太田述正コラム#9781(2018.4.23)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その46)>(2018.8.7公開)

 「●庵は、・・・ロシアの侵略に備えるために「武器を講じ以て士気を振る」い「火器を修め」「水戦を習」って、ロシアの長じる所を奪い「武備を補ふ」ことなどを論じ・・・ている。・・・
 <また、>大船建造を禁じた「祖宗之制」の変革<を>要求<した。>・・・

⇒ついに、●庵の具体的な海防策の紹介がありましたが、殆ど無内容であり、コメントのしようもありません。(太田)

 <これ>とは対照的に、<佐藤>一齋の海防策は、同じく西洋事情に暗かった儒者頼山陽<(注106)>のそれと同様に(「通議」<(注107)>・・・天保元年)・・・、敵を陸地に誘い込んで「剣槍の接戦」を行い「我が長技を以て之を撃」てば必ずや勝利をおさめるであろうとするものであった。

 (注106)1781~1832年。朱子学者の頼春水の子。広島で同藩学問所等や江戸で尾藤二洲、に学ぶ。
 「歴史家、思想家、漢詩人、文人。・・・文政9年(1826年)には代表作となる・・・武家の時代史である・・・『日本外史』が完成し、<翌年>には江戸幕府老中・松平定信に献上された。・・・ほか、古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた『日本楽府』(全1巻)がある。同書<は、>・・・易姓革命による秦、漢に代表される中華王朝の傾きに対比して、本朝の皇統の一貫に基づく国体の精華を強調している。・・・
 山陽の周辺には、京坂の文人が集まり、一種のサロンを形成した。・・・
 <また、>大塩平八郎に大きな影響を与えたといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%BC%E5%B1%B1%E9%99%BD
 (注107)「得意とする史論の体裁を採りながら、<山陽>の政治・法律思想の根幹にある「勢」とこれに付随する「権」と「機」について説きつつ現状の政治の得失について説き、更に今後の日本のあるべき姿について政治・経済・軍事の各面から論じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E8%AD%B0

⇒崋山を蘭学者と形容したことについても同じ指摘をしたところですが、眞壁が、山陽を儒学者と形容するのはいかがかと思います。
 また、山陽は、江戸に遊学したことはあっても、生涯の大部分を、広島と京都で送っており、●庵や崋山と違って、有力幕臣達との交流が全くなかったと考えられることから、最新の日本がらみの国際情勢に係る知見は乏しかったと思われ、そんな人物の海防策を眞壁があげつらうことにも疑問を覚えます。
 かつて、出版されたばかりの、中村真一郎『頼山陽とその時代』(1971年)
http://www.webchikuma.jp/articles/-/509
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%9C%9F%E4%B8%80%E9%83%8E
を読んで山陽に感銘を覚えた者として・・。(太田)

 <こんな>一齋からは、「彼の長ずる所を取りて以て己国<(ママ(太田)>に施すべからざる他」・・・という●庵の採長補短の発想は生じない。
 このように西洋との軍事技術の格差に対しても認識の浅い一齋は、当初西洋のいわゆる「窮理」に対してまったく批判的であった。・・・
 <一齋においても、やがて>「西洋窮理」の存在も容認されるようになるが、「窮理は宜しく易理より入るべき也」という一方向的な「道理」「易理」重視の見解は一齋において一貫して保たれる。・・・
 ●庵と一齋の「窮理」に関する見解が異なるのは、●庵が「顧ふに古昔聖王之窮理、仁義道徳重んじて亦未だ始て名物器数を外せず」と述べて「仁義道徳」と「名物器数」の両方の追求を「聖王之窮理」と認め、さらに「名物器数之窮理」を軽視してきた魏秦以降の歴史を批判して、「名物器数之窮理」の必要を唱える点においてである。・・・」(284、289、292~294)

⇒●庵と一齋それぞれの、西洋理解の浅深など、眞壁が紹介する範囲で言えば、目くそ鼻くそを笑う類の違いに過ぎないのであって、眞壁が●庵の方を大げさに持ち上げていることには、苦笑を禁じ得ません。(太田)

(続く)