太田述正コラム#9775(2018.4.20)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その43)>(2018.8.4公開)

 「1760年代までの世界地理のためか、「海防臆測」執筆時の●庵にはアメリカの独立建国は視野に入ってこない。
 ●庵の眼に映る「泰西」は、「航海之術」や「軍器兵械」に長じているという点以外は、道義的立場からの批判の対象だった。
 植民地化を進める「泰西の風習」は「呑併之挙」であり、「泰西の俗は専ら<△(門構えの中に共)>闘呑噬を以て務めと為す」・・・という批判は、●庵の著作の中で繰り返し現れる。
 では、西洋と日本を含む東アジアの儒学文化圏との「風習」の相違は何に起因するのか。
 ●庵は、この「侵略」を務めとする西洋の「風習」の要因を、彼らが信奉する「妖教」<・・キリスト教・・>には求めなかった。・・・
 スペインとポルトガルが16世紀に海外「遠征を務め」たことに端を発し、これに加えて西洋の「風土」が「寒沍」で、「人情」が「沈毅鷙忍」すなわち残酷な性格であることに原因があると考えられた・・・。
 ・・・まず西洋がただ「利」を追求し「理義」や「信義」を問おうとしない点である。
 ●庵は儒学の義利之辨<(注98)>の伝統の下に「利」を批判するが、決して「利」を軽視し、完全に否定していたわけではない。

 (注98)「儒教における義は、儒教の主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた(義利の辨)。孟子は羞悪の心が義の端であると説いた。羞悪の心とは、悪すなわちわるく・劣り・欠け、あるいはほしいままに振舞う心性を羞(は)じる心のこと。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9
 参照:「日本倫理に義理ありて、西洋倫理に義務あり、義理は情的倫理にして私的なり、是に反して義務は理的倫理にして公的なり。義理は情愛に富むも不公平なり、義務は不人情の如くに見えて公平なり。義理は家族的道徳にして義務は国家的道徳なり。義務の観念に薄くして国政は永久に持続し得べきものにあらず。」(内村鑑三)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E7%90%86

⇒内村鑑三のように、「妖教」に絡めとられてしまった人物であれば勿論のこと、「泰西」文化に心底傾倒してしまった日本人達が幕末以降、続出したことで、「義利之辨」がいかに矮小化されることになってしまったか、が、「注98」の「参照」からも、お分かりになることと思います。(太田)

 彼は「功利」を「天然之功利」と「理義に戻る之功利」との二種に分類し、後者を批判して前者を重視する。・・・
 『易経』「周易」が「利」を論じているように、「一身の利害」は勿論「国家之利害」はより優先して「精思審度」しなければならない。
 だが、「利」は「正誼明道」則ち道を正し明らかにすることに自ら附随するのであって、それ自体を追求してはならない。
 このような「利」は「義」より生ずるという「利」の理解を前提として、ただ「利」のみを求めて無制限の植民地獲得競争を続ける西洋・・・では、・・・「徳行」よりも「事功」が重視されており、さらに、・・・人びとは心清くして悪を恥じることを知らない。・・・

⇒「忠」と「孝」の優先順位の違い(コラム#9692)等の違いはともかくとして、支那に比して、日本では、儒教倫理がより良く守られていた、つまりは、日本人は、基本的に、ウォーキング四書五経であった、という認識は、素行以来、江戸時代において流布していた考え方だと思われ、このことを前提とすれば、儒教が国家道徳とされていた、清、朝鮮、日本の間で、●庵の時代に至るまで、この3国間で平和が保たれてきていたというのに、「泰西」諸国間、及び、「泰西」諸国とその他諸国との間には戦争が絶えなかったのですから、●庵らが、「泰西」諸国を野蛮視したのは当然でしょう。(太田)

 そして・・・日本や中国は「王道」に近く、西洋の「侵略」的な挙動は「覇」に分類された。<(注99)>

 (注99)「孟子は・・・夏・殷・周のように徳を持って世を治めることを王道と呼び、それを遂行する者を王者と呼んだ。 また、春秋時代の諸侯のように知力や武力を持って世を治めることを覇道と呼び、それを遂行する者を覇者と呼んだ。
 孟子は王道こそを理想とし、覇道を賎しいものとした。これを尊王賎覇と言う。・・・
 <この>尊王賎覇の考えが日本では、王=天皇・覇=武家政権・・・と解釈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E7%8E%8B

 このような西洋文化の認識に基づいて、たとえば、「阿片之変」に対しては、・・・イギリスの「非理無道之挙」批判が生まれてくるのである。」(274~276)

⇒「覇」たる、「泰西」諸国が、「長じている」軍事、すなわち、「「航海之術」や「軍器兵械」」、を引っ提げて、東アジアに対しても、「呑併之挙」に出てきていたのですから、これら諸国を野蛮視するだけでなく、この「「航海之術」や「軍器兵械」」を日本も身に着けなければ対抗できないはずであるところ、●庵ら幕府儒官達がそうすべきである、との提言を行ったのか、行ったとしてどの程度行ったのか、が問題になってくるのです。(太田)

(続く)