方に醜虜を塞外に駆逐するを望むべくして、豈に至難に◎<(石偏に骨)>々(かつかつ)せざらんや」・・・。
 即ち他と比較して道徳的優越と同時に軍事的にも優越するものが「中原」に位置する・・・<べきであるとしつつ、●庵は、>・・・いわば自国を含めて国際世界の政治秩序の中心=「中華」が喪失し、流動的な国際秩序観を持たざるを得なかった<というわけだ>。・・・
 江戸時代には、明朝がそれまで夷狄であった女真人の清朝に交替する「華夷変態」<(注83)>の衝撃などから、中国批判は決して珍しかったわけではない。

 (注83)「林春勝(林鵞峰)と林信篤(林鳳岡)の父子が、1732年に編纂した書物で、表題は、「中華が蛮夷に変わってしまったこと」を意味している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%A4%B7%E5%A4%89%E6%85%8B

⇒このあたり、かねてから(日本と違って)小中華意識を抱いていた李氏朝鮮における華夷変態への対応
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
との比較をして欲しかったところです。(太田)

 蘭学の影響で「支那」という呼称も広く流布しており、たとえば松平定信も「漢土の事をさま<ざま>に称して、中華中土などいふはこのまず、震旦<(注84)>支那などは猶ゆるすべし」・・・と述べて中国の文化的優越性の承認を拒否していた。

 (注84)しんたん=Zhen-dan=Chên-tan。「振旦,真丹とも書く。中国の古称。古代インド人が中国を秦の土地 (チーナスターナ) と呼んだことに基づく。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9C%87%E6%97%A6-82210

⇒日本における「支那」という地域呼称は、やはり、欧州由来だったのですね。(太田)

 しかし、●庵の時代にもまだ多くの儒者や文人が中国を「中華」と崇めていた。
 それ故に彼は執拗に・・・「西土」や「支那」・・・批判を繰り返すのだろう。・・・
 さらにいま一つ、・・・清朝認識形成の契機となったものがある。・・・
 文化9年の●庵による「南漠靖氛録」・・・は、台湾の林爽文<(注85)>が起こした暴動鎮圧のために、乾隆52(1787)年に清朝が諸地域の連合軍・・・を派兵した事件を記したものであるが、●庵はこれに・・・伝聞を挿入している。

 (注85)?~1788年。「福建省<生まれ。>・・・1773年に父と共に台湾・・・に移住する。1784年に天地会に参加し、<現地の>指導者として頭角を現す。・・・1787年・・・台湾知府孫景燧が天地会に対する取締りを行うと林爽文は軍勢を率いて反清活動を行う。・・・1ヶ月にして台湾府を除く清朝官衙は天地会の支配下に入った。清朝は陝甘総督大学士福康安、参賛大臣海蘭察による征伐軍を11月に派遣・・・翌年1月に・・・林爽文を捕らえることで反清活動はようやく終焉したが、この叛乱の鎮圧に清朝は10万以上の大軍と1年4ヶ月の期間を費やしている。林爽文は北京に送られ凌遅処死に処せられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%88%BD%E6%96%87
 フカンガ(福康安=Fukangga。?~1796年)は、「満州旗人」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%AC%28%E7%A6%8F%E5%BA%B7%E5%AE%89%29-123798#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
 ハイランチャ(海蘭察=Hailanca。?~1793年)は、「エヴェンキ・・・族出身」
http://talkiyanhoninjai.net/2005/12/04/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%EF%BC%88%E6%B5%B7%E8%98%AD%E5%AF%9F%E3%80%80%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89/
 「凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで<支那>で処された処刑の方法のひとつ。存命中の人間の肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり激しい苦痛を与えたて死に至らす処刑方法である。・・・歴代<支那>王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。・・・蒸殺が最も重い刑罰とされた李氏朝鮮でも実施された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91

 薩摩藩儒の確齋は、かつて福州にある清館に遣わされた経験をもつ琉球人から、その台湾平定に向かう「満兵」が福州を通過する際に「市店の酒肉有る、恣に之を🔵<(口偏に舀)>⦿<(口偏に敢)>し、償値を肯はず、婦女を見れば公けに姦淫を行ひて、州人大ひに懼れ、みな緊(きび)しく戸を閉め」て出なかったという話を聞いた<、と。>・・・
 おそらく福州の漢民族からする統治者満州民族への偏見も含まれた情報は、福州に在る琉球館を通して琉球へ、琉球人から薩摩藩儒確齋へ、江戸遊学中の確齋から学問所の●庵へと、人間を介して伝えられた。
 この情報は、●庵の明清交替を経た満州人の気質に対する印象を強く刻みつけたに相違ない。」(248~251)

⇒この挿話は、支那史を通じて漢人の兵士達にも見られたはずの、ありふれた軍規の弛緩とも考えられますし、林爽文に対して行われた野蛮の極致のような凌遅刑もまた、「法制化されたのは唐滅亡後の五代十国時代で・・・明代<にも行われていた>」(上掲)というのですから、満州族やエヴェンキ族といった諸少数民族を、漢人に比して野蛮視するかのような眞壁の筆致はいかがなものかと思います。
 従って、●庵が眞壁と同じ受け止め方をし、そのことが、●庵の「清朝認識形成の契機となった」のかどうか、私には疑問です。
 とまれ、隷下の琉球を清への朝貢国のままにしておいた薩摩の、支那情勢への通暁ぶりは、当然のこととは雖も、感心させられます。(太田)

(続く)