太田述正コラム#0626(2005.2.12)
<モンゴルの遺産(その1)>

1 始めに

以前(コラム#346で)「モンゴルは帝国内において、(中央政府の利益に反する場合を除き、地域ごとの法の多様性を許す形での)法の支配を確立し、信教の自由を保障し、拷問を廃止し、自由貿易をもたらし、外交特権の考え方を樹立し、メリトクラシーを実現しました。そして、このようなモンゴル帝国で、史上初めて紙幣が発行され、郵便制度が生まれ、印刷、火薬、羅針盤、算盤といった革命的技術が帝国内外にあまねく普及し、レモン、人参、お茶、トランプ、ズボン(それまで欧州にはなかった)といった帝国内の一地方の産物が世界に広まりました。まさに、近代はモンゴルに始まる、と言っても過言ではありません。」と記したことがあります。
この際、もう一つ付け加えておきましょう。
モンゴルには民主主義の萌芽形態が見られた、という点です。
すなわち、重要な国事について、チンギス=ハーン(Jenghiz Khan)の一族やモンゴルの有力者が参加して聞かれたクリルタイ(Kuriltai=大会)です。重要な国事は、対外遠征、法令頌布、そして新ハーン(汗)の選定・即位でした(http://www.tabiken.com/history/doc/F/F181L200.HTM。2月11日アクセス)。

2 モンゴルの遺産

以上のようなモンゴル「文明」は、濃淡はありますが、モンゴルの支配下に入った地域で受け継がれて行くのです(http://members.tripod.com/~whitebard/ca7.htm。2月11日アクセス)。
モンゴルに完全に支配された期間が(南宋滅亡の1279年から元滅亡の1368年までの)90年弱と比較的短かった支那や、長期にわたってモンゴルの支配を受けたけれども間接統治にとどまったロシアが、十分モンゴル「文明」を身につけることができなかったのは、残念なことでした(注1)。

(注1)ただし、モンゴル「文明」は、支那とロシアに意外な影響を与えた。唐が滅亡してから、三世紀半以上分裂状態が続いた支那は、元滅亡後もその後の歴代王朝・政権が、元の統治制度を参考にすることによって、基本的に分裂を回避しつつ現在に至っている(members.tripod上掲)。またロシアは、モンゴルの間接統治を徴税を請け負う形で担ったモスクワ公国が起源であり、同公国による苛斂誅求の統治がロシア的統治の原型となった(http://history.dot.thebbs.jp/1059246930.html。2月11日アクセス)。
    このほか、モンゴルの負の遺産として、既に名目だけの存在になっていたとはいえ、モンゴルによる1258年のアッバース朝の滅亡により、正統カリフが途絶え、アラブ人は求心力と活力を失ったまま現在に至っていることが挙げられる。

他方、(モンゴル発祥の地であるモンゴル高原は別格として、)16世紀初頭頃まで長期にわたってモンゴル(チムール帝国を含む)の支配を受けた中央アジアにおいて、上述したモンゴル「文明」の遺産は比較的良く受け継がれて行くのです。

その中央アジアでのモンゴルとトルコ系民族との出会いには運命的なものがありました。
チンギス=ハーンから数えて第四代目のモンケ(Mongke。ハーン在位1251??59年)がハーンに即位する頃までに、中央アジアからアナトリア半島にわたって居住していたところのトルコ系民族の大部分がモンゴルの支配下に置かれます。
トルコ系の人々は、モンゴル軍の主力を構成するようになるとともに、モンゴルの行政官の大部分を占めるようになり、モンゴルの強い影響を受けます。逆に、(支那地域を除いて)モンゴル人はトルコ語を使うようになり、また、トルコ系が既に信奉するに至っていたイスラム教に帰依する、という具合に、トルコ系もモンゴルに強い影響を与えます。
(以上、members.tripod上掲による。)
遺憾ながら、イスラム教には、長期的にはいかなる文明と言えども萎えさせてしまう傾向があり(コラム#24)、イスラム教に帰依したモンゴル人は次第にモンゴル「文明」を忘れ、また、以前からイスラム教信徒となっていたトルコ系も、接触初期においてモンゴル「文明」から受けた影響から次第に脱して行くのです。

(続く)