太田述正コラム#9771(2018.4.18)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その41)>(2018.8.2公開)

 「古賀●庵の「海防臆測」<は>・・・天保9(1838)~11(1840)の3年間に書かれた・・・
 1840年前後、●庵が最も信頼を置いたのが蘭文地理書の翻訳本であった・・・
 <彼が、>代表的な西洋地理書と認知していたのは、・・・ドイツのヨハン・ヒュブネル(Johann H. Hübner)父子(1668~1731、1703~58)<(注90)>の著作の蘭訳本に依拠していた・・・<2冊の和書だった。>・・・

 (注90)独語でも英語でも、ウィキペディアが父の方
https://de.wikipedia.org/wiki/Johann_H%C3%BCbner
https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_H%C3%BCbner
しかなさそうなので、子の方は無視してもよさそうだ。
 父についてだが、ライプチヒ大で学び、1693年に『地理のための問答』を著し、爾後、地理が諸学校で教えられるようになった。また、『子供のための聖書』(1714年)は、この種のものとしては、最大のベストセラーであり続けている。(上掲)

 <この著作であるところの、>「ゼヲガラヒー<(地理のための問答)>」・・・の記述・・・では、アジアはいわば文明発祥の地として認識される。
 そこに西洋人の体験的観察の域を出ないアジアへのさまざまな先入観が混在しているにせよ、文明進歩の諸法則に基づいた<停滞したアジア>というアジア観は窺えない。
 これは、18世紀初めのヒュブネルの「ゼヲガラヒー」の性格が、自然科学に基づく純粋地理と歴史や民族史を含む政治地理の二つの分野で、巨大理論(グランド・セオリー)が生まれる以前の、方法論的な前提を欠如した地誌であったことに依ると考えられる。
 ・・・「ゼヲガラヒー」は、自然地誌と政治地誌とが未分化であり、ヒュブネル以後、一方の純粋地理では諸現象の中に因果的に作用する自然法則性を捉えようとする試みが、18世紀後半からドイツで現れ(Busching<(注91)>, Zeune<(注92)>, A.v.Humboldt<(注93)>, C.Ritter<(注94)>など)、その影響も受けて19世紀には、他方の人文地理でも急速に変化・拡大する世界を一つの因果法則に基づいて説明しようとする、明確な方法論に基づく普遍史の試みが現れてくる。

 (注91)Anton Friedrich Büsching(1724~93年)。ハレ大卒の地理学者、歴史学者、教育家、神学者。地理についての最初の科学的著作を書いた人物。
https://en.wikipedia.org/wiki/Anton_Friedrich_B%C3%BCsching
 (注92)Johann August Zeune(1778~1853年)。ヴィッテンベルク大卒の地理とドイツ系諸語の教師。
https://en.wikipedia.org/wiki/August_Zeune
 (注93)Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt(1769~1859年)。ゲッティンゲン大等で学んだ「博物学者兼探検家、地理学者。・・・動植物の分布と緯度や経度あるいは気候などの地理的な要因との関係を説き、近代地理学の方法論の先駆的業績ともいえる・・・近代地理学の金字塔、大著『コスモス』を著したことは有名。カール・リッターとともに、近代地理学の祖とされている。・・・終身独身」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88
 (注94)Carl Ritter(1779~1859年)。ハレ大卒の「地理学者、教育家。・・・ベルリン大学は、世界で初めての大学での地理学の講座がおかれた大学であり、<それは、>専門的な地理学者の養成をする史上初めての講座である<が、>リッターは、そこの初代教授になった。従ってリッターは歴史上初めての地理学教授の肩書きを持つ人物となる。・・・
 大著『地理学』<は、>・・・地表とその住民の関係を説いた<ところ>、近代学問としての地理学の確立にも欠かせない存在である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC

⇒このくだり、英語本たる典拠が挙げられています(377)が、もう少し詳しく説明して欲しかったところです。(太田)

 双方の方法論が確立する以前のヒュブネルの世界像に明らかなことは、その世界地理の前提が、19世紀ビクトリア期のイギリス産地誌に顕著な「非西洋」は文明を作り出すことができず、ただ欧州にのみ可能だったという認識で欧州中心に序列化された「文明」「半開」「野蛮」という文明史観<(注95)>からはかなり自由なことである。

 (注95)「明治期の日本が文明開化を図ろうとしたとき,福沢諭吉ら多くの論者は文明史を基本的に「野蛮(未開)—半開—文明」の3段階に区分し,日本を「半開」として,周辺に「野蛮(未開)」をさまざまに設定した。だが,この場合,「野蛮(未開)」は,savage 段階とbarbarous 段階を包括する曖昧なものか「非文明」一般を表すものであり,また「半開」の理解も幅のあるものであったから,1875年以後「文明と野蛮」図式は変質を遂げ,ついには中国(「支那」)・朝鮮をも「野蛮」と規定し,日清戦争を「文野の戦争」として正当化する図式に転化した。」
https://ci.nii.ac.jp/naid/120006025852

