太田述正コラム#0621(2005.2.7)
<米国とは何か(完結編)(その2)>

 それでは、米国が行ってきた様々な戦争の中で、AndersonとCaytonが焦点をあてている二つの事例をとりあげ、米国の戦争観がいかなるものであるのか、具体的に検証することにしましょう。

3 事例研究

 (1)米独立戦争
 7年戦争全体と同様、その北米版であったフレンチ・インディアン戦争は、典型的な万古不易の領土と財貨とめぐる戦争にほかなりませんでした。
 この戦争にフランスが敗れ、英国が勝利した結果、北米大陸の東半分が英国領として確定します。
 この北米大陸東半分を占める巨大な英領北米植民地を英本国がコントロールするのか、それとも英領北米植民地側がコントロールするのか、という権益争いが、米独立戦争へと発展して行くのです。(そのきっかけが、北米大陸における英本国軍の駐留経費の一部を英本国が英領北米植民地に負担させようとしたことであったことは、拙著を含め、何度も指摘してきたところです。)
 キリスト教原理主義者が牛耳っていた英領北米植民地では、English way of life にほかならなかったアングロサクソン文明が実は、human way of life であって普遍性があり、自分達はこの文明を世界に普及する使命を神から与えられている、という独特の選民思想を抱く人々がリーダー層に多く、彼らは、単に領土と財貨を求めて行動する英本国より自分達の方が高い価値を体現している、と主張して独立戦争を戦ったのです。
 ここで銘記すべきことは、彼らにあっては、領土と財貨を求めるというホンネとアングロサクソン文明の普及というタテマエとが分かちがたく結びついている、ということです。
 これは、プロト欧州文明において見られた、領土と財貨を求めるというホンネとキリスト教圏の失地回復・拡大というタテマエとが表裏一体をなして実施された十字軍や、ドイツの諸領邦が、プロテスタンティズムとカトリシズムを旗印にしつつ、その実領土と財貨を求めて殺戮しあった30年戦争における戦争観に類似した戦争観であり、本国のイギリス人からすれば、まことに野蛮かつ非合理的な戦争観でした。そんな戦争観で戦えば、タテマエに引きずられて、コスト計算による歯止めがきかず、戦争がいたずらに長期化したり、どんどんエスカレートしたりする恐れがあるからです。
 だからこそ、こんなコスト計算を度外視した狂信的な連中をたたき伏せるまで戦うのはばかばかしいと、英本国は、力を十分残しながら、米国の独立を認めたのでした。
 そんな米国が、その後図に乗って、アングロサクソン文明普及のための「十字軍」に乗り出すようなことなく、確実に勝てる戦争しか基本的に行わず、着実な領土拡大と勢力圏拡大に成功して現在に至っているのはどうしてなのでしょうか(注2)。

 (注2)フランスの敗北で終わった7年戦争の結果が生んだ二つの大事件が米国独立とフランス革命だが、フランスは、柄にもなく、米国独立「革命」の二番煎じで、アングロサクソン文明の世界への普及を唱え、革命を全面的な侵略戦争に転化し、欧州中を戦禍に巻き込み、結局は再びみじめな敗北を喫することになった(コラム#620)ことと好対照だ。

私はその理由として二つ挙げたいと思います。
一つは、いくらできが悪い(bastard)とはいえ、米国にとってアングロサクソン文明は決してフランスにとってのごとく、借り物ではなかったということです。
ですから、米国では、フランス革命後のフランスのように、民主主義が独裁者に乗っ取られる(注3)ようなことがなく、「自由」・民主主義は機能し続け、コスト計算に立脚した声が無謀な戦争へと扇動する声を牽制し続けたのです。

(注3)私が欧州文明固有の民主主義独裁形態として挙げている、ナショナリズム・共産主義・ファシズムの一番手のナショナリズムを革命フランスは「発明」し、その論理的帰結がナポレオンによる独裁だった。

もう一つは、米国独立後も英領北米植民地として残ったカナダを併合しようと、米国が英国に戦争をふっかけた1812??14年の米英戦争(第二の独立戦争とも言われる)の教訓です。
この戦争は形の上では引き分けに終わったのですが、英軍の強さ、就中英海軍の強大さを思い知らされ、首都ワシントンが焼き払われるなど、さんざんな目に遭い、実態は敗戦でした。
この「敗戦」により、米国は、独立戦争における「勝利」が実力による勝利ではなかったことを自覚したに違いありません。こうして彼我の力を冷静に計算し、勝てる戦争しかしない、という考え方が米国の国是になった、と私は見ているのです。
(以上、米英戦争については、http://members.tripod.com/~war1812/intro.html以下による。)

(続く)