太田述正コラム#9789(2018.4.27)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その50)>(2018.8.11公開)

 「水野の再失脚後、老中首座となった阿部正弘<(注117)(コラム#4177、5602、9657、9692、9727、9767)>と、水戸の徳川齋昭との往復書簡・・・録・・・には、オランダ国王の親書翻訳と幕府の返書写しが収録されている。

 (注117)1819~57年。「備後福山藩第7代藩主。・・・大奥と僧侶が徳川家斉時代に乱交を極めていた事件が、家斉没後に寺社奉行となった正弘の時代に露見すると、正弘は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶・・・らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により、第12代将軍・徳川家慶より目をかけられるようになったといわれる。・・・
 <その後、老中になった>正弘は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、天保改革時代に不正などを行っていた町奉行鳥居忠耀・・・らを処分し、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となった。・・・
 弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。・・・正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。・・・<ペリー来航後、>正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過した。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。・・・
 <彼は、>将軍継嗣問題(家定の後継者問題)では一橋慶喜を推していた。・・・
 <自身は、>蘭方医の治療を最後まで拒んだとされ、祖法の鎖国体制を破った点も心に傷として残っていたとされる。・・・
 徳富蘇峰・・・は、阿部正弘に対し優柔不断あるいは八方美人<としている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%BC%98
 「阿部氏は廃藩置県まで10代161年間<福山に>在封<し>た。この間老中を4人、大坂城代を1人輩出する。特に・・・阿部正弘は・・・著名である。しかし阿部氏は代々幕閣の中枢を目指したため、歴代藩主の殆どは江戸定府で領内に在住することは稀であった。また、このために阿部氏は他の大名に比べ多くの経費を必要とし、また先の検地により厳しい査定を受けての10万石であったため歴代を通じて財政状況は極めて悪く、度々の一揆を招くことにもなった。中でも領内全域を巻き込んだ天明の一揆は・・・全国的に名を知られた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E5%BE%8C%E7%A6%8F%E5%B1%B1%E8%97%A9

⇒幕閣入りを果たし、更なる出世を遂げるためには、領国経営を顧みず、上司筋にゴマスリや賄賂で取り入り、競争相手を「不祥事」を暴いて失脚させていく、という、水野や阿部の一卵性双生児のようなやり口(それぞれのウィキペディア参照)自体が、幕府の無能化・退嬰化を示すものですが、政策面での能力・見識に関しては、対外政策面について先に触れたように、(約一世代上の)水野が阿部を遥かに上回っています。
 (蘇峰は、まだまだ阿部に甘過ぎです。)
 結局、幕府の最大の禍機に、老中首座が阿部であったことが、幕府の早期瓦解をもたらした、と言えるでしょう。
 しかし、このことの直接的責任は、将軍家そのもの、具体的には、第11代将軍徳川家斉(1773~1841年。将軍:1787~1837年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
と、その子の第12代将軍徳川家慶(1793~1853年。将軍:1837~53年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%85%B6
にあります。
 家慶に関しては、(内政面での行き詰まりを勘案すれば水野を切ったのはやむをえなかったとして、)最終的に老中首座に、無能にして退嬰的な阿部を選択したこと、そして、「家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えた・・・が、<この>老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とし」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%9A
、幕府を文字通りの脳死状態に陥れたこと、によってです。
 現在同様、徳川幕府も、頭から腐って行ったわけです。(太田) 

 齋昭の懇願で、「御三家」に閲覧が許可され、弘化3(1846)年2月14日に阿部から齋昭に送られたものの写しである。・・・
 齋昭は、・・・<親書の>行間に隠された巧妙なオランダの侵略の意図を読み取<ったとし>、・・・警戒を強めている。
 しかも、このようなオランダ親書に対して幕府の返書が「深慮」に劣るのは、それが「佐藤一齋」によって書かれたからだと推察している。・・・

⇒ここは、眞壁が、齋昭の文言を正しく解釈していない、と見るべきでしょう。
 一齋は、返書の結論を幕閣から示されて、その文章化を命ぜられた際、更に、部下の一齋に素案を起草するように命じた可能性までは否定しませんが、修辞がどうであれ、結論の本筋は微動だにしなかったはずです。(太田)

 親書と返書をこのように読んだ齋昭は、阿部に対してたとえ外国と「戦闘」が生じても、通信や交易をして「互ニ事情ニ通」じた場合よりも、「清夷・蘭狄たり共」常時打払い「皇国」への接近を阻止していた場合の方が「其の害ハ薄」いとする論理によって、攘夷と打払令復活を進言した。・・・

⇒無茶苦茶です。
 過激であることは、退嬰的でこそないけれど、平衡感覚がないこと、すなわち、無能であること、には変わりがありません。
 少なくとも、御三家中の水戸藩も頭が腐っていた、と言えそうですね。(太田)

 <なお、>学問所儒者が、阿部政権下(1845~57)で謹堂以外は林・一齋門から多く輩出され、学問所の中で一齋が後まで思想的影響力を持っていったことは、嘉永6年まで攘夷論に固執していく阿部政権に憂慮の念を抱き、距離を取った●庵が、多くの門人を持ちながらも、近代日本の学問所儒学評価から忘却されていったことと繋がっているかもしれない。」(310~311)

⇒以上、申し上げてきたことからして、これは、眞壁の単なる憶測、いや、妄想、といったところでしょうか。(太田)

(続く)