太田述正コラム#0622(2005.2.8)
<米国とは何か(完結編)(その3)>

(2)南北戦争
  ア 始めに
 米独立戦争は、英国内における内戦であり、南北戦争は米国内における内戦でした。
そして、前者が英国がフランスに勝利したフレンチ・インディアン戦争の論理的帰結としての内戦だとすれば、後者は米国の勝利に終わったメキシコ相手の米墨戦争の論理的帰結としての内戦でした。
 米墨戦争、そして南北戦争に至る経緯は次の通りです。

  イ マニフェスト・デスティニー
 フランスからのルイジアナの購入(Louisiana Purchase。注5)によって、一挙に領土が拡大した米国は、1836年にメキシコ(注6)から独立したテキサスを1845年に併合します。

(注5)フレンチ・インディアン戦争に敗北したフランスは、カナダは英国に、(大)ルイジアナはスペインに割譲させられたが、1800年にフランス(皇帝になる前のナポレオン)はスペインとの条約で再びルイジアナを入手した。ところが、ハイチでの奴隷反乱を鎮圧できなかったナポレオンは、ハイチ(イスパニョーラ島)が確保できないのなら、当時イスパニョーラ島に比べて経済的価値が低かったルイジアナを持っていても仕方がないとして、来るべき対英国戦の軍資金確保も兼ね、1803年に約1,500万米ドルで米国にルイジアナを売却した。この結果、米国の面積は二倍に増えた。(http://gatewayno.com/history/LaPurchase.html。2月8日アクセス)
 (注6)メキシコは、スペインから1821年に独立を果たしていた。

独立したテキサスは、米国に併合されることを望んでいたというのに、実際の併合までこんなに時間がかかったのにはわけがありました。
そもそも、メキシコ領テキサスに移り住んでいた米国人達が、メキシコからの独立を図ったのには様々な理由があったのですが、その中に、多くが奴隷保有者であった彼らの、メキシコ政府の奴隷保有を禁じた新政策に対する反発がありました。
米国の北部の人々は、テキサスが奴隷保有州として米国に加わることで、工業中心で(英国の工業製品との競争に晒されていて)保護貿易志向の北部と、奴隷労働によるプランテーション農業中心で(英国等に綿花等を輸出していたことから)自由貿易志向の南部との間の力のバランスが崩れることを恐れ、テキサスの併合に反対し続けたのです。
ところが、奴隷制を廃止していた英国が、テキサスを保護国化するという(根も葉もない)噂が出てきた上、テキサス政府がこの噂を利用して、米国の疑心暗鬼を募らせるような言動をわざと行ったため、米国の併合反対論者の中から賛成に転じる人々が出て、ようやくテキサスは米国に併合されるのです。
この1845年に、マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)という言葉が米国で登場します。 
 マニフェスト・デスティニーとは、テキサス併合を正当化するねらいで、米国は北米大陸を支配する運命を担っている、とある米ジャーナリストが主張した際に用いた言葉であり、その後人口に膾炙することになります。その背景としては、既にご説明した、米国の人々の選民思想(注7)があります。その選民たる彼らが、アングロサクソン文明を移植するとすれば、その対象は(英領を除く)北米大陸全域であると考えられていた、ということなのです(注8)。

(注7)選民思想の「選民」には、黒人やインディアンは含まれていなかった点に注意が必要。インディアンは、白人の植民の邪魔になるので、どんどん西方へと放逐された。民度が低いから、というのだ。しかし、例えばチェロキー族の識字率は、南北戦争頃までの南部の白人のそれを上回っていたし、高度の農業を営んでいたインディアン部族も少なくなかった。また、インディアンの中には、英語フランス語を含む多言語を駆使して商取引に従事する者や手練れの企業経営者さえいた。
 (注8)こんなスローガンめいた言葉が生まれたのは、米国の拡大に賛成する勢力(Hamiltonian ideal信奉勢力。民主党員に多かった)が、建国以来せめぎあってきたところの米国の拡大に反対する勢力(Jeffersonian idea信奉勢力。ホイッグ党員に多かった)に対して何とか主導権を取りたいという気持ちがあったからだろう。両者の争点は、上述した奴隷州問題だけではなく、民主主義は大きな領土と人口の国でも成り立つのか、といった争点もあった。
ちなみに、モンロー・ドクトリン(Monroe Doctrine)が1823年にモンロー米大統領によって打ち出されるが、これは1823年に、復辟していたブルボン王朝のフランスが、同じブルボン家を国王としていただくスペインと手を結び、(ロシア・プロイセン・オーストリアの)神聖同盟の支援の下、次々に独立を宣言していた中南米諸国を取り戻そうという動きを見せたことに対し、英国が米国に提携して対抗しようともちかけたところ、米国は提携を断って、中南米は米国の勢力圏であり、欧州諸国による一切の米州への介入に反対する、というドクトリンを打ち出したものだ。しかし、当時の米国には、モンロー・ドクトリンを実施するのに必要なだけの海軍力を保有してはいなかった。この時のフランス等の動きが成功しなかったのも、その後中南米への欧州勢力の介入がなかったのも、大西洋の制海権を握っていた英海軍のおかげであり、米国は英国の軍事力にただ乗りしたことになる。米国がモンロー・ドクトリンを実施に移し始めるのは、20世紀に入ってからだ。(http://usinfo.state.gov/usa/infousa/facts/democrac/50.htm。2月7日アクセス)

 テキサス併合の勢いをかって、米国拡大賛成派が反対派を押さえて、マニフェスト・デスティニーを一気に実現してしまったのが、1846??48年の米墨戦争(注9)です。

 (注9)米国では一般にMexican War、メキシコでは一般に、North American Invasion of Mexicoと呼ばれる。

 米墨戦争は、米国がメキシコからカリフォルニア等の広大な領土を侵略するために仕掛け、その目的を達成した、文字通りの侵略戦争であり、そのことを当時の心ある米国人は皆自覚していました。
 この米墨戦争に参加し、後に南北戦争で北軍の勇将として大活躍し、大統領にもなったグラント(Ulysses S. Grant)は、回顧録の中で、「私は、米国がメキシコに対して行った戦争ほど邪悪な戦争はないと思う。当時私はまだ一人の若者に過ぎなかったが、そう思っていた。しかし遺憾ながら、<そう思いつつも、>私は米軍を離脱するだけの道義的勇気を持ち合わせていなかった。」と記していますし、米墨戦争が終わり、メキシコにとって屈辱的な講話条約(Treaty of Guadalupe Hidalgo)の調印式に臨んだ米国全権は、後に「もしこれら<調印式に臨んでいる>メキシコ人達が、その時私の心中を透視できたならば、彼らが<惨めな敗戦を喫した>自分達メキシコ人を恥じる思いよりも、私が自分が米国人であることを恥じる思いの方が強いことを知ったことだろう。」と激白しているところです。
(以上、Manifest destiny、インディアン迫害、及び米墨戦争については、http://www.pbs.org/kera/usmexicanwar/dialogues/prelude/manifest/manifestdestiny.html以下。2月8日アクセス)による。米墨戦争については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%A2%A8%E6%88%A6%E4%BA%89(2月8日アクセス)も参照した。)

(続く)