⇒「半開」は、semicivilizedないしsemicivilisedの訳語
https://ejje.weblio.jp/content/%E5%8D%8A%E9%96%8B
だとして、「文明,半開,野蛮という歴史発展の図式が,いかなる文献によって明治初期の知識人に常識化されたかは,当時読まれた洋書とか,またそれの翻訳によって指摘することは困難である」
http://www.pwpa-j.net/opinion/shinro32_kawabata.html ☆彡
ようですが、眞壁の見解を聞きたかったところです。
 なお、「注95」の記述は記述として、福沢諭吉は、「日本=半開」とは、ポリティカルコレクトネスの観点から断言まではしていなかったようですね。(上掲)
 いずれにせよ、福沢は、「米国を「開化文明の真境」と・・・している」(上掲)点からも、米占領下の戦後日本で開花したと言ってよい、近代主義者達の先駆者と言うべき人物だったのであり、丸山真男が福沢を高く評価した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
のは当然でしょう。(太田)

 <停滞したアジア>というイメージが<欧州における>一般の社会的通念として定着するのは18世紀末と云われており<(注96)>、ヒュブネルの生きた17世紀末から18世紀初頭の欧州でのアジア認識は、決して遅れて劣ったアジアという一義的な解釈はなされず、たとえば中国は、合理的な社会秩序の確立(啓蒙化された君主制)と維持の点で欧州よりも優れるとする見解が多く見られた。・・・」(266~268、270~271)

 (注96)「<H.>バックルによれば,文明の発達は人間知性の進歩の結果に他ならぬというのは,<欧州>に限ってのことなのである。すなわち,気候,土壌,食糧は,富の蓄積及び分配を通して文明と社会状態を決定する必須条件となる。アジア及び南方諸国では土壌の肥沃に基づく富の蓄積によって文明が進歩するに反して,<欧州>では,気候の影響による規則正しい労働の習慣によって文明が発達する。前者にあっては,文明の依存する自然力は,その力が大であるにかかわらず制限されており,且つ停滞的である。後者の文明は,その依存している人間の力は制限されていない。したがって,アジアの文明はある程度以上は進むことが不可能に反して,<欧州>のそれにあっては限りなく進展し得るとした。
 社会の状態については,食糧の化学的成分と気候との関係から「熱帯の諸国では賃銀が低く,寒帯のそれにあっては高くなる傾向がある」。しかるに,収益は利子,地代,賃銀より成るのであるから,賃銀が低いということは分配の不平等,ひいては上層と下層の政治権力,社会的勢力の差を大ならしめる。
 次に自然の一般的状態(general aspect of nature)については,もし自然の状態が地震火山活動,疾病等によって強い力を発揮するときは想像力が強く働いて,理解力(知性の論理的な働き)が抑止される。これに反して,自然の一般的状態が小規模であり,力弱い場合は実験,観察が容易であり,探求的,分析的精神が発達し,自然を支配する法則を発見して,人間が自然を支配するに至る。
 <欧州>以外の文明が,想像力に富んでいるが理解力に乏しいのは,こうした自然の一般的状態に起因するというのが,H.バックルの所論である。」(☆彡)
 ちなみに、福沢の『文明論之概略』に「とくに影響を与えたのは,F.P.ギゾーと<、このH>.バックルである」(☆彡)にもかかわらず、当然と言うべきか、「福沢は,このような地理的唯物論と,それに基づく<欧州>優越の理論については全く触れず,むしろ疑問の態度をとっている。」(☆彡)
 なお、ヘンリー・トマス・バックル(Henry Thomas Buckle。1821~62年)は、「イギリスの歴史学者。”History of Civilization”(文明の歴史)<(未完)>の著者。・・・裕福なロンドンの哲学者・商人であるトマス・ヘンリー・バックルの息子として、ケント州・・・に生まれる。病弱であったため、正式な学校教育を受けることが困難であった。しかし幼少時代、読書に対する愛情が大いに励みとなる。20歳になる前に、世界でも屈指の実力を誇るチェスプレーヤーとして、その名を知られるようになった。1840年1月に父親を亡くした後、母親と共に大陸を旅する(1840年から1844年まで)。そのとき、全ての学識と熱意を偉大なる歴史的業績に傾注することを決意する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AB

⇒「<停滞したアジア>というイメージが<地理的意味での欧州において>一般の社会的通念として定着するのは18世紀末」のくだりに、眞壁が典拠を付けてくれておれば、私が、自分で、応急的な注釈を付ける(「注96」)必要はなかったのですが・・。(太田)

(続く)

